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  • Georges Sim, Katia, acrobate, Fayard, 1931(1929/5/30契約)*[軽業師カティア]
  • フランシス・ラカサン Francis Lacassin 編, Simenon avant Simenon: les exploits de l’inspecteur Sancette, Omnibus, 1999[シムノン以前のシムノン:ソンセット刑事の功績]

 今回は『Katia, acrobate』(Fayard, 1931)という長編を取り上げる。書影は【連載第23回の写真1/上】をご覧いただきたい。サーカスポスターを模したデザインで、作中に登場する空中ブランコの人気軽業師カティアが、あたかも夢のなかで空を飛ぶかのように描かれている。

 ここまで数回にわたりシムノンのペンネーム作品を取り上げてきたのは、この小説を読みたかったらに他ならない。実は本連載を始めるまで、シムノンがサーカスの女性を主人公にした小説を書いていたことをまったく知らなかった。だから本作の表紙イラストを書誌で見たときはびっくりしたものだ。

 今回はいわば特別編で、自作の回想含みの話となることをご容赦いただきたい。本作を読みたいと思ったのは、その自作があったからなのだ。

 私は以前に『大空のドロテ』という長編小説を書いたことがある。怪盗アルセーヌ・ルパンは実在した、という設定の小説で、第一次世界大戦が終わったばかりの1919年を舞台に、飛行機に夢中な少年ジャンとルパンの隠し子と思われるサーカス少女ドロテが、ルパンにまつわる謎を追って冒険を繰り広げる物語だ。?翼渡りのドロテ?と呼ばれる少女ドロテは町から町へと旅するサーカス一座の人気者で、曲芸飛行機の翼の上でアクロバットを見せて回っている。一方、田舎町ドンフロンに住む少年ジャンは、飛行機設計技師だった亡父の遺した工房で、毎日模型飛行機づくりにいそしんでいた。ジャンは大空に憧れを抱いているが、自分で空を飛んだことはない。

 そんなジャンのもとへサーカス少女のドロテが飛行機に乗ってやって来る。しかしドロテが肌身離さず持つ黄金のメダルを狙う謎の一味が町に現れる。そのメダルこそ、ルパンの伝記作家モーリス・ルブランが書き記した4大秘宝のひとつ《IN ROBORE FORTUNA》へと繋がる鍵であるらしい。折しもパリでは終戦後初めてルパンが姿を見せたのではないかと人々の噂の種になっていた。パリで発生している猟奇的な《虎の牙》事件の渦中に、ルパンの変装と疑われる大戦時の英雄ドン・ルイス・ペレンナがいたのである。

 異様な風貌の老人の策略に嵌まり、故郷ですべてを失ったジャンはドロテらサーカス一座と旅に出るが、それでも敵は追ってくる。しかもあのルパンもメダルの秘密を探っているらしい。ドン・ルイス・ペレンナは怪盗ルパンと同一人物なのだろうか。メダルに隠された秘宝とは何か。その秘密とは第一次大戦後の世界地図を塗り替えかねないほどのものだった。エトルタ、パリを経て、ジャンはドロテとふたり飛行機でアフリカの大地へと向かい、そこですべての謎と対峙する。最後にジャンが見た光景とは何か。

 この物語は入れ子構造になっている。ある作家Aが別の作家Bにドロテの物語を語って聞かせた、その話を作家Bが書き留めた、というかたちになっている。いちおうラスト直前までふたりの作家の名は伏せられているのだが、別にそこで読者をあっといわせるのが主眼ではないのでばらしてしまうと、ドロテの物語を夜通し話した作家Aとはすでに名を成したジョルジュ・シムノンだったということになっている。話を聞いた作家Bは007シリーズを書いた英国のイアン・フレミングなのである。

 ええっ、なぜシムノンとフレミングがルパンの話を? と思われるだろうが、まずこのふたりは本当に1964年に対談をやっていて、パシフィカの『名探偵読本2 メグレ警視』(1978)に載っている。そしてここが核心部分なのだが、シムノンとフレミングは「作家と自分が創造したヒーローの二重性」という点で、最後まで「二重の人生(la double vie)」を送ったアルセーヌ・ルパンと重なり合うということなのだ。『大空のドロテ』はルパンもののパスティーシュのようでありながら実はそうではない。物語(虚構)と自分自身の人生(現実)の二重性、つまり私たちがいかに物語のなかを生き、かつ、いかに自分自身の人生を生きるかについて書いた小説なのであった。

 この小説がルパン愛読者の方々に好評を持って迎えられたかどうか、正直なところよくわからない。小説としては全体的に“抜け感”がないので、すぱーんと気持ちよく感動したり泣いたりできない構造になっている。どのようにすればよかったのか、いまでもあれこれ考える作品である。もっと単純な構造にして、身軽なエンターテインメント小説として纏めてほしいという読者側の心情は充分にわかるし、私のなかにもそうしたかったという気持ちは半分くらいあった。単行本化や文庫化の際には、プロットやストーリーのブラッシュアップについて誰かと相談もしたかった。

 作家が自作についてたとえば「失敗作であった」などと吐露するのは、その本を売ろうと日々努力している出版社や書店員に対して大変に失礼である、という考え方が世のなかにはある。作家が自作の創作過程を振り返って語るのは将棋における感想戦のようなもので文学にとって有益だと思うこともあるのだが、小説は将棋の対局と違ってこれから読む読者も存在するので、そうした考え方があるのもわかる。ふつう、わざわざ失敗作だと作者が述べているような作品を読みたいとは思わないからだ。まあそういう思いは作者の胸のうちにしまっておけよ、ということだ。

 だからふだんは私もこんな話は公の場でやらない。ただ今回は特別編として、ここに触れようと思う。

『大空のドロテ』に関して自分はどう考えているか。

「全力は尽くした。だがひょっとすると初手が悪手だったかもしれない」というのが偽らざる気持ちである。読める小説になっているとは思うが、どうしても読者の皆さまに負担をかけているところがある。

 それでも、こうした小説をきっかけに「小説と現実の世界の関係って、いったい何なのだろう。小説を読んでさまざまな人生を生きること、それはふだん読書に没頭していると忘れてしまうけれど、本当は奇跡のように奥深く、複雑で、そして素晴らしいことなのだな」といつか読者の方がどこかで思ってくださるならすてきなことだと考えて刊行に至った。そしてここについていえば、それなりに達成した小説になっているのではないかと思ったのだ。この部分はしみじみと味わっていただける小説になっているのではないか、と。

 初手とはどういうことか。もともと『大空のドロテ』は編集部から「空を飛ぶ話を書いてくれ」という依頼を受けて始まった。怪盗ルパンを飛行機に乗せると決め、それから私は自家用パイロット免許を取得した。

 ルブランが書いた原典のルパンは第一次世界大戦前のベル・エポックの雰囲気にふさわしくスピード狂で、作中でばんばん自動車を乗り回す。そんなルパンなら当時の最先端であった航空機に興味を示さないはずがない。しかしルブランの原典で、ルパンが飛行機を操縦しているシーンは一度も登場しない。唯一、タンデム席で飛行機に同乗するシーンが出てくるのが『虎の牙』である。ルパンはフランス本国でTVドラマ化されているが、そうしたドラマでわずかに飛行機を操縦した気配を見せるシーンは出てくるものの、やはり本格的に飛ぶシーンはない。ならばこの小説で存分に飛ばせてあげましょう、というのがもともとの構想だった。

 ところが自分で実際に飛行機を操縦してみて、なぜルパンの物語に飛行機が登場しなかったのかわかった気がした。ルパンの物語は決定的に飛行機と合わないのである。

 飛行機とは自動車と違って空を飛ぶ機械であり、少しでも間違えればすぐさま墜落して命を失う。逆説的になるが、飛行機では安全であることが本当の冒険であり勇気なのだ。この価値観と世界観は、ルパンのそれとはまったく別のものだ。無鉄砲な冒険野郎は絶対にパイロットになれない。もしルパンが飛行機を操縦したら、たちまち墜落事故で死亡するだろう。だからルパンの物語内で空を飛ぶとは、すなわちルパン世界そのものから飛び立ち、外へ出て行くことを意味するのだとわかったのである。

 私は偕成社版《アルセーヌ=ルパン全集》全25冊・別巻全5冊を、毎日一冊ずつ順に読んだ。ルパンの物語は大河ドラマになっていたのだと、私はそのとき初めて知った。子どものころはあちこちをつまみ読みしていたからわからなかったが、これは全体を通してルパンという男の人生を描いた物語だったのだ。そして、なんとこれは大人の物語なのかと驚嘆した。自分が大人になってようやくルパンの魅力が見えたと思った。

 ルパンはフランスが輝いていたベル・エポック時の1905年に登場した。彼は植民地政策時代の価値観の申し子だった。順に読んでゆくと『奇岩城』(1908-1909)まではまだ小説としてぎこちないが、その後急速に伸びやかさを増し、その物語的躍動は長編『813』(1910)、『水晶の栓』(1912)、『金三角』(1917)を経て『虎の牙』(1920)でピークを迎える。フランスが第一次大戦に突入し、勝利するまでの時期である。実際のところ『虎の牙』は大戦が終わる前に書かれていたようだが、大戦直後の物語として読むことが可能で、この『虎の牙』こそがルパン譚の最高傑作だと思っている。この物語でルパンはアフリカへと向かい、黒壇の大陸を北から南までフランス領に塗り替えるという大仕事をやってのける。ここはルパン自身の口から語られるだけなので彼の法螺に過ぎないのかもしれないが、たとえそうであってもルパンの大見得が炸裂する痛快きわまりないシークエンスで、時の仏大統領ヴァラングレーが聞き惚れるのもわかるというものだ。

 では、その後ルパンはどうなるのか。彼は最愛の女性と結婚して田舎町に隠居し、ドン・ルイス・ペレンナの変名のもと、庭のルピナスを育てながら幸せに余生を過ごすのである。そう、ここでルパンサーガは完全なハッピーエンドで幕を閉じるのである。ええっ、そうだったの? と驚く方もいらっしゃるだろうが、そうなのである。

 そこから先のルパンサーガは、だからすべてが余白の物語となる。第一次大戦後に発表されたルパン譚はどれも過去のエピソードの回想か、あるいは変名で余生を過ごす番外編的な物語だ。私立探偵になってみたり、新たな恋に飛び込んでみたりするものの、それらはすべて「別の人生を生きる」男のダンディズムの物語となる。子どものころはこの意義がよくわからず退屈だったのだが、「別の名前で別の人生を生きる」ことは何と魅力的な大人の冒険なのだろう。ルパンは生涯「二重の人生」の楽しみを謳歌して、私たちの前から去って行った。そして「二重の人生」とはすなわち人が複数の物語を生きることであり、フランスミステリーの伝統であった。

 なぜルパンは第一次大戦後の戦間期に余白の物語となったのか。それはルパンというキャラクターが、やはり植民地政策時代の価値観の申し子だったからだと思っている。作者ルブランがそのような価値観の持ち主だったのだろう。第一次大戦後にルパンは時代と合致しなくなった。だから彼は「二重の人生」で永遠の余生を楽しむ道を見つけた。『八点鐘』(1922-1923)、『緑の目の令嬢』(1926)、『バーネット探偵社』(1928)はよい作品だ。しかし物語的躍動としてのルパンは第一次大戦とともに終わったのだと思う。作者モーリス・ルブランは1940年に死去しており、つまりルパンは第二次大戦前までの物語ということになる。

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 第一次大戦後のルブラン作品でいちばんの傑作は、ドロテというサーカス女性を主人公とするノンシリーズ長編『綱渡りのドロテ(女探偵ドロテ)』(1923)【写真】だろう。原題は『Dorothée, danseuse de corde』で、直訳すれば『ロープの踊り子ドロテ』となる。作中でドロテを助ける男性がルパンのキャラクターに被るので、ルパンサーガの番外編と位置づけられることも多い。

『大空のドロテ』の話に戻る。航空の発展はルパン譚の変遷と共鳴している。第一次大戦時はとにかく空を飛んで機銃で撃ちまくり、敵機を叩き落とす撃墜王が国の英雄だった。しかし大戦が終わるとそうした無鉄砲な英雄はたちまち職を失う。彼らは曲芸飛行で小銭を稼ぐか、ハリウッドに渡って映画に出るか、あるいは郵便飛行に身を転じるほかなかった。サン=テグジュペリの時代がやって来る。郵便飛行は無鉄砲に飛んではいけない。目的地に郵便物が届かなければ、どんなに勇猛果敢に飛んでもそれは失敗なのである。この天候とこの機体で飛んで本当に安全に目的地へ着けるか。その決断力こそが真の勇気であり冒険となる時代がやって来る。ルパンはこの時代に乗れなかった。

『大空のドロテ』の主人公ジャンは、最初のうち大空に憧れていた。しかし自分で飛行機を操縦して、初めて彼は飛行という冒険の意味を知る。彼は少年としてルブランが描くルパンの冒険譚に親しんでいた。しかし実際に自分の人生がルパン譚と重なり、翻弄された後、自ら空を飛ぶことで、他人の書物ではなく自分自身の物語を見つけ出してゆく。自分にとっての真の冒険を発見してゆく。それはルパンの物語から外へと出て行くことを意味していた。

『大空のドロテ』の終盤で、ルパンはまさに往年の新聞連載小説に登場するヒーローそのままの大立ち回りを見せる。だがジャンはそれを間近に見ながら、少しずつルパンから気持ちが遠ざかってゆくのを自覚してゆくのだ。飛行機が好きな自分にとって、本当の冒険とは何だろうか。彼はそのとき物語に単純に没頭することから抜け出して、ルパンという英雄を以前より客体視するようになる。そして尊敬と敬愛の念を示した上で、別の物語を歩んでゆくことを決意する。ジャンはそのとき大人になるのだ。

 ルパンの物語からジャンの物語になったとき、『大空のドロテ』の入れ子の物語は必然的に終わる。ジャンの周りの人々は、まるで物語世界のように皇帝アルセーヌ一世の勝利を祝っている。けれどもジャンはそのなかで、それをともに祝いながら、心の奥底ではようやく自分の物語を発見しようとしている。夢から覚めたようなもの悲しさと乖離感が起ち現れる。それはルパンという“虚構”からの旅立ちである。決して“物語”からの卒業ではない。彼は「二重の人生」の意味を知り、自分の物語である本当の大空へと向かってゆく。

 この物語を聞いて書き留めようとしているイアン・フレミングは、しかしこのことを理解しながら、どこかで心の苦しみを引きずっている男としてラストシーンに登場する。いうまでもないがフレミングはジェームズ・ボンド、007という虚構のヒーローをつくった作家だ。ボンドのヒーロー像が作者フレミングの自己願望であることは明らかだが、肝心のフレミングは自分がついにボンドになり切れなかったという思いにとらわれ、深い挫折感を抱いている。

 ジェームズ・ボンドとは一部で知られる通り、実在した鳥類学者の名をそのまま拝借したものだ。ラストシーンのフレミングはすでに衰弱している。『黄金の銃を持つ男』の初稿は書き上げたが、自分は本当に作家として今後も生き延びられるのだろうかと怯えている。フレミングがこのような不安を抱えていたことは伝記『女王陛下の騎士』にも書かれており、そして皆さまはぴんと来るかもしれないが、実際この後すぐにフレミングは病気で死ぬのだ。『黄金の銃を持つ男』は彼の遺作なのである。彼は『チキチキバンバン』のような空飛ぶ魔法の車に想いを馳せながら、やがて死んでゆくのである。

 それでも、彼の007の物語は、生き続けたのだ。作家であるフレミングはそのことに確信が持てないまま死んでゆくのだが、読者である私たちは歴史を知っている。見よ、彼の分身であったジェームズ・ボンドは、他人の鳥類学者の名前を借りたまま、いまもスクリーン上に生きているではないか。これが「二重の人生」の真実だ。「別の名前で別の人生を生きる」ことは、何と魅力的な大人の冒険だろう。物語は永遠となる。

 拙作『大空のドロテ』はこのようなことをいっさい文字で伝えないまま終わるのだが、本当に書きたかったのはこのことだ。

 ジェームズ・ボンドが生き続けたのは、絶えず彼の物語を生かそうとする人々がいたからだ。「二重の人生」を楽しむ私たちの心が、いつの時代にもあったからだ。衰弱したフレミングには、そのことはわからないかもしれない。それでも読者である私たちは、いつかそのことを思い出す。

『大空のドロテ』を書いていたとき、シムノンとアルセーヌ・ルパンの繋がりは自明ではなかった。シムノンを物語の語り手に据えたのは、ほとんど直観だったのである。

 だからシムノンに『Katia, acrobate』という作品があることを知って、私はとても驚いた。タイトルはルブランの『綱渡りのドロテ』を連想させる。実際に読んでみるとカティアは綱渡り師ではなく、表紙イラストの通り空中ブランコの軽業師だった(作中で両者は区別されている)。だからタイトルはルブランに呼応させて『空中ブランコのカティア』とするのもいい。

 感慨深く本作を読んだ。ペンネーム時代最長の作品との解説もあるが、グーグル翻訳で同一フォーマットに落としたところ、既読作品の『美の肉体』の方がわずかに長い。それでも長いことに間違いはない。

 そして、そうか、と思った。これもまた「二重の人生」の物語だったのだ。

『軽業師カティア』1931

 夜のウィーン。水晶宮[註:後の1937年に火災で焼失]に詰めかけた観衆は、19歳の女性軽業師カティア・ロベールの見事な空中ブランコ演技に釘づけになっていた。彼女は《ロマノ一座》の座長ジョン・ロベールの長女で、濃い褐色の髪と青い瞳の持ち主。弟のウィリーもまた一座のメンバーだ。彼女は最後に15メートルの高さから勇敢にネットに飛び降り、大喝采を浴びる。

 アトラクション終了後、彼女はこっそりと抜け出し、外で待つ車に乗り込んだ。カティアは父の反対を押し切って、外交官のジョン・サン=クレアと駆け落ちを企てたのである。ふたりはスイスのジュネーヴへと逃避行した。ふたりとも愛する者といっしょで幸せだった。ジョンも狂ったようにカティアを愛しており、外交官の地位を捨てて彼女との生活を選んだのである。しかし翌朝、ホテルでジョンは信じがたい新聞記事を目にする。カティアの父が水晶宮で殺害され、娘は誘拐されたというのだ。しかもジョンはその容疑者となっていた。

 カティアも記事の内容に驚く。ジョンが結婚に反対する父を殺したのだろうか? だがジョンは無実を訴え、カティアもそれを信用した。父の葬儀には出られない。ふたりは新天地のジュネーヴで慎ましく生活を始めた。

カティアも小さいながら仕事を見つけた。ふたりはあるとき街角で《ロマノ一座》のポスターを見かけた。すでにカティアの名前はないが、弟のウィリーは残った座員のロシア移民イヴァン・モコウスキや体操選手のハンス・ターナーとともに興業を続けていたのである。もの悲しさを覚えながらもカティアはその場を去り、自分の生活が変わったことをはっきりと自覚する。

 ジョンは英国人のマーカム夫人宅で子どもの家庭教師の職を得た。夫人はとても美しい女性で、少しずつ夫人との関係が近づいてゆくことにジョンは緊張を覚えていた。だがある夜、事態は急変する。夫人とともに出向いたダンスパーティ場で、ジョンは突然何者かの銃弾を頭部に受け、意識不明の重体に陥ったのである。そして時が流れ、物語の本編が幕を開ける。

 3年後。まったく別の場面から物語は始まる。パリの《エンパイア》劇場に彗星のように現れた軽業師がいた。彼はE・W・ジョニーと名乗っていたが、誰も彼の出自や居住地を知らない。地上20メートル以上の高さで安全網もなくアクロバットな演技をすることから、「死を愛する者」の異名を取っていた。彼は舞台裏でリボルバーを弄び、それがとても危険であるため、劇場支配人はパリ警視庁保安部 Sûreté Générale のレオン・ドゥフー巡査部長brigadierに相談を持ちかけたのである。ドゥフーはそれを受けて、ある日劇場を出て行くジョニーを追ったが、途中で両膝に発砲を受けてしまった。ジョニーに反撃されたのだ。

 ドゥフーは40歳。モンマルトル墓地近くのコーランクール通りで、妻と15年もともに暮らしてきた。自宅で療養するドゥフーを保安部長が見舞う。ジョニーは行方知れずになっていた。

 5月。ようやく傷が癒えてからドゥフーはプイィ=シュル=ロワールの城にジョン・サン=クレア氏を訪ねた。サン=クレア氏は3年前に重傷を負い、過去のすべてを忘れていた。そして当時療養所で献身的な看護をしたイヴォンヌ夫人と結婚し、いまはひとり息子も授かっていたのである。しかし傷の後遺症で、体調が優れないまま暮らしている。

 ドゥフーはさりげなく彼に《エンパイア》劇場や「死を愛する者」について探りを入れる。反応はない。しかしドゥフーは彼が「死を愛する者」と同一人物なのではないかと疑っていた。ふたりの人格はまるで違う。「だが耳だ!」世のなかに瓜ふたつの別人は存在するかもしれないが、耳は指紋のようなものだ。耳のかたちまで同じであることはあり得ない! 

 そのころ犯罪集団「ハンブルク団」が欧州各地で暗躍していた。宝石強奪や殺人の他、偽の銀行券で詐欺を働いており、近くパリでも活動を開始するという。ドゥフーはそちらの捜査にも関わることになる。

 サン=クレア氏は夫人や幼い息子とともにブーローニュの森近くのミュラ通りの別宅に移る。監視を続けていたドゥフーは、サン=クレア氏の動きと連動するかのように、シャンゼリゼのホテル・ブリストルに英国のマーカム夫人がやって来たことを知る。マーカム夫人は先ごろ夫を亡くして服喪中だったが、パリに到着した夫人は黒衣姿のまま9区ドゥエ通りのホテル・デザルティストに入ってゆき、誰かと面会をした。ジャズ演奏のニグロやサーカス芸人が泊まる安宿に、なぜ上流階級のマーカム夫人が? どうやら夫人が会っていたのは《ロマノ一座》のロシア移民モコウスキのようだ。モコウスキの留守中に客室へと忍び込んだドゥフーは、そこにミュラ通りの住所と電話番号のメモを見つけ、物事が繋がったと感じた。これはサン=クレア氏の連絡先だ! 

 ベルリン警察からハンブルク団メンバーの容貌の報告が届く【1】。それはモコウスキのそれと合致していた! ドゥフーはドゥエ通りのホテル前でモコウスキを見張る。だがいつの間にか相手は姿を消していた。同じころマーカム夫人もブリストルを引き払っていた。夫人は前夜にファー舞踏会[le Bal de la Fourrure:ふわふわの大きな毛皮を纏った女性たちがダンスホールで踊る当時のイベント]へ参加しており、服喪中にしては怪しい。夫人の同伴者名簿にサン=クレア氏の名がある。ドゥフーはミュラ通りのサン=クレア宅に行くが、イヴォンヌ夫人には会えたものの、氏は脳卒中で倒れ、ずっと休んだままだという。ミュラ通りの動向を見張るがしばらく進展はなく、事態は硬直状態に陥るかに見えた。

 だがドゥフーは道でばったり《エンパイア》支配人と出会い、「死を愛する者」がテルヌ通りで若い女といっしょだったとの情報を得た。女は喪に服すかのように黒衣を纏っていたという。どうやら女は元《ロマノ一座》のカティアのようだ。彼女について調べなくては! そう思っていた矢先、ミュレ通りのサン=クレア宅にハンブルク団が夜襲に入り、氏が誘拐されたとの報告が入る。イヴォンヌ夫人は縛られて発見された。

 ドゥフーはサン=クレア宅で事情聴取をおこなう。彼は事件の信憑性を疑っていた。サン=クレア氏に近づけたのはイヴォンヌ夫人だけで、現場には血痕もないからだ。誘拐されたというのは狂言ではないのか。もともとサン=クレア氏はE・W・ジョニーの別名でハンブルク団と繋がっていたのではないか? 

 モコウスキの足取りが見つかり、ドゥフーは彼を尾行する。モコウスキはコーマルタン通りのバー《モニコ》に入った。ドゥフーは近くの席から様子を窺う。男は外の何かを見つめている【2】。視線の先は向かいのレストランで、そこにサン=クレア氏とカティアの姿があった! ふたりはとても幸せそうな恋人同士に見える。

「部長、至急バー《モニコ》に人を送ってください」ドゥフーは保安部に連絡し、ビレール刑事を派遣してもらう。カティアと過ごすサン=クレア氏は若返ったかのように楽しげで、プイィの城で出迎えた男とはまるで別人だ。カティアは頭からつま先まで黒衣に包まれていたが、ふたりは顔を近づけ、唇を重ね、笑い合う。レストランの客はふたりに羨望の眼差しを送る。ふたりは他人など見えないかのようだ。

 モコウスキがバーを出て行く。そちらの追跡はビレール刑事に任せ、ドゥフーはさらに粘ってふたりを見張った。ふたりはレストランを出てオペラ座のあたりを歩いて行く。カティアは彼の肩に凭れている。それを見ながらドゥフーは、自分と妻のことを振り返っていた。彼は妻のウジェニーを愛していた。彼女と結婚し、仲違いもこれまでほとんどなかったが、子どものいないことは悔やんでいた。愛について、いま見ているふたりと自分に何の違いがあろう! 刑事だから愛を想像することを忘れていた! 彼らはバティニョール通りのホテル・ボーセジュールに入る。ふたりは巣に戻ったのだ。

 助っ人のビレール刑事から、モコウスキはマルヌ川沿いのジョアンヴィル=ル=ポンのヴィラに入ったとの報告。ハンブルク団の隠れ家かもしれない。だが翌日になって、ビレール刑事との連絡が途絶えてしまう。どこかで敵の罠に嵌まったのだろうか。サン=クレア氏とカティアはホテルを出てリヨン駅に向かう。ドゥフーは同僚の身を案じつつ、ふたりの列車へと自分も乗り込む。行く先はイタリアのトリノだった。ふたりはホテルに泊まり、ドゥフーも同じホテルを取って監視を続ける。

 だが3日後、事件は動いた。深夜に見張っているとカティアがそっと部屋から抜け出し、別室へと出入りしたのだ。その部屋でひとりの男が刺されて死んでいた。死者の名はハンス・ターナー。誰もカティアを疑わない。だがドゥフーだけは真相を知っている。ふたりは翌日、ベルリン行きのチケットを買う。ドゥフーもそれに続いた。列車内でついにイタリア警察がカティアを捕らえようとする。ふたりは駅で引き離される。カティアはその騒ぎで負傷する。そのときカティアの訴えるような表情を見たドゥフーは、何か隠された真実があると感じ、咄嗟にイタリア警察から彼女を助け、パリへと連れ戻したのである。ドゥフーはカティアに愛情を抱いていたのかもしれない。

 ドゥフーは彼女をコーランクール通りの自宅へとかくまった。妻のウジェニーを説得し、看病してもらう。だが、夫が事情を隠していることを察した妻の心に、小さな疑念の種ができた。

 いまドゥフーは職務を逸脱した行動をしている。カティアをかくまうために、保安部長にも真相を話せない。部長はいった、「きみは古参だ。私はきみを気に掛けてきたよ。あと8日待つ。それまでに報告しろ」「ありがとうございます、部長!」

 ドゥフーは妻を外へ使いにやっている間に、寝室のカティアとふたりきりで話した。サン=クレア氏に対する彼女の切実な想いを感じ取ったドゥフーは憐れみと共感の念を持ち、「私はきみの味方だ、きみを助けたい」と元気づける。だが両手にキスしたとき、帰宅した妻がその瞬間を目撃してしまった。妻はショックを受けて家を出て行ってしまう。初めて夫婦間に深い亀裂が入ったのだ。

 マーカム夫人がパリに戻ってきたとの報告が入る。しかも夫人のもとにモコウスキが現れたという。ドゥフーはモコウスキを尾行するが、彼はそれを察しており、警察に要求を突きつけてきた。カティアの居場所を新聞広告に載せろというのだ。モコウスキがカティアを狙っていることは明らかだ。

 ドゥフーは罠を仕掛けようとするが見破られ、逆に拉致されてしまう。ジョアンヴィル=ル=ポンのハンブルク団のアジトに監禁され、モコウスキの仲間のボブに拷問を受ける。だが何者かの手助けによって深夜に辛くも脱出することができた。アジトには行方不明となっていたビレール刑事が転がっていた。生死がわからないほど痛めつけられているが、何とかして同僚を連れて帰らなくては。

 ようやく同僚を医師に届け、ドゥフーは保安部の仲間とともに再び敵のアジトに向かう。ビレール刑事の命は助かったが、モコウスキはすでにいない。パリに滞在しているはずのマーカム夫人の姿もない。自宅に戻ったドゥフーに妻から離縁状が届いていた。しかもカティアがいつの間にか寝室から抜け出して消えている。自分を信用してくれなかったのか。彼女は言葉も残さず去って行ってしまった! 

 ミュラ通りにサン=クレア夫人を訪れたドゥフーは、氏が二重生活をしていたことをあなたは知っていたはずだ、と問い質す。夫人はついに告白した。夫のサン=クレアは頭部の傷の影響で、夢遊病者に近い状態となって失踪するようになったのだという。「《オデオン》座にかかっていた『検察官アレー Le Procureur Hallers 』という劇【3】をご存じ? 最高行政官が、ある時間になると別人格になるの。彼は賊になり……何も憶えていない……。怪物のような病状です。ああ、科学も無力なのです!」発作の最中、サン=クレア氏は森の枝から枝へとアクロバットのように飛び移る。声も変わり、まるで別人のようになる。スキャンダルを恐れるあまり、サン=クレア家も夫人も真実を世間に公表できなかったのだという。

 ドゥフーは尋ねる。「彼がおそらくパリに戻っていることをご存じですか? 彼はイタリアにいたのです」「彼女と?」と夫人が探りを入れる。「そうです、カティアです! ですが彼女は離れていきました……」「その人はきれい? きっとそうなのでしょうね……」その言葉に、ドゥフーは何もいえない。

 ハンブルク団のボブは捕らえたが、有益な情報は聞き出せないまま7月の休暇シーズンに入った。パリは空っぽになり、保安部も人員は三分の一に減った【4】。新しい進展は何もない。だが《エンパイア》劇場の支配人から、あの「死を愛する者」E・W・ジョニーから突然の連絡を受けた、舞台に立ちたいとのことで7月19日からの興業を決めたと、驚くべき報告が入った。E・W・ジョニーがいまどこにいるかわからないが、当日は必ず姿を現すはずだ。じりじりと時間が過ぎてゆく。初演の4日前、ついにサン=クレア夫人の座席予約が入った。しかし他に動きはない。

 ついに初演の日がやってくる。ドゥフーは《エンパイア》で見張っていた。サン=クレア夫人が現れる。だがそれだけではない、カティアとマーカム夫人が連れ立って現れたのだ。3人は並びの席に着き、E・W・ジョニーの登場を待つ。

 幕が上がり、さまざまな芸人による演目は消化されてゆくが、肝心の「死を愛する者」は姿を見せない。支配人も気が気ではない。じりじりと緊張が高まる。夜の11時を過ぎてもまだ現れない。支配人は引き延ばして何とか舞台を保たせる。そしてリボルバーの発砲音とともに、ついに彼が姿を現した。観衆は熱狂の嵐で彼を迎える。

 E・W・ジョニーはこんなにも若々しく、エレガントだったのか。彼は舞台に高く張り巡らされた綱を次から次へと渡ってゆく。空中ブランコに片足でつかまり、ジャンプの連続で喝采を浴びる。だがドゥフーはサン=クレア夫人から聞いた医師の診断を思い出した。「もし途中で正気に戻ったら、彼はバランスを崩すだろう……」まさにそれが起こったのだ。

 観衆は息を呑んだ。彼は片足でブランコから逆さまになった状態で、不意に固まってしまったのだ。観客席に夫人たちの姿を見て、正気に戻ってしまったのである。観客は何か重大な問題が起こったことを察した。このままでは彼は墜落し、劇場内にパニックが起こる。

 そのとき、客席のカティアが舞台に駆け上り、素早くロープを昇っていったのだ。「網を!」観衆は事態の成り行きに総立ちとなる。「彼にロープを投げて!」ついに巨大な網が張られ、カティアによって彼は見事に救出された。美しいジャンプで降り立つカティア。観客は興奮を抑え切れない。サン=クレア氏は舞台裏に運ばれ、医師の手当てを受ける。そのときドゥフーは劇場内にモコウスキの姿を見た。

 追跡劇が始まる。モコウスキは劇場の地下へと逃げ込む。暗がりのなか、ドゥフーは格闘の末、ついに相手を捕らえた。劇場前には深夜を過ぎてもまだ興奮醒めやらぬ人々が残っている。そのなかをドゥフーや部長は出て行き、モコウスキを連行した。

 カティアは負傷したサン=クレア氏につき添ったようだが、やがてマーカム夫人とともに姿を消した。サン=クレア夫人もカティアの献身を見て傷心したのか、家に戻ったようだ。午前5時、薄明かりのなか、ドゥフーはひとり自宅に戻ろうとする。だが舗道で若い男に呼び止められた。

 彼はウィリー・ロベール、カティアの弟だと名乗った。ハンブルク団のアジトからドゥフーの脱出を手助けしたのは彼だったのだ。

 ドゥフーは夜明けのパリの街角で、ウィリーの長い話を聞く。それはすべての因果を説明するものだった……。

 長いあらすじとなった。

 ミシェル・ルモアヌ氏も研究書で、本書はきわめて複雑なプロットであると記す通り、シムノンのペンネーム作品のなかでもとりわけ入り組んだ物語のひとつだろう。だが読んでいる最中は決して混乱している印象は受けない。ちょうどガストン・ルルーの『黄色い部屋の秘密』もいざあらすじを書き出そうとすると複雑きわまりないが、読んでいる間はぐいぐいと引っ張られてさほど混乱しているように感じないのと似ている。本書は書き下ろしだが、まるで新聞連載小説のように次々と意外な事態が起きて、こちらを飽きさせないのである。

 3年前の出来事を描いたプロローグ部分だけでかなりのボリュームがある。つかみは素晴らしい。長いプロローグが終わって第一部に入ると、いきなり別の軽業師「死を愛する者」が登場する。そして重傷を負ったジョン・サン=クレア氏が再び読者の前に現れるが、彼はカティアと別の女性と結婚し、子どもまで授かっているのだ。しかも彼は軽業師「死を愛する者」であるらしい。いったいどういうことだろう? 二重人格なのか、それとも瓜ふたつの別人なのか? この畳みかけるような意外性の連続はかなりパンチが効いていて、もうこれだけで傑作だと確信したくなるほどだ。

 なんと、タイトルにあるカティアは最初のうちほとんど活躍しない。ドゥフー刑事が主役なのだ。この点にも驚かされたが、プロローグに出てきたマーカム夫人やモコウスキらがやはり意外なかたちで舞台に再登場するたびに目を瞠らされた。ハンブルク団というギャング集団の名が全面に出てくるあたりから事態はさらに複雑化するが、一方でシムノンらしさがいよいよページから起ち現れてくる。

【1】で保安部が受け取る暗号電報の体裁は、後のメグレ第1作『怪盗レトン』の冒頭部分にそっくりなのだ! あの妙に凝った体裁は、何とペンネーム時代にルーツがあったのだ。また【2】のモコウスキがバーから向かいのレストランをじっと見つめるという描写は、後の『男の首』でカフェレストラン《クーポール》に座る医学生ラデックを強く想起させる。【4】の休暇シーズンで空っぽになったパリというくだりも、『死んだギャレ氏』の冒頭を思い出す。

 ドゥフー刑事は保安部 Sûreté Générale の巡査部長 brigadierだが、この保安部はパリ警視庁 Préfecture 内部にあると作者が想定していることも読み取れて興味深い。ドゥフーは自分の部署へ連絡するため Préfecture に電話しているのだ。

 保安部とは後の司法警察局のことで、どうやらメグレが始まる直前の1929年に組織移行があったらしい。これが一因なのかどうかわからないが、ペンネーム時代からメグレ最初期にかけてのシムノンは、保安部や司法警察局をパリ警視庁内部の組織と見なして描いているように思う。メグレシリーズが数作進んでからシムノンは記述をさりげなく変更して、現在でいうところのオルフェーブル河岸、つまりパリ司法宮の河岸側に事務局を構える司法警察局に、メグレは勤務すると明記するようになった。ようやく長い間の疑問がすっきりしてきた感じである。だからもしメグレを今後新訳で出すことがあれば、最初期の数作はあえて所属が曖昧なまま翻訳するのが正解なのだ。

 本作に登場するホテルの名前をグーグルマップで検索すると、おそらくほぼすべてが実在する(していた?)ことがわかって楽しくなった。新しい通りの名が出てくるたびに検索して、地図を見ながら読み進めた。やはりシムノンはパリの地図を片手に読みたくなる。

 本作第一部だけでも充分に読者はプロットに翻弄されるが、第二部に入ってカティアが殺人を犯すところで、またもやその意外性に驚かされる。えっ、そういう方向に話が転がるのか。しかも殺されたハンスって《ロマノ一座》の座員じゃないか! ドゥフー刑事が黒衣のカティアに名状しがたい想いを抱き始めるあたりから、物語の重層性に惹き込まれる。カティアを通して愛を叫ぶあたり、一気にメロドラマへと針は振れるが、妻とずっと暮らしてきて子どもがいないのを悔やんでいたなどと書かれると、こちらも感情移入してしまう。ルモアヌ氏は『シムノンの別世界』でこのドゥフー刑事夫妻がメグレシリーズの後の準レギュラー、通称「無愛想な刑事」のロニョンとその妻に似ていると書いているが、まだ私はロニョン登場作を読んでいないのでわからない。またルモアヌ氏はドゥフー夫人に後のメグレ夫人の面影があるとしているが、そのへんもわからない。ただ夫婦間の純朴な愛の描き方はうまいと思う。この夫婦間の愛の行方が、後半からラストにかけてひとつの主軸となってゆく。カティアの愛からドゥフーの愛へと物語の主眼が移ってゆくのである。それは同時に、それまで表面化しなかったサン=クレア夫人やマーカム夫人の愛のかたちがクローズアップされることにも繋がってゆく。

 拷問シーンがあるのも興味深い。ルモアヌ氏によるとシムノンはペンネーム時代にこうした拷問をいくつか書いていたそうで、意外ではある(イアン・フレミングが拷問シーンの達人であった!)。第二部の終わりまでは本当に大衆娯楽小説として文句のつけようがないほどの出来映えだ。その勢いで第三部に突入し、やはり本作は「二重の人生」の物語であったことが浮き上がってくる。

【3】の『検察官アレー Le Procureur Hallers』は、1930年にロベルト・ヴィーネ監督によって映画化されている。本作は1929年に書かれたので、作中で言及されているのは4幕劇版だろう。映像ソフトも出ておらず観ていないが、はっきりと元ネタのタイトルが書かれているのは興味深い。このあたりから一気につじつま合わせの様相を呈してくるものの、第三部前半の《エンパイア》劇場のシーンまでは面白く読める。

 なかなか活躍しなかったカティアが「死を愛する者」を救うため颯爽と舞台に駆け上がってゆくくだりは、思わず「待ってました」と声を上げたくなるほどだ。ここまでは本当に楽しませてもらった。しかしそこから先、急速にシムノンの悪癖が表面化する。

 あらすじでは省いたが、この後延々とウィリーの告白が続くのである。ここがとにかく長く、読むのが退屈でつらかった。つじつまが合って整理されるのはよいのだが、告白によって何か驚きの新事実が明らかになるかというとそうでもなく、いままでの仮説や推測が裏書きされてゆくに過ぎない。それまで積み上げてきた躍動感が失われてしまう。この展開はどこかで見たぞと思ったら、本作はすでに紹介した『南極のドラマ』のわずか1ヵ月半前に契約がなされていたのだった。ジャンルは違えども物語構造のきわめてよく似た作品を、シムノンは近い時期に書いていたのだ。このような類似はおそらく他にもあるのだろう。ペンネーム時代の特徴を広く確認しようとするなら、執筆年月を見て時期をずらして選定の目星をつけた方がよいかもしれないと思った。

 他にも登場人物が途中で意識不明の重体になるなどおなじみの処理があり、こういうところで定型に流れてしまうのは惜しい。全体的には約2年前の作品『美の肉体』より明らかに滑らかで洗練された筆致になっていると思う。しかし読み終えての満足度でいえば、まだぎこちなくごつごつと組み立てられていた『美の肉体』の方が勝るのである。作者シムノンの思いが伝わってくる気がする、といえばよいか。

 それでも、本作のラストシーンにはシムノンの成長ぶりが端的に表れている。かつてはそれこそ絵に描いたようなハッピーエンドを据えるばかりで、それは読者を自動的に感動させるが、同時に薄っぺらいものだった。本作のラストシーンもメロドラマのそれではある。しかし類型的ではあるが書き方にいくらか艶が出てきた。メグレ第一期で見たいくつかのラストシーンに近い余韻が感じられる。うん、そうなんだよなあ、拙作『大空のドロテ』は、本当はこんなふうにして終わりたかった。あのころもっとシムノンを読んでいたら、もっと自分はテーマを端的に纏め上げることができただろう。

 ラストシーンでカティアとその恋人は、ドゥフーやマーカム夫人に見送られて列車で旅立つ。彼らは北アメリカに渡るのである。ふたりのことなど誰も知らない新世界、カティアの父がかつて暮らしていた大陸へ。ドゥフーは陽光のもと、初めて黒衣姿ではないカティアを見た。彼女は本当に幸せそうだった。そこには恐れも不安もない。

「幸せになれとはいわないよ。だってきみはすでに幸せを掴んだんだ!」ドゥフーは傷心し、彼女の手にキスをするのを躊躇う。だがそこでマーカム夫人が彼の手を取っていったのだ。「あなたもね……」

 ドゥフーは事件の真相を部長に報告しないことに決めた。「オフィスには車で帰らないのですか?」と尋ねるマーカム夫人に彼は答える。「歩いて戻ります……なあに、すぐですよ……わかっています……私は思うのですよ、誰もがみな同じ夢を人生のなかで一度は見る……でも結局は現実に気づくのです!」

 その夕方、ドゥフーはコーランクール通りの自宅で暖炉の前に座っていた。妻は家事仕事で部屋のなかを行ったり来たりしている。不意にドゥフーは彼女の手を掴んで止めた。「ウジェニー」彼は躊躇い、そしていった。「もう終わっただろう?」

 返事は聞こえなかったが、彼女はすでに微笑んでいた。彼は妻の肩に手を置いていった。もしきみが望むなら田舎に行こう。

 そんなことをいったのは、彼が旅行について話していたからだろうか? それともその日彼の目の前で、列車が出発してゆくのを見たからだろうか。

 ──いくらかニュアンスが間違っているかもしれないが、私はこう読んだ。ドゥフーは夢のような“虚構”が自分の手から離れてゆくのを受け入れながら、ページが終わるその先へと自らの物語を紡いでゆこうとする。夢は終わるが、私たちはいつでも「二重の人生」を生きるがゆえに、自分の物語を自分でつくってゆくのである。

 私たちはふだんそこに物語があることに気がつかない。別の物語を生きて初めて、自分に物語があることに気づくのだと思う。

 拙作『大空のドロテ』は、まさにそんなことを書こうとした小説だった。もしよろしければ、どうぞお手に取ってみてください。

 今回で初期探偵小説編は終わるが、これでシムノンのペンネーム時代の全体像が俯瞰できたわけではない。恋愛ドラマや心理ドラマに犯罪を絡めたような、うまくジャンル分けのできない長編作品が、たくさん残っているのである。メグレ初登場作の『マルセイユ特急』もこのなかに入る。初期感傷小説、という言葉が浮かんだが、そのネーミングがふさわしいかどうかは不明だ。

 そのサブジャンルといえるかどうか。次回は初期アメリカ小説編としてみたい。今回の『軽業師カティア』も賊の「ハンブルク団」はアメリカのギャング集団の下部組織だということになっていたのだが、初期シムノンを読んでいると犯罪者をアメリカ人に設定しているケースが目につく。ルパンでさえ『ルパン最後の事件』(1939)でアメリカのマフィアと対決しているので、当時のフランスの雰囲気かもしれないが、シムノンもやはりアメリカを意識していたように思える。

 シムノンとアメリカ、という取り合わせは意外かもしれない。しかし第二次大戦後シムノンは10年間カナダとアメリカに移住し、アメリカが舞台の作品をいくつも発表している。若き日のシムノンはどのようにアメリカを描いていたのだろうか。

【ジョルジュ・シムノン情報】

▼ローワン・アトキンソン主演の英ITV製作メグレ警視ドラマ第2弾、『メグレと殺人者たち』の本国放送が本年12月25日(日)午後9時に決まった。またしても、これ以上ないというほど好条件の放送日である。おそらく本稿掲載のころには予告編もYoutubeで見ることができるだろう。なおドラマ化第3弾となる『メグレと深夜の十字路』は、すでに本年11月中旬よりブタペストで撮影が開始されている。

▼英ITVのドラマ第1弾『メグレ罠を張る』のDVDは、本国で来年2017年1月に発売の模様(Blu-rayも同時発売)。ただしこれまでも発売日の表示は二転三転しているので、何事も油断はできない。本作はラポワント、ジャンヴィエ、ロニョン、コメリオ、ムルスと、シリーズ後期の常連キャラクターが次々登場するのも見所のひとつ。(https://www.amazon.co.uk/dp/B01DDUUSR8

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。

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