Signé Picpus, Gallimard, 1944/1/5[原題:署名ピクピュス]長編・中短編合本、メグレシリーズ長編3編[1-3]、ノンシリーズ中短編5編[4-8]収録
Tout Simenon T24, 2003 Tout Maigret T3, 2007 Les Essentiels de Maigret, 2011
 ▼収録作
 1. Signé Picpus 初出タイトルSigné Picpus, ou la grande colère de Maigret, « Paris-Soir » 1941/12/18-1942/1/21号(1941末 執筆) 『メグレと謎のピクピュス』長島良三訳、《EQ》1983/7(No.34, 6巻4号)pp.207-277*
 2. L’inspecteur Cadavre 初出『Signé Picpus』1944(1943/5/3執筆) 『メグレと死体刑事』長島良三訳、読売新聞社、1986
 3. Félicie est là 初出『Signé Picpus』1944(1942/5執筆) 「メグレと奇妙な女中の謎」長島良三訳、《EQ》1986/5(No.51, 9巻3号)pp.213-280*[フェリシーはそこに]
>Nouvelles exotiques [異郷短編集]〔その他〕
 4. L’escale de Buenaventura, 1938[ブエナヴェントゥラ寄港]『メグレとしっぽのない小豚』(1950)所収の同題「寄港地・ビュエナヴァンチュラ」とは別の作品。
 5. Un crime au Gabon, 1938[ガボン川の犯罪]
 6. Le policier d’Istanbul, 1939 「百万長者と老刑事」中野榮訳、《ロマンス》1946/12(1巻7号)pp.32-39(抄訳)[イスタンブールの警官]
 7. L’enquête de Mademoiselle Doche, 1939 「宝石と令嬢」中野榮訳、《ロマンス》1946/11(1巻6号)pp.36-42(抄訳)[ドシュ嬢の事件簿]
 8. La ligne du désert, 1939 「情熱の空路」中野榮訳、《ロマンス》1946/9-10(1巻4号-5号)pp.20-26, 36-42*[砂漠の地平線]
 雑誌《ロマンス》(ロマンス社)は国立国会図書館プランゲ文庫にあり(資料番号VH1 R425)

・TVドラマ『Maigret hilft einem Dienstmädchen(Love from Felicie)』ルパート・デイヴィス主演、Andrew Osborn演出、1962(第32話)[メグレ、女中を助ける(フェリシーからの愛)]
・TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、クロード・バルマClaude Balma監督、1968(第6話)
・TVドラマ『メグレとジャンヌヴィルの女(Maigret and the Maid)』マイケル・ガンボン主演、Stuart Burge監督、1993(第12話)[メグレと女中]
・TVドラマ『メグレと奇妙な女中の謎(La maison de Félicie)』ブリュノ・クレメール主演、クリスチャン・ド・シャロンジュChristian de Chalonge監督、2002(第40話)[フェリシーの家]

 おやっ、シムノンが少し変わったのではないか、と読みながら思った。メグレ第二期の長編『メグレと超高級ホテルの地階』第64回)から『メグレと謎のピクピュス』第67回)まで読んできて、第二期に入ってからシムノンの筆は良質のエンターテインメントに振り切っていると感じていた。しかし本作『メグレと奇妙な女中の謎』はちょっと違う。前回の中編「死の脅迫状」第68回)にあった一種の気怠さが本作の冒頭に受け継がれている。それでいてエンターテインメント性は失われていない。しかも筋書きやシチュエーションは過去のいくつかの作品を連想させる。作品を再生産させながら、緩さを引きずりつつ、しかし良質のエンターテインメント小説としてまとめ上げてきている。
 その緩さは作品全体の展開をかえって簡素化し、前作『メグレと謎のピクピュス』にあったミステリーとしての人物関係の複雑さを削ぎ落として、むしろすんなりと読者の心に沁み込みやすいものになっている。いわば読了後に読者がひと言「傑作!」といって本を閉じられる、すっきり感の強い作品に仕上がっている。迷うことなく「面白い!」といえるのは、エンターテインメントにとって大切だ。本作をメグレ第二期の最高傑作として推すとしてもなんら躊躇いはない。減点対象が見当たらない。
 笑い話に思われるかもしれないが、正直にいうと、私はいままでずっと本作にある種の固定観念を持っていた。その邦題と原題から、「きっとTVドラマ『家政婦は見た!』みたいな物語なのだろう」と思い込んでいたのだ。そしてフェリシイという名の女中は、きっと市川悦子や、あるいはシモーヌ・シニョレ、キャシー・ベイツのような女性なのだろうと勝手に想像していた。
 いや、申し訳ない。本作はそういう物語ではなかったし、女中フェリシイも市川悦子とはまったく違うキャラクターであった。

 5月、新緑の季節。その年初めてメグレはオーバーを着ないで外出した。メグレはフェリシイという名の女中とともに、パリから数キロ離れた新興住宅地ジャンヌヴィルを歩き、事件当日彼女がどのような行動を取ったか確認していたのである。村の人々から《義足のラピィー》と呼ばれていたジュール・ラピィーなる老いぼれの男が月曜日、自宅で銃殺されたのだ。女中フェリシイは食料品店から帰って、主人が自室の床に倒れているのを発見したという。当日の彼女の買い物はごくありふれたものだった。バターや胡椒、ヒレ肉、それに安っぽい小説本……。その朝、どうやらラピィーのもとには来客があったらしく、中庭のテーブルには酒の小瓶とグラスが残っていた。ただしグラスは一個しかない。また彼が撃たれていたのは二階の自室だ。凶器は見つかっていない。
「あんたは《義足のラピィー》の愛人だったといいたいのかね?」
「あたしをそんな女だと思ってるの?」
 フェリシイという女中は「痩せた体つき」で「勿忘草のようなあの大きな目を、人を小ばかにしたようなあの鼻を」持ち、「アイロンのように頑なで、辛辣で、気まぐれだ。尖った顔にはおしろいと口紅を塗りたくり、舞踏会での女王のような様子をしている小柄な女中。そのうえ、突然目のなかに不気味な光が宿ったり、さもなければ唇の上に、皮肉交じりの蔑んだような笑みをかすかに浮かべる」(長島良三訳)。彼女はいま24歳。主人のラピィーはもともと港町フェカンで航海会計係をしており、つまらない事故で片足を失った。だが損害賠償金を入手できたので、彼は7年前、フェカンにいた小娘フェリシイを連れて、このジャンヌヴィルに越してきたのである。彼には船乗りの弟夫婦と、パリのルピック通りに住むサキソフォン吹きの若い甥ジャック・ペティロンがいたが、仲はよくなかったらしい。木曜になって親族が集まり、葬儀が執りおこなわれた。喪服姿のフェリシイは親族よりも前を歩く。あいつは何なのだ、と親族には不評だ。しかも埋葬の後、彼女は警察を撹乱させるかのように逃走する。メグレは部下のリュカ刑事に彼女を追わせた。
 その間、親族は《ケープホーン屋敷》と呼ばれるラピィーの家に戻り、メグレの立ち会いのもとラピィーの遺言状を確認した。だがそこには驚くべきことに、弟夫婦や甥の日頃の行動に鑑み、全財産は彼らではなく女中フェリシイに譲ると書かれていたのである。親族は騒然となった。納得がいかない。
 フェリシイは喪服姿のままパリへ行っていたらしい。リュカは振り回されたことになる。戻ってきたリュカは近隣村オルジュヴァルの《金の輪》亭で常連客に聞き込み調査を始めた。ラピィーの生前の評判はあまりよくなかったようだ。住民の一部は、ラピィーと女中フェリシイは愛人関係だったと下衆な勘ぐりをしていた。
 帰宅したフェリシイは悪びれた様子も示さず、どうして外出したのだと問い質すメグレに怒鳴り返す。
「(わたしのことを)マドモワゼルと呼んだらどうなの!」
 メグレは「ぼたんいんこ」ないし「いんこ」と村人から渾名されていたこの娘に手を焼き、激怒し、不快だった。甥のジャック・ペティロンはパリのピガール通りの安ナイトクラブ《ペリカン》で夜に演奏しているという。フェリシイはなぜかパリへ行ったり来たりしているようだ。メグレはパリでの関係者の動向をジャンヴィエ刑事に、またジャンヌヴィルとオルジュヴァルでの動向をリュカに見張らせ、自分は自転車を漕ぎながらあちこちを行き来して、フェリシイの真意を探ろうとする。そしてメグレは《ケープホーン屋敷》の彼女の寝室で一冊のメモ帳を見つける。そこには日付とともに、まるで恋の独白のような言葉が綴られていた。メグレは馬鈴薯を剥く彼女にそれを突きつけて読み上げる。いったい彼女の本当の恋人は何者なのか? 

 ――気怠げな冒頭だと先に書いたが、フェリシイに事件当日の行動を再現してもらいながら、ふっとメグレが陽射しのもとで子供時代のことを思い出す文章が実に見事だ。いきなり白昼夢の世界に私たち読者も連れて行かれるが、もうすでに捜査は始まっているのだ。シムノンにしか書けない名文であり、いつか私も自作でこんな文章を書いて読者を誘ってみたいと願う。

 そうだ、メグレはこの瞬間のことを、あとになって思い出すにちがいない。それもいつでも上機嫌で思い出すというわけにはいかない。長い年月のあいだ、司法警察局ではつぎのような言葉が交わされるようになるだろう。陽気な春の朝、同僚たちが皮肉な表情を浮かべて生まじめな口調でメグレに、
「ねえ、メグレ……」
「何だね?」
「フェリシイはその場にいたんだ!」

 本作の真の主人公は、女中フェリシイである。
 よってドラマ化作品ではこのフェリシイ役をどう描くかが最大のキモとなる。「ぼたんいんこ」は色鮮やかな羽を持つが安価な鳥で、目の周りが白く、愛情深いが神経質。私はかつての栗山千明を連想した。フェリシイという女にはどこかぎすぎすとして冷たい感じが必須なのだ。最初のうち、彼女は非常に嫌な女として描かれている。しかし読み進めればわかる通り、フェリシイは実はツンデレなのである! 中盤から自分の感情を表に出し、涙を流し、そして最後にはメグレに笑顔も見せてくれる。この中盤辺りから急速にフェリシイが魅力的に見えてくるよう演出しなければならない。決して美人でなくてもよい、だが化粧をしてパリに出るときはあれっと思うほど意外に綺麗で、そしてメグレとふたりきりで夕食をともにする終盤では、かわいらしい女性らしさを、むしろ少しくらい夢見がちな田舎娘の雰囲気を残しつつピュアな笑顔で表現できなければならない。目がきつくてエラの張っていた栗山千明が思い浮かんだ。
 過去の作品から魅力的な女性像を思い返すと、筆頭に上がるのは中編『ホテル“北極星”』第62回)に登場した19歳のセリーヌだ。第一期の『ゲー・ムーランの踊子』第10回)でもシムノンは渦中の踊り子を魅力的に描こうと試みたが、いまひとつ達成し切れていなかった。むしろ決して美人とはいえない『オランダの犯罪』第7回)の田舎娘が見せつけた凄みが思い出される。あるいは『メグレと深夜の十字路』第6回)に登場した、あのストッキングを履く小悪魔娘か。
 本作『メグレと奇妙な女中の謎』のフェリシイは、これまでのメグレもので最高に魅力的な女性といっていいだろう。事件は最初から、死体の第一発見者である彼女の関与を示している。ただ、彼女が主人を撃ったとは思えない。たとえ遺産相続が目的だったとしても、こんな方法で主人を殺すのは得策ではないはずだ。では彼女は何を知り、何を隠しているのか。メグレは彼女に張りついて、頑なな彼女と向き合い、そして彼女の真意を見抜こうとする。このような展開を取るため、本作はこれまでの第二期長編と違って、冒頭から活発なシーンが続くというわけではない。ゆっくりと、じっくりと読者を惹き込んでゆく。
 舞台の位置関係を押さえておきたい。フェリシイが住み込んでいた《ケープホーン屋敷》があるのは、セーヌ河岸ポワシーPoissy近くの、数年前から開発が進んでいる《ジャンヌヴィルJeanneville分譲地》だ。現在の地図で見てもこの地名は見当たらないので架空の村名と思われる。ポワシーはパリから見て北西の方角、セーヌ川の下流に位置する。ある実業家夫妻がやって来て土地の分譲と開発整備を始め、ぽつぽつと別荘や戸建てが建つようになり、各々の家には《私の夢》とか《最後の休憩地》などといった小洒落た名前がついている。ただ、完全に開発が進んでいるわけではないので、おそらく多くはまだ畑として手つかずの状態だ。隣村はオルジュヴァルOrgevalで、こちらは実在の村である。パリから数キロという作中の記述はほぼ正しい。直線距離で10キロほどだろう。

この作品の時代、一九五〇年代はフランスでも別荘ブームが進んだときで、この作品のなかにそれがうまく反映され、生かされている。

 と、訳者の長島良三氏は雑誌邦訳掲載時の解説文に書いているが、本作が執筆されたのは戦時中の1942年。長島氏指摘の「別荘ブーム」よりは前の時代である。メグレはたぶん、汽車やタクシーを使ってパリとジャンヌヴィルの間を往復しているが、両方を同時に見ることはできないので、パリは主にジャンヴィエ刑事に、ジャンヌヴィルの動向はリュカ刑事に見張らせているわけだ。そしてメグレは聞き込み調査や電話連絡で隣村オルジュヴァルに頻繁に出向く。そのため自転車を借りて漕ぐのである。『メグレと運河の殺人』第4回)以来、自転車をえっちらおっちら漕いで回るメグレのユーモラスな様子が拝める。
 パリのなかでも今回焦点が当たるのは、風車小屋飾りで有名なキャバレー《ムーラン・ルージュ》もある歓楽街ピガール通りだ。甥のジャックはしがないサックス吹きで、夜にはピガール通りのバー《ペリカン》でバンドの一員として演奏している。メグレはこの《ペリカン》にも足を運ぶが、以前の短編「ピガール通り」(第61回)ではいまひとつ治安の悪い雰囲気は感じ取れなかったものの、今回は夜でもあり空気感がうまく出ている。
 ここでジャックは何か重大事をメグレに打ち明けようとするが、ふたりで店を出たとたん、何者かに銃で撃たれて重傷を負ってしまうのである。事件の真相を知ると思われる人物が、途中で意識不明の重体に陥り、解決への道が遠のいてしまう──ミステリーの王道パターンだが、今回はメグレのすぐ横で撃たれたわけで、メグレの失態でもあり、悔やんでも悔やみ切れるものではない。メグレ第1作『怪盗レトン』第1回)の展開をちょっと思い出した。このように本作は読んでいるとさまざまな過去作品が想起されるのだが、前回の「死の脅迫状」とは違って、たんなる使い回しとは感じられず、新規のシーンへ昇華されていると思えるところは素晴らしい。ここでもちょっとした新しいトリックが用いられている。
 そしてこの辺りから真の主役フェリシイが変わり始める。銃撃の翌日、メグレがフェリシイの家に行ってみると、彼女は何者かに顔を殴られて痣をつくっていた。相手の顔は見ていないようだが、なぜそんな事態になったのか、彼女は何かを知っていながら隠している様子だ。メグレは彼女がジャックを庇っているのだと悟る。フェリシイはジャックのことが好きなのだ。ジャックが撃たれて重傷だと知って彼女は驚き、パリの病院まで見舞いに行きたいといって泣く。メグレの同行のもと病室を見舞った後、看護婦に「あの人を助けるのに必要な手はすべて打ってください。お願いします」とすがりついて千フラン紙幣まで押しつけるほどだ。メグレは彼女を食事に誘い、じっっくりと彼女の出自を聞き出し始める。
 こうして徐々にフェリシイの心の氷が溶けてゆく。もう読者はフェリシイの魅力の虜だ。おそらくメグレ自身もそうだったのではないか。彼がこれほどまでフェリシイと行動をともにして、ふたりで話し合おうとするのは、彼女がうちに秘めていた魅力にいまこそ気づいたからだ。どうして彼女が食料品店で安っぽい小説をよく買っていたのかもわかってくる。彼女はつっけんどんで嫌らしい女と思われているが、本当は恋を夢見る女性なのだ。
 さらに事件の解明が進み、ようやく彼女はわずかだが微笑を見せるようになる。それでもまだぎこちない。メグレがさらにひと押しすると、かえって心を閉ざし、「あなたは人でなしよ! 人でなし!」と叫んでしまう。それでも辛抱強くメグレは語りかける。第6章ラストはメグレものの歴史に残る屈指の名シーンだ。メグレは彼女に、いまからいったん用事で出るが、今夜はいっしょに夕食を食べようと提案する。彼女は応える。

「どうぞご勝手に」
「微笑むんだ!」
「いやよ!」
(中略)メグレが自転車にまたがったとき、彼女が大声で叫んだ。
「やっぱりあなたなんか嫌いだわ!」
 メグレは振り返ると、にっこり微笑み、
「私は、フェリシイ、あんたが大好きだよ!」

 各ドラマ版では、このシーンをどう演出するかがいちばんの鍵だ。それぞれ少しずつ解釈、ニュアンスが違う。それを比べるのも面白い。だがほとんどこれは愛の告白の応酬ではないか。メグレがいままで事件の関係者に「大好きだ」などと告げたことがあっただろうか? 
 シムノンの原文は次の通り。

──Je vous déteste quand même! (やっぱりあなたなんか大嫌いだわ!)
──Et moi, Félicie, je vous adore! (私も、フェリシイ、きみが大好きだよ!)

 フランス語を習い始めた初期、自分の好みをどう表現するか、「大好き」から「大嫌い」まで段階とともに教わった。détesterは最上級の「大嫌い」、adorerは最上級の「大好き」だ。相手は「顔も見たくないほど大嫌い!」と叫び、メグレは「私も(同じだ)、熱烈に大好きだよ!」と応じる。初めてフェリシイとメグレが真に心の交感をするシーンである。
 この後、メグレはリュカ刑事の報告を聞くためオルジュヴァル村の《金の輪》亭に赴く。ここでメグレはパリの司法警察局と電話で確認を取り合う。その最中、ついメグレは「ああ痛い……」と声を上げてしまう。女将が料理するはずの生きた伊勢えびをちょうど持ったまま電話に出ていて、挟まれたのだ。電話の途中で床に置くが、えびはじっとしておらず床を動き回る。メグレはそれを叱りながら電話を続ける。作者の余裕がもたらすユーモラスなシーンだ。こういう細かな演出で小説はぐっと豊かさを増す。作家の器の大きさがわかる。いずれのドラマ版でもここのユーモアが再現されていないのは惜しい限りだ。
 メグレはこの伊勢えびを《ケープホーン屋敷》に持ち帰り、フェリシイに茹でてもらう。メグレは食卓に花を活けて飾る。そしてふたりで向かい合わせに座り、マヨネーズソース和えで食べるのだ。読みながらこちらもにやにやしてしまう。完全に恋人同士の食事ではないか! この後、翌朝までの間に事件は解決を見せるのだが、その前の午前1時、一度だけメグレは彼女の寝室に行って無事を確かめる。「メグレは微笑んだ。なんてかわいいんだ、彼女は!」──もちろんメグレは彼女を愛しているわけではなくて、事件の関係者として見守っているだけだし、夫人のことを忘れているわけでもない。だが上記の一文もまた本心なのだ。あんなにつっけんどんだった彼女が、いま何とかわいらしい寝顔をしていることか! ここまで事件が解決へと向かったことに、誰よりもメグレが喜び、安堵しているのである。そして実際に彼女はかわいいのだ! 
 このように終盤になって事件の重要関係者と差しで食事し、交流を深め合うシーンは『メグレと超高級ホテルの地階』第64回)にもあった。こういうときの料理が具体的で、しかも本当に美味しそうなのだ。メグレはグルメではない、と以前に書いた。だがメグレを読んで料理のことが心に残るのは、こうした素晴らしいシーンがあるからだと思う。
 翌朝、メグレは彼女の寝室にカフェ・オ・レを運んでくる。起きたばかりの彼女は、どうして警察の人がこんな親切なことをしてくれるのだろうと不思議に思う。そして種明かしがなされ、事件は解決し、メグレはジャンヌヴィルから去ってゆく。読み終えたとき、読者の心にはフェリシイの魅力溢れる顔が刻まれていることだろう。
 以前に『メグレと謎のピクピュス』の回で横溝正史の金田一耕助作品を引き合いに出したが、私は本作でメグレが田舎町を自転車で走り回るさまを読みながら、知らず知らずのうちに市川崑監督の映画版『悪魔の手毬唄』を思い出していた。そして本作のラストは、まるで映画『悪魔の手毬唄』のようだ──と感じたことを告白しておく。映画では汽車に乗って去ってゆく金田一耕助を、若山富三郎演じる磯川警部がプラットホームで見送る。駅の柱には「そうじゃ」と平仮名で駅名が架かっている──あれは噂によると意図的な演出ではなく偶然の産物だそうだが、金田一ファンには最高の名シーンだ。あのシーンで映画『悪魔の手毬唄』は永遠の名作となったが、本作『メグレと奇妙な女中の謎』でもちょうどそれと似た感情が湧き起こる。つまり本作もまた名作だ。

 いくつかさらに気づいた点を書き留めておく。途中でロンドネ刑事という新入りの刑事が出てくる。たぶん本作が初登場だ(そしておそらく今後もほとんど登場しない)。「メグレの肘掛け椅子に座り込んで、メグレのパイプに似たパイプを吹かしている。ロンドネ刑事の模倣ぶりは、ビヤホール《ドフィーヌ》から生ビールを取り寄せるまでに至っている」と、新米のくせにメグレのスタイルを真似ているわけだが、このキャラクター性は第三期になってリュカ刑事へと引き継がれるものだ。本作ではまだ移行の過渡期なのである。リュカは最初のうちは有能な部下だったのに、本作も含めて第二期から、少しずつコミックリリーフの役割を担ってゆく。
 また本作でメグレは何度かメモ帳を使う。前作「死の脅迫状」でも彼はメモ帳にあれこれ書きつけていたが、実はメグレが手帳を使うのは前作が久しぶりのはずだ。初期作『サン・フォリアン寺院の首吊人』第3回)ではメグレがメモを何度も書きつけるさまが印象的だったが、その後はずっとメモをしていなかったと思う。こんなところにちょっとした変化が見られる。
 そしてもうひとつ。今回で雑誌《EQ》掲載の長編5作を読んできたわけだが、ある時期の《EQ》の表紙は、ちゃんと目玉掲載作品の内容を表現していたのだとようやく知った。今回の表紙もいんこと札束があしらわれている。表紙のアートディレクションは鶴本正三(鶴本晶三)氏。もし氏の統一デザインで光文社からメグレシリーズが書籍刊行されていたら、また別のよき佇まいとイメージが生まれて、日本でのメグレ受容史も違ったものになったかもしれないなあと夢想した。

 ルパート・デイヴィス版TVドラマは、テンポがよい代わりにいつも原作者シムノンが用意した「溜め」も取り払ってストレートに話を展開してしまうため、終盤の「なぜメグレが急に優しくフェリシイに朝食を持ってきたのか」という意外性も消えているのが残念だ。序盤でリュカがフェリシイをバイクや電車でずっと尾行してゆくくだりはユーモアがあって楽しめる。
 ジャン・リシャール版のフェリシイはやはりいちばんかわいい。中盤でメグレとパリへ出て見舞いをするところでようやく化粧した顔を見せるのだが、「えっ、こんな美人だったっけ」と驚かされ、その後ぐんぐんとかわいらしい表情を見せてゆく。終盤の笑顔はたまらない。無理に難をいえば、ここまでかわいくなくてもよいのだ、本当は(すみません、視聴者はわがままなものなのです)。メグレは最後に車に乗り込んで《ケープホーン屋敷》を去って行き、その様子が俯瞰ショットで示される。この終わり方は後のドラマ版に踏襲されてゆく。ちなみにメグレがフェリシイの日記を見つけてわざと朗読するとき、彼女は台所で馬鈴薯の皮を剥いているという原作の設定なのだが、このドラマのフェリシイがいちばん馬鈴薯の剥き方が巧い。ちゃんと六方剥きができている──と、どうでもいいところで感心する。
 マイケル・ガンボン版を観るのは久しぶり。ようやくジャンヴィエ、リュカ、ラポワント(原作ではまだ登場していない後期キャラクター)各刑事の見分けがついてきたが、実は本作が最終話なのである。このシリーズは英国製なので、役者が手に持つ新聞などはフランス語なのに、ラピィーの遺書の表書きは英語だったりする。そしてなぜか女中の名はフェリシイFélicieではなくフェリースFélice。いちばんの見せどころである「大嫌い!」「大好きだよ」のシーンが、残念ながら弱い。
 ブリュノ・クレメール版のフェリシイの造形は、他と比べるとやはり見劣りする。このドラマ版ではフェリシイが最初からおどおどして、しかも何かを隠して心配していることがはっきりわかるので、逆に後半になっても彼女の魅力が活きてこない。ただ、舞台のジャンヌヴィルや《ケープホーン屋敷》が原作よりもずっと田舎として描かれ、どこにでも家禽がうろついているのが面白い。屋敷内には白うさぎが、庭には鵞鳥が放し飼いになっており、つねに犬の吠え声や汽車の音が聞こえる。道を行けば牛が啼いている。メグレは彼女が実は夢見る女性だということをちゃんと指摘するものの、何ということか、その先の「大嫌い!」「大好きだよ」のシーンがない。白うさぎがかわいいドラマである。
 クリュメール版の本邦DVDは、30作分までが長島良三氏の解説つきでDVD-BOX化されているが、後の12作は元NHK欧州総局長・萩野弘巳氏の解説つきで各々DVD化されている。長島氏と荻野氏では解説文の内容も違う。本作DVDには荻野氏の解説がついているが、いくらか補足しておきたい。
 原作者シムノンの略歴として、「シムノンは、第二次大戦中はフランスにとどまって対ナチス・レジスタンスの手助けをした」と書かれている。他の日本のミステリー評論でもときおりこの指摘を見かけるが、少なくともパトリック・マーナムとピエール・アスリーヌのシムノンの伝記には、そのような記述はいっさいない。シムノンの自伝『私的な回想』にもない。この情報の出所がどこなのかは調査中だが、たぶん誤りだろう。「なお、シムノンは戯曲「雪は汚れていた」(1950年)も書いている」とあるが、これも厳密にいえば正しくない。小説『雪は汚れていた』の刊行は1948年。戯曲版(1950年)の初稿は作家フレデリック・ダールが書いた(第17回参照)。シムノンはそれに手を加えたのみ。また荻野氏はプレイヤード版シムノン選集に収められているというJ・デュボワ/B・ドニの評論を引きつつ(瀬名は未確認)、シムノンとサルトルの類似性について語り、シムノンの小市民(プチ・ブル)性が大衆の共感を得たのだとしているが、いまのところ私自身はシムノンがことさら小市民の味方であるとは思っていない。彼は政府高官だろうとプチ・ブルであろうと、たんに分け隔てなく観察し、彼らそれぞれの本質を描こうとしていただけのような気がする。その点、庶民派の池波正太郎とは違う。シムノンはよく「裸の人間」という言葉を用いたが、読者である私たち自身も先入観を棄てた「裸の人間」にならなければ、シムノンの小説は読めない気がしている。
 さらに荻野氏は「メグレ“捕物帳”」として、日本の捕物帳小説との類似を指摘している。「またメグレは「三つ星」レストランで豪華に晩餐ということはあまりありませんが、優しい奥さんの家庭料理、友人を招待したりされたりの団欒を、心から楽しむグルメです。これは「鬼平犯科帖[ママ]」とも共通する、作者シムノンの、自分とファンに対するちょっとしたサーヴィスでしょう」ともあるが、メグレは決して「グルメ」ではない。その土地の郷土料理を大事にしているだけだ。この点も池波正太郎とは決定的に違う。
 新型コロナウイルス・パンデミックでもよくわかった通り、人間は科学的・論理的に判断しようと努力しても、どうしても世論の雰囲気・空気に流され、反射的な言動をしてしまうものだ。そして私たち人間はプライドを持つ生きものであるから、いったん確証バイアスに嵌まるとなかなか一度心に決めた自説を撤回できない。文芸評論でもやはり人々は時代の影響を受けて、バイアスに囚われた評価をしてしまうものだ。「共感」とか「『鬼平犯科帳』に似ている」といった過去のシムノン評は、いっときの論壇の雰囲気がつくり上げたバイアスだったのだと私は思っている。だから私たちはそうした教訓を踏まえた上で、「裸の人間」になってシムノンを読み直すのがよいと思う。
 シムノンの小説はどのくらい日本の捕物帳と似ているのか。あるいはどのように似ていないのか。私も最近少しずつ捕物帳の小説やTVドラマに接している。まだまだ初心者に過ぎないが、この課題についてはメグレ第二期最終回である次回に考えてみたい。

▼他の映像化作品(瀬名は未見)
映画『Maigret dilige l’enquête』Stany Cordier監督、モーリス・マンソンMaurice Manson、Svevtlana Pitoëff出演、1956[仏][メグレ、熱心に捜査する]『メグレと死んだセシール』が原作だといわれているが、ドイツ発売のルパート・デイヴィス版DVD付録小冊子には本作も原作と記されており、詳細未確認。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。




 
■最新刊!■

































■最新刊!■













■瀬名秀明氏推薦!■


 

■瀬名秀明さんの本をAmazon Kindleストアでさがす■

【毎月更新】シムノンを読む(瀬名秀明)バックナンバー