『蠅の王』(一九五四年)——“無垢の喪失、人間の心の暗黒”、あるいは愉しくも怖ろしい小学生男子のディストピア——スティーヴン・キング絶賛の恐怖少年漂流記の新訳登場!

 この小説は長らく平井正穂訳(新潮文庫、集英社文庫)で親しまれてきた。同氏の翻訳が最初に出たのは一九五八年(集英社の世界文学全集・20世紀の文学、第16巻)で、そこから数えれば今回のハヤカワepi文庫版は五十九年ぶりの新訳となる。

 たいへん有名な小説なので、読んだことがない方でも大まかなストーリーはご存じかもしれない。

 少年たちの乗った飛行機が南太平洋の無人島に不時着する。少年たちは大人のいない楽園で愉しくすごそうとしつつ、民主的なルールにのっとり、集会の討論でものごとを決め、協力しあってサバイバルをめざす。こうして一種のユートピアができあがるが、やがて内なる獣性が目ざめて陰惨な闘争が始まり、南海の楽園は悪夢の世界と化す……

 この小説が聖書などを下敷きにした寓話的な物語であることや、ホロコーストや核兵器から作者が受けた衝撃が執筆の背景にあることについては、訳者あとがきで紹介しておいた。

 それからこの小説では、そもそも少年たちの飛行機はどんなふうに不時着したのかがはっきりせず、飛行機が落ちた場所は書いてあるものの、それでよく誰も怪我しなかったものだと疑問がわくのだが、そのことも書いておいたのでお読みいただきたい。ここでは訳者あとがきに書ききれなかったことを補っておきたいと思う。

 まずスティーヴン・キングが『蠅の王』に大きな影響を受けていて、ペンギン・ブックスの一部の版に序文を寄せていることについて。

 その序文によれば、キングは十四歳のころ、それまで愛読していた少年向けの物語で描かれる少年像に物足りなさを感じていた。そこで田舎町にバンで巡回してくる移動図書館の女性司書に、「子供のほんとのところが書いてある話はないですか」ときいたところ、『蠅の王』を渡してくれた。そのとき司書は、「誰かにきかれたら、自分で見つけたといってね。でないとわたし、困ったことになるから」といったというのである。

 こんな薦められ方をしたら、もう食いつくしかないではないか。キングは夢中になって読み、戦慄し、ここには邪悪なところもある子供がありのままに描かれている、世界は善悪がきっかり分かれているものではない、また最後まで読んでも明確な答えが出ず、いつまでも心に残って深く考えさせる物語というものがある——そういうことを知り、大人の小説に開眼したのだった。

 例の〈蠅の王〉とサイモン少年の対話のシーンを読むと、超自然的な悪と人間の内面にひそむ悪が重ねあわされていて、キングの小説そのものといってもいいくらいで、『蠅の王』がキングの重要な原点のひとつであることがあらためてよくわかる。

 もうひとり、『蠅の王』に大きな影響を受けた現代作家として、イギリス人のイアン・マキューアン(一九四八年生まれで、キングより一つ年下)をあげておこう。彼は Schoolboys というエッセー( William Golding: The Man and his Books, edited by John Carey, 1986 所収)でそれを語っている。

『蠅の王』をはじめて読んだのは十三歳のとき、全寮制のグラマー・スクール(大学進学を前提とする公立の中等教育学校)にいるころだった。彼はこう書いている。

 わたしはこの少年たちを知っていた。この少年たちがどんなことをしでかしうるかを知っていた。わたしはそこに自分たちの姿を見た。わたしにとって、ゴールディングの描いた島は、要するに寄宿学校だったのだ。

 マキューアンの長篇小説第一作『セメント・ガーデン』は、少年とその姉が母親の死体をセメントに埋めて、子供たちだけの楽園をつくろうするが、やがてその楽園が崩壊していくという話で、まさに『蠅の王』と似た物語である。くだんのエッセーによれば、主人公の少年の名前がジャックなのは、無意識のうちに『蠅の王』のジャック・メリデューの名前を借りていたのだと、あとで気づいたとのことだ。

 子供の描き方のリアルさがキングやマキューアンを惹きつけたわけだが、『蠅の王』に登場するのは男の子ばかり。なぜ女の子は登場しないのか。ゴールディングはよく少女たちにそれをきかれたそうで、自ら朗読して録音した『蠅の王』(CD入手可)に添えたコメントでこう説明している。

 わたしの返事はこうだ。わたしはかつて少年だった人間であり、誰かの弟であり、父親であり、もうすぐ祖父にもなる。しかし姉や妹だったり、母親だったり、祖母だったりしたことはない。これが、なぜ少年だけにしたのかの、ひとつの答えだ。

 もうひとつの答えは、人類の縮図、あるいは社会の縮図を描こうとする場合、少年だけの集団を描いたほうが、少女だけの集団を描くよりうまくいくからだ。なぜかときかないで欲しい。もちろんいまの発言はひどいものに聞こえる。男女平等をめざす女性全員から厳しく非難されそうだ。でもこれは男女平等の問題とは全然関係がない。わたしは女性が自分たちは男性と平等だと考えるのは馬鹿げたことだと思う。女性は過去から現在にいたるまで男性よりずっと優れている。女性の集団をとりあげて、それをいわば煮詰めて少女の集団にして描いたら、その子たちは文明的な社会をつくってしまうのだ。これが少年だけにしたもうひとつの理由だ。

 それから、なぜ少年と少女の混合集団にしなかったかだが、そういうふうにすると、まあ人間の性として、セックスというすてきな問題がもちあがってきてしまう。けれどもわたしはこれをセックスが関係する話にしたくなかった。セックスはこういう物語においてはあまりにも瑣末な要素だ。これは悪の問題と、人々が社会のなかでいっしょに生きるとはどういうことかという問題を扱う物語であって、恋人や夫婦としてどうふるまうかという物語ではないのだ。

 訳者あとがきで書いたとおり、ゴールディングが書こうとしたのは、人間の悪は社会関係から生まれるのではなく、人間の本性そのもののなかに悪があるということだった。ゴールディングはこういっている。

 テーマは、社会に欠陥があるのは人間の本性に欠陥があるからだということを示すことだ。教訓は、社会のかたちは政治システムではなく個々人の道徳性によって決まるということだ。

(E・L・エプスタインの Notes on Lord of Flies による。ペンギン・ブックス Casebook Edition の Lord of the Flies 所収)

 そしてイギリス人をはじめとする欧米のいわゆる文明人も、一皮むけば“野蛮人”と同じなのだということを描いた。

 そこから連想するのは、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』(一九〇二年)だ。あの小説では、最高のヨーロッパ的知性をそなえた理想家だったはずのクルツが、アフリカの地でなぜか密林の奥深くに姿を消し、「野蛮人」たちの王となって暴虐を働く。従わない者の首を杭に刺してさらしものにしたりする。

 当然、『蠅の王』はこれの影響を受けているだろうと考えるわけだが、ゴールディングは一九六二年にジェイムズ・キーティングが行なったインタビューで、『闇の奥』は読んだことがないといっている。ゴールディングは大学で英文学を学び、長くグラマー・スクールで英語の先生をした人なので、そんなことがありうるのか疑問ではあるのだが。ともあれ、『闇の奥』をわたしも翻訳しているからいうのではないが、あわせて読んでみるときっと面白いと思う。

 ところで、訳者あとがきに書いたとおり、『蠅の王』の初稿の末尾には“一九五二年十月二日十六時”と記されていた。その意味について、たとえばジョン・ケアリーによるゴールディングの伝記には、脱稿した日時だろうかとしか書いていない。だがこれはイギリスが初の原爆実験に成功した一九五二年十月三日午前零時(グリニッジ標準時)の八時間前なのだ。作者はこの小説が核戦争の問題と密接に関係していることをそれで示したのだろう。それはいいのだが、なぜ八時間前なのか。ネットや手に入る範囲の紙の資料を調べてみたのだが、なにも情報は出てこない。もっと本格的に研究論文などを探せばわかるだろうと思うのだが、その余裕がないので、申し訳ないが、わたしの推測を書くだけにしておきたい。

 グリニッジ標準時で一九五二年十月三日午前零時のときに、一九五二年十月二日十六時である場所は、西経百二十度。南太平洋上だとすれば、イースター島の西のほうだ。つまりこれは小説の舞台となる島の場所をあらわしているのではないか。当時、核戦争が起きればイギリス市民はオーストラリアに避難することになっていたという。イギリスからオーストラリアに飛ぶ場合、核戦争が起きているのだから、ユーラシア大陸やアフリカ大陸など多数の国があるほうではなく、大西洋を横断して南米を越えていくだろう。資料のなかには、島はニューギニアの近くにあるとするものもあるが、根拠はわからない。

 細かい話だが、ピギーの眼鏡は近眼鏡(凹レンズ)なので太陽の光を集めて火をおこすことはできない、というのは早くから指摘されていたことだ。作者は一度、語句や行空きの変更や誤植の訂正をしているので、眼鏡の件も修正する機会はあったのだが、しなかった。それはピギーの眼鏡は知性の象徴で、眼鏡をはずすとピギーは周囲が見えなくなって無力になることが必要だったからだろう。

 ちなみにハリー・フック監督版の映画では、ピギー少年は遠視鏡をかけている。ハリー・フック版の映画は、そのほかにも、飛行機が海に墜落して少年たちがゴムボートで島にたどり着くシーンを入れるなど、筋の通る内容になるよう努めている。だが、そのぶん寓話性、神話性が薄れてしまったうらみがあるかもしれない。寓話性、神話性でいえば、モノクロのピーター・ブルック監督版のほうが魅力的なように思える(ただしこちらも飛行機は海に不時着水している)。

『蠅の王』では、眼鏡は知性の象徴、ほら貝は秩序や民主主義の象徴というふうに、いろいろなものに寓意がこめられている。作者自身が、寓話として周到につくりこんだと述べている(フランク・カーモードによるインタビュー)。いいかえれば、深読み歓迎ということだ。

 たとえば飛行機が不時着した場所は“傷跡”と呼ばれるが、これなども明らかにある意味がこめられているだろう。おそらく“傷跡”と呼ばれる場所をつくりたいがために、ああいう不時着のしかたをさせたので、それがなければ海に墜落でいいわけなのだ。

 中学生・高校生のみなさんがこの小説で読後感想文を書くときは、いろいろ深読みしてみてはいかがだろうか。いっそ“うがちすぎ”なくらいのほうが面白い感想文になるかもしれない。またこの小説は“こういう状況になったらどうなる?”という一種の思考実験でもあるが、自分でも思考実験をして、たとえば少女漂流記ならどんな展開になりそうか(本当にゴールディングのいうように平和に暮らすだろうか)などと空想・妄想をふくらませて感想文を書くと、点数が稼げそうな気がする。

 というわけで、『蠅の王』、どうかお愉しみください。

黒原敏行(くろはら としゆき)

 1957年生まれ。訳書に、ハクスリー『すばらしい新世界』(光文社古典新訳文庫)、ミラー『まるで天使のような』(創元推理文庫)、アイリッシュ『幻の女』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、フォーサイス『アウトサイダー 陰謀の中の人生』(KADOKAWA)。

 ところで、『まるで天使のような』のタイトルは、巻頭に引用された『ハムレット』の一節から来ています(遅ればせながら、念のため)。

■担当編集者よりひとこと■

 森のなかを落ち着いて歩いていく、金髪の少年。途方に暮れる、ぽっちゃりした眼鏡の少年。「びっくりするほどそっくりな顔」でにこにこする双子。陽炎のなかから、黒いマントをまとって整然と行進してくる聖歌隊——

 このたび新訳なった『蠅の王』を読んで、描写の瑞々しさにあらためて驚きました。特に上にあげたような個性豊かな少年たちのイメージは、読んでいるうちに勝手に頭のなかで動き始めるかのようです。そして、彼らは、喧嘩したり、協力したりするうちに、ある悲劇へと突き進んでいく……とても著者初の小説とは思えない、力強さと繊細さをあわせもった作品です。

 ハヤカワepi文庫は古今東西(いまのところ東は少ないですが)の文芸作品を収録するレーベルで、グレアム・グリーン、ジョン・スタインベック、ジョージ・オーウェルなど、多数の古典的名作の新訳版も刊行しています。新たに加わったこの『蠅の王〔新訳版〕』も長らく読者の方に愛されることを願っています。書店等で見かけられた際には、ぜひお手に取ってみてください。

(早川書房 N)   

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