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【写真1】

  • Georges Sim, En robe de mariée, Tallandier, 1929/3* [花嫁衣装]【写真1】
  • 初出原題 Nicole et Dinah, «L’Œuvre» 1928/12/30号-1929/2/14号(全47回?)
  • Georges Sim, La fiancée du diable, Fayard, 1932(1930/12/15契約)[悪魔との婚約者]
  • Georges Sim, La fiancée du diable, Les introuvables de Georges Simenon, Presses de la Cité, 1980* 【写真2】

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【写真2】

 私はティジー[註:シムノンの最初の妻]の言葉に従ってコランクール通りのカフェのテラスに腰をおろし、私の最初の長編大衆小説『あるタイピストの物語』*1を書いた。もちろん、そのまえに、原稿を持ちこむ予定の出版社から出ている小説をいくつか読み、どういうふうに書いたらよいか検討はつけてあった。(中略)

 ジュニア向けの双書もあり、そういうものを書くときには、私が奮発して買った『ラルス大百科辞典』[ラルース百科事典]を見れば、アフリカやアジアや南米の各地域の動植物のこと、原住民のことがなんでも調べられた。そうやって、私は『大司祭セ・マ・ツィエン』*2とか『森の潜水艦』*3とか、そのほか世界中いたるところを舞台にしたジュニア小説をたくさん書いた。まったく『ラルス大百科辞典』の世界は実に面白かったよ! 

 ミーハー族向けのロマンスには不幸な出来事を山ほど盛りこみ、終わりは愛と結婚で結ぶことになっていた。たとえば『冷たい手のフィアンセ』*4とか『ミス・ベイビー』*5のように。『ミス・ベイビー』のモデルはジョゼフィン・ベイカーだった。(中略)

 多いときには、私は一日にタイプ用紙八十枚分の小説を書いたので、結婚したてとくらべれば、私たちは金持ちになっていたといってもいいくらいだった。

——『私的な回想』(1981)長島良三訳、《EQ》1986/3訳載  

【引用者注】

*1. Jean du Perry, Le roman d’une dactylo, Ferenczi, 1924(1924/6/30提出)シムノン初の書下し中編ロマンス(小冊子)。長編ではない。(連載第21回参照)

*2. Christian Brulls, Se Ma Tsien, le sacrificateur, Tallandier, 1926(1926/3/18契約)『ヴードゥーの巫女』連載第22回)に続く2冊目の長編秘境冒険小説。

*3. Georges Sim, Le sous-marin dans la forêt, Tallandier, 1928(1928/6/12契約)

*4. Georges Sim, La fiancée aux mains de glace, Fayard, 1929(1928/10/15契約) イーヴ・ジャリーものの第4作。(連載第23回参照)

*5. Georges Sim, Miss Baby, Fayard, 1928(1927/12/25契約)『美の肉体』連載第23回)以前の作品だが、未読のため登場人物がジョゼフィン・ベイカーに似ているかどうか不明。インドシナやサイゴンが背景のようだ。シムノンが初めて書籍出版した「ポピュラー小説」。【写真1】

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【左:写真3/右:写真4】

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【写真5】

 これまで10回以上にわたってシムノンのペンネーム作品を読んできた。今回がその最終編となる。

 紹介していなかった書影をまとめて掲げておこう。【写真2】はプレス・ド・ラ・シテ社の復刊「Les introuvables de Georges Simenon」 [ジョルジュ・シムノン稀覯作品集]全12冊(1980)のうちメロドラマ系の6冊。秘境冒険小説系の6冊は【写真5】参照。【写真3】はファイヤール社の戦後復刊「Le roman complet [完本長編小説](1952)。【写真4】はシムノンが『怪盗レトン』発表後に契約・出版した最後期のペンネーム作品小冊子。少なくともゴリラの小説は昔のストック原稿のお蔵出し。

 今回取り上げるペンネーム作品を、次のふたつの観点から選んでみた。

 まずはメグレの仲間が登場する作品だ。シムノンが『怪盗レトン』以前にメグレ前史を書いていたことは記したが、メグレシリーズのサブキャラクターたちもペンネーム時代から少しずつ私たちの前に姿を見せていた。すでにトランス刑事と保安部の部長は紹介したので、今回はコメリオ判事とリュカが登場する作品を選んだ。

 もうひとつは、『怪盗レトン』以後に書かれたと思われる作品だ。シムノンがペンネームを捨てる直前、すなわちペンネーム時代からシムノンへと至る橋渡し時期の作品に接してみたかった。

 まず読んだのは1928年雑誌発表の『En robe de mariée[花嫁衣装]だ。後のメグレ警視シリーズの常連キャラクターとなるコメリオ判事が、初めてその声を聞かせてくれる作品なのだという。

 メグレ仲間でいちばん早くデビューしたのがコメリオ判事で、すでに長編『Mademoiselle X…[マドモワゼルX…](1928)、『La femme qui tué[殺しの女](1929、イーヴ・ジャリーもの)で名前だけ登場していたそうだが、この『花嫁衣装』で初めて出番を見せる。

 しかも研究家のミシェル・ルモアヌ氏が『シムノンの別世界』で、本作を「シムノンのポピュラー作品のうち最良作のひとつ」と珍しく褒めている。

 1928年はシムノンが船旅を始めた年だ。いちばん多くペンネーム作品を出版した年でもあり、ポピュラーな長編作品をどんどん書くようになっていった時期に当たる。

『花嫁衣装』1929

 アマチュア・レーサーであるジョルジュ・フェヴロー35歳は結婚当日の朝、緊急の電話を受け取った。礼服姿でモンスリ公園近くの花嫁の家に駆けつけると、相手のディナ・ゴーティエ・ノワヨン24歳が花嫁衣装に身を包んだまま、ソファに横たわって死んでいたのである! 

 ディナの両親は再婚で、父親のジャーメインは生物学者。自宅の研究室でカエルを使った蘇生実験にいそしんでいる。ディナは母マティルダが植民地司政者である前夫との間にもうけた娘であり、黒ダイアモンドのような瞳を持つエキゾチックな女性だった。いまは再婚後に生まれた金髪で青い瞳の妹アン・マリー17歳がおり、普段彼女は自宅のラボで父の研究を手伝っている。

 母はかつて前夫とともに西インド諸島のマリー・ガラント島で暮らしていたが、前夫は現地民に対して支配的で、ついには現地のニグロたちに森に連れ去られ、殺されてしまった忌まわしい過去がある。ディナはいわば植民地に生まれ育った「クレオール」であり、仏語よりも現地の言葉をよくしゃべり、ニグロと遊ぶことが多かったので、母は内心わが娘を恐れていた。その後、現地調査に赴いていたジャーメインと知り合って再婚し、フランスに戻ってきたのである。ディナは自由奔放でダンス好きな美しきクレオールとして育ち、近年は家に多くの知人を招いてパーティを催していた。ジョルジュはそこで彼女と知り合ったのだった。

 ジョルジュは突然のフィアンセの死に衝撃を受ける。母親も伏せっている。だがアン・マリーだけが冷静さを保っているように見えるのは奇妙だ。医者はどこにも外傷がないようだと首を傾げる。なぜ結婚当日にディナは突然死したのか。

 さらに奇怪なことが起きた。ジョルジュや家族が目を離した隙に、花嫁姿のディナの遺体が忽然と姿を消してしまったのである。

 保安部のオビエ刑事とディステルヌ刑事が到着し、捜査に乗り出す。オビエは40歳ほどで大柄。足で捜査するタイプだが、やや愚鈍な感じだ。相棒のディステルヌは彼より10歳ほど若く、誠実で頭の切れる刑事である。彼らは現場で煙草と、ネックレスから外れた真珠の玉を見つける。ディナは真珠のネックレスなど持っていなかったはずだ。

 誰がディナの遺体を持ち去ったのか。ディナの部屋の窓から庭へ出て煉瓦塀を越えれば、人に知られず脱出できるはずである。

 妹のアン・マリーが共謀者ではないかとにらんだジョルジュは家を見張る。すると深夜にアン・マリーが家を抜け出し、モンスリ公園にこっそりと何かの包みを置き去ってゆくのを見た。だがジョルジュはここで何者かの襲撃を受ける。

 このころからアン・マリーの人となりに変化が現れ始めていた。優しい感情を見せ、積極的にジョルジュを気遣うようになったのである。一方、父親のジャーメインはラボに閉じこもりがちとなり、「狂気が潜んでいる!」と訴えるようになった。妻がかつて暮らしていたマリー・ガラント島のヴードゥーが関係しているとほのめかすのだ。蘇生実験のカエルさながら、ディアナは死んでいなかったというのだろうか。

 ジョルジュはアン・マリーとともにパリ司法宮に赴き、コメリオ予審判事の質問に答える。その後、ジョルジュは家に戻って謎の手紙を受け取った。「今夜12時、20万フランを持ってブーローニュの森へ来い」というのだ。

 ジョルジュは恐れを抱きつつも大金の小切手を持って指定の場所に赴く。だがここで再び襲撃を受け、どこかの冷たい小部屋に誘拐・監禁されてしまった。サクソフォンの音が聞こえる。何日も囚われて精神も体力も消耗してゆく。ついに脱出し、通行人の助けを借りて何とか自宅へ戻った。

 一方、ディステルヌ刑事はアン・マリーの動向を見張り、彼女が《公園ホテル》に誰かを訪ねた後、ジョルジュのアパルトマンへと入ってゆくのを認めた。オビエ刑事に連絡し、ふたりで乗り込む。

 アン・マリーは《公園ホテル》にナポレオン・カスラーニョなる黒人男性を訪ねていたのである。だがジョルジュが脱出を遂げて戻ってくることは知らなかった。アン・マリーはジョルジュの部屋で危機に見舞われる。ジョルジュは負傷した彼女をかくまい、これまでの経緯を聞き出す。それは婚約者のディナが、かつて子どものころマリー・ガラント島でヴードゥーの巫女だったという驚くべき話だった。

 ジョルジュはいつの間にかアン・マリーを愛し始めていた自分に気づく。

 いやー、何でもありの展開。シムノン初の秘境冒険小説『ヴードゥーの巫女』が、ロマンス小説の体裁とドッキングされている。まだシムノン独自の文体が形成される前の、限りなく通俗的な作品なのだが、ひたすらテンポよく進んで物語も単純であるため、こういうものだと割り切って頭を空っぽにして読める。監禁・拷問シーンは後の『軽業師カティア』連載第25回)に似ている。西インド諸島のマリー・ガラント島は、秘境冒険小説『Jacques d’Antifer, roi des îles du Vent[ジャック・ドンティフェール、ウィンドワード諸島の王](1930)(1926/12/15契約)にも登場するそうだ。後のG.7ものの中編「マリイ・ガラント号の謎」(1933発表)の名前の由来でもあるのだろう。

 例によって主要人物は負傷するが、これまで読んだ作品と違い、さっさと意識を取り戻してもったいぶらずに背景を語ってくれるのはポイントが高い。「最良作のひとつ」とするルモアヌ氏の評価はどうかと思うが、こういうテキトーな小説の方が、『美の肉体』『軽業師カティア』などの力作ゆえに未熟さも見えてしまう作品よりかえって面白いと評価する読者がいてもおかしくはない。

 連載時の題名は『Nicole et Dinah[ニコルとディナ]だが、ニコルなる人物は登場しない。もともとは妹のアン・マリーがニコルという名の設定だったのだろう。研究家のクロード・マンギー氏はシムノンの艶笑コント調査時に、《パリ歓楽》1931/10号(112号)でニコルとディナという踊り子がページを挟んで掲載されているのを知って驚き、このふたりがモデルではないかと想像しているが実際のところはわからない。電子図書館ガリカで閲覧できる。

 コメリオ判事は残念ながら容貌などの具体的記述がなく、その台詞が拝めるだけだ。しかしジョルジュやアン・マリーに一定の気遣いを見せているのは読み取れる。

 ミシェル・ルモアヌ氏の書誌『シムノンの別世界』『シムノン黎明期の輝き』に拠ると、シムノンがペンネーム時代の最後に出版契約を交わした長編は次の3つであるらしい。いずれも1930年12月15日付の契約で、これはメグレ第1作の『怪盗レトン』が本名名義で連載発表(1930年9月)された後の時期になる。

  • Christian Brulls, Les forçats de Paris, Fayard, 1932[パリの受刑者]
  • Georges Sim, La fiancée du diable, Fayard, 1932[悪魔との婚約者]
  • Christian Brulls, L’Évasion, Fayard, 1934[脱走]リュカがメグレに電話をかけるシーンがあるという

【写真4】に示したように、この後も小冊子の中編はいくつか契約がある。ストック原稿が後に契約に至ったケースもあるようだ。

 しかし研究書誌を見る限り、最後期のペンネーム長編はおそらくこの3作なのだろう。

『怪盗レトン』の執筆時期は1930年春ともいわれ、『メグレと運河の殺人』『死んだギャレ氏』が同年夏。『サン・フォリアン寺院の首吊人』が同年夏から12月。ここでシムノンはパリ近郊から一時コンカルノーに移動(後に書く『黄色い犬』の舞台)。つまりペンネーム時代最後の上記3作は、傑作『サン・フォリアン寺院の首吊人』と同時期に書かれた可能性がある。

 今回『La fiancée du diable[悪魔との婚約者]【写真2】を選んだのは、上記3作のなかで戦後に唯一復刊が出た作品であり、テキストが容易に入手できたからだ。『悪魔(ディアーブル)のフィアンセ』というベタなタイトルもいい感じだ。池田悦子・あしべゆうほのマンガ『悪魔(デイモス)の花嫁』は大好きだったよ! 

■『悪魔との婚約者』1932

  • 第一部

 法律家の卵フィリップ・グロンヴィル26歳はドイツのエッセンを訪れていた。同行していた友人フェルナン・ドビエの都合で帰国が遅れ、フィリップはひとりでキャバレーに遊びに行った。そこで出会った緑の瞳を持つ金髪の娘が、父親とおぼしき同行者を店外へ連れ出すのを手伝ってほしいと頼んでくる。後で自分の手に血がついているのに気づいてフィリップは驚いた。男は店で被弾していたのだ。昨今は国際的な犯罪組織が横行しているが、その抗争だろうか? 

 フィリップはルーアンの出身で、父エヴァリストは地元の高官。三人の妹がいる。翌日、謎めいた金髪娘はフィリップに再び接触してきて、重傷の父親をドイツから脱出させる手助けをしてほしいと願い出てきた。フィリップは彼女に関心を抱きつつあり、また冒険に飛び込みたい気持ちが芽生えつつあった。ふたりが車で脱出する手助けをしたフィリップは、改めてひとりでパリのサン=ジャック通りにある学生寮へと戻る。だがそのころ、血痕のついた逃亡車が見つかり、新聞沙汰になっていた。ふたりの行方はわからない。

 フィリップはパリのバーで意外な旧友と再会する。イギリス北部ソールズベリー[註:実在のソールズベリーとは別の架空の場所か]出身で〈白い砂〉と呼ばれる土地に城を持つソールズベリー卿のひとり息子、ジェームズである。[註:シムノンは本作執筆時ないしその前後に仏コンカルノーに滞在していたと思われるが、コンカルノーには実際に〈白い砂 Les sables blancs〉と呼ばれるホテルがある]

 フィリップはこのジェームズという男が苦手だった。しかしそのバーには、さらに奇妙な人々がいた。ひとりはソールズベリー卿の執事の息子ハリー。学資寮の向かいのホテルに謎の英国人が滞在しており、終始フィリップを見張っているのだが、それはこのハリーだろうか。

 そしてもうひとり、バーで出会ったのは、あの金髪娘だった。彼女はグウェンドリン22歳。「私と一緒にいるのが恐い?」と彼女は嘯く。「みんなが私のことを何と呼んでいるか知っている? 悪魔(ディアーブル)の花嫁──悪魔との婚約者よ!」

 そんな彼女にフィリップは急速に惹かれ、学生寮の自室へと連れて行く。フィリップの妹たちの写真を見て彼女は少し感傷的になったりする。彼女は自分の父親がいまパリ郊外イッシー=レ=ムリノーのヴィラに隠れていることを伝える。彼女の父はル・コモドール(准将)と呼ばれる男で、ロンドン麻薬密輸団の首領だった。向かいのホテルから監視しているハリーは、敵対するアムステルダム団の一員だろうか。きっと彼がエッセンでル・コモドールを撃ったのだ。

 グウェンドリンが深い闇の過去を抱えていることを知ったフィリップは、彼女に替わってヴィラへと向かう。だがそこで見たのは、すでに息を引き取っていたル・コモドールの姿だった。警察が乗り込んできて、フィリップは辛くも脱出する。

 学生寮に戻ると、末妹のオデットの置き手紙があった。彼女は血痕のついた車の新聞記事を読み、そこに残された帽子が兄のものだと気づいて、心配になってやって来たのである。フィリップは妹の想いを知って胸を痛める。

  • 第二部

 ジェームズ・ソールズベリーは父親が亡くなったとの知らせを受け、英国の故郷へと戻る。一方、グウェンドリンはフィリップの学生寮から姿を消しており、ハリーに連れられてやはり英国へと渡っていた。

 フィリップはル・コモドール殺害の容疑でパリ司法警察局保安部のリュカ警視に同行を促され、オルフェーヴル河岸へと赴いていた。リュカは30歳前後で、刑事というよりはバスケットボールのチャンピオンのような風貌である。フィリップに対して親身になってくれたのは、リュカの上司で50歳前後のエネルギッシュな保安部長、ブロンヌ氏だ。近隣のレストランが出前でサラダバスケットを運んできてくれる。

 グウェンドリンの行方が気がかりなフィリップは、司法警察局と検事局を結ぶ廊下でいきなり走り出して逃げた。友人ドビエから金を借りて夜行船に乗り、英国へと渡る。

 ロンドン、ニューキャスル、ビガーを経て、ソールズベリー卿の住まいがある〈白い砂の城〉へ[註:エジンバラとグラスゴーの中間あたりだと思われる]

 ここで物語は唐突な方向へ進む。執事のオールド・ジョンが何者かに殺され、フィリップはジェームズから疑いの目を向けられてしまうのである。スコットランドヤードのハーバート・スミス警部も現地に到着し、フィリップを調べ始める。そんな折り、ハリーの署名で意外な手紙が届く。グウェンドリンがロンドンのフランクリン通りにいるというのだ。フィリップはスミス警部の目を盗んでロンドンに戻り、小さな家で彼女とついに再会する。

 フィリップはグウェンドリンの驚くべき告白を聞いた。彼女はソールズベリー卿の隠し子で、一方ジェームズはル・コモドールの息子だったのだ。恐ろしい過去の経緯によって、ソールズベリー卿は子どもを取り替えていたのである。卿の遺産は本来グウェンドリンのものだったのだ。

 そのことを記した極秘文書があり、殺された執事はその文書を息子のハリーに見せていたのだ。ハリーは自分がグウェンドリンと一緒になることで卿の遺産をわがものにしようと目論み、ル・コモドールを殺害してグウェンドリンを執拗に追っていたのである。彼は文書を隠し持っているはずだ。

  • 第三部

 ハリーの仲間がふたりのもとへ迫る。霧の濃いロンドンの朝。互いに愛を感じているふたりは逃走する。

 ソールズベリーのことは忘れよう、これからはふたりで生きよう。つかの間の自由な時間が訪れる。ふたりは恋人同士のようにロンドンで食事やショッピングを楽しみ、幸せを満喫し、喜びのキスを交わす。

 だがスミス警部が現れ、フィリップを殺人容疑でフランスへと連れて行った。これによってふたりはまた離ればなれになる。オルフェーヴル河岸の保安部で彼を待っていたのは、部長のブロンヌ氏と父親のエヴァリストだった。フィリップは執事の息子ハリーこそが事件の中心人物だと訴え、文書の存在についても話すが、父親はフィリップが女にたぶらかされて殺人に手を染めたのではないかと疑っていた。父はかねてから狭心症を患っており、心痛や激情は身体に障る。故郷の妹たちも心配している。フィリップはついに折れて、父に従って故郷のルーアンに戻る決意をした。

 だがロンドンで逃走を試みた際、敵の銃弾がフィリップの肩をかすめていた。その傷がもとでフィリップは重度の肺炎を患い、意識不明の重体となってしまう。ルーアンの自宅で懸命に看病するオデット。年を越してもフィリップの容態は回復しない。そんな折り、オデットのもとへジェームズが現れる。

  • 第四部

 その夜は嵐だった。オデットはジェームズと密かに会い、兄の恋人グウェンドリンが姿を消したこと、その身に危機が迫っていることを聞いた。ジェームズはこのことをフィリップに伝えてほしいという。最初は彼が苦手なオデットだったが、次第にその心を受けとめてゆく。

 フィリップは愛するグウェンドリンを助けたい気持ちが募り、ついに驚異的な回復を見せた。ジェームズはすべての事件の犯人がハリーであることを確信する。ハリーはすべての鍵を握る文書をどこかに隠したまま、相続人の資格を持つグウェンドリンを拉致しているに違いない。ジェームズはもはや自分に相続権がないことを知りながらも、友人であるフィリップの幸せを願い、事件解決に向けて協力しようとしていた。

 フィリップとオデット、ジェームズの3人はルーアンを発ち、パリのサン=ジャック通りの学生寮に行く。またしても向かいのホテルから英国人が見張っている。ハリーに違いない。フィリップは病み上がりながら気力を振り絞ってハリーの部屋へと果敢に乗り込む。逃げようとするハリーを、援護に駆けつけたジェームズが捕らえようとする。だがそのときジェームズはハリーの凶弾を受けてしまった。ハリーは逃げ場を失い降伏する。

 重態のジェームズを、ここでもオデットは懸命に看病する。ハリーは保安部に拘束されたが、グウェンドリンの居場所は供述しない。そればかりか「あと48時間以内、あさって水曜の午後8時か9時までに、娘は息を引き取るだろう」と嘯く。

 グウェンドリンはハリーの仲間の手によって〈白い砂の城〉付近のどこかに幽閉されているのかもしれない。リュカ警視が英国へと発つが、その飛行機は不慮の事故で現地到着が遅れる。焦燥に駆られるフィリップのもとへスコットランドヤードのスミス警部が現れ、グウェンドリンはいったん〈白い砂の城〉付近の病院へと保護されたがまた行方不明になってしまったことを告げる。

 だがカーテンを開けてフィリップが街路に見たものは、グウェンドリンの姿だった。ふたりはついに再会の抱擁を交わす。グウェンドリンは見知らぬ女性の財布を失敬するという切羽詰まった行動で、フランスにいるフィリップのもとへ戻ってきたのだった。

 ふたりの幸せな姿を見て、厳格な父エヴァリストも彼らの愛を認めた。学生寮のモルネ夫人が優しく「外を見なさい」と諭す。「夏のような陽射しよ」と。

 このときまだジェームズは癒えていない。だが彼を見守るオデットは、いつしか彼を愛し始めていた。

 事件は解決する。夏が終わり、いま故郷ルーアンでオデットが、列車に乗って戻ってきたフィリップとグウェンドリンを出迎える。

「ついに私のお姉様になったのね?」とオデットは喜ぶ。ふたりの結婚式はチュニジアだった。新婚旅行はカイロやエチオピア。太陽のあるところがいいと彼らは考えていた。霧深いロンドンで人生の選択をしたふたりにとって陽光は憧れであり、将来への希望そのものだった。

 オデットもすでにジェームズからプロポーズを受けていた。これからは4人で暮らそう。新しい家は大きな窓から陽射しがいっぱい入るところがいい。ソールズベリー卿の遺産はぼくら全員と、ぼくらの子どもで受け継ごうとフィリップがいう。オデットが問いかける。「それって、つまり……?」グウェンドリンは義妹となる彼女に打ち明けた。「そうよ、鈍いわね。フィリップと私は子どもを授かったの」父エヴァリストも若い彼らを祝福する。終わり。

 長い小説だった。『美の肉体』『軽業師カティア』とほぼ同じ厚さだが、読むのにかなり時間がかかった。惹きつけられる展開や描写が何もなかったからだ。

 登場人物はどれも表面的な造形で、作者シムノン自身の思いが投影されることもなく、行動はすべて行き当たりばったりで説得力がない。舞台にイングランド北部が登場するが、これもたぶんシムノンはテキトーに書いていて、真に迫る情景描写は何ひとつ出てこない。あらすじをお読みになれば、これが空っぽな物語だということは充分におわかりいただけるだろう。何かを書こうとする意欲さえ見られない小説だ。

 すでにシムノンは筆力がついていたはずだが、通俗メロドラマという叢書の枠組みを尊重するあまり、筆力と内容のミスマッチが生じて、結果的にとてもつまらない作品になってしまっている。このような不幸な事例を見ると、とても身につまされて心が痛む。作家が実力を発揮できないのは不幸なことだ。志も文学的達成度もはるかに低い『花嫁衣装』の方がよっぽど面白いと感じられるのだから、私たち人間の脳はなんと罪なものだろうか。

 しかし読んでよかったのは、シムノンという作家の本質をつかめたと思ったことだ。

 メグレ警視は〈運命の修繕人〉といわれる。なぜシムノンの小説は「運命の小説」なのか。

 なぜシムノンの小説は共感の物語といわれるのか。

 なぜ「30歳を過ぎたらシムノンだ!」などといわれるのか。

 なぜシムノン(それに多くのフランスミステリー)は、王道とは違うヘンな小説だと思われるのか。

 すべての答はひとつ。

 シムノンは「ミッドポイント」が書けない作家だった。これが作家シムノンの本質だと、現時点ではっきりといえる。

 これまでも「ミッドポイント」については指摘してきた(連載第17回第27回)。ミッドポイントとはハリウッド脚本家シド・フィールド( http://sydfield.com )が著書『素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック』のなかで初めて明示した、ストーリー構造上の重要な概念である。

 シド・フィールドの2作『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』『素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック』(いずれもフィルムアート社)はシナリオ構造の分析に画期的視点をもたらした名著で、すべてが彼の発見というわけではないが、後の映画界に大きな影響を与えたと思う。ディズニーアニメなど昨今のハリウッドメジャー映画の多くは彼の理論に沿って脚本がつくられているのではないか。

 たとえストーリー構造理論そのものに興味がなくても、海外ミステリーファンならぜひこの2冊は手に取ってみてほしい。著者がこの2冊で物語構造のお手本として詳細に分析しているのは、ジャック・ニコルソン主演の探偵映画『チャイナタウン』(1974)だからである。

 シド・フィールドの主張は明快だ。まずメジャー映画のような1話完結型の長編物語は、基本的に三幕構成をとる。もともとシド・フィールドはこれを直線的に図示したが、後のクリストファー・ボグラー&デイヴィッド・マッケナ『物語の法則』(アスキー・メディアワークス)の応用に拠れば物語の全体は円状ないし野球場のダイヤモンドのような環状構造として表現可能で、神話構造を分析したジョーゼフ・キャンベルの理論を敷衍すると、つまりそれは「行きて帰りし物語」だということになる。『指輪物語』を思い出してほしい。『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』はこの構造を忠実に再現している。

 主人公は故郷で不意の試練を受け、賢者に導かれて未知の世界へと旅立つ。ここがちょうど一塁を駆け抜ける辺り、ファースト・ターニングポイントだ。主人公は旅の仲間を得て大きな試練に立ち向かうが、いったんは失敗する。ここから這い上がり、最大の試練へ向かうと決意するのが三塁のセカンド・ターニングポイント。そして主人公はついに最大の試練を乗り越え、彼にとっての宝を手にする。彼は追っ手を払い、試練の場から離れて、勝利を収める。彼は故郷へと戻り、物語はハッピーエンドで終わる。故郷を出て故郷へ戻るのだから、物語は環状構造を描いている。これが物語の王道パターンだ。

 実はこれ、男性主人公のパターンであって、女性主人公の場合は別だというのが、後にキム・ハドソン『新しい主人公の作り方』(フィルムアート社)によって指摘されている。女性の場合は「主人公が勇気を出して殻を破り、本当の自分らしさを表現したら、自分も周りのみんなもハッピーになった」というのが王道だそうだ。なるほどと思う。ヒーローとヴァージン(輝く私、という意味)の違いである。だがここでは男性主人公の話に絞ろう。

 物語が三幕構成だというのは納得がいく。だがそうはいっても、多くのアマチュアやプロの脚本家(作家)はうまい物語が書けないのが実情だ。何か物語構造にはもっと重要な点があるのではないか。そこでシド・フィールドが2冊目でようやく発見したのが「ミッドポイント」という概念だった。

 これは一幕と三幕の間、野球のダイヤモンドでは二塁にあたる。それまで試練を受け続けてずっと守勢だった主人公が、攻勢に回る瞬間のことだ。物語の折り返し地点である。

 映画『チャイナタウン』でのミッドポイントはどこか。それは主人公の探偵が電力水道局長のオフィスに出向いたとき、その前室で重大な手掛かりをふと見つける瞬間だとシド・フィールドは看破している。事件の鍵を握る顔役の男が写っている写真だ。これは素晴らしい着眼点で、確かにここからジャック・ニコルソンは敵への追及を開始し、映画はどんどん面白くなってゆく。

 シド・フィールドの理論は広く受け容れられた。たぶん昨今のシナリオ教室では彼の理論がほとんどベースとなっているのではないか。彼の理論を意識した娯楽映画はたくさんつくられるようになったが、一方で映画を虚心で楽しんでいるはずの私たちも、いつしかシド・フィールドの理論こそが最良の物語構造だと信じるようになってしまった節がある。市場に溢れる物語の多くがシド・フィールド理論でつくられているため、ついうっかりするとそれ以外の構造を持つ物語を欠陥品だと感じるようになってしまった……ということはないだろうか。

 シムノンの小説は、シド・フィールド理論から外れている。ミッドポイントがないからだ。ないというより、そもそもシムノンはミッドポイントが書けなかったのである。これはもうどうしようもない、作家的な性分だった。

 だが、それは欠陥小説の証なのだろうか。そうではない。

 王道が書けないのは脚本家(作家)の努力不足なのだろうか。違う。

 シド・フィールド理論以外の物語構造であっても、ちゃんと面白いものができる。その重大な事実を示しているのがシムノン作品ではないだろうか。

 長編小説の物語構造というのは、たぶんJポップでいうと「王道進行」「カノン進行」のようなコード進行や、Aメロ・Bメロ・サビ・大サビといった楽曲構成に似たところがあって、人間の脳はそのようなパターンに生来的な心地よさを感じるようにできている。だがもちろん、これだけが音楽であるわけではない。

 何でもいい、シムノンの小説を1冊手に取って読んでみてほしい。そこにミッドポイントは存在しない、主人公が守勢から攻勢に転じる瞬間は見当たらないと、私はかなりの自信を持って予言できる。直感だが、たぶんシムノンの小説の9割はミッドポイントがない。

 これが王道の展開といかに違うか、わかりやすく説明しよう。映画『スター・ウォーズ』をシムノン流に再構築するとこうなる。主人公ルークは田舎町で平和に暮らしていたが、あるとき謎の敵の襲撃を受け、育ての親を失う。最初の試練である。王道展開ならここでルークは賢者オビ=ワンに導かれて宇宙へと旅立つ。だがシムノン展開だとルークはダイヤモンドの一塁さえ回らず、敵から逃れて必死に彷徨う。王道展開ならやがてルークは敵の親玉ダース・ベイダーと対決するのに、シムノンの主人公はどこまでも恋人と逃避行を続け、ついに敵の攻撃を受けて意識不明の重体に陥る。恋人が懸命に看病し、やがて意識を取り戻すと、いつの間にか敵の帝国軍は自滅している。ルークは恋人ともに故郷の田舎町に帰り、感傷的な気分に浸って終わる。

 メグレは映画『チャイナタウン』の主人公のような捜査をおこなわない。ずっと経過を観察するだけだ。ロマン・デュール作品も同じだと思う。主人公が攻勢に転じないということは、どこまでも運命に翻弄されていることを意味する。運命に抗おうとしても、それは成功しない。シムノンの小説が「運命の小説」といわれる所以である。

 最後に事件の当事者が故郷へ戻る際、彼の行動に共感してくれる人物が登場する。それまでの事情をチャラにする超法規的な処置をしてくれるのがメグレ警視であって、そのためメグレは〈運命の修繕人〉と呼ばれる。このキャッチフレーズは多くの読者を幻惑させてきたと思う。少なくとも第一期のメグレは運命を「修繕」しているのではなく、運命の行き着いた先にいる人物を、その恋人とともに最初のふりだしへと戻す役目を担っているのである。

 たぶんシムノンはペンネーム時代の終盤になると、自分がミッドポイントの書けない作家であることを自覚していた。だからいっとき、この欠点を克服しようと努力した。

 これまで私が読んだ限り、初めて主人公が攻勢に打って出る作品は、なんとメグレシリーズの第1作『怪盗レトン』である。

 物語の途中でメグレの腹心の部下であったトランス刑事が凶事に見舞われる。このショッキングな出来事によってメグレは激怒し、より積極的に捜査をおこなうようになる。部下の死というきっかけがミッドポイントとなって、メグレは攻勢へと転じるのだ。

「メグレは人がかわったみたいじゃないか?」(稲葉明雄訳、角川文庫p.197)という台詞さえ後半には登場するが、このようにメグレが攻勢に転じるのはシリーズのなかでも非常に珍しいケースだ。しかし物語の王道パターンを第1作に採用することで、ようやくシムノンはメジャーデビューし、作家としてワンランク上に行くことができた。そのためには痛ましい犠牲者が必要だった。

 実は第一期メグレで、メグレが攻勢に転じる作品が他にもある。それは『男の首』だ。ずっと医学生ラデックに翻弄され、怒りを燻らせて耐えていたメグレが、最後に攻勢に転じてラデックを一気に追い詰める。この爽快感は物語の王道パターンによって生み出されていて、日本では突出して人気の高い作品である。物語構造がハリウッド的でわかりやすいからではないか。

 第一期メグレの最終作『メグレ再出馬』もかろうじて攻勢に転じるパターンを採用しているが、あまり作品として成功していない。第一期メグレでシド・フィールド理論の王道進行に当て嵌まるのはこの3作だけかもしれない。

 もっとも、メグレが奇抜な手法で犯人を誘い出すというタイプの展開ならよくある。第一期だと『黄色い犬』『ゲー・ムーランの踊子』がそうだし、最近ローワン・アトキンソン主演でドラマ化された後年の『メグレ罠を張る』『メグレと殺人者たち』もそうだ。しかしこれらはすべて、物語の早いうちにメグレが罠を仕掛けている。ミッドポイントではなく、一塁ベースを回るあたりで、いわば起承転結の「承」の部分で放たれている。冒頭の謎からメグレの奇策までは展開がひと続きなのである。ここが王道進行とは決定的に違う。

 本当にシムノンが自分のスタイルを確立するのは『三文酒場』からだと思う。それまでの『サン・フォリアン寺院の首吊人』『メグレと深夜の十字路』『オランダの犯罪』など第一期前半の傑作は、どれも物語の王道進行とシムノン進行の狭間で揺れることで生み出される異様な緊張感が、その傑作たる所以となっている。そしてシムノンがこのシムノン進行を自家薬籠中のものにしてゆく過程に、第一期後半の秀作『霧の港のメグレ』『第1号水門』がある。

 シムノンのよき読者であった作家・都筑道夫の『都筑道夫のミステリイ指南』(講談社文庫)の指摘がとても参考になる。重要なので引用したい。

 私の尊敬するジョルジュ・シムノン(Georges Simenon)は、小説を書くときに、まず何人かの人物につける名前を拾い出して、その人物の年齢とか性別、大雑把な境遇──(中略)そういうようなことを決めまして、その中の中心人物を、非常に極限的な状況に立たせる、つまり、苦境に立たせるとひとつの小説が動き始める、そういう書き方をしているそうです。

 (中略)おそらくは、シチュエーションとキャラクターとは、シムノンの頭の中では同時にできあがるのだろうと思います。(中略)できあがると、あとは自然に小説が動いていくといっているわけです。

 (中略)ともかくシチュエーションとキャラクターが決まれば、小説はできあがるわけです。あとはただ、書くという問題が残っておりまして、この書くということがむずかしいわけでもありますけれども、そのキャラクターとシチュエーションができあがれば、小説は、まず三分の二はできあがったといってもいいと思います。(後略)

 これはシムノンの作法の本質を鋭く衝いていて、換言するとつまり、シムノンは冒頭だけを考えて、あとは運命に任せて書いているということになる。途中から主人公が運命に抗って闘いを挑んでそれが功を奏する、という守勢から攻勢に転じる展開をそもそも計算していない。3分の2は書ける、と都筑氏が看破しているように、ハリウッド作法のミッドポイント直前まではこれで書けるわけだ。

 脚本をつくるなら、この3分の2を過ぎたところからが本当は難しい。しかしシムノンはシチュエーションとキャラクターで最後まで押し切る。主人公は最後まで運命に翻弄されて終わる。ハリウッド脚本メソッドでいえば、これはダメなストーリー構造だ。ヘンな物語だ。それでも、シムノンの小説は味わい深い。

「ハリウッド脚本術のように書かなくても物語というのは成立するのだ」と世界的に証明したのが、作家シムノンの最大の功績ではないか。

 物語の構造は多様なのだという当たり前の事実を、シムノンは示したのだ。

 現代の私たちは、ともするとその当たり前の事実を忘れてしまいがちだ。つい気を許すと、「王道進行」「カノン進行」でなければポップスではない、欠陥商品である、わかりやすくする制作者側の努力が足りない、と感じてしまう。

 物語というのはそんな狭いものではない、といっているのがフランスの小説なのだろう。フランスの小説は風変わりだとよくいわれる(たとえば高野優氏による翻訳ミステリー大賞シンジケート連載「フレンチミステリー便り」第2回「フレンチミステリーの魅力ってなあに?」)。だがハリウッド流の構造以外でも、物語は成立するのだ。

 それが「シムノンは大人の小説」「30歳を過ぎたらシムノンだ!」といわれる所以ではないか。私たちは精神的に若いとき、王道のコード進行・楽曲構成から心地よさの基本を習得する。だが年齢を重ねるとそれ以外の物語構造も味わえるようになってくる。シムノンを読めるかどうかは、より幅広いポップミュージックを楽しめるようになるかどうか、ということに近いのではないか。

 欧米だと日本のポップスの「王道進行」はむしろ少数派の部類だそうだし、洋楽はAメロ・Bメロ・サビ・大サビの構成を採らないヒット作も多いようだから、お国柄や文化によって、何を心地よいと思うかは違うのだろう。

 シムノン作品は日本で受け容れられやすい王道進行のパターンではない。だが、だからといって文学的達成度が低いわけでは決してない。

 改めて『悪魔との婚約者』を見てみよう。ふだんの三部構成と違って、第四部まであることに注目したい。従来のペンネーム作品なら、主人公のフィリップが全体の三分の二を過ぎたところで意識不明の重体に陥り、妹のオデットが看病にあたって、フィリップが回復したとき事件は自滅的に解決している。

 だが本作では主役級が二人いる。フィリップは恋人の危機を知ると、彼女を助けたい一心から気力で立ち直る。ここを読んで、おおっと思った。この先のストーリーがあるのだ! しかも敵のハリーはあと48時間でグウェンドリンが死ぬだろうと予告する。シド・フィールド理論に則るなら、主人公であるフィリップはとうぜん攻勢に打って出て、英国へ舞い戻って恋人を救出しなければならない。それがセオリーである。

 だが起承転結の「転」が書けないシムノンは本作でどう処理したか。なんともうひとりの主役級であるジェームズを意識不明の重体にするのだ! 重体の二本立てだ! フィリップは攻勢に打って出てパリへと向かう。なるほど敵のハリーには一矢報いた。だがその後フィリップはやきもきするだけで英国に渡ることもない! いつの間にか英国でグウェンドリンは救出されている。もう一度、彼女が失踪する。今度こそフィリップは自らの手で彼女を探すだろうか。そうはならない。彼女の方からフランスにやって来てくれる! せっかく攻勢に打って出る展開が準備されたのに、主人公はその見せ場を充分に活用できていない。結果的に、物語はまったく盛り上がらない。

 これはもうシムノンの性分としかいいようがない。どうしても「転」が書けない作家というのは存在する。

 そういう作家は、無理にハリウッド脚本術を踏襲する必要はないのだ。シド・フィールド理論は金科玉条のものではなく、この世にあり得る多様な物語構造のひとつに過ぎない。私は最近、ちょっとフライングして本名名義後期の作品『判事への手紙』(1947)(コメリオ判事の名が登場する)を読んだが、やはり見事なまでにミッドポイントがない。だが面白い作品に仕上がっている。「王道進行」ならぬ「シムノン進行」が確立し、それもまた読者に快楽をもたらす装置として機能したからである。

 起承転結の「転」が書けないなら、冒頭の謎で最後まで引っ張ればいい。そこに充分な筆力があって、しかもエンディングにひねりがあって感傷効果がもたらされるなら、それで読者は深い満足感を得ることができる。第一期メグレはそうしたスタイルの確立の場だった。

 そして私はまだ多くを読んでいないが、後年のシムノンは、そうした「わかりやすい」安直なエンディングさえ書かなくなってゆくように思える。より小説として成熟してゆくのだ。ここは私にとってもとくに関心を持って読み解きたいところである。

「シムノンって、どこが面白いの?」

 少なくとも日本で、この問いにいままでちゃんと答えられた人はいなかったと思う。多くの人は「雰囲気」だとか、「共感性」だといった曖昧な言葉でお茶を濁すほかなかった。確かにそれらの回答はシムノンの魅力の一部である。だがずばりと面白さの核心を衝くことはできずにいた。

 一部の人はこれまでシムノンの魅力として「スタイル」を挙げていた。これは慧眼であったと思う。シムノンから影響を受けたといわれ日本ミステリーの確立に貢献した作家・角田喜久雄も、そのスタイルをシムノンの好きな理由に挙げていた。スタイルとはいい換えるとつまりシムノン独特の物語構造であり、それを支える文体であったはずだ。

 いまの私なら「シムノンは“物語”というものが本来とても豊かなものであることを世界的に証明した作家なのだ」といいたい。「シムノンを読むと“物語”というものに対する自分の視野が拡がってゆく。呼吸するようにシムノンを読んでゆくと、これまでよりもっともっとたくさんのタイプの物語を楽しめるようになる。それができるようになったとき、あなたは王道の娯楽映画も小難しげなフランス映画も好きになっているはずだ。大衆文学も純文学も楽しめるようになっているだろう。大長編も、短編も、きっと日本の池波正太郎も分け隔てなく読めるだろう。シムノンを読むとは、物語の豊かさのとば口に立つことだ」と。

 それは、大人になる、ということなのだ。

 この見立ては間違っているかもしれない。まだ私は初期のシムノンさえ読み切っていないのだ。もし今後、間違っていたとわかったら、その時点で素直に考えを改めたい。シムノンは無心に、呼吸するように読んでゆくのがいちばんいい。

 シムノンの書誌に詳しいミシェル・ルモアヌ氏は著書『シムノン黎明期の輝き』で、『Le rêve qui meurt[夢は死んだ](F. Rouff, 1931)というジャン・デュ・ペリー名義の小冊子ロマンス中編を、シムノン最後のペンネーム作品に位置づけている。出版契約は1931/3/20だから、本名のメグレシリーズの刊行が始まってちょうど1ヵ月が経っている。この後もペンネーム名義の刊行は続くが、それらはどれも以前のストック原稿だという位置づけなのだろう。

「夢は死んだ」……。シムノンがペンネーム時代に2冊しか出していないF. Rouffという出版社の冊子で、あまりにも稀覯本なので私は入手できていない。だから内容の詳細は不明だが、ルモアヌ氏はこの題名を著書の最後に感傷的に引用し、この言葉を残してシムノンは若きペンネーム時代から本名の時代へと移ったのだと捉えている。

 本連載も、シムノンのロマン・デュール作品に辿り着くのは、あと少しだ。

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。

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