パーティなどで「ミステリをどこから書きはじめたらよいか分からない」とこぼす人がいるらしい。作家のH.R.F.キーティングは、こうした問いに、執筆を粥(ポリッジ)づくりに例え、アイデアというオート麦を、想像力という火で煮て、それと相反する理性というスプーンで外部から合理的思考を加えるようにかきまぜる、という言い方をしている(『ミステリの書き方』[早川書房])。

 「どこから書きはじめたらよいか」と問う人には、 E・C・R・ロラック『殺しのディナーにご招待』の発端は、とてもいい教材になるかもしれない。

 創元推理文庫のマクドナルド警部物第三弾『曲がり角の死体』で、秀作と銘打ってもいいロラック作品に当たったと思ったのだが、この作品で新訳は当面打止めのようだ。しからば、というわけでもないだろうが、論創海外ミステリで繰り出してきたのが、本書『殺しのディナーにご招待』(1948) 。

 とにかく発端がいい。

 ロンドンのソーホーにある人気レストラン「ル・ジャルダン・デ・ゾリーヴ」。その地下食堂で開催される「マルコ・ポーロ」クラブという文筆家のディナー・パーティに、新規会員として八人の文筆家が招待される。超一流の文筆家しか入会が許されない格式の高いクラブゆえ、招待された面々は胸を弾ませてパーティに集まるが、何か様子がおかしい。主宰者や正式会員が一向に現れないし、業界の問題児トローネも招待されているらしい。やがて、招待者たちはトローネのペテンにかつがれたらしいと結論を出し、料理を堪能してお開きになるが、その一時間後、地下食堂の配膳台の下から当のトローネの死体が発見される……。

 日本で最初にロラックが邦訳された『ウィーンの殺人』(1956/翻訳は1957) の解説で、植草甚一が本書の冒頭を紹介した上で、「発端の面白いもの」と評している(会長が死んでいた、と多少誤った紹介になっているが) 。

 本書の設定は、英国ミステリによくある特徴的な小集団内の事件なのだが、ただの文筆家ではなく、旅行家であって文筆家というかなり特殊な集団という設定も風変りだ。だから、本や出版が終始話題になるなど、一風変わったビブリオミステリの趣もある。

 珍しく、発端について長く触れたのは、いくつかのロラック作にみられるように、本書の最高潮の部分は、どうやら奇抜な発端にあったらしいからだ。

 招待者たちが探偵行為を行ったり、関係者が交通事故にあったりと物語は動いていき、マクドナルド警部の例によって地道な捜査は続くものの、登場人物の一人が200頁を過ぎて「何もかも曖昧模糊」と発言しているというとおり、トローネを殺す機会があったのは誰なのか、招待者は誰なのかといった核心に迫る部分はなかなか明らかにならない。

 結末に至れば、それなりに意外な犯人は設定されているし、アリバイトリックもあり、動機も毛色の変わったもの。それでも、モヤモヤしてしまうのは、犯人特定の決め手が薄いこともあるが、結末までに確定した事実が少なすぎて、マクドナルド警部の絵解きを聴いても、考えられうる解の一つとしか思えないところにある。謎解きに説得力をもたすためには、解決に至る過程で主要な事実のピン止めが必要だ。加えて、冒頭の奇抜な設定は何のためかという点に関して、いちおう説明があるものの、にわかには納得しがたいのも減点要素。

 冒頭のキーティングのことばを借りれば、本書に関しては、発端の奇抜さという部分への想像力が勝ちすぎた、といえるのではないか。

 白水社uブックス、サキのオリジナル完訳短編集の第三弾。既刊の『クローヴィス物語』は第三短編集、『けだものと超けだもの』は第四短編集で、本書『平和の玩具』は作者没後に編纂された第五短編集に当たる。全33編収録。最近では、『四角い卵』(風濤社) で、この『平和の玩具』から5編が紹介されていのも記憶に新しいところ。

 G・K・チェスタトンの序文、編集者によるサキ追想、訳者による貴重な書簡等の紹介「親族たちが述べたサキ」(収録の資料の全文発表は商業出版では英語を含めて世界で初めてという) に加えて、エドワード・ゴーリーの挿絵を収録した充実版。

 『クローヴィス物語』『けだものと超けだもの』の統一された意匠こそないものの、奇想や機知、シニカルなユーモア、怜悧な人間観察などサキの特徴として挙げられる要素が本書収録の短編にもたっぷり盛り込まれている。とはいえ、作品から受ける印象には、思いのほか幅があり、例えば笑いの要素をとっても、チクリとした蜂のひと刺し的なものから「バターつきパンを探せ」「謝罪詣で(カノツサ)」「ヒヤシンス」といったスラプスティックに近い作品もある。

 サキの皮肉や揶揄の対象は、社交をはじめとする中・上流階級の価値観を維持するために体面をとりつくろう人々に多く向かうが(「はりねずみ」「七つのクリーマー」等)、そのいじましいまでの必死さが、読者の思い当たるところでもあり、普遍的なおかしみにもつながっている。アイデア勝負、オチの意外性が最大の眼目というわけではないから、ときに奇想を交えた話の運びや会話の妙を何度も味わえる。

 私的に三つを挙げるなら、異色の誘拐ミステリとしても読める「クリスピーナ・アムバーリーの失踪」、誤った虎猫殺しの顛末を描いた“恐るべき子供たち”物「贖罪」、ショーウィンドウに飾られた高慢な人形に子どもたちか妄想を膨らませていく「モールヴェラ」になろうか。

 作品の特徴から、その作家像については、狷介とか冷笑家のイメージが湧いてしまうが、本書の序文や親族の手紙からはまったく異なる像が浮かんでくる。

 「四十になっても、オックスフォード・サーカスの新年を祝う街頭で見ず知らずの人と手をつないで輪になって踊る」人(「へクター・ヒュー・マンロー追想」)であり、「実人生では明朗快活で優しく、とても我慢強い人」(従弟の手紙) であったという。一次大戦が勃発すると、四十代半ばにもかかわらず、一兵卒として志願し、過酷な歩兵隊に従軍、戦死した。サキは同性愛者であったという説が英文壇には根強いが、訳者によると、これといった確証や相手の名すら伝わっておらず、親族は手紙の中でこれを強く否定している。

 サキは、保守主義者で愛国者でありながら、上流中流の価値観には皮肉と揶揄の手を緩めなかった。そのアンビバレンツがゆえに作品には品格と毒が同居しており、今後も特異な輝きを放っていくことだろう。

 本書によれば、ミステリと観光は、同い年だそうである。1841年、ポー「モルグ街の殺人」をもってミステリが始まったのと同じ年、英国のトマス・クックが禁酒運動大会開催の団体ツアーを組み、これが近代観光業(ツーリズム)の端緒になったという。クリスティー作品に観光の要素が多く含まれることは周知の事実であり、本書は、観光の観点からクリスティーの作品を分析し、20世紀大英帝国の変容を明らかにする面白い切り口の論考だ。著者は、作家で都市計画史・観光史家の専門家。

 確かに、作品史をたどれば、『青列車の秘密』『オリエント急行の殺人』は、旅行と切っても切れないものだし、自身の失踪事件後、『ナイルに死す』などに反映される中東への旅は、第二の伴侶の考古学者マローワンを得るなど、作者の転機にもなっている。

 しかし、戦後は? 著者の分析によれば、戦中の『書斎の死体』『動く指』あたりから、作品の舞台は田園ミステリに比重が移ってくる。当時、英国政府が行っていた国土計画にもこの田園重視の姿勢が反映されているというから面白い。50年代から60年代に書かれたミス・マープルシリーズ七編のうち、マープルの暮らすセント・メアリー・ミードを舞台にしているのは一作のみというのは意外な感じがするが、著者の指摘によれば、英国のユートピアであった田園も、『予告殺人』(1950)にみられるように、「よそ者が跳梁跋扈する失楽園」へと変容していく。ミス・マープルの晩年の旅は過去への旅になる、という指摘も大いにうなずけるだろう。

 クリスティーをダシにして観光や大英帝国の変容を語るというのではなく、クリスティーの作品史・生涯に即して語るという筋を通しているので、クリスティーの作品に親しんでいても彼女の生涯に不案内な読者は、作品と人生の意外なほどの結びつきについても概観できる。ミステリも時代の産物である以上、同じ時代を呼吸しているものであり、二次大戦を挟んで50年以上書き継がれたクリスティー作品は、今後とも同時代史の恰好の素材を提供していくことになるのだろう。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)

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 ミステリ読者。北海道在住。

 ツイッターアカウントは @stranglenarita

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