Signé Picpus, Gallimard, 1944/1/5[原題:署名ピクピュス]長編・中短編合本、メグレシリーズ長編3編[1-3]、ノンシリーズ中短編5編[4-8]収録
Tout Simenon T24, 2003 Tout Maigret T3, 2007 Les Essentiels de Maigret, 2011
 ▼収録作
 1. Signé Picpus 初出タイトルSigné Picpus, ou la grande colère de Maigret, « Paris-Soir » 1941/12/18-1942/1/21号(1941末 執筆) 『メグレと謎のピクピュス』長島良三訳、《EQ》1983/7(No.34, 6巻4号)pp.207-277*
 2. L’inspecteur Cadavre 初出『Signé Picpus』1944(1943/5/3執筆) 『メグレと死体刑事』長島良三訳、読売新聞社、1986
 3. Félicie est là 初出『Signé Picpus』1944(1942/5執筆) 「メグレと奇妙な女中の謎」長島良三訳、《EQ》1986/5(No.51, 9巻3号)pp.213-280*[フェリシーはそこに]
>Nouvelles exotiques [異郷短編集]〔その他〕
 4. L’escale de Buenaventura, 1938[ブエナヴェントゥラ寄港]『メグレとしっぽのない小豚』(1950)所収の同題「寄港地・ビュエナヴァンチュラ」とは別の作品。
 5. Un crime au Gabon, 1938[ガボン川の犯罪]
 6. Le policier d’Istanbul, 1939 「百万長者と老刑事」中野榮訳、《ロマンス》1946/12(1巻7号)pp.32-39(抄訳)[イスタンブールの警官]
 7. L’enquête de Mademoiselle Doche, 1939 「宝石と令嬢」中野榮訳、《ロマンス》1946/11(1巻6号)pp.36-42(抄訳)[ドシュ嬢の事件簿]
 8. La ligne du désert, 1939 「情熱の空路」中野榮訳、《ロマンス》1946/9-10(1巻4号-5号)pp.20-26, 36-42*[砂漠の地平線]
 雑誌《ロマンス》(ロマンス社)は国立国会図書館プランゲ文庫にあり(資料番号VH1 R425)

・TVドラマ 同名 ジャン・リシャール主演、ミシェル・ドラックMichel Drach監督、1968(第5話)
・TVドラマ『メグレと死体刑事(Maigret et l’inspecteur Cadavre)』ブリュノ・クレメール主演、ピエール・ジョアサンPierre Jossain監督、1998(第28話)

 前回の『メグレと奇妙な女中の謎』第69回)と本作『メグレと死体刑事』は、新聞先行連載作品ではなく、結果的に合本『署名ピクピュス』(1944)への書き下ろしとして世に出た長編である。戦争が進み、シムノンが取引をしていたガリマール社も資源不足でなかなか本が出せず、シムノンはいつも通り次々と作品を書いていたが出版や紙誌掲載の目処が立たなかった。これでは収入減は明らかだ。そこで戦時中、シムノンは自作の映画化を積極的に模索し、その原作権収入で食い繋ごうとしていた。
 さて、本作『メグレと死体刑事』は、メグレ第二期長編6作のなかで唯一邦訳が書籍刊行されたことのある作品だ。読売新聞社の《フランス長編ミステリー傑作集》の1冊として出た。長島良三氏は「訳者あとがき」で本作を「メグレ物の五指にはいる傑作だろう」と賞賛している。ということは、おそらく長島氏は第二期の長編6作を読んだ上で、本作がいちばんだと判断し《傑作集》に選出したのだろう。
 確かに、読んで多くのことを考えさせられる非常に奥深い作品だと感じた。私はまだメグレ第三期作品を数冊しか読んでいないが、戦時中の第二期ラストの本作は、もしかすると戦後の第三期へとつながる重要な転換の1作なのかもしれない。

 1月。もう1週間以上も雨が降り続いている。メグレは小柄な予審判事から呼び出しを受けた。個人的な頼みなのだが、と予審判事は打ち明けつつ、ヴァンデ県のサン゠オーバン゠レ゠マレSaint-Aubin-les-Maraisに暮らす義弟のエチエンヌ・ノオを助けてやってほしいと依頼される。義弟の屋敷のすぐそばにニオールNiortとフォントネー゠ル゠コントFontenay-le-Comte間を走る鉄道路線があるのだが、3週間ほど前、その路線上で良家の若者アルベール・ルテローの轢死体が見つかった。最初は事故死だとされていたが、エチエンヌ・ノオが殺したとの噂が村に流れ始め、義弟が困っているので、現地に赴いて噂の出所や真相を見つけてほしいというのである。
 メグレが汽車に乗って単身サン゠オーバンへ向かうとき、車中で思いがけない人物の姿を見かけた。かつての同僚ジュスタン・カーヴル、当時《死体(カダーヴル)》刑事と渾名されていた男だ。頭のよい男で、うまくいけばメグレより先に警視に昇進しただろうが、金銭問題の不正が発覚して司法警察局を追われたのである。その後、私立探偵事務所を開いたと聞いている。その《死体》元刑事が、メグレと同じサン゠オーバン駅で降りたのだ。いったい何をしに来たのだろう? 
 エチエンヌ・ノオの迎えを受けて、メグレは彼の屋敷へ赴く。町は予審判事がいっていたほど片田舎ではないようだ。確かにエチエンヌの家は少し外れた鄙びた場所に建つが、駅近くには《金のライオン》、その向かいには《三匹の騾馬》と、1階がバーになっている宿屋もある。エチエンヌの家には妻ルイーズ、20歳になる娘ジュヌヴィエーヴ、そして女中の他に、来客者のアルバン・グルー゠コテルという男もいた。家族ぐるみの友人だという。

「はじめまして、警視さん。私はあなたの大ファンの一人です……」
 メグレのほうはこう答えたいところだった。
「私のほうはあんたのファンになれそうもないですな」
というのは、メグレはグルー゠コテルのようなタイプの人間を蛇蝎のごとく嫌ったからだ。(長島良三訳)

 第一章半ばで早くもこんなやりとりが出てきて、思わずにやりとしてしまう。と同時に感心もした。本作の舞台設定を確認しておこう。サン゠オーバン゠レ゠マレという町名は現在の地図にないが、ヴァンデ県内で、しかもニオールとフォントネー゠ル゠コントの間に位置する(両者間の距離は30キロメートルもない)。フォントネー゠ル゠コントとは戦時中にシムノン一家が疎開していた場所であるから(第68回参照)、つまりこの舞台は当時のシムノンが暮らしていた、戦争の影響もほとんどない長閑な田舎町にほとんど等しいと考えることができる。実際、ここに描かれている路線も、当時シムノンは日常的に使っていただろう。パリへ行くにはメグレの旅程と逆の道、つまりニオールに出て汽車を乗り換えることになるからだ。
 ということは、本作執筆時、シムノンはこうした片田舎に自ら入り込み、周囲の人々とも馴染んで暮らしていたことになる。この感覚が本作には反映されている。戦争前のメグレ第一期作品群では、メグレはパリ司法警察局を離れて田舎や他国へ赴くことも多かったが、そうした土地でつねに彼は異邦人の感覚に囚われていた。土地の因習を外側から見つめる人間として描かれていた。ところが本作のメグレは、その後物語が進んでゆくとわかるように、いつしかサン゠オーバンの土地の人々に囚われてしまう。警視であることを隠して《金のライオン》や《三匹の騾馬》のバーでそれとなく人々に事件の状況を聞き、関係者の家々を巡ってゆくうちに、いつしか自分がサン゠オーバンの人々の輪に取り込まれ、いわば仲間になってしまっていたことに途中で気づくのである。サン゠オーバンの人々は調査にやって来たメグレを自分たちの因習に取り込むことで、事が荒立つことのないよう、ほとんど無意識のうちに村ぐるみで働きかけていたのである。
 途中でメグレはこのことに気づき、はっと自分を取り戻すわけだが、つい無意識のうちに田舎の社会に染まっていたというこの感覚は、これまでのメグレ第一期作品には見られなかったものだ。よって当時のシムノン自身の感覚が投映されているに違いない。村人たちに悪気はない。事件を覆い隠そうという気持ちさえないだろう。しかし結果的に全体として同調の雰囲気が生まれてしまっている。よそ者であったはずのメグレもいつしかその空気に取り込まれている。この部分こそが本作最大の読みどころだと私は思う。訳者の長島良三氏はたぶん最後まで気づかず、巻末の訳者あとがきでもメグレものにはパリで事件を解決するものとメグレが田舎に出て行くものがあって、本作は後者に属するといったことを書いているが、実は本作はそうした区分に収まらない、当時のシムノン自身の置かれた環境が如実に反映された、いわば「ホームグラウンド」での物語だと捉えることができる。シムノンはしばしば自分が住んでいた場所を舞台に小説を書いたが、本作もまたその系列のひとつなのである。
 だから本作では、舞台は作者の「ホームグラウンド」だが、メグレにとっては初めて足を踏み入れる土地、という奥深い構造が生まれている。そのためメグレは物語の半ばまで知らず知らずのうちに舞台に呑み込まれてしまう。だが途中ではっと気づき、世界を俯瞰できるようになる。ここが重要なポイントだ。メグレは部外者だが異邦人に終始しない。この絶妙の距離感が、第一期作品とは異なる渋味を生み出している。シンパシーとエンパシーの見事な調和である。
 こうした全体像がわかった上で、改めて先のやりとりを見てみよう。アルバン・グルー゠コテルなる人物は、本当は妻も子供もいる中年だが、妻子とは疎遠になり、田舎にひとり移り住み、まるで独身貴族のような気取った暮らしをしている40絡みの男だ。そんな男が気安く、しかし尊大な調子で、メグレに「あなたの大ファンの一人です」と声をかけてくる。きっと疎開していたシムノンのところにも、「あなたの大ファンの一人です」などと薄笑いを浮かべながら握手を求める田舎貴族が、何度もやって来たことだろう。その様子が容易に想像できるから、この場面は面白いのだ。そしてシムノンはおそらく、表面上はそうした彼らに笑顔を返し、握手に応じ、ときにはサイン本さえ贈ったことだろう。だがシムノンの本心はこうだ。「私のほうはあんたのファンになれそうもないですな」──シムノンはそうした者たちを蛇蝎のごとく嫌っている。
 メグレはよく激怒する。多くのミステリーファンも、メグレといえばどっしりとした大柄な身体を震わせて怒りを発するさまを、まずは思い出されることだろう。だが、ここへ来てメグレの怒り方が第一期から変貌していることが読み取れる。第一期のメグレは、自分が知るべき相手と共感できないとき、そのもどかしさで怒っていた。それは作者シムノン自身の焦燥でもあり、物語が巧く進まないときシムノンは不機嫌になり、それを反映してメグレも怒っていたのである。逆にいえば、メグレが相手の心と一体化したとき、事件は自然と解決している。そのときメグレの心も穏やかになり、読んでいる私たち自身の心も安らいでゆく。
 だが第二期のメグレは、相手が本当の自分らしさを覆い隠しておのれの身の丈とは異なる人間の素振りを見せているとき、その愚かさに我慢ができずに怒るのだ。なぜ人は自分そのままの「裸の人間」として生きられないのか。おのれを偽る人間を前にしたときメグレは怒る。おのれが偽っていることにさえ気づかない愚かな人間を前にすると、その愚かさに怒りを発する。作者シムノンの成長、世界旅行の体験を通して育んできた彼の人間観が、そのまま反映されている。メグレは、そしてシムノンは、相手が気位の高いブルジョワだから嫌うのではない。たとえ相手が平民であったとしても、その者が自分を偽る人間ならば、容赦なく怒り、蛇蝎のごとく嫌うのである。

 さて物語では、第一章の段階で早くも意外な告白がメグレにもたらされる。メグレはノオ家に滞在することになるのだが、その夜半、屋敷の2階に引き籠もる娘のジュヌヴィエーヴがそっとメグレだけに伝えてきたのだ。曰く、実は自分は死んだ青年アルベールの子を身籠もっている、このことが父に知れたら自分は自殺してしまう……と。
 翌日からメグレは村を回って聞き込みを始めるが、どうもあの《死体》元刑事カーヴルがつねに先回りして村人を説き伏せ、メグレの調査を妨害しているらしい。カーヴルはいったい誰に、何のために雇われてこの村に来たのか? アルベール青年が死体となって発見されたとき、デジレという老人が線路脇に落ちていた帽子を見つけて持ち帰り、アルベールの友人ルイがそれを受け取ったとメグレは知るが、ルイ青年の家を訪ねて帽子のことを尋ねると、青年は快く協力してくれたものの、肝心の帽子が紛失していることを見出す。帽子を拾ったデジレ老人のもとへ取って返して問い質したが、答は要領を得ない。さらに亡くなった青年アルベールの母親は、どこからか大金を得たらしいこともわかってくる。何かの口封じのため犯人が手渡したのではないだろうか。
 メグレは町全体への疑念を深めてゆくことになる。もはや予審判事の義弟であるエチエンヌ・ノオさえ信頼できない。娘との密かな情事を知った父親である彼が、激情に駆られてアルベール青年を殺したかもしれないからだ。そして《死体》元刑事の役割はいったい何だろう? メグレは非公式の調査を続け、アルバン・グルー゠コテルの家に赴いたとき、ついにそこで《死体》元刑事、カーヴルと対面する。
 このように、途中からルイという純朴な青年が登場し、彼が辺鄙な田舎のなかで唯一メグレが気を許せる相談役となってゆく。ルイだけは生前にアルベールがジュヌヴィエーヴに想いを寄せていたことを知っており、またアルベールが決して酔って轢かれて死ぬような若者ではないことを知っている。サン゠オーバンで彼だけが正味の人間、裸の人間なのである。後で述べるがブリュノ・クレメール版のTVドラマでは彼にいっそうの焦点を当て、彼の葛藤をうまく描き出すことに成功している。ある意味で本作は最初から犯人が誰なのか丸わかりの構造なのだが、このルイという青年の存在によって、作者シムノンの筆も豊かに遊び、作品も味わい深いものになっている。
 作者シムノンは物語の前半でもっと《死体》元刑事カーヴルの影をちらつかせてもよかっただろう。後述するドラマ版では実際そのように演出がなされているが、原作であるシムノンの小説そのものではこちらが期待するほど《死体》刑事の暗躍ぶりは描出されない。青年ルイも、ここまで重要な立ち位置を用意したのなら、ラストでもう一度姿を見せてほしかったと惜しまれる。このように本作は小説単体で見るといささか奥ゆかしすぎる。書くべきところが充分に書かれていない口惜しさがある。だがその反面、個々の文章に目を凝らすと、第一期の時代には書き得なかったであろう作者シムノンの成熟ぶりがわかる。たとえばこんなメグレの描写は、いままでシリーズを追ってきた愛読者にとっては胸躍るものではないだろうか。

 実のところ、メグレはいま心ここにあらずといった状態なのだ。話し相手の若者に、いったい何を訊かれているのか正確にわかりもせずに、口先だけで答えている。
 こんな状態のメグレについて、司法警察局ではたびたび冗談が交わされている。メグレは自分の背中でささやかれている、そういう陰口をよく承知している。
 肩幅が広がっていっそう重々しくなり、等身大以上に膨らんでみえるメグレ。まるで感覚が無くなり、盲目か啞のようなので、何も知らない通行人や初対面の人はメグレのことをデブの薄馬鹿か、のらくら者と見違えてしまうだろう。
「要するに」と、心理学に通じているのを鼻にかけているある男がメグレに言ったことがある。「あなたはいろいろと思いを凝らしているんだね?」
 それにたいしてメグレは恐ろしくきまじめな顔をして答えた。
「私は考えたことなんかない」
 それはほぼ事実だろう。そんなわけで、いま、湿った冷たい通りに佇んでいるメグレは、考え込んだりしていない。いかなる考えも追っていない。まるでスポンジのような状態だと言っていいかもしれない。
 この「スポンジ」という言葉を言い出したのはリュカ部長刑事で、メグレとはしょっちゅう一緒に仕事をしているので、だれよりもメグレのことに精通している。

 これを読むと、私は作者シムノンが何と巧みに自分のキャラクターを描いているのだろうと思うのではなく、何と巧みにメグレを観察し、的確に描出しているのだろうと感嘆する。あたかもメグレが実在の人物で、作者シムノンが外側からそのメグレを観察し、他の誰よりも見事にその人物像を描いていると感じて驚き、喜ぶのである。「そうそう、その通り。いい得て妙とはまさにこのこと!」という感想が真っ先に浮かぶ。よく考えればこれはすごいことではないか。ついに作者シムノンがメグレを捕らえた、と目を瞠る瞬間である。
 この後、本作はとくにあっと驚くような展開を迎えるわけではない。いってみれば、おおむね予想の範疇内に物語は収まる。だがその代わりに、引用したいと思える文章がいくつも出てくる。各人物の本質をずばりと衝く一文、いくらかの人生経験を経て初めて生まれ得る味わい深い一文、そしてごく何気ない情景だがシムノン以外の誰にも書けない懐かしさを湛えた一文。つまり本作は、狭義のミステリーとしては第二期のなかでいくらか総合評価が落ちるかもしれない。だが実にしみじみと心に迫る。
 たとえばメグレは青年ルイを最後にこう評価する。ある程度の年齢にならなければ書けない文章だ。

《おれにはわからんよ、ほんとに、坊や》と、メグレは思案している。《数年後には、おまえはノオやグルー゠コテルに腰を低くかがめて挨拶するようになる。フィロウ家の息子である限り、長いものには巻かれたほうがいいことを悟るからだ……(後略)》

 またメグレはある人物を最終的にこう評価する。後にシムノンは「誰も哀れな男を殺しはしない」(1946執筆)というメグレものの中編を書くが、そのタイトルに通じるかのようだ。

 彼は自分が《ひどく哀れな犯罪者であること》に心を傷つけられ、へりくだっているのだ。

 つまりこの人物は無意識のうちに、哀れみを纏って自らを慰め、偽り、その偽りでもってメグレに許しを請おうとしている。メグレはどう出るだろうか? 憎いことに作者シムノンはこの場面だけ、文章の視点をメグレからこの人物に移して書いている。すなわち読者はこの瞬間のみ、メグレの心情を外から推察することになる。「いったいメグレは何を思案しているのか?」──続くこの一文が強烈にサスペンスを掻き立てる。
 そして最終章の一段落目はこうだ。

 われわれは実際には数秒にしかすぎない夢の痕跡を長い間、ときとして一生忘れずにいることがある。ところで、客間に入ってきた人たちはメグレには一瞬、実際の彼らとは、いずれにせよ彼らが自分でこう思っている人物像とはまったく異なっているように思われた。この姿で彼らは警視の記憶にいつまでも留まることになる。

 これぞシムノン節、シムノンにしか書けない夢幻の境地だ。さあ、メグレは各登場人物にどのような評価を下すだろうか? 最後のシーンでメグレは駅で汽車に乗り、町を去ってゆく。見送りに来たある人物はこういう。

「あなたはとてもいいお人だ、警視さん。とても、とてもいいお人だ!……いくら感謝しても感謝しきれない……」

 何ということもないこんな台詞がどれほど心に沁み入ることか。誰が駅にやって来て、また誰が姿を見せないか? そんな細かな事実さえ、ここまで読めば私たち読者の気にかかる。メグレは最後にあの《死体》元刑事の人間像もひとり言で評価する。その部分は引用せずに残しておこう。そしてメグレは自分が乗る列車がやって来る直前、私たち読者にさえこれまで語ったことのなかった人生の感慨を漏らすのだ。

「(前略)一つだけ打明け話をしよう……上流階級の言葉にしろ、下層階級の言葉にしろ、あらゆる言辞のなかでおれにもっとも忌まわしく思える表現がある。その表現を聞くたびに、私は飛び上がってしまい、歯が浮いてしまう……それが何かわかるか?」

 この台詞の結末はとても大切だから引かないが、これこそ私がメグレものはたんなる「共感」の物語ではない、庶民の側に立つだけの物語ではないと考える所以だ。上流階級も下層階級も「裸の人間」でなければみな同じ。そして人はほとんどの場合、「裸の人間」ではなくおのれを偽って生きており、しかもそのことを自覚さえしていない。だからこそメグレの目に映る世界はつねに一瞬の夢なのであり、同時にいつまでも忘れることのない永遠なのだ。そのことをはっきりと私たち読者に伝えて、シムノンのメグレ第二期は幕を閉じる。
 
 ジャン・リシャール版TVドラマは、今回はいくらか顔のアップを捉えた映像が多用される他は、展開も原作に忠実でオーソドックスなつくり。今回は残念ながらこれといって惹きつけられるところのない凡作。メグレはずっと長靴を履いている。雨がよく降るのでいつも道がぬかるんでいるわけである。
 一方、今回のブリュノ・クレメール版には感嘆した。原作より面白く仕上がっているのはこれが初めてではないか。
 まずクレメール版でときおり見られることだが、舞台が原作と違う。ヴィシーではなく、ベルギーのバルベックという村に設定されている。まずメグレは法務省Ministère de la Justiceに赴き、「大臣執務室」Chef de cabinetのドアを叩く。「大臣」は妹のことで友人メグレを喚んだのだ。彼の妹はかれこれ20年ベルギーに住んでおり、夫はベルギーの上流階級に属す資産家の牧場主だが、その家の近くで事件が起こって中傷を受けているので、誰が噂を立てているか非公式に調査しに行ってもらいたい、と依頼される。メグレは「私の司法権はフランス国内だけです」と呟くが、結局「大臣」に説得され、休暇のかたちで出向くわけだ。法務省は司法警察局が間借りするパリ司法宮とは別で、ヴァンドーム広場に面している。またChef de cabinetとは官房長といった意味らしい。クレメール版のドラマはフランスだけでなくスイスやベルギーのテレビ局も共同製作しているので、ベルギーが舞台に選ばれたのだろう。屋外ロケのシーンが多く、本当にベルギーでロケしたのかどうかはわからないが、朝霧に煙った感じがとても美しい村だ。
《死体》刑事カーヴルは初登場のシーンでまさに死人さながらの青白い顔をしており、しかも黒づくめの服装だ。演出でそういうメイクをしているわけだが、ひと目見ただけで《死体》の雰囲気を視聴者に示しているのだ。ジャック・ブデ(ブーデ)Jacques Boudetという俳優が演じており、顎はたるんで、腹も出ていて、不健康な感じを巧く出している。原作の描写とは若干異なるのだがはまり役だ。リュック・ベッソン監督の映画『ニキータ』にも出演している俳優らしい。そしてカーヴルはシムノンの原作よりも頻繁に画面に登場し、つねにメグレの先回りをしていることが示され、メグレとの対立構造がより鮮明化されている。そしてついにメグレは彼と対峙するが、原作とは異なる設定に変更されているものの、カーヴルの哀れな過去も起ち上がり、原作以上に惹きつけられるシーンとなっている。
 カーヴル役だけでなく、今回はどの俳優も素晴らしい。それぞれちゃんとキャラクターが立っていて、見せ場もある。特に印象に残るのが轢死したアルベールの友人ルイと、郵便局と電話局を兼務する車椅子の女性だ。後者の登場シーンでは局内の雰囲気もいい。電話交換時にプラグを差し替えるといった細かい手続きがちゃんと絵になっているし、彼女がメグレに罪の告白をするシーンもいい。そして友人ルイはアマチュア自転車競技者で、メグレが帰国する当日、村では祭りと恒例の自転車レースがおこなわれる。ルイは優勝候補としてそれに参加するのだが、レースの途中で踏切を渡り、真横を汽車が走り過ぎてゆくのを見た彼は、ある想いが胸に込み上げ、レースの途中で突然自転車を止め、観衆のなかに紛れるメグレのもとへ行き、重大な告白をするのである。このように本ドラマではいくつかのシーンで設定が変更されているが、すべてよい方向へと効果的に昇華されている。ちなみに本ドラマではメグレが訪れるNaud家はノオではなく「ノード」と発音されていた(ジャン・リシャール版では「ノオ」)。あとひとつ、つけ加えておくと、本ドラマでは数秒だが女性の全裸シーンもある。エロがあるクレメール版は高頻度で良作だということが今回も示されたのだった。
 本DVDには他のDVD-BOX収録作と同じように長島良三氏の「ジョルジュ・シムノンの横顔」という文がついており、そこに次の説明がある。

第二次世界大戦の間(1939〜45年)、ジョルジュ・シムノンはフランスに留まり、ドイツ軍に占領されたパリからの逃亡者たちを助けるレジスタンス組織を作った。

 前回も書いたが、いまのところこの事実を裏づける文献は発見できていない。たぶん過去にそういう伝説がフランス語圏で囁かれており、長島氏もそれを受けて紹介したのだと思うが、たぶん事実ではない。
 またオランダのデルフゼイルで『怪盗レトン』第1回)を書いたという長島氏の解説が誤りであることは何度も指摘したが、それ以外には、途中にある「兄の死によって」という一文も間違いだろう。シムノンの兄クリスチャンはシムノンが作家になった後も存命だったはずで、アフリカで結婚生活を送った。シムノンはアフリカ取材のとき兄と会っている。
 長島氏はある時期からシムノンになり切って、まるで自分事のようにメグレについて語るのがつねだったので、説得力があるように読めてしまう。そこがよいというファンもたくさんいると思うが、長島氏には私も一読者として敬意を払い、感謝の念を抱きつつ、しかし氏が間違ってしまった部分については指摘しておくのも大切だろうと思っている。

   

 これでメグレ第二期作品はすべて読み終わった。長編の星取り表を次に掲げる。星5つが満点である(メグレ第二期中短編の星取り表は第68回参照)。

連載回 タイトル/原著刊行年月日(記事リンク) 星取り
メグレ長編(第二期)
#64 『メグレと超高級ホテルの地階』1942/10/15(1940) ★★★☆
#65 『メグレと判事の家の死体』同(1941) ★★★☆
#66 『メグレと死んだセシール』同(1941) ★★★★
#67 『メグレと謎のピクピュス』1944/1/5(1941) ★★★★☆
#69 『メグレと奇妙な女中の謎』同(未発表) ★★★★★
#70 『メグレと死体刑事』同(未発表) ★★★☆

 初めて今回、星5つの満点をつけた。だが総じて第二期長編の完成度が高いことに改めて注目していただきたい。この6作のうち5作がいまなお日本では書籍のかたちで読めない。あまりにも大きな損失であるから、一刻も早くどこかの出版社で刊行してほしい。そしてこれも前に書いたが、第二期の長編は何よりエンターテインメント小説としてのバランスがよい。だから「これからメグレを読み始めたいが、いったいどこから読めばいいだろうか」と思案する方には、いっそ第二期から順に読むことをぜひともお薦めしたい。私は以前から「メグレは第一期から執筆順に読むべきである」と主張してきたが、「全部を読むほどの気力はないよ」という方は、この第二期の長編6作を読むだけでも充分だと思う。あなたはこの第二期を読めばきっと嵌まるので、さらに興味を惹かれたなら遡って第一期に行けばよい。
 この時期、シムノンは息子マルクを授かり、戦争の気配の濃厚な港町ラ・ロシェルから離れて田舎に移り住み、そして「自分は心臓病で2年後に死ぬかもしれない」という不安を抱えつつ、しかし庭で野菜をつくりながら基本的には穏やかな日常を過ごした。こつこつと日々を生きてゆこう、という平常心への希求が、第二期作品には通底して流れている気がする。そのためかえって肩肘を張ることなく、誰が読んでも楽しめる娯楽小説に仕上がっている。本当の個人的な想いは回想録『私は思い出す…』や大長編『血統書』に集約させて、メグレものでは逆に力を抜くことに努めたようにも見受けられる。だからメグレ第二期の長編には堅苦しい人生観は出てこないし、極端な諦念や、第一期にあった「これで勝負して世に出てやろう」という野心も見られず、またかつての触れれば切れてしまいそうなある種の繊細さも消えている。そのためかえって良質のエンターテインメントたり得ている。読んでぱたんとページを閉じ、「ああ、面白かった!」といってすぐさま次の行動へ読者が移ることのできる、小説本の持つべきひとつの理想が実現されている。
 つまり戦時中のこの時期、作家シムノンはひとつの完成を見たのであり、その筆致は伸び伸びとしたプロフェッショナルの領域に達した。作家には誰しも「生命力」による盛衰がある。日本では第二次大戦中にこのピークを迎えてしまった作家は、ひょっとしたら不幸にも大政翼賛の雰囲気に拘束されて、本当の傑作を書けずに人生を過ごしてしまったかもしれない。だがシムノンの場合は幸いにも、戦時中でありながらほとんど世情とは無縁の田舎に引っ込み、出版の目処は立たないものの誰にも邪魔されず日課のように原稿を書き続けた。それは結果的にとてもよいことだったのかもしれない。こうなると同じ戦時期に書かれたノンシリーズ作品にも期待が高まる。日本ではやはりこの時期のロマン・デュール作品の紹介が手薄なのだ。
 第二期ではシリーズ化が前提となったために、少しずつメグレ周りのレギュラーキャラクターの個性が確立され、今日私たちが知るメグレファミリーが形成されてゆく。ジャンヴィエ刑事は有能で質実剛健、決して若くはないがフットワークも軽くてしかも粘り強く、見張りや尾行を厭わない。リュカ刑事は尊敬する上司メグレの仕草をいつも真似る、小太りのいわば「ちびメグレ」であり、司法警察局のみんなからは馬鹿にされているものの自分は変装が得意だと信じて疑わない。トランス刑事も復帰した。まだ登場していないのはラポワント刑事と《無愛想な刑事》ロニョンだ。彼らは第三期になって現れる。
 食事のシーンも生彩豊かになった。メグレは司法警察局で仕事をしているとき、近くの《ドフィーヌ》からビールとサンドイッチの出前をいつも頼む。メグレが事件関係者をレストランやバーへ案内し、食事をともにする機会も増えた。またパリから郊外へ出張するときは、その土地の名物をまず試してみる。伊勢えびを自ら買い求めて事件宅へ持ち込んで女中に料理してもらう(第69回)。今回の『メグレと死体刑事』でも、田舎町のバーへ入ったら彼はまず地ビールを注文する。素朴でもよいから充実した飲食をしたい、というささやかな、しかし根源的な欲求が感じ取れる。メグレは自分で料理することはしない。調理の過程も気にしない。この季節ならこの食材に限る、などといったこだわりも見られない。評判のよいレストランへ通うこともない。だからメグレは「グルメ」ではない。仕事で疲れたときバーに立ち寄って、ビールやペルノーで喉を潤すことができればそれでよいのだ。そうして人生を取り戻せたならその一日は満足なのだ。メグレにとって食べること、飲むこととは、そのようなものである。つい虚飾を身に纏ってしまう私たちが「裸の人間」に戻れるきっかけ、それがメグレにとっての食事なのである。
 まだ私は第三期作品をあまり読んでいないので、今後このメグレの姿勢が変わるのかどうかわからない。フランスでも日本でも「メグレと美食」のテーマで解説本が出ているくらいだから、シムノンといえば「グルメ」というイメージは定着している。いずれ本連載でも番外編でそれらの料理本は紹介したい。本当は次回にでもそうしようかと構想していたが、まだちょっと料理を取り上げるのは早い気がした。第三期作品を読んでから判断するほうがよいだろう。
 もう一点、メグレと日本の捕物帳の関係性について、現時点で思うことを書いておきたい。だがいささか長くなったので、次回番外編「メグレと鬼平」に持ち越すことにしよう。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。




 
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