——ノスタルジックな思い出の結末は?

 

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

 

畠山:7/26の『あの本は読まれているか』オンライン・トーク・イベント、たくさんの方にご視聴いただき、ありがとうございました。またYouTubeやTwitterにコメントもたくさん寄せてくださって、嬉しかったし心強かったです。
 吉澤先生の翻訳裏話、面白かったですねぇ。ミクロ単位みたいな書き分けのお話にはひれ伏しそうになりました。そしてダメ男談議は読書会に欠かせないことも再認識。ダメ男でしょ、パステルナーク。友達が彼とつきあったら「早く別れなよ」って絶対言うもん。

 さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」、今月のお題はガイ・バート『ソフィー』。1994年の作品です。

 弟マシューによって古い家の台所に監禁されたソフィー。手首にはガムテープが巻かれ、さっき殴られた顔はまだ痛んでいる。恐怖に耐えながらもソフィーはマシューの言葉に慎重に耳を傾ける。それは少年時代に遡る長い回想だった。
 イギリスの片田舎で暮らす家族。父は不在がちで、母は子供に関心を示さない境遇ではあったが、聡明な姉ソフィーと病弱な弟マシューはたがいに慈しみあって、二人だけの幸せな世界を築きあげていた。野原に遊び、小さな冒険をし、秘密を分かち合う日々。どんなときも強い絆で結ばれている二人だったが、やがてその世界に暗い影が落ちてくる。

 著者のガイ・バートは1972年生まれ。子供の頃から小説を書いていて、12歳でW・H・スミス文学賞のヤング・ライターズ・コンテスト部門で入賞し、映画化もされた『体験のあと』(改題『穴』)を書いたのが18歳。本作『ソフィー』は大学卒業前に書きあげていて、不気味なくらい早熟な作家さんです。
 現在は映像関係のお仕事が多いようで、スパイアクションドラマのアレックス・ライダー・シリーズで“あの”アンソニー・ホロヴィッツと一緒に仕事をしたそうな。インタビューに答えている動画(☞こちら)を見てビックリしましたよ。俳優さんかと思うくらいカッコイイ!
『ソフィー』に関しては ☞こちらもどうぞ。翻訳者黒原さんの持ち込み企画だったんですね。

 したり顔でご紹介したあとでこんなことを言うのもなんですが、ガイ・バート『ソフィー』、未読どころか作家名も作品名もぜーんぜん知りませんでした。この連載も残り4分の1まできたというのに、ああそれなのに、まだまだ未知の作品があるなんて。

 お話は監禁されたソフィーの視点での現在と、マシューが回想する子供時代が交互に語られます。母親代わりになって弟を守るソフィーはとびきり聡明な少女です。専門書を読みこなすほどの高い知性を持ちながら、テストはわざと手抜きをして自分を目立たせないようにするという少し変わったところもあります。行動力もあって、いじめっ子に仕返しをしたり、夜な夜な現れるグレイディーおじさんの恐怖からマシューを守ったりと、まさにスーパーガール。マシューも心から彼女を慕っています。それなのになぜ大人になった今、マシューがソフィーを殺しかねないような状況になってしまったのか。その謎に引っ張られて、まぁ読まさること読まさること(注:北海道弁で「ぐいぐい読めちゃう」の意)。

 300頁に満たないお話ですが、情緒豊かな文章と巧みな構成、ラストの「ああああああ!」という衝撃で、読後はしばしボーっとしていました。そしてソッコーで図書館から『穴』を借りてきたほどです。いやー面白かった。

 加藤さんもオンライン・トーク・イベントのコメント部隊おつかれでした。パネリストのバトンを謹んで渡しておこうかな。大矢博子さんがドアラ耳をつけて登壇された以上、あとに続く加藤さんが平服というわけにはいかないぞ。ハゲヅラいく? パンイチ? あ、ふんどしで獅子舞もいいね。

 

加藤:『あの本は読まれているか』オンライン・イベント、面白かったなあ。トーク・イベントではあったけど、読書会もだいたいあんな感じなので、参加したことのない人にも雰囲気が伝わったんじゃないでしょうか。自分以外の人がその本をどう読んだのか直接聞けるのって、刺激的だよね。それが自分の好きな本であれば、なおさら。次回も期待しています。今回の成功のあとで、僕をパネラーに呼ぶ勇気があるのかな?

 さて『ソフィー』です。ガイ・バートという名前は全く記憶にないけど、『穴』は読んだぞ(もちろんジョゼ・ジョバンニではないのを)と思って捜したら、ルイス・サッカーでした。
 それにしても『ソフィー』は凄い話だったなあ。でも、序盤はイヤな予感しかしなくって、どうしようかと思ったよ。ちょっとヤバそうな男が女性を監禁しているって設定が、もうケッチャム『隣の家の少女』を思い出さずにはいられない。途中からそういう話ではなさそうだぞってなって、そのあとは一気でしたが。
 どうやら手を縛られて監禁されているのは姉で、監禁しているのは弟らしい。弟の視点で語られるのは自分が5歳の頃からその後6年間にわたる幼き日々。2歳年上の姉ソフィーとの楽しい日々の思い出です。一方、姉側の視点で語られるのは進行中の現在。一体何が起きているのか、そしてどうしたらこの状況を脱することができるだろう。弟の話の相手をしながら常に機会をうかがいます。
 その二人の視点が入れ替わりながら物語は進行します。

 弟マシューが語るイギリスの田舎と思しき懐かしい風景は、誰もの郷愁を誘わずにはいられません。秘密基地、ヒイラギの巨木、採石場、丘の上。子供たちに無関心な両親と距離を置き、二人だけの世界に生きる姉と弟の物語。聡明すぎる姉と純真な弟の日々は本当に瑞々しい。本作の大半を占めるこのマシューの独白パートがとてもいいから気持ちよく読み進められる。不穏な事態が現在進行形なのをつい忘れてしまうほどです。
 こんなに仲がよく、固い信頼で結ばれた二人なのに、現代のパートではなぜ弟がこのような凶行におよんでいるのだろう。二人の間に何があったのか。物語はそこに向かって進んでゆく。

 畠山さんはこのラストをどう受け止めた?

 

畠山:まさかソコ? なラストだったよね。一瞬理解できなくて、「え?」と思って二度読み、「うっそ!?」と思って三度読みしてしまった。露骨な書き方をしていない分、あれこれと想像してゆっくりじわじわくるイヤミス。「なぜこうなったのか?」と「これからどうなるのか?」の前提がひっくり返って、答えのない迷路に放り出される。同時に、いろんなシーンに戻って、それがどういう意味をもつのか考えてみたくなりました。

 それにしても「母親代わりの姉」という設定は惹きつけ要素が高いですな。古くは「巨人の星」ですよ。明子姉ちゃんがいなかったら、一徹と飛雄馬は基本的な生活すらできなかった。子供の頃から家事に明け暮れたんだもの、金持ちと結婚したくなる気持ちはよくわかるよ、明子ちゃん。もしかしたらソフィーも大人になって、今までと違う生き方をしたくなったのかしら?
 ああ、それから『銀河英雄伝説』。アンネローゼがいなかったら、彼女が後宮入りしなかったら、ローエングラム王朝は生まれていないのであります。シスコンが根に持つと大変メンドクサイというお話(←超意訳)。もしやマシューも、何かがあって相当な恨みつらみを溜めているのではなかろうか?
 いずれにしてもあまりハッピーな雰囲気がないですね。姉の優しさに甘えすぎちゃいかんてことです。

 アンハッピーな姉弟ものの極めつけといえば、やはりコクトーの『恐るべき子供たち』でしょうか。美しさと同時に危うさを秘めたソフィーとマシューの子供時代は、『恐るべき子供たち』のエリザベートとポールを彷彿とさせます。「悲劇」「破滅」「残酷」…そんな言葉が頭をよぎり、物語の先を想像すると言いようのない不安に襲われる。ああ、彼らに何が起きるんだろう。早く知りたい。でも、どーんと落ち込みそうで怖い。そんな気持ちのせめぎあいで、苦しいったらありゃしませんでした。

 ちなみに『穴』も不穏な空気に支配されたお話でした。『ソフィー』を読んだ直後だったので、かなり懐疑的な気持ちで読み進めましたが、真相など見当がつくはずもなく、ラストでまさに「穴」に突き落とされるような気分を味わいました。なにがすごいって、ラストでビックリの構成だけでなく、不安定に揺れ動く細かな心情の表現が秀逸。こんな小説を18歳で書いたってどういうこと? 高3だよね? アタシが高3の時といえば……文化祭でひょうきん絵描き歌をやって、先生に怒られたんだっけ。

 ねぇ加藤さん、いまさら言うのもなんだけど、この作品は予備知識なしでポーンとダイブしてもらうのが絶対いいと思わない?

 

加藤:ひょうきん絵描き歌……。
 高3といえば、藤井壮太七段の快進撃は凄いね。ついに棋聖のタイトルを獲り、あらゆる最年少記録を塗り替えるこの勢いはどうよ。将棋ってみんなルールは知っているのに、あるレベルを超えるとサッパリ分からなくなるから不思議だよね。スポーツ、たとえば野球はルールを知っていれば草野球もメジャーリーグも楽しめるのにね。マスコミの話題も将棋の内容より、何を食べたか何を着たかとかになりがちなのがちょっと可笑しい。

 そうそう、この『ソフィー』って、あらすじを書こうとするだけで、ネタバレになるかミスリーディングになるかってタイプの話だもんね。既読の方はお気付きのことと思いますが、ここまでの我々の紹介文にも下手な誤魔化しがチラホラ。ぎりぎりセーフなのかアウトなのか、よく分からない。

 それに比べて(←比べること自体が失礼ですが)、本書巻末の川出正樹さんによる文庫解説はもう凄いのひと言でした。地雷と落とし穴だらけの危険地帯を汗ひとつかかずスイスイ進んでいく感じ。そのうえで本書の魅力と読みどころを余すところなく伝える、まさにプロの妙技です。たぶん本文の前に読んでも大丈夫。これから読まれる方はこちらもお楽しみに。
 文庫解説といえば、このほど直木賞を獲った馳星周氏によるヴァクス『凶手』の解説が忘れられないなあ。「わたしはアンドリュー・ヴァクスになにかを負うている」という出だしの一文も覚えてる。
 名状しがたい小説の余韻をきちんと整理して記憶の戸棚に仕舞う手伝いをしてくれる数々の名解説に、わたしたちの読書生活はどれだけ助けられていることかとつくづく思います。

 そんなわけで我々が本書を語るにはあまりにも危険だし、畠山さんの言う通り何の予断も持たない状態で読む方が絶対に面白いので、今宵はここまでにいたしとうござりまする(麒麟はなかなか来ませんな)。
 誰もの心の奥底にある幼い日の思い出、心の原風景、失われた色や匂いが少し苦い味とともに蘇る、そんな『ソフィー』を堪能しました。
 あの頃に戻ってやり直せば、僕も藤井棋聖みたいになれるのかな。みんな彼の言動を「あの年齢とは思えない」って言うけど、当時の僕も同じようなことを親や先生から言われていたけどな。意味はちょっと違うけど。

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

『マストリード』を作る際に決めていたのは、小品ながらも忘れがたい印象を残す長篇をいくつか入れようということでした。大作感はないけど読めば絶対に忘れられない印象を残す小品。複数挙げた候補のうち、そのときたまたま品切れだったかで収録が叶わなかったのがJ・M・スコット『人魚とビスケット』(創元推理文庫)でした。その他、トマス・スターリング『ドアのない家』、ウィリアム・マーチ『悪の種子』、ハワード・ブラウン『夜に消える』(以上、ハヤカワ・ミステリ)などの書名が『ソフィー』の項には挙げてあります。共通項は状況や登場人物が限定的で、足し算ではなくて引き算で緊密な構成がくみ上げられていること、全篇を通じて凄まじいまでのサスペンスが横溢している、ということでしょうか。

 これでもかこれでもか、とエンターテインメントの要素を足していって読者にサービスするたぐいの大作ももちろん楽しいものですが、ミステリーの基本はやはり「謎に惹きつけられて、その小説をつい読んでしまう」ことだと思います。情報の欠落が引き起こす感情は不安です。その感情を誘起するために不可欠なことは何で、装飾としては何が余計か。そうした計算がぎりぎりまで行われた本作は、ミステリーの教科書と言ってもいい名作だと私は思います。足し算の作品は物語の要素について語り合うことが可能ですが、引き算のものはそれがしにくい。中核にあるものにすべてが向かうような書き方がされているからで、その構造にぜひ注目してください。

 イヤミス(私は大嫌いな用語ですが)という言葉が出たので書いておきますと、過去の不幸な出来事が生涯にわたってその人を縛り続ける、というタイプの小説は、分解してみるとごく簡単な構造なので、着想自体は容易に得られるはずです。ただ単純なだけにそれを読ませるのには技巧が必要とされるわけで、読者に負の感情を押し付けても小説としては完成しないのです。それは単なる「嫌がらせ」でしょう。『ソフィー』はその難しいことを易々とやってのけている作品なので、精緻さを慈しみながら読んでいただきたいと思います。

 さて、次回はヘニング・マンケル『目くらましの道』ですね。これまた楽しみにしております。

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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