「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 まるで紙の上で行われるマジックショーだ。
 そう喩えられるミステリーは国内外問わず数えきれないほどありますが、僕がこの定型句を聞いたとき真っ先に思い浮かべるのはボワロ&ナルスジャックの小説です。
 このコンビが書く小説は、紙上の大魔術というキャッチコピーがよく似合う。
 死者の蘇り、生まれ変わり、見るだけで人を殺す魔性の眼……彼らの作品では信じられないようなことが次々と起こります。
 それだけだと、超常現象のような事件が起こるミステリーなんて珍しくもなんともない、と言われてしまいそうですが、彼らの場合、一味違う。ボワロ&ナルスジャックの作品を読む時、読者はこれらの現象を「本当にそういうことが起こってしまった」と信じ込んでしまうのです。
 普通、僕らはミステリーを読む時、どんな事件が起こっても「どうせ何かのトリックを使ったのだろう」と冷めた目で見てしまうものですが、こと彼らの作品に関してはそんなことがない。作中人物同様に、慄いてしまうのです。
 読者の感情をコントロールすることが巧みな作家なのだと思います。
 ここでこういう風に思ってほしい、ここで驚いてほしいという筆の運び方が抜群に上手い。
 その筆力が上記のような怪奇趣味に回れば『悪魔のような女』(1952)や『死者の中から』(1954)といった作中の超常現象を読者に信じ込ませてしまう離れ業になりますし、サプライズに力を入れれば『犠牲者たち』(1964)や『嫉妬』(1970)などの、どんなにスレた読者でもひっくり返る衝撃のエンディングが待つ佳品が生まれます。
 まさにマジシャンと言いたくなる華麗なテクニックを持った作家です。
 そんなボワロ&ナルスジャックがそのまま奇術を扱った作品が今回紹介する『女魔術師』(1957)です。
 この作品には怪奇趣味も、サプライズエンディングという程の驚きもありません。
 しかし、忘れがたい感動を読者に残す逸品で、僕はこの作品にこのコンビの魔法を強く感じるのです。
 
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 本書で語られるのは、芸人ピエール・ドゥートルと、彼が所属する”アルベルト一座”の物語です。
 ピエールは、両親が旅の奇術師だった故に、一人修道院で育てられた少年です。彼は父親であるアルベルトの死を切っ掛けに修道院から引き取られて、母親のオデットと共に”アルベルト一座”の一員として旅に出ることになります。
 アルベルトがいなくなったことにより、一座は傾きかけていましたが、ピエールが新たな演者となり、一座に所属する双子の美女ヒルダとグレタと共にステージに立って行った新演目が大当たりし、華麗な復活を果たします。
 しかし、その裏には、双子に恋するピエールと、それを快く思わないオデットの親子関係などの軋轢があり、やがて事件が……というのが粗筋です。
 ボワロ&ナルスジャックは元々、少ない登場人物で物語を回す作家なのですが、本書もその例に漏れません。主要な登場人物は、上記の粗筋に出てきた五人だけです。
 更に言えば、描かれるのは実質的にピエール少年一人だけ、と言ってしまっても良いかもしれません。
 全編ピエールの心理描写だけで構成されているような一冊なのです。
 どのページをめくっても、ピエールの鬱屈した、けれど純粋な想いが綴られている。
 彼が常に抱えているのは、自分は誰かに愛されているのか、誰を愛しているのかという疑問です。
 作者はこのピエールの想いを、奇術というガジェットを巧みに使いながら描いていくのです。
 
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 修道院で暮らしている時、ピエールにとって奇術というのは両親への愛憎の象徴でした。
 彼は両親に対し、本当に自分のことを愛してくれているのかという疑いを持っています。時々やってくるハガキやプレゼントでは、両親からの愛は感じられない。母親に関しては物心ついてから会ったことさえないので、存在すらも実感がない。
 彼は、修道院に時々やってくる巡業の奇術師の向こうに両親の姿を見ようとします。
 自分の両親も、この奇術師のように、不格好なでかい鞄を持って旅をしているのだろうか。この人がするように、不思議な術を使うのだろうか。信じて良いのか、信じてはダメなのかすらも曖昧な奇術という概念は、彼にとって両親とイコールです。
 アルベルトが死に、オデットに引き取られてからは、彼にとって奇術とは信じてはならないものにはっきりと変わります。
 あの奇術師が見せたような魔法の数々は、いずれもガッカリするようなタネがあり、自分でも身につけられる類のものだと彼は知るのです。
 奇術に対する失望は、そのまま母親に対しての不信へと変わります。
 ピエールはオデットに対し、この人は自分のことを都合よく使える道具としか思っていないんじゃないかという疑念を抱くのです。現に、ピエールが少しでも意に沿わぬことをしようとすると、彼女は機嫌を悪くする。
 こうして、ピエールは、親からの愛を信じることができなくなります。
 一方で、愛を与える側としても、彼は不安定です。
 粗筋に書いたように、彼はヒルダとグレタの姉妹に恋をするのですが、その恋がどうにも歪つなのです。
 全く同じ顔、体つきの二人だから、どちらに恋をしているのか分からない。どちらにも恋をしている、ということなのかもしれないが、それを恋と呼んで良いのか。
 歪んだピエールの恋情は、三人でするステージマジックで逆説的に描かれます。
 ”アルベルト一座”を立て直したこの演目は、ヒルダとグレタが双子であるということを利用し、観客にあたかも彼女が瞬間移動したかのように見せかけるというもので、ピエールはこのマジックを演じている時だけは楽しくて仕方がありません。何故なら、この演目上は、存在しているのはピエールと一人の少女の二人だけだから……
 このように、作者はピエールの抱える切実な苦悩を、彼の奇術に対する距離や想いで表現していきます。
 普通、奇術というのはタネが分からないからこそスリリングなものですが、本書では敢えて舞台裏を描き、ピエールの心理をそこに同期させることによってスリルを生んでいるのです。
 
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 ボワロ&ナルスジャックは、このスリルを極限まで高めた末、終盤で爆発させます。
 それはやはり、奇術の形で……ピエールが行う演目として表現されます。
 あれほど念入りに描かれてきたピエールの心理描写が、この場面ではほとんどなくなります。彼が、こういう風に、ステージでとある演技を行った、と語られるのみ。
 しかし、読者は痛いほど、ピエールの気持ちが、彼が何を求めてそれを演じているのかが分かる。
 ここまで読んできた読者は、彼の心がどのように揺れ、奇術とどんな風に同期していたのかを知っています。故に胸をかきむしりたくなる程の痛みと感動が生まれているのです。
 
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 最初に書いた通り、本書には怪奇趣味も、サプライズエンディングもありません。
 だけど、ここにあるのは確かに魔術である、と思います。
 登場人物の人間関係から奇術というガジェットまで、何から何までを、ラストのピエールの演目で読み手の心を震わせるためだけに奉仕させている。そして、読者は作者の思惑通りに感動してしまう。
 一流のマジシャンが作り上げた、最上級の紙上のショーである、と感じます。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人四年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby