■野崎六助『北米探偵小説論21』


 無慮3500枚。二段組み1200頁を超え、手に取った質感だけでも圧倒される探偵小説論、野崎六助『北米探偵小説論21』が出た。目次を見ただけでも、その構想の雄渾さは明らかだろう。前著『北米探偵小説論』はもっぱら「北米」の探偵小説を扱っていたが、それは予告編にすぎなかった。本書はタイトルを裏切り、その考察の対象は時空を超えていく。19世紀から21世紀の小説全般と、革命と戦争の世紀だった20世紀社会を視野に収め、探偵小説と非探偵小説を横断しながら紡がれる異色、異形の探偵小説論だ。
 さらに、本書を特異のものにしているのは、個人史的な注釈が随所に挿入されていること。そこでは、なぜ本書が書かれなければならないのかの自問が繰り返される。一方に、構想20年の評論部分があり、もう一方には真逆の、自らの主観の中でそれを受け入れ難かったか、偽りと映ったか、が記される。本書は、探偵小説と探偵小説論を巡って煩悶する自己探求の書、精神的自伝にもなっているのだ。
 作者は、さらに、「本書は変則的な探偵小説である」ともいう。自らは探偵なのか犯人なのか、探偵小説と探偵小説論が混線し、不協和音を立てている稀有な書物でもある。探偵小説論における『黒死館殺人事件』『ドグラ・マグラ』とでもいいたい規格外の威容を誇る書だ。
 著者の旅は、「探偵小説でしか書けないこと」の探求に向かい、北米を大幅に越境し、ロシア文学の異端セルジュ、スペイン市民戦争の当事者でナチス強制収容所の帰還者センプルン、ナチス時代の大衆作家ファラダといった、とても探偵作家とはいえないヨーロッパの歴史的証人たちの作品を通して、ワイマール期のドイツ、革命期のロシア、スターリンのソ連、スペイン市民戦争、ナチス支配下のベルリン、アウシュビッツ強制収容所、アメリカ黒人の社会史、文化史などを横断していく。長大な文章の迷路で、読者は、いまどこにいて、何を読まされているのか、時にとまどうくらいの彷徨なのだ。

 作者の探偵小説論の前提となる批評の軸は明確だ。「探偵小説を非探偵小説として読むことを基本戦略としつつ、非探偵小説を探偵小説として読み抜くこと」「探偵小説は閉じられた領域だが、探偵小説論がそこに限定づけられるなら、ほとんど何の収穫も期待できない」と記す。
 作者の批評のテーマは、三点に集約される。すなわち、「群衆マルチチュード」、「死者デッド」、「自己ゼルプスト」。いずれも、ネグリ&ハート、ベンヤミンやユングなどの業績を経由した用語であり、簡単に説明できるものではないが、著者はこれらの概念の原型をポオの「モルグ街の殺人」に見出している。

「ポオは十九世紀国際首都パリに群衆マルチチュードを幻視し、そこに固有の風景としての死者デッド(殺人死体)を配置し、それを己の自己ゼルプストの理想化で遊民探偵ヒーローをとおして解析してみせた」

 という一文から、おおよその輪郭が伝わるだろうか。
 さらに、著者がこだわりを見せるのは、ボードレール『パリの憂鬱』が探りあてた「群衆マルチチュード」と「孤独ソリチュード」の交換可能性だ。通りすがりの娼婦に震撼させられるような稲妻を感じた詩人のように、ある契機を通じて、個人は群衆に、群衆は個人に変容エトランジュしていくのが、「群衆」が現れた以降の社会と個人のあり方とであり、自己の中の未成の他者と出会う通路であるという認識だ。
 著者が論の中核として狙い定めているのは、あくまで、「自己ゼルプスト」なのだ。

「北米探偵小説の紋章とは、自己ゼルプストとの不可避な葛藤にほかならなかった」
自己ゼルプストは、一般の形式によっては捉えがたく、探偵小説の方式をとることによって、ようやく捕捉のヒントに近づける[謎]である」

 探偵小説でしか書けないことを追い求める著者は、探偵小説という形式の優位性を「自己」という謎に迫ることに見出している。
 
 本書には、刺激的な論考が散りばめられている。
 ポオの「モルグ街の殺人」は殺人の考古学の物語、「マリー・ロジェの謎」は殺人の現象学の物語と規定し、おおまかに本格探偵小説の形式と現実と切り結ぶタイプのミステリの形式の二つ潮流をポオに見出しているのも示唆的だ。
「視点を限定された一人称の語り口ナラティヴは二〇世紀小説の表徴といえる」とし、語り手という要素の重要性の始原はポオにあるとも規定している。
 顕著なのは、ゾラの「発見」だ。映画『獣人』などジャン・ルノワールの「暗黒もの」がハリウッドのフィルム・ノワールを予告していたという山田宏一の指摘があるとはいえ(『新編 美女と犯罪』)、特に、ゾラの『獣人』を、時代を超えた探偵小説として読み、そのことによってより深い理解に達するとする再評価は本書の方法論の高みをなす。『東海道四谷怪談』に江戸のノワールと見るのも、ドイツの作家ファラダの作品『ベルリンに一人死す』に百年後の「モルグ街の殺人」「盗まれた手紙」を見出すのも、同様の「非探偵小説を探偵小説として読む」ことの成果だろう。
 その他、膨大な批評をいちいち挙げていくわけにはいかないが、ロス・マクドナルドとマーガレット・ミラーの作品の関係を巡り、「探偵小説の本質とは、所詮、千夜一夜物語の一夜のときめき以上のものではない。同じ話を同じ話ではないかのように、芸を尽くして語ることだ」というシニカルな認識の上に、ミラーのトム・アラゴン三部作を読み直し、両作家の悲劇と栄光を読みとる視点も刺激的だ。「絶対的探偵小説」である埴谷雄高『死霊』の再評価、ル・カレ『パーフェクト・スパイ』『ドグラ・マグラ』『死霊』に現われた自己遡及の試みを見出すのも著者独自の視点だろう。
 一方で、書物の最初の方で、作者の批評軸は明確にされているものの、時にはそれらも置き去りにされ、個々の作家や作品を通じて、批評軸の有効性をさらに強化していくというフィードバックが少ないのには、もどかしさも感じる。
「行きつ戻りつ、問いは答えをとらえようとするが、答えはまた別の問いに四散していく」とは、『死霊』を評した著者の言葉だが、ある程度まで本書の似姿にもなっている。整序された明晰な理論体系の構築とその適用による作品解釈よりも、次々と探求の対象となる主題を取り込んで呻吟する破調こそが本書が自ずと選んだ戦略でもあり、著者の評論の体質でもある。「私」の告白は「とりとめもなく、見苦しくあちこちに跳ぶ」。論は求心の様相を見せず、読者もときに著者とともに漂流しているよう感覚を覚えずにはいられない。
 
「密室は開かれねばならない」というのは著者の基本的スタンスだ。密室とは、探偵小説という形式の密室性、作者=読者的な共同体的密室性を指す。このままでは探偵小説の資源は枯渇していくというのが、著者の認識で、「外部に求めれば内部に途が通じてくる」。
 本書は、探偵小説の外部性、内部に生かしうる外部を探るための格闘であり、長旅でもあったのだ。
 かくして、長征はなしとげられた。
 作者はいう。「非常識に長い曲折にみちた踏破のすえ、抜け出すことが出来た。抜け出した先もまた、闇の奥底だったが」
 グローバリゼーションの時代を迎え、探偵小説はますます規格品化し、拡散し、そして変容を遂げていく。
 ともあれ、果たして、著者以外に誰が「探偵小説を非探偵小説として読み、非探偵小説を探偵小説として読む」という構想の下、膨大な書物を読み解き、探偵小説論に憑かれた思考を持続させることができるだろうか。その壮大な企図と命がけの帰還にはうたれずにいられない。

■ヴィンセント・スターレット『笑う仏』


 ヴィンセント・スターレットは、『シャーロック・ホームズの私生活』などを書いたシャーロッキアンとして知られるが、著名なジャーナリストでミステリの著作も数冊ある。本書『笑う仏』は、全編北京を舞台にした本格ミステリで、珍品といえるだろう。本書は、1937年に Laughing Buddha として刊行された際には、オリジナル・テキストを編集者に勝手に改変され、1946年に Murder in Peking として改題再刊された際に、著者の元のテキストに戻された経緯があるとのこと。本書の底本は後者によるが、邦題は1937年版によっている由。
 事件は、北京在住の外国人のコミュニティで発生する。最初の殺人は、北京郊外の山中の寺で開かれるパーティで。舞台となのは、極東地域で最も成功したといわれる女性が古寺を「ナイトクラブと狩猟小屋の中間のような施設」に改装したものだ。犠牲者は、コペンハーゲンの博物館の助手の若い女性。中国特有の飾り爪の跡を首に残し絞殺されていた。寺に集まったのは、美術館の学芸員、有名な探検家、探偵作家、ハリウッドの映画監督といった面々。ほとんどは、アメリカ人をはじめとする西洋人だが、爪飾りによる殺害は何を意味するのか。
 探偵役に配されるのは、米国のアマチュア探偵ホープ・ジョンソンと探偵作家ハワード・ピルグリム。
 ピルグリムは、実際に北京に1年余り滞在したスターレットその人を模しているようだ。
 時は、日中戦争の前夜。アメリカ、日本を含む列強八か国は、北京市内の公使館区域から清国人を排除し、実質的に駐兵ができるようになっている。登場人物の一人は、北京の街を「日本軍とニンニクの臭いであふれ返る街」と表現するくらいだ。この日本軍の駐兵から1937年の盧溝橋事件が勃発する。パーティとスキャンダル探しにあけくれる優雅な暮らしの外国人たちも、近い将来の日中の戦争の可能性を強く意識している。同様の舞台、時期を扱ったものとして、ジョン・P・マーカンド『サンキュー、ミスター・モト』 があった。同作でも、北京の落日の気配が濃厚だった。
 こうした特殊な時、特殊な場での殺人事件は、予想どおりエキゾチズムに彩られている。籠での移動、古寺の仏像たち(古い地獄絵図の混乱、と表現される)、古代からの工芸品、自動車と人力車が行き交う北京の街の雑踏、宮廷から逃れた宦官まで登場などなど。そうした西洋の視線からみた中国の象徴が「笑う仏」だ。人の良い笑いを浮かべながら、悪意を秘めているらしい仏陀には、西洋人は相当に違和感をもつらしい(笑う仏とは、我々の知る「布袋さん」の英語のあだ名の由)。「笑う仏」は、二番目の犠牲者となる博物館の学芸員サーストンをつけまわす謎の男として登場し、その後も度々登場人物の周囲に跳梁するし、ピルグリムの構想する小説のタイトルにもなっている。
 こうした西洋人による中国観察が本書の大きな読みどころ。作者の視線は、当時の米国人として、差別表現などが少ない比較的穏当なものだが、中国人で存在感のある人物は礼儀正しいアン警部のみで、それ以外は点景としての存在にとどまる。戦争直前の中国人の運命に対してもどこか他人事で、舞台が異色であっても、彩りとしてのエキゾチズムの域を出ていないのは、惜しまれる。
 最後で明かされる犯人は、意外性のあるものだが、探偵の推理は根拠が十分示されず、連続殺人に禁じ手気味な設定があるところはマイナス点。ただし、作者は真相を読者に悟られないように、随所に工夫を凝らしており、意外性の演出という面では優れた部分がある。
 終幕は、米国に向かう船の発着のシーン。北方から着いた船に乗っていた避難民が一斉に港の通りからなだれ込んでくる。どこかで断続的に銃声が鳴っている。戦火の直前の歴史的な一時期を切り取り、本格ミステリとして遺された異色の作として価値がある。

■P・A・テイラー『ヘル・ホローの惨劇』


 フィービー・アトウッド・テイラーは米国の女性作家。マサチューセッツ州の避暑地ケープコッドを舞台にして、「ケープコッドのシャーロック」と呼ばれるアゼイ・メイヨシリーズを書き続けた。これまで唯一の邦訳は、デビュー作『ケープコッドの悲劇』(1931)だったが、シリーズ10作目『ヘル・ホローの惨劇』(1937)が7年ぶりに邦訳された。
 本書は、ユーモア感覚に優れ、登場人物に対する温かい視線、読み口の良さは、コージー物の先駆的作品と思わせる。
 アゼイ・メイヨは、60歳くらいの元航海士。ヨット帽をかぶり、いつもパイプを咥えている街の人気者。幾多の事件で探偵能力を発揮している。自らのことを呼ぶのに「あっし」と訳されているが、元船乗りのなまり、伝法な口調を伝えているのだろうか。
 今回の事件は、メイヨが暮らす人口千人の小さな町ビリングスゲートが総力をあげてのオールドホームウィーク「ふるさと祭り」のさなかに起こる。借金にあえぐ小さな町が一週間にわたって、帰郷者、来訪者を楽しませるプログラムを繰り広げる、いわば1930年代米国のまちおこし事業だ。
 アゼイは、行政委員であるいとこから、何者かが、町役場を燃やそうとしたり、三人いる行政委員の命が狙われる事件が相次いでいることを知らされ、祭りの開催期間だけ名誉警察署長になることを懇願される。やむなく引き受けたアゼイだったが、祭りの始まりを告げる花火の最中に「ヘル・ホロー」と呼ばれる低湿地帯で、骨董商を営む女性の殺害事件に出くわしてしまう。
 本書は、事件全体がふるさと祭りの進行とともに語られているという特徴ををもつが、事件発生後の成行きも風変りだ。町の命運をかけた祭りが殺人事件で台無しになっては、町民も浮かばれない。アゼイや行政関係者らも結託して、殺人事件が起こったことを祭りの終了まで隠そうとする。警察まで隠ぺいに協力する図は、ちょっと信じ難いが、のどかな田舎町という空間では、そんなこともあるか、と思わせるところが、作者のユーモラスな語り口にはある。
 祭りの進行という祝祭感覚とともに、事件の隠ぺいを続けるところが別種のサスペンスを生み出すことも期待され、これは作者の創意でもある。ただ、せっかくの設定ながら、隠ぺいがいつ露見するかというサスペンスの方は十分に追求されていないのは、残念だ。
 アゼイは、持ち前の人気者ぶりを発揮し、小事件が相次ぐ中で関係者に自然なインタヴューを続けながら、真相に肉迫していく。若い女性記者と、自動車で犯人の車を追跡する長いアクションシーンもあるなど読者サービスも十分。小さな町に住み、集う町の人間群像がしっかり描かれているところも本書の強みだ。町の開祖者の末裔ながら、今はホームレスの爺さんに脚光が当たり、逃走を繰り広げるくだりは、頬も緩みがちになる。
 爺さんが決定的な証拠を握っており、そこから真相が明らかになったり、犯人が余計なトリックを弄したりする謎解きの構成は、やや緩いが、ジャムづくりの企画に優勝した料理女
のジャムが真相解明の手がかりになるなど、祭りは単なる背景ではなく、最後まで事件の謎解きと緊密に絡み合っている。祝祭空間の中での事件を描き切った作者の手腕は、大いに評価されるべきだろう。

■L・T・ミード『マダム・サラ ストランドの魔法使い』

(http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca15/651/)
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 男の探偵がいれば、女の探偵あり。男の悪党いれば、女の悪党がいることもまた自然。
 ヒラヤマ探偵文庫07『マダム・サラ ストランドの魔法使い』は、20世紀初頭の女悪党を主人公にした連作短編集。女性作家であるL・T・ミードには、ロバート・ユーステスとの共作で、女賊マダム・コルチーという別な悪役キャラターがあり、『シャーロック・ホームズのライヴァルたち2』「金庫室の怪」という短編が紹介されている。犯罪結社「七王国」の首魁の美貌の女賊で、「奇巌城」のような大邸宅を構える、ミステリ史上最初の大量殺人者というそのスケールの大きな悪役ぶりには度肝を抜かれた記憶がある。
 マダム・サラは、このコルチーと比べるとスケールの面ではやや劣り、たおやかで女性らしく、どう見ても25歳くらいにしか見えない。だが、自称のとおりなら老女のはずだ。ストランド街で美容専門家を営んでいが、もぐりの医師で歯医者でもあり、簡単な手術までしてしまう。美容術で名家の女性たちを虜にし、その美貌でロンドン社交界もひれ伏す彼女の裏の顔は、世界を股にかけた大悪党。宝石の蒐集家でもある。本のカバーには、「ヴィクトリア朝のロンドンを翔る女怪」とあるが、年齢不詳で倫理感のかけらもない彼女は、女悪党というより、この「女怪」ということばがふさわしい。
 この女怪に対するは、警察医ヴァンデルーアとその友人で支払い能力調査会社支配人のディクソン・ドルース。マダム・サラが毎度悪事を働き、ヴァンデルーアとドルースが追い詰めるが、決定的証拠を掴めず取り逃がすといった連作短編の構図は、時代は少し後になるが、サックス・ローマーのフーマンチュー物を思わせる。
 冒頭の「マダム・サラ」は、彼女の登場編で、遺産絡みで姉妹に魔の手が迫る。姉のほうは、なにも食事をしていないはずなのに、「ヨーロッパの毒物学者が知らない強力な毒」を口から摂取して死に至る。毒殺物として大胆なトリックが使われており、謎解き物としての展開にも期待させる。「血の十字架」は、莫大な価値をもつ真珠のネックレスを手に入れるため、サラがとった方法は唾棄すべきものだが、それを無効にするヴァンデルーアの機智が見事。
 「修道院長の顔」は、本編の白眉だ。幽霊の伝説があるポルトガルの城に出現する修道院長の顔。城の主は、顔の出現により、狂死した。その謎を解くために、相続人の娘とドルースが城に乗り込むが、やはり修道院長の顔が出現。ここにも、マダム・サラの影が及んでいるのである。その謎解きたるや、予想できない、あっけにとられるもので、これを読んだ方と一緒に爆笑したい。「ロンドンで評判の話」実験化学者の革命的な発明にまつわって仕掛けるマダム・サラの策略。マダム・サラのとった殺害方法はやはりトリッキーなものだ。「血の石」はサラが外交官宅でペルシャの秘宝を狙う。危険な罠にとりこまれた女性をヴァンデルーアが化学的知識で救い出す。「オオカミの牙」は、マダム・サラ連作の最終編。ヨーロッパ一の野獣調教師の女性の娘が失踪。この事件にもサラは関わっている。オオカミの牙は果たして誰に向かうのか。
 不敵すぎるマダム・サラのキャラクターも楽しいが一編一編にトリッキーな要素があり、事件もそれぞれ工夫されている。シリーズが六編で終了したのは残念で、もっとこの女怪とヴァンデルーア・チームの対決を読みたかった。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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