メグレと日本の捕物帳の関係性について、現時点で思うことを書いておきたい。原稿が長くなったので番外編として別途項目を立てた。
 これまでメグレシリーズはしばしば「日本の捕物帳に似ている」といわれてきた。元NHK欧州総局長・萩野弘巳氏がDVDに「メグレ“捕物帳”」というエッセイを寄稿していること(第69回参照)、ミステリー評論家・小山正氏が「シムノンといえば、ある日、池波正太郎『鬼平犯科帳』じゃないかと思ったら、すっと読めるようになったんです。時代小説好きな人は、意外とメグレにフィットすると思いますよ」と発言していること(第58回参照http://honyakumystery.jp/1488929952)はすでに紹介してきた。だがこれらの言説は本当に適切なのか。ただ世間の雰囲気に流されて、うっかり同調しただけではないのか──というのが私の論点である。
 現時点での私の結論をいうと、日本の代表的な捕物帳は、どれもメグレシリーズとはまったくの別物である。だが、それでも、よく探せば似ているところもある。それはある意味、当然のことだ。どちらも読者を楽しませることを目的とした小説作品であり、そこには一種のフォーマットが存在するからだ。

■5大捕物帳を読む■

 最近は時代小説、捕物帳がブームで、新作も続々と発表されているため、あまりいわれることはなくなったようだが、かつて日本では慣例的に5大捕物帳といって以下の5作が代表例とされてきた。以前にも紹介したが(第62回参照)、縄田一男編『若さま侍』(中公文庫)巻末の縄田氏による解説記事から参照引用すると、次の通りである。各著者名と西暦を追記した。

・岡本綺堂『半七捕物帳』大正6年〜昭和12年(1917〜1937)
・佐々木味津三『右門捕物帖』昭和3年〜8年(1928〜1933)
・野村胡堂『銭形平次捕物控』昭和6年〜32年(1931〜1957)
・横溝正史『人形佐七捕物帳』昭和13年〜43年(1938〜1968)
・城昌幸『若さま侍捕物手帖』昭和14年〜43年(1939〜1968)

 いずれも映画化やTVドラマ化によって市民に親しまれている。
 私はまだ各々を少しずつつまみ読みしただけなので、確かな評価はできないのだが、引き続き読んでゆくつもりであることをここに明記した上で、いま現在の感想を書き留めておく。

■1. 半七捕物帳■

『半七捕物帳』に登場する岡っ引きの半七は、作者・岡本綺堂が自ら作中で述べている通り「江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズ」と位置づけられた。全68作で、番外編を入れれば69作。「捕物帳」という言葉を初めてシリーズタイトルに使った作品であるという。
 綺堂は若い時分から西洋文化を学び、英語も読めたので、ホームズ譚を原書で読んだらしい。ホームズ譚もヴィクトリア朝時代の古きよきイギリス、ロンドンの風景が活写されているわけだが、『半七捕物帳』では若い新聞記者だった「わたし」が、元岡っ引きの半七老人宅へ明治の終わりに通うようになり、老人が若かったころの江戸時代の活躍をいろいろと聞いた。それを書き残してゆくのだ、という形式になっている。「わたし」が半七老人から話を聞いたのは、大正の現代からすればいくらか前の出来事なので、2重の懐かしさが入れ子構造になっている。しかも実際に読んでみると、かつて知人から聞いた捕り物話を半七が語る回などもあって、必ずしも全話の主役が半七ではなく、こうなると3重構造のかたちになる。捕物帳小説に疎い私は、『半七捕物帳』メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』にも似た、入れ子構造のナラティヴによる物語であったことさえまったく知らなかった。こういう構造の物語は、かつてのゴシック小説によく見られた。昔の読者は突拍子もない物語に遭遇するとすぐにはリアリティを持って受け入れられなかったため、「これは知人から聞いた奇怪な話であるが……」とか、「浜辺を歩いていたら小瓶を見つけ、このなかに入っていた日記には異国の恐ろしい出来事が記されており、とても私には信じられないが貴重な資料なので紹介する……」といったワンクッションが最初に設けられることが多かった。怪談話の定型である。一方、私個人の見解だが、こうした入れ子構造は心理学上の「心の理論」問題に関わるため、現代では読者側のエンパシー能力が高くないとかえって理解・咀嚼しにくい。
 後に紹介するように評論家・縄田一男氏による『捕物帳の系譜』(中公文庫、初版1995)に拠れば、『半七捕物帳』は執筆時期で前期と後期に区別できるらしく、この間に大正12年の関東大震災が起こっている。震災によって、それまでわずかに残っていた江戸時代の風景も一気に消え失せてしまった。綺堂の筆はその後、喪われた江戸の風景を思い出すかのように、いっそう永遠の実在性――『捕物帳の系譜』の言葉を借りれば「時計のない国」の物語となって、江戸の景色はさらに鮮やかに、克明になっていった。後の捕物帳へと受け継がれる「季の文学」としての側面は、ホームズ譚を受け継いだ綺堂が、大震災を経て目の前から喪われた過去を、「わたし」のみならず「半七」そのものと同化することによって取り戻す物語となったことで生まれたのだ──という縄田氏の解釈は私にもしっくりくる。
 現代でも通用する洗練された格調高い文章で書かれていることには驚かされるが、時代小説を読み慣れていない私には、当初読みどころがわからなかった。全編を収録する光文社文庫版で読み始めたのだが、短編ひとつ読むとひどく疲れてしまって、どうしても1冊読み通せなかった。
 そこで気分を変えて、宮部みゆき編の新潮文庫nex版で再挑戦した。やはり1編読むごとに疲れてしまい、なかなか進まなかったのだが、最後に収録されている「津の国屋」という作品が非常に面白くて惹き込まれ、やっと読み方がわかった気がした。これは怪談形式の物語で、半七が一連の怪異現象の謎に挑み、最終的には合理的な解決がなされる。カバージャケットを見返して、なぜ「江戸探偵怪異譚」と副題がついているのかようやくわかった。綺堂の筆は冒頭から半ばまでの怪談描写で冴え渡り、こちらも心をつかまれているのでぐいぐいと引き寄せられてしまう。昨今流行する「キャラクターもの+あやかしもの+日本情緒もの」のライト文芸の嚆矢と見なすことさえできる。
 ミステリーとしての側面はどうか。まだ1冊読んだだけなので全体像は不明だが、いまのところ綺堂の真骨頂はやはり怪談にあって、『半七捕物帳』はそれを合理的に再解釈する物語回収装置と感じる。生涯にわたって綺堂の愛読者であった作家・都筑道夫は、『半七捕物帳』における手がかり・伏線の提示手法が巧いと賞賛しているが、私自身の子供のころを振り返ると、元祖ホームズ譚はまずあっと驚くようなトリックの数々、あるいは冒頭の謎の鮮烈さが印象的で、それらに魅力を感じていた。『半七捕物帳』にはそのような鮮烈なトリックは(いまのところ)見受けられない。
 ただ縄田氏の『捕物帳の系譜』を読んで「なるほど」と感嘆したのは、都筑のいう通り手がかり・伏線の提示が巧いということはすなわち、半七が江戸市中の事情によく通じており、また秘密の案件や民間の事件をよく持ち込まれるということであり、「岡本綺堂がこうした設定を数多く取った理由は、『半七捕物帳』が範とした“シャーロック・ホームズ譚”がそうであったように、江戸の社会の中で、公に出来ない重大事件や、もしくは、庶民の間で起こった不可思議な事件を解決する私立探偵が登場する必然性を見据えていたからではあるまいか」という点である。半七は岡っ引きだから、公儀の警察機構役人ではない:役柄の高低は与力>同心(ここまでが侍)>岡っ引きで、岡っ引きは町人の協力者に過ぎない]。つまり『半七捕物帳』は、昨今流行の「警察小説」というより、ホームズ譚の私立探偵小説の血筋を引いているのである。ただし捕物帳に出てくる岡っ引きは、現実とは異なってつねに十手を携帯し、まるで警察組織の一部のように事件に飛び込んでゆくことも多い。シャーロック・ホームズも、マイクロフトという兄の存在のおかげで、国家的犯罪にしばしば立ち向かってゆく。
 近年「警察小説」がよく読まれるのは、ミステリーの面白さというより、警察機構に填め込まれた一組織人の悲哀に焦点が当たるようになったからで、一種のサラリーマン小説として多数読者の共感性を獲得できるようになったからだ、と以前に聞いたことがあるが、確かに私の狭い鑑賞歴から思い出してみても、捕物帳の主役の岡っ引き、同心は、子分を数名従えながらも、自由自在に江戸を駆け回っている。捕物帳は最初から私立探偵小説の血を継いでいたのだと考えると、かなりすっと腑に落ちる。卓越した指摘だ。ようやく読み方もわかってきたので、『半七捕物帳』はいずれ全作品を読みたいと思っている。
 TVドラマは尾上菊五郎版の一部(1979)と異色の森繁久彌版(1987)を観た。尾上菊五郎版はお仙役の名取裕子がめちゃくちゃかわいくて惚れ直した。真田広之版『新・半七捕物帳』(1997)もぜひ観たい。やはり最近ようやく知ったのだが、ケーブルテレビのBS・CSチャンネルでは連日たくさんの時代劇が再放送されており、私もその恩恵に与ることができるのである。

■2. 右門捕物帖■

『右門捕物帖』は傑作選集の類いが出ておらず、古本の春陽文庫版で読んだが、1冊読むのにこちらも凄まじい時間がかかった。多くのミステリー読者はご存じの通り、昔の春陽文庫は基本的に2段組みで、読み応えがありすぎる。現行の単行本はなく、5大捕物帳のうちではもっとも忘れられた存在かもしれない。
 だが大正時代から始まった『半七捕物帳』の捕物帳文化をさらに広げ、大衆へと繋ぐ重要な歴史的役割を果たしたのが、佐々木味津三による本作とされる。全38作。『捕物帳の系譜』に拠ると、佐々木はもともと正統派の純文学志向だったが、大衆娯楽小説誌が台頭し始め、その誌面を担う新しい書き手が求められていた。「大衆ものゝかけさうなのは、佐々木味津三と今東光だ」(引用されている榊山潤「佐々木味津三と大衆文学」の一部より)と直木三十五から推薦を受けて大阪の大衆誌に時代ものを書き、それが契機となった。
 その後、兄の病死もあり、周囲から批判の声もあったが、佐々木は30歳で本格的に大衆小説へ乗り出した。2年後の昭和3年から『右門捕物帖』を書き始める。それから急性肺炎で逝去するまで、わずか7年ほどしかなかった。実際に『右門捕物帖』を書いたのは、そのうちの4年でしかなかったという。
 1巻目を読み始めてまず驚いたのが、『半七捕物帳』に比べて事件が派手だということだ。主人公の近藤右門は八丁堀同心で、初っぱなの「第一番てがら」(本連作では、いつも作者が物語の冒頭に「今回は右門の@番てがらです」という一行を置く約束で、これが何ともほんわかと気の抜けた感じを醸し出す)から切支丹宗徒の謀反を食い止める話であるし、二番てがらは血塗られた生首が登場する怪談もどきで、三番てがらは徳川将軍家壊滅を目論む豊臣残党の陰謀譚。右門はかなりの美男子で女装も可能。子分はおしゃべり屋の岡っ引き「伝六」で、この伝六が毎度「親分、大変だ」と転がり込んできては、無口な「むっつり右門」が事件に乗り出し、そこへライバル役の上席同心「あばたの敬四郎」が首を突っ込んでくる──という大衆娯楽捕物帳のフォーミュラが生まれつつあるのがわかる。全体は「です・ます」調で書かれ、まるで講談を聞いている気分だ。作者も自分でしゃべるかのように原稿をしたためていたのだろう。ただし物語は1作ごとに割合と込み入っており、つい講談節に呑まれて「声を出して読む」かのような気分に浸りすぎると、うっかり筋を見失ってしまう。1巻を読んだ限りでは、右門がさほど無口に思えず、「意外としゃべっているじゃないか」と感じてしまうのだが、まあいいか。子分役の伝六のキャラクターがとてもいきいきとして、そのしゃべりっぷりや右門とのかけ合いが痛快。作者自身も伝六には愛着を持っていたらしい。
 残念ながら私は嵐寛寿郎主演の映画版も杉良太郎のドラマ版も未見だが、『右門捕物帖』は戦前にシリーズ映画化されて大ヒットし、ここから捕物帳なるフォーミュラを基盤とする文芸と映像(芝居)の双方的娯楽スタイルが日本で育っていったのだという。捕物帳は小説と映画・ドラマのイメージが切り離せない、よく考えてみれば極めて特異なジャンルとなったのだ。憶えておいていただきたい。まずここがメグレと捕物帳の大きく異なる最初の一点だ。
 作者の佐々木自身も映画版の人気を作中に取り入れていた節があるらしい。イメージの交換がおこなわれている。なかでも『捕物帳の系譜』の指摘で実に興味深いのは、『右門捕物帖』で描かれる江戸の背景は、ヒーロー右門を最大限格好よく見せるための、まるで舞台セットのように書かれているという部分だ。「進み出る右門は、正しく「待ってました!」のかけ声とともに花道に現われた千両役者──」その効果のためには大胆に時代考証が無視される場合さえある、と看破する縄田一男氏の慧眼には驚かされた。

■3. 銭形平次捕物控■

 次に登場するのが野村胡堂『銭形平次捕物控』だ。長短編合わせて全383作、中断時期もあったが27年にわたって書かれたというから、気の遠くなるほどの大仕事だ。近年出た双葉文庫版傑作選集を手始めに1冊読んでみた。
 いかにも昭和の大衆娯楽読み物で、するすると読みやすく面白い。月刊化した《オール讀物》創刊号からの連載だそうだ。胡堂は『半七捕物帳』が好きだったようであるし、かつ大衆娯楽小説の定石も踏まえて『右門捕物帖』の「です・ます」調を継承。そして独自の得意技を主役に与えた。投げ銭である。平次は実はあまり投げ銭をしない、というトリビアは以前から聞いていたが、本当にめったに寛永通宝を投げない。だが「銭形」と通称で呼ばれることから、読者はつねに平次の得意技を思い起こすことになり、それはキャラクター設定の強化に繋がる。子分の「八五郎」(通称ガラッ八)とのテンポよいかけ合いも実に気持ちよく、『右門捕物帖』と講談の流れを継いでいる。へえ、そうか、「ガラッ八」という名のキャラクターはここから来ていたのか、とようやく思い出した次第(親指で鼻先を弾き、「へい、親分、合点だ!」といって走り出す)。子供のころ観ていたドラマの主役が誰だったのか、すぐには思い出せなかったが、♪「男だったら 一つにかける〜」という舟木一夫の歌は憶えているから大川橋蔵版だろう。風間杜夫版(1987)はスペシャル3作分を含め新たに観た。
 私にとってはこの銭形平次が捕物帳の原体験であり、王道である。だが『銭形平次・青春篇』(講談社大衆文学館、1996)の巻末解説「人と作品」で評論家の新保博久氏は、胡堂の対談記事まで調査し、先輩の綺堂先生がホームズから想を得たのなら自分はルパンで行こうと、当初胡堂は義賊アルセーヌ・ルパンを平次のキャラクターのモデルにしようとしていたらしいことを示唆していたのには驚いた。ただし新保氏も書いている通り、結局のところ平次は、ルパンとまるで違った人物像となったのだけれども。
 作者の胡堂は、『銭形平次捕物控』を書くにあたって4つの心構えを決めたという。

 、 容易に罪人をつくらないこと。
 、 町人と土民に愛着を持つこと。
 、 サムライや遊人を徹底的にやっつけること。
 、 全体として明るく健康的な読みものにすること。

 明朗快活、勧善懲悪、庶民に愛される娯楽読みものを目指すということである。『銭形平次捕物控』で捕物帳のフォーマットが完成を見たのだとするならば、この立ち位置はやはりメグレとは大きく異なる。メグレシリーズは上記4ヵ条とはまったく相容れないからである。
 今回の原稿を書くにあたり、私は極力先入観を持たないよう、素の状態で各作品の傑作選ないし最初の巻をまず1冊ずつ読んでみた。その後、縄田一男『捕物帳の系譜』を読んだのだが、この縄田氏の評論には教えられるところ多々あり、これを通してようやく読み方の糸口が摑めた作品もある。この『捕物帳の系譜』は5大捕物帳のうち最初の3作、『半七捕物帳』『右門捕物帖』『銭形平次捕物控』の成り立ちと特徴を丹念に読み解くことで、捕物帳の精神性の形成過程を浮き彫りにしていった重要な評論だ。原型は縄田氏の修士論文だったらしい。私は理系出身なので、どうすれば人文系の修士号が取得できるのか知らないが、おそらくはそれまで漠然と論じられてきた捕物帳というジャンルを、ここまで明晰に考察し全体像をまとめ上げた功績は大きかったろうと想像する。
 残念ながら『捕物帳の系譜』において最後の『銭形平次捕物控』だけは、全体の作品数があまりにも多いためか、他に比べて考察がやや浅い印象を受ける。ただし捕物帳が確立した『銭形平次捕物控』では「法の無可有郷ユートピア」としての幻想の江戸が書かれたのだ、という縄田氏の結論は、『捕物帳の系譜』の主軸を成す主張であり、説得力がある。元祖・綺堂は『半七捕物帳』で江戸の疑似郷愁を描いたが、時代が下って先達を受け継いだ胡堂には「法の無可有郷ユートピア」の江戸があったというのである。縄田氏は『捕物帳の系譜』第一章で次のように書いている。

(前略)つまり、もっとくだけていえば、この論考は、半七にはじまった捕物帳の世界の中で、銭形平次という一介の岡っ引きが、サムライ相手に、なぜあれほど偉そうな口を利けるようになったのか、そうなるための道筋を明らかにするための試みである、といえるかもしれない。

 これは卓越した着眼点であるし、まさにメグレと捕物帳の違いを明確に語り尽くしている部分だともいえる。
 それにしても全383作という『銭形平次捕物控』の量は尋常ではない。なぜひとりの作家がこれほど大量の連作を書けたのだろう。そして自分でもいま驚いているのは、とりあえず楽しく1冊を読んだというのに、1ヵ月も経たずして、もうすべての物語の内容を自分が忘れているという事実なのである。これはいったいなぜなのだろう。ともかくこの全383作という膨大な数には興味を惹かれる。もし私が人工知能(AI)研究者なら、全話をコンピュータにぶっ込んでストーリー構造やいい回しを解析させ、銭形平次の新作をつくらせてみたい欲求に駆られる。たぶんこれは実現しようとすればできる。ショートショートの次に短編を狙うなら捕物帳がよいのではないか。
 新保博久氏は先に紹介した『銭形平次・青春篇』の巻末解説「人と作品」で屈指のストーリーテラー都筑道夫、高橋克彦の言葉を引き、前者からは「胡堂は長篇タイプの作家なのだ。銭形平次四百篇をもって知られる作者を、長篇作家というのは、おかしいようだが、短篇の場合でも、胡堂は多くノベル(長篇)あるいはノベレット(中篇)の構成法をあてはめている」、また後者からは「平次物は胡堂の作家活動の余技といった気さえ私はしている。……胡堂の真髄は奇談と冒険物にある」と紹介しており、興味深い視点である。高橋克彦は同じく講談社大衆文学館刊行の胡堂『美男狩』収載の「巻末エッセイ」でも熱烈な文章を寄せている。このあたりにまだ私のわかっていない部分の手がかりがありそうだ。

■4. 人形佐七捕物帳■

 横溝正史は10代から20代にかけてソノラマ文庫や角川文庫でたくさん読んだが、『人形佐七捕物帳』は手をつけていなかった。若いころ私はまったく時代物に興味がなかったのである。
 もともと私は横溝ファンなので、この人形佐七シリーズは面白く読める。海外ミステリーからのトリックの流用が明白な作品もあるが、そこは作者・正史のうまいところで、江戸文化に溶け込ませており感心させられる。主人公である神田お玉が池の岡っ引き、佐七は人形のような美男子なので、人形佐七親分と呼ばれているわけだが、独身ではなくてちゃんと妻の「おくめ」がいる。子分は江戸っ子の辰と上方っ子の豆六。作者の正史は、『半七捕物帳』の「津の国屋」事件に人形常という男が出てくるので、そこから人形佐七の名前が決まった、といっていたらしい。

 正史は自作のリメイクをよくおこなった作家であり、他の捕物帳作品を人形佐七作品に書き換えることもあった。私自身は全作を読むつもりはないが、手元の傑作選集数冊を読み尽くすくらいはしたい。いまは完本が出ているので、全作を読もうとすれば読める。なお選集としてはコスミック・時代文庫版(2010)の1冊はバランスが取れていて、入門編に最適と思う。
 ドラマは要潤版(2016)と林与一版(1971)を観た。要版はなぜか佐七役の要潤が最初にスポットライトを浴びて登場し、そして劇中のクライマックスで「からくり、見切ったぜ!」とカメラ目線で見得を切るのが定番で、「おまえは古畑任三郎かよ!」「『ガリレオ』かよ!」とツッコミを入れたくなる。まあしかしお粂役の矢田亜希子が意外とかわいいので許す。林与一版は凡作だと思うが、オープニング主題歌の美空ひばり「江戸ッ子佐七」とエンディングの村田英雄「人形佐七」が、これ以上はないというくらい超定番のメロディと歌詞で、「これでいいならAIでつくれるよ」と感じてしまうほど。実際、どちらの曲も10分くらいでつくったのではないか。だが気がつくとつい風呂場でくちずさんでいるのだからフォーミュラとは恐ろしい。

■5. 若さま侍捕物手帖■

 ショートショート・ミステリーの先駆者でもあった城昌幸『若さま侍捕物手帖』も、中公文庫版《時代小説英雄列伝》の選集から数編を読んだだけだが、「ハッハッハ!」と高らかに笑う若さまのキャラクターが最高に愛らしく面白い。5大捕物帳のなかで本作の大きな特徴は、主人公が同心や岡っ引きではなく、どこの誰とも知れない(しかし立ち振る舞いその他から、高貴な血筋の者らしいとわかる)若侍であるという点だ。いつも柳橋の船宿で、若いおきゃんな娘「おいと」を相手にごろごろしている粋な若さまだが、何だかんだで与力の佐々島俊蔵などが事件話を持ち込んできて、興味を惹かれ腰を上げる。ときには自ら出向いて捜査にも当たる。長・中・短編合わせて計277編が確認されているそうで、現在はオンデマンド出版のかたちで捕物出版から全集が出ている。
 東映製作版の映画10作(1956〜1962)から3作を観たが、当時の特徴的なカラーフィルムが鮮やかで、主役の大川橋蔵はまさに当たり役。「これぞ明朗快活時代劇!」と快哉を叫びたくなる颯爽たる出来映え。意外とミステリーとしてもしっかりしている。また原作にはめったに出てこない剣戟部分も立ち回りがよくて見応えがある。映画版はお薦めだ。
 改めて本作の特徴を見ると、つまり「若さま」は本名さえわからない素人探偵である。映画版では、毎回の舞台に変化をつけて華やかさを演出するためだろう、若さまが旅先で事件に遭遇するという設定も多いのだが、本来若さまは与力でも同心でもないから、民間の事件に関わる道理はない。だから若さまはあくまで趣味で関わっているのであって、しかもふだんは船宿でごろごろしているのだから、これは安楽椅子探偵ものである。縄田氏の解説に拠ると本作がバロネス・オルツィ『隅の老人』に似ていると最初に指摘したのは大衆小説研究家の真鍋元之氏だったそうだが、たいていのミステリー読者なら本作から『隅の老人』を連想するのは容易だろう。捕物帳の新たな地平を拓き、ジャンル小説としての捕物帳の可能性を大きく広げ、未来へ繋いだ作品群だといえると思う。

 捕物帳は股旅ものと並んで戦後によく読まれた。好戦的描写がGHQにより規制された時期、作家たちは刀でなく十手をかざす捕物帳というジャンルに活路を見出したのだった。昭和24年(1949年)には作家団体「捕物作家クラブ」もできて、探偵小説作家の江戸川乱歩や横溝正史も在籍した。設立には乱歩の尽力もあった。捕り物ジャンルは「探偵作家クラブ」(後の日本推理作家協会)とは区別した方がよいという意見が当時あり、そのため別途新しいクラブがつくられたのだ。しかし捕物帳はある時期から急速に人気を失い、クラブも昭和35年(1960年)に「日本作家クラブ」へと改称した。ここからさらに発展した団体に、現在の「日本文芸家クラブ」がある。私は日本文芸家クラブの会員ではなく交流もないが、日本の大衆文芸をずっと支えてきた団体だとの印象がある。
 つまり私の印象では、捕物帳とは大衆文芸の代表的ジャンルだった。つねに映画やTVドラマ、舞台といった、やはり大衆の娯楽と一体であり、相互的に生き続けてきた。だがいつからか、高齢者が読むジャンルとのイメージが定着した。かつて文庫本の活字はとても小さかったが、いま時代小説や捕り物小説の活字は大きく、ゆったりと組まれている。老眼にも優しいつくりとなった。ちょうど先日、TVドラマ『アンサング・シンデレラ』第4話を観ていたら、末期がんで入院中の老人という設定の伊武雅刀が、病室のテーブルに数冊の『[決定版]鬼平犯科帳』(文春文庫)を積んで読んでいるシーンが出てきた。カバージャケットと背表紙の色からすぐにわかった。高齢者が病室で日向ぼっこをしながら読む小説、それが現在の捕物帳のイメージなのである。
 縄田氏は『捕物帳の系譜』の「あとがき」で、この本では半七、右門、平次の流れを見てきたが、厳密にいえばさらに特筆すべき作品はいくつかあると、具体的に名を挙げている。だが戦後まで基本的な捕物帳の性格や意味づけに基本的な変化はなかったとした上で、

 棋界に質的な変化があらわれるのは、松本清張が自身の社会派推理の手法を応用した『彩色江戸切絵図』(昭39)を問い、フランスのギャング映画の感覚で、江戸の町に暗黒街を想定、火付盗賊改方と盗人たちの人間関係をリアルに描いた池波正太郎の『鬼平犯科帳』(昭43)が登場するあたりまで待たねばならない。
 が、それは後の課題。(後略)

 と書き記した。
 縄田氏の『捕物帳の系譜』は、私のような初心者にとっては極めて有益な評論書であって、ここに書かれている見方はほぼ正統な歴史観とさえ思え、逆にいえば縄田氏が本書を著すまで捕物帳の文学的評価はまともに定まっていなかったのかと訝りを覚えるほどだ。
 だが、『捕物帳の系譜』はあまりにも正統的すぎて、いったんこれを読むと、これ以外の読み解き方ができなくなってしまう危険性も孕んでいると、私は直感的に恐れる。ちょうどシムノンの小説に対し、江戸川乱歩と長島良三氏以降、日本では誰も彼もがずっと無意識のうちに判で捺したが如き同じ評価を繰り返してきてしまった歴史があったように。縄田氏の記述にも、松本清張=社会派、池波正太郎=フランスのギャング映画、という定型式があまりに断定的に書かれていて、かえって不安を覚える。
 だから捕物帳初心者である私は思う。いま縄田一男氏とは違う捕物帳史観を展開している評論家はどのくらい存在するのだろう? ぜひいろいろと読んで比較してみたい。何しろ『捕物帳の系譜』の初版からすでに25年が経っている。
 きちんと調査はできていないが、メグレものと捕物帳小説を詳しく比較した文芸評論を、私はいまのところ発見できていない。ミステリー評論家や時代小説評論家がメグレと捕物帳の関係性を詳しく論じた文章は見当たらない。もしご存じであれば、ぜひご教示いただきたい。
 だからメグレと捕物帳の類似性は、いまのところ、いわゆる都市伝説の類いに過ぎない。だが縄田氏の『捕物帳の系譜』を読んで、あっと思ったことはひとつある。
 先ほど引用した部分がそれだ。縄田氏が挙げた松本清張と池波正太郎は、どちらもシムノン愛好者だったのである。

■メグレと捕物帳は似ているのか■

 まず捕物帳小説とそのTVドラマや映画版に接してはっきりわかったことがある。「メグレは捕物帳に似ている」という従来の言説は、捕物帳の原作を読んでのものではなく、ドラマや映画のイメージに引きずられてのものだろう、ということだ。
 あえて5大捕物帳とメグレが似ていると思われる点を挙げるとこうなる。

・親分と子分が手分けして事件の捜査に当たる。
 なるほど、メグレは部下の刑事たちから「親分パトロン」と呼ばれている。だがメグレとリュカやジャンヴィエとの関係は、平次親分とガラッ八の関係とはぜんぜん違う。
 あえて類似性を見出すならば、後述する『鬼平犯科帳』におけるファミリー性だろう。火付盗賊改方長官の長谷川平蔵をメグレだとすると、筆頭与力の佐嶋忠介が質実剛健なジャンヴィエ、筆頭同心の酒井祐助がトランス、「うさぎ」と渾名される同心の木村忠吾が、第一期後半以降のコミックリリーフ、リュカとなるだろうか。しかし後述するように、やはりメグレものと『鬼平犯科帳』には大きく異なる点がある。

・舞台となる都市の季節や情緒を描き込んでいる。
 だが捕物帳は昔話であり、メグレは現在進行形の物語である。いまとなってはメグレが行くパリの街も過去のものとなったが、作者シムノンには過去を回顧するつもりはなかったはずだ。またメグレは頻繁にパリから離れる。メグレ=パリ、というイメージは第三期以降のものである。
 なるほど、時代小説でも季節の移り変わりや、それらを象徴する行事は、おそらく巧みに取り入れられてきただろう。シムノンの小説にも定番の季節描写がある。たとえば万聖節、雪のクリスマス(ノエル)、冷たいパリの雨、鮮やかな紺碧海岸の陽射し、ノルマンディーの港町の朝霧、そして忘れてはいけない、シムノンならではの、ぽっかりと時空間が空いたかのような「日曜日」である。
 これらは古きよき時代への郷愁というよりも、私見ではむしろレイ・ブラッドベリが、たとえば『たんぽぽのお酒』などで描いた少年時代の鮮烈な想い出の光景に近い。ペンネームを棄ててからのシムノンは、つねにかつて自分が見た光景、あるいはいま身近に広がる光景をそのまま描いている。だから普遍性があり、誰もが似た光景をかつて見ているから、その思い出が呼び覚まされるのである。シムノンが描いていたのは見知らぬ「ユートピア」ではない。おのれの記憶にある現実なのだ。

・何か事件が起こって、最後に解決を見せるが、ミステリーとしてのトリックやプロットには重きを置かない(ぬるいミステリーである)。
 ここがメグレと捕物帳の両者に対する大衆のいちばんの誤解である。第62回でも引用したように、作家の都筑道夫はこの点に大変な怒りを表明していた。
 ただし、旧来から捕物帳がミステリーの範疇に入らないと見なされてきたことは事実だろうと思う。もともと「探偵作家クラブ」と区別するかたちで「捕物作家クラブ」がつくられたのだし、先に示した新保博久氏の解説に拠れば、「(前略)乱歩は胡堂を恩人の一人と考えていたのだが、個人への好意と作品評価は峻別するという性格でもあったから、銭形平次を含め捕物帳一般を探偵小説的にはそれほど評価していなかったようだ。八百種を網羅した「類別トリック集成」(『宝石』昭28・9〜10)でも、捕物帳は全く無視している」と歴史上の経緯を解説した上で、「私は銭形平次の全篇を読んだわけではないが、それでもトリック的に見るべきものは少ないだろうと想像はつく」と述べ、読みどころはむしろ別にあるという見方を示している。私自身、これまで「推理小説のトリック類別リスト」みたいなものは何度か目を通してきたが、いわれてみれば捕物帳からの紹介は記憶にない。
 とはいえ、実はシムノンのメグレものも、いわゆる「トリック類別リスト」で言及された例はほとんどないのだ。私が思い出せる限りだと、間羊太郎『ミステリ百科事典』『黄色い犬』第5回)のトリックが紹介されただけだ。「メグレものは心理犯罪小説である」という先入観が選者側にあって、無意識に検討対象から外していたのかもしれない。そう考えると、これまでのミステリー関係者のなかに、捕物帳に対する他者意識が根強く残っていたとする見方も決して否定はできない。
 だが、それでは捕物帳のなかで、ホームズ譚の「まだらの紐」に匹敵する革命的トリックが披露されたことはあったのだろうか、と考えても、私には思い当たるものがない。そもそも「トリック類別リスト」をつくること自体、ジャンル小説勃興・発展期のみに許されるミステリーファンの遊びに過ぎないのではないか。ちょうどSF初期に「タイムトラベルもの」「ベム(異星人)もの」などとサブジャンルに区分して「百科」と銘打つ本が出ていたように。
 ひとつのジャンルに生涯固執する作家もいれば、さまざまなジャンルを手がける作家もいる。たんにそれだけのことに過ぎないわけだが、私たちはその当たり前のことにいろいろ振り回されてしまうものだ。
 かつてはミステリーの書き手が捕物帳を書くこともあった(いまもある)。たとえば「捕物作家クラブ」では会員の遊び心も手伝ったのだろう、岡っ引き「伝七」を主人公とした設定の大枠をまずつくって、ミステリー作家を含む会員複数名で競作した『黒門町伝七捕物帳』(縄田一男編、光文社時代小説文庫)という実作例もあった。この本には横溝正史や高木彬光の作品も入っている。では、さて、この本を雑誌の書評欄で取り上げるとき、いったい誰が書評を担当すればよいだろう? 近年の雑誌や新聞の書評欄では、たいていジャンルごとに枠が決められており、執筆担当者もそれとなく雰囲気で定められてしまうものだ。
 たとえば瀬名秀明の書いた小説は、昔はミステリー評論家が担当していたのに、いまはSF評論家がやることになってしまった。ミステリー評論家は瀬名の作品を取り上げない。するとSFおたくコミュニティと断絶した経緯を持つ瀬名秀明は、もう金輪際評論家から相手にされないことになる。最近、一部のSF評論家が再び書くようになったが、読むと「本当はこんな仕事、やりたくない。瀬名のことは思い出したくない」という痛々しさが伝わってきて、かえって申し訳ない気持ちになる。2017年、日本推理作家協会の新年会に久しぶりに出たとき、会員のSF作家(日本SF作家クラブ会員でもある人たち)らが私のやってくるのを見ると氷のように硬直し、私がロビーのソファで横に座ると明らかに挙動不審に陥って、早く立ち去ってほしいとのオーラを発し(私はそのときいわなかったが、この人は以前に私の名をツイッターで挙げて批判していた)、あるいは会場で目の前にいるのがはっきりわかるはずなのに視線も合わせず通り過ぎてゆく、そのあまりにもわかりやすい行動ぶりに驚愕したものだ。彼らを狼狽させるのは申し訳ないと思い、それにもちろん正直に書けば私自身も傷ついたので、それ以来足を運んでいない。だがその懇親会が、私にとって心の師である眉村卓さんとの最後の挨拶となった。眉村さんは分け隔てなく自ら私に声をかけ、楽しそうに私とずっと会話をしてくださった。眉村さんは私の横でビンゴを当てた。
 一方、瀬名秀明がこうしてシムノンの感想文を書いても大方のミステリー読者は言及しない。本連載「シムノンを読む」は、《翻訳ミステリー大賞シンジケートブログ》で際立って「いいね」やリツイートの数が少ない連載である。まるで避けられるかのように、はっきり集計でわかるほど反応が薄い。仲間と認められていないからだろう。これが人間社会の宿命である。
 そうした些細な表出は、しかし新型コロナウイルス・パンデミックで炙り出された人間社会の本質、すなわち人は互いに仲間と認めるもの同士でしか連帯できず、そこから外れた他者のことは想像できない、という脳神経活動の宿命的機能と切り離すことはできないのである。読書とは直接は無関係だ、と思われるかもしれない。だが間接的には関係がある。20年ほど前から、出版業界は急速に「共感シンパシー」によって書物の成功度、達成度を測るようになってしまった。編集者も人間であるから、褒める書評を見かければ嬉しくなる。営業にプッシュしたくなる。《読書メーター》読みたい本ランキング1位を獲るには金を払って一定の宣伝を仕掛ければよいのだが、あたかも共感の輪が広がったかのような錯覚を人々に抱かせることができる。ツイッターや《ネットギャリー》で感想を記した人に対し、作者や編集者が反応すれば、読者側も「自分は特別な存在だ」と舞い上がり、応援を続けたくなる。だがそれは、読者みんなが仲間になってくれるという大前提のもとで成り立つ幻想だ。そしてそうした小さな仲間意識がいくつも生まれ、連帯が生じるということは、俯瞰的に見れば世界で無数の分断が生まれていることになる。連帯と分断は表裏一体だ。
 私たちは人間であるから、今後も仲間社会における馴れ合いは残り、そうしたコミュニティ内の人々も生き長らえるであろう。そしていつまでも人々は、パンデミックで右往左往し、バイアスを伴う正義感を振りかざしてウェブ上で誰かを罵倒し、きっと何人かの自殺者を出すだろう。本当にそれでいいのか、というのが私の終始変わらぬ問いである。「他者への想像力」「思いやり」を私が説いているのはそれゆえだ。すべての問題は繋がっている。

・人情や人間の機微を描いている。
 いや、必ずしもそんなことはない。これもイメージ先行の思い込みであろう。
 ただし、捕物帳がつねに映画やTVドラマ、芝居との相互作用によってイメージ形成したことを考えると、捕物帳が人情や人間の機微を描いて大衆に愛されてきた、という意見は決して間違いではない。先に紹介した捕物作家クラブの『伝七捕物帳』は、近年中村梅雀主演でドラマ化されたが、登場人物たちの内面をしっとりと丁寧に描き出し、しかも捕物帳の王道展開をしっかり組み入れた秀作だった。原作の小説は、現在光文社時代小説文庫から、競作集『黒門町伝七捕物帳』と、その設定の基礎づくりにもっとも貢献した陣出達朗単独による傑作選集『伝七捕物帳』の2冊が入手できる。だが前者の競作集は山手樹一郎、村上元三、高木彬光、横溝正史、野村胡堂など大御所が揃っているのに、なぜか信じがたいほどつまらない(唯一面白かったのは、いちばん作者の知名度が低い邦枝完二「乳を刺す」)。陣出達朗版は「です・ます」調を踏襲し、読みやすく、それなりに楽しめる。だが驚いたのは中村梅雀版ドラマの高い完成度、その面白さ、豊かさであった。
「伝七」という名前自体、二番煎じ、パチもの感が濃厚であり、まあ読み捨て小説の類いだろうと昔は思っていた。ところがCSチャンネルで再放送している中村梅雀版がとても面白く、原作本も買って読み、ドラマ版がいかに優れているか再確認することとなった。たとえば伝七の下っ引きは、原作だと「獅子っ鼻の竹」(後に「がってん勘太」「かんざしの文治」)が務めるのだが、あまりはっきりとした個性はない。だがドラマでは「がってんの勘太」と「かんざしの文治」の各々をちゃんと描き分け、とくにシーズン1では彼らの成長を描くことで、人間ドラマに厚みを持たせることに成功している。後述の『鬼平犯科帳』を除けば、いまのところ私がいちばん好きな捕物帳ドラマだ。
 この中村梅雀版ドラマを観たなら、「捕物帳ってそんなに悪いものでもないなあ」と思える。「捕物帳は人間の機微を描いている」という意見にも頷けるのである。
 また、中村梅雀版ドラマの成功実例は、AIで捕物帳を創作できる可能性も示唆している。競作形式で始まった(逆にいえば個性の薄い)『伝七捕物帳』もここまで面白く再構築できるなら、競作のひとりにAIを加えてもよいはずだ。しかしこういう研究は、将棋AIでもそうだが、そもそも研究対象が大好きな人でないとよいAIを設計できない。捕物帳が大好きなAI研究者の登場を切望する。AIも人情や人間の機微を書けるかもしれない。

・数多くの作品が書かれ、かつ大衆に愛された。
 これもやはり、小説よりも映画やドラマとの連想から生じる錯覚だろう。捕物帳は映像や芝居の方が大衆に親しまれているから、「メグレと似ている」と語られるときは、おそらくほとんどの場合、「メグレの小説」と「捕物帳の映像版」が比較されているのだと思われる。メグレも多数映像化されたが、実は決定版と呼ばれるものはなく、日本でもさほど放送されたことがないので人口に膾炙していない。俳優ジャン・ギャバンのメグレは当たり役だといわれるが、実はたった3作の映画にしか出ていない。日本の捕物帳映画のように十数作もつくられ国民的な人気を博したわけではないのである。
 そしてさらに踏み込んで考えてみると、ここまで述べてきたように、決して映像版の5大捕物帳も、さほどメグレものには似ていない。
 よって、「メグレは捕物帳と似ている」という話が出るとき、おそらくその人が頭に描いているのはこうした捕物帳ではなく、池波正太郎の『鬼平犯科帳』ただひとつ、さらに正確にいえば中村吉右衛門主演のドラマ版(1989〜2016)なのである。
 ようやく核心に近づいてきた。ではメグレは『鬼平犯科帳』と本当に似ているのか。ここに手をつけなければ話は終わらない。

●番外編3 メグレと鬼平(後篇)につづく。●

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。
『石の花』などで知られる漫画家・坂口尚氏の未完コミック作品をリブート、小説化した長篇『紀元ギルシア』が、《WEBコミックトム》にて連載中(http://www.usio.co.jp/read/kigen_greecia/index.html)。




 
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