「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江) 

 ハーバート・ブリーン『真実の問題』(1956)を初めて読んだ時、悪徳警官ものだと頭の中でジャンル分けした覚えがあります。
 『殺人のためのバッジ』(1951)や『悪徳警官』(1954)といったW・P・マッギヴァーンの悪徳警官ものを直前に読んでいたからだと思います。成る程、これもそうみたいだ、と同じ箱に放り込んでしまったのです。
 特に『悪徳警官』とは、前半で罪を犯した警官が後半でそれを償うように奔走するという筋も重なり、ほぼ同一の話のように感じたことを覚えています。
 しかし、数年ぶりに『真実の問題』を読み返してみて、その印象が大きく変わりました。
 そもそも、悪徳警官ものではないじゃないか、と思い直したのです。
 だって、この作品の主人公オニール・ライアンは、悪徳警官にすらなりきれていないじゃないか。

   *

 刑事になったばかりの青年オニール・ライアンと、もう少しで定年退職の老刑事エドマンド・ジャブロンスキーの二人はその夜、マンハッタンのはずれで二重尾行を仕掛けていた。
 昼間に起きた強盗殺人事件の容疑者ハリイ・ダービイらしい男を見つけたのだ。
 二人は安下宿までダービイを追い詰めることに成功したが、逮捕直前で、ジャブロンスキーの不注意で決定的な証拠である百ドル紙幣を燃やされてしまう。
 このままじゃ逮捕はできても、公判でひっくり返されてしまう。そう地団駄を踏んだところで、ジャブロンスキーはライアンへ一つ、提案をした。
 ライアンが昼に現場で拾っていた凶器のランプの欠片を砕いて、ダービイの服に吹き掛ければ、百ドル紙幣の代わりとして十分な証拠になるんじゃないか……
 ダービイが犯人なのは間違いない。こいつを電気椅子に送るちょっとした手助けをしてやるだけだ。ライアンは自分にそう言い聞かせ、話に応じた。
 凶悪犯を逮捕した二人は一夜にして街の英雄になったが、というのが本書の粗筋です。
 巻末の解説で都筑道夫は、デビュー作の『ワイルダー一家の失踪』(1948)からブリーンが書き続けてきた一連の本格探偵小説とは打って変わった小説で実話作家である彼の本職の要素が出た作品であると評価しています。
 まさしくその通りで、謎解きミステリとして、ではなく、もっと広いジャンルのミステリとして書かれたのであろう作品です。
 厳密には謎解きの要素がないわけではないのですが、物語の大半は証拠の捏造という罪を犯してしまったライアンがどのように悩むか、という部分に割かれています。
 あの場では、そうするしかないと思われた行為ですが、ライアンは事が終わって早々に後悔するようになります。
 ライアンの家にダービイの弟が「犯行日時、兄は自分と一緒にいた」とアリバイを証明しにやってきて、彼が本当に犯人かどうかも段々と疑わしくなってくる。
 さらには、ピュリッツァー賞を受賞したヤリ手の新聞記者が、ライアンとジャブロンスキーのことを胡散臭いと嗅ぎつけたらしい。
 ライアンの不安はどんどん高まっていきます。
 しかし、彼は中々、行動を起こしません。
 自分たちがした本当のことを上司へ報告することもしなければ、ダービイが犯人でないのなら一体誰が、と捜査をすることもしない。かといって、自分の罪を忘れて仮初めの栄光に良い気になることもない。
 彼はどちらにも転べず、針のむしろに座るような立場で居続けるのです。
 ここが、本書の最大のポイントであるように思います。
 ライアンは、自分のことを不正を犯したと告白できない。かといって、街の英雄のフリもできない。
 それがどうしてなのか、というところをブリーンはこの小説で掘り下げていくのです。
 
   *
 
 何故、ライアンは煮え切らないままなのか。
 本人にも分からないこの謎に対する答えは、物語の中盤のあるシーンで示されます。
 ダービイが犯人じゃないらしいという物証を偶然から掴んでしまったライアンが、ジャブロンスキーに直談判をしにいく場面です。
 もう、これでダービイ以外に真犯人がいるのは間違いないと威勢よく言ったライアンですが、ジャブロンスキーに言いくるめられてしまうのです。
 本当に間違いがないのか? だとしても、わざわざそれを言う意味はあるのか? 真犯人が他にいるのか、あるいは、やはりダービイが犯人なのかはどのみち法廷で証明されるんじゃないのか?
 決定的な証拠がなければダービイに逃げられてしまう、と証拠を捏造したことを思えば噴飯ものの言い訳ですが、ライアンはこれに「確かに」と納得してしまうのです。
 自分の手元にある証拠品をちゃんと鑑識に回して確定させることもせず、ただ、裁判が始まるのを待つ。猶予ができた、とホッとしながら。
 ライアンの態度の理由が、これで分かります。
 彼は、責任を負うことから逃げているのです。
 自分以外の誰かの手で事が終わってくれるのなら、一番良い。ライアンの行動の裏にあるのは、そういう思いです。
 正義の行動にしろ、悪の行動にしろ、自分の判断でしてしまうと、その裏には責任がつきまとう。それが怖い。
 そもそもの始まりである証拠の捏造が、ライアンが望んで行ったというよりも、ジャブロンスキーに流されてやったことであるというのもあるのでしょう。
 ライアンはただ、中途半端な位置で、誰かが事を動かしてくれるのを待ち続けます。
 ここが、本書の読みどころでしょう。
 実のところ、問題となっているのは事件の真相ではない。たとえ無実であったとしても正真正銘の悪人を野に放ってしまって良いのかという倫理の問題でもない。
 ライアンの責任、という部分こそが眼目なのです。
 
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 ライアンの無責任な態度は、やがて、許されなくなります。
 ライアン自身が動かない限り、この状況が変わることは決してないということを思い知らされ、動かざるを得なくなるのです。
 そして、彼が懸念していた通り、肩の上に責任が重く、重くのしかかってくる。
 自分はどうしたいのか。どう思っているのか。どうしてこんなことをするのか……逃げ続けていた疑問に一つ一つ答えを出しながら、彼なりの真実を探し出そうとしていく展開は、とにかく泥臭い。
 だからこそ読ませるのです。
 ここからラストシーンに至るまでのストーリーは、登場するキャラクターも、起こる出来事も、ある種、前半部分のリフレインのような形で描かれます。けれども、読み心地は全く違う。それは、ライアンが自分自身の責任で全ての行動をしているからでしょう。
 
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 冒頭で、本書は『殺人のためのバッジ』や『悪徳警官』とは違って悪徳警官ものではないと書きましたが、一方でW・P・マッギヴァーンの作風とは、とても近い一作であるように思います。
 自分でも間違っていると分かっていることをやってしまった男の心を丁寧に描く。安っぽい綺麗事ではないところで、その間違いを彼がどう正すのか、あるいは正せないのかを語る。
 汚れてしまった人間を、全肯定も全否定もしない。ただ、その人間の弱さと、それでも心の中に残っている正しくあろうとする意志を拾い上げる。
 この部分の描き方が、マッギヴァーンもブリーンも共通していて、僕は二人の作品に同じ暖かさを感じるのです。
 『真実の問題』、忘れがたい力強さのある一冊です。

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人四年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby