この数年、「文化の盗用」という言葉を耳にすることが多くなった。他の文化を自分のもののように扱うことを指すのだが、実際はこんなふうにかんたんにまとめられるような事象ではなく、どういう出自の人がどういった文化を流用するかによって、捉え方がまるっきり異なってくるというのがポイントで、マジョリティに属する人ががマイノリティの文化を自身の表現に流用する場合は、特に問題になりやすいと言えるだろう。ただ、これもすべてが問題になるというわけではなく、問題になるかならないかは結局のところ個別の事例ごとに考えていかなければならないのだろうと思う。

 たとえば数年前、あるお笑いタレントがバラエティ番組で顔を黒塗りにしたとき、海外では「人種差別的だ」とか「文化的な配慮に欠ける」などの批判が起こった。こういった批判に対しては「黒人文化へのリスペクトがあればいいじゃないか」という反対意見があったように記憶している。しかし「リスペクトしている」と言うのなら、その人はそれまでに何らかの形でその文化に対する敬意を表明していなくてはならない。それなくしてリスペクトしているとは絶対言えないはずだ。件のお笑いタレントは、それまでに黒人文化への敬意を自らの発言や行動で示してきたことがあるのだろうか。その文化を理解しようとしてきただろうか。それがない限り、黒塗りという行為は、ただ単に黒人を侮辱しているだけということになってしまうのである(※)。

「ある文化の表層だけをすくって自分の表現に取り入れているように周囲から見られてしまう」

 表現が「文化の盗用」と呼ばれ批判されることになる要因はこの点にあるのだと思う。他者の文化を自身の表現に取り入れる「覚悟」が伺えないものについては、当事者はもちろんその文化に関わっているすべての人々から厳しい評価が下される、ということなのだろう。

 なぜこのようなことを書いているのかというと、ジャニーン・カミンズ『夕陽の道を北へゆけ』(宇佐川晶子訳 早川書房)が、このような批判を受けたという記事を少し前に読んだからである。小説、しかも商業出版されている作品で、批判を受けるような文化の盗用が起こりうるのか、と思ったのである。

 メキシコはアカプルコで小さな書店を経営するリディアとその息子ルカは、ジャーナリストである夫が書いた記事が原因で、夫を含む家族16人を麻薬カルテルによって惨殺されるという悲運に見舞われる。たまたまトイレにいた二人は生き延びることができたのだが、そのことがカルテルに知れるのは時間の問題で、知れたとたん二人とも殺されてしまうことは目に見えている。リディアはこのような状況にあって、息子ルカだけはどんな手段を使っても守らねばという覚悟を新たにする。カルテルから逃げ延びるには北、すなわちアメリカ合衆国を目指すしかない。かくてここに、母子の逃亡譚が始まるのであった。

 翻訳ミステリの読者であれば、メキシコの麻薬カルテルと聞けば思い起こす作品があるだろう。ドン・ウィンズロウ『犬の力』から始まる、アート・ケラーを主人公とする麻薬戦争三部作である。これらの作品は、麻薬撲滅に“取り憑かれた”ケラーを主役に据えながらも、密売組織側の論理も詳細に描かれており、善悪、白黒の二元論だけでは語ることのできない、なんとも言えない読後感を残した。しかし本作は、主人公であるリディアとルカも含め、ほぼすべての登場人物がなんらかの被害を被った人々であり、物語は徹底して被害者の立場に立って描かれる。それは本作が、追手を逃れ北を目指すというロード・ノベルであると同時に、移民の現状を描いた小説であるということにも関係している。カルテルの手を逃れて北(アメリカ合衆国)を目指すということは、不法移民になることと同義であり、それはリディアとルカだけでなく、北を目指す人々はすべてそうならざるを得ないからである。

 中南米からアメリカ合衆国を目指す移民は増加傾向にあり、これに対してトランプ大統領が国境警備を強化、不法入国に対して徹底的に排除の姿勢を見せていることは以前から報じられているとおりである。本作は、このような移民問題に光を当て、無関心な人々の意識に働きかける。

 移民問題なんて、日本に住むわたしたちにはあまり関係がないと思っている人には、望月優大『ふたつの日本』(講談社現代新書)を併読することをお勧めする。理由は違えど、この国にも移民問題は存在しているのだということが理解できるし、本作がロード・ノベルという枠組みを超えて訴えかけている問題について、考えるきっかけを与えるはずだからだ。

 堅苦しい話になってしまったが、本作は物語としての力にも満ち溢れている。その力は、リディアとルカ、ホンデュラスから逃げ延びてやがて二人と行動をともにすることになる姉妹、カルテルのメンバーでありながら組織にうんざりして逃げ出そうとする若者など、さまざまな立場から北を目指す人々の出自や心理状態を綿密に描き出すその筆力によって支えられている。問題提起のためだけに書かれたのではなく、小説としての魅力も十分に備えているのだということが、読んでいただければわかるはずだ。

 なぜこの作品が文化の盗用だという批判を受けてしまったのか。それはおそらく著者が白人であるということに起因しているのだろう。「当事者でもないのにあたかも当事者であるかのように語っている」というのが気に入らないのだ。しかし、著者はもとよりこの作品を、中南米の移民にのみスポットを当てた作品として描いていない。巻末の「著者の覚え書き」にはこのように記されている。

アメリカの南の国境にやってくる人びとが顔のない褐色の集団ではなく、唯一無二のストーリーと生いたちとそこまできた理由を持つ個人であることを、痛いほど知っている。(492ページ)

 このように、移民問題が肌の色などに関係ない個人の問題なのだという認識を持つ著者は、それでもこの作品を「わたしよりもう少し肌の色が濃い誰かが書いた方がいいのでは」と思うのだ。このように考え抜いた末に、いわば覚悟を持って書かれた本書、私は2020年における最重要作品のひとつだと考える。文化の盗用などといった批判はお門違いだ。

 

(第二段落より)
※ ここでは文化の盗用について端的に説明したいがゆえに例として挙げたが、そもそも黒塗りメイクはいかなる理由があるにせよ差別的行為としてみなされると考える。件の番組風に言うと「ハマダ、アウトー」となる。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。