ミステリとは何か。
 江戸川乱歩『幻影城』の冒頭に掲げられている探偵小説の定義、「探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さを主眼とする文学である」というのは有名だが、これはもちろん、いわゆる本格ミステリの一側面を言い表したにすぎない。しかも、本格ミステリといわれるものでも「論理的に」「徐々に」「経路の面白さ」が当てはまらないものも数ある。
 サスペンス、スリラー、ハートボイルド、警察小説、クライムノベル、ノワールなどの広大な領域を抱えるジャンルを包摂する定義があるとすれば「犯罪のある小説」か、「多くのミステリファンがミステリと考える小説」くらいしかないと漠然と思っていたが、「これは」という定義に行き当たった。


 新保博久『シンポ教授の生活とミステリー』収録の「ミステリって何?」における、 「一つないし一連の犯罪を主題とし、その犯罪について探偵役、あるいは犯人、もしくは被害者を主人公とするエンタテインメント小説」というのがそれ。
 探偵、犯人、被害者という犯罪が起きれば必ず発生する三つの主体を織り込んでいるのがミソで、「犯罪のある小説」と投網をかけつつ、犯罪に関連する属性をもった主人公が行動する小説という感じがよく出る。主人公をいずれにするかで、探偵は本格、犯人はクライムノベル、被害者はサスペンスといった具合に代表的サブジャンルがすぐさま連想されるところも考えられた定義だ。「謎」という言葉が消えてしまうのは残念だが、それは例えば「探偵」という役割に代替されているともいえる。
 この定義は、1991年『ミステリ・ハンドブック』に書かれた文章で、当方は間違いなく読んでいた(そして忘れた)というしまらないオチがつくのだが。
 『シンポ教授の生活とミステリー』は、雑誌等の要請に応じて書かれた古今東西のミステリに触れたエッセイをまとめたものだが、該博な知識と確かな見識はいうまでもなく、自虐や韜晦も交えたユーモア、ただでは帰さないといったサービス精神に溢れ、教授の自伝的要素もある一冊。

■小森収編『短編ミステリの二百年3』


 「ミステリとは何か」と大上段に構えた話をもってきたのは、『短編ミステリの二百年3』を読んだからでもある。
 第3集は、1947年から1961年まで開催された(1957~1960は開催なし)EQMMの年次コンテストで上位をとった作を中心に綺羅星のごとき作品群11編(いずれも米国作品)が並ぶ。
 さきのシンポ教授の定義を念頭におけば、探偵を主人公としたものが「ナボテの葡萄園」「良心の問題」「敵」「わが家のホープ」「子供たちが消えた日」、被害者を主人公としたものが「ふたつの影」、犯人を主人公としたものが「姿を消した少年」、こじつければ「女たらし」「決断の時」「ひとり歩き」。こじつけてもどれにも当たらなそうなのが、「最終列車」ということになろうか。やはり名作というのは、一つ枠に押し込めるのは困難で、いずれにも分類し難いものが複数ある。
 さきの定義に照らしても、筆者の実感としても「女たらし」「最終列車」は、ミステリと言い難いともいえるが、定義で捉えようとすれば、スルリと逃げ出すのが対象というものだろう。
 メルヴィル・デイヴィスン・ポースト「ナボテの葡萄園」は、例外的に1912年の作だが、「公正な正義が顧みられない場所で正義を実現する」(編者解説)ところに、編者がアメリカン・パズルストーリイの陰の流れの起点をみていることからのセレクト。アブナー伯父の指摘する犯人は意外なものだが、それより胸を打つのは、裁判という権威の場で、新の民主主義を問い直し、次々と立ち上がっていく人々の姿だろう。(突飛な連想だが、筆者はピーター・ウィアー監督の映画『いまを生きる』の一場面を思い出した)探偵の切迫感、謎解きを超えていくという部分では、トマス・フラナガン「良心の問題」もそう。ヨーロッパの軍事政権下の小国で政権党の党員ではなく、降格に甘んじているテナント少佐は、元ナチの幹部に関する意外な真相を見破る。それ自体意外な推理だが、本題はテナント少佐が軍事政権の制約下でアクロバティックな形で自らの良心を守り通すところにある。シャーロット・アームストロング「敵」の探偵役は、少年たちと犬殺しと目される男の対立から意外な真相を引き出すが、探偵の行動の背景には教育への怒りがあり、少年たちへのレッスンを通じて真の「敵」を撃ち抜くところが素晴しい。A・H・Z・カー「わが家のホープ」は、優等生の高校生が轢き逃げ事件の謎を探るうちに、自らの人生を揺るがす二者択一に逢着するという話で、結語の四行が見事。スクールバスが消失する不可能犯罪物の名編、ヒュー・ペンティコースト「子供たちが消えた日」も、隠された犯罪、隠された探偵というアイデアに加えて、リンチに向かいかねない町民の激情が描かれ、これが謎解きとよく絡み合っている。いずれも主人公たる探偵の謎解きには切迫性があり、謎が解かれることで予期しない扉が開くのだ。
 ヘレン・マクロイ「ふたつの影」は、架空の友人をもつ少女と家庭教師を主人公にした作品で設定からしてマクロイ流サスペンスの見本のような小説。
 犯罪者を主人公としたものとして、Q・パトリック「姿を消した少年」は、一次大戦の空襲下にある英国の寄宿舎を舞台にしたアンファン・テリブル(怖るべき子供たち)物だが、ユーモラスに語られる「犯罪」によって主人公の陥る境地は、甘くかつ苛烈なものだ。ウィルバー・ダニエル・スティール「女たらし」は一種の艶笑譚。森で迷った女たらしが一夜の宿を得て、その農家の愚鈍そうな妻をなんとかモノにするが……。男の罪に対する罰がおかしい。スタンリイ・エリン「決断の時」は並ぶことなきリドルストーリーの名編だが、これも罪と罰を巡る物語ともいえそうだ。ミリアム・アレン・ディフォード「ひとり歩き」の主人公は倫理的な意味での「犯人」ともいえる。少女誘拐を目撃するが、逮捕された男は別人。しかし、男は真実を公表することができず、追い詰められていく。その小市民性に読者は自身を省みるだろう。フレドリック・ブラウン「最終列車」は、ショートショート。大火事ともオーロラともつかない燃える空の下で、人生の深淵が口を開けている。これも一種の罪と罰の物語か。
 クライムストーリーにおいても、罪の種類は犯罪にとどまらず、倫理的なもの、いきすぎた正義感、生のあり方そのものと多様だし、それに対する罰も様々だ。いずれも、「犯罪」の顚末を描きながら、それを超える広がりがあり、それが名作の証でもあるということだろう。
 
 戦後から50年代にかけてEQMM年次コンテスト等を舞台に、米国短編ミステリは成熟の時を迎え、より幅広い題材、テーマを扱うようになり、自由さを獲得した。本格ミステリも高い評価を得るには、謎を解かなければならない切迫性と謎が解かれることによって別の何か(人間性への省察、社会問題への問いかけ、組織と個人の関わりetc)を照らし出すことが必要になり、クライムストーリーはより多様な罪と罰を探求していく。本書は、そうした黄金期の短編を一覧する上で恰好のショーケースだろう。
 編者解説は今回も240頁。EQMMの年次コンテスト一覧が付され、主だった短編に詳細な紹介・批評が施されていて、大いに参考になる。編者の個々の作品に当たる姿勢はときに厳しいとも感じられるが、この集成に選ばれた作品群は、その鍛えられた鑑賞眼にかなったものであることを保証している。

■メアリー・スチュアート『踊る白馬の秘密』


 先ごろ『銀の墓碑銘エピタフが上梓され、陶然とするようなギリシャのミステリアスな空間を満喫させてくれたメアリー・スチュアートだが、『踊る白馬の秘密』(1965)では、オーストリアを舞台に、やはり謎と冒険に満ちた非日常の世界に誘ってくれる。さすがにMWA賞、CWA賞の両賞の候補に挙げられた一作だけのことはある(本書は、『サーカスの大火』という抄訳がある由)。
 スチュアートの小説は皆そうだが、とにかく導入がうまい。

 知り合いの中で一番愚かな女カーメルとお茶をする主婦ヴァネッサ。それでも、平日の昼下がり〈ハロッズ〉でお茶を飲んでいるのは、しつこく誘われたからだし、夏休みをイタリアで一緒に過ごすはずの夫に急な出張が入り喧嘩もして気が晴れなかったせいだ。
 カーメルは、息子が離婚した父に会いにウィーンに行きたがっていること、ヴァネッサが付き添い役になって一緒に行き、現地でヴァネッサの夫と合流すればいいと話す。
 夫はストックホルムに出張に行っている。なぜ、ウィーンに? とヴァネッサは尋ねるが、カーメルは意外なことを告げる。昨日見たニュース映画でオーストリアにいるヴァネッサの夫ルイスを見たというのだ。ヴァネッサはすぐにニュース映画館に向かい、オーストリアを巡回するサーカスで起きた火災のニュースに夫が映っており、夫は小柄な美少女に腕を廻していることを確認する。
 かくして、ヴァネッサは、カーメルの息子ティムを伴って、オーストリアに飛ぶことを決意する。
 ここまでが第一章。意に染まない退屈なお茶の場面が、夫への疑いを濃くし、普通の主婦が見知らぬ相棒を伴って風変りな旅に出ることになるという、日常からの離陸の経緯をさらりと語って次の展開に期待をもたせるあっぱれな導入だ。
 この後も、意外事は続く。ティムは頑なな感じの少年だったが、打ち解けると馬に関しては抜群の知識をもち、ドイツ語も堪能であることが判明する。この少年、ネロ・ウルフの相棒アーチー・グッドウィンに憧れているというのだから、変わっている。話が進むにつれ、25歳の人妻と17歳の少年のかなり異色のバディ物の様相も呈してくる。二人は、火災を出したサーカス団のいる田舎の村を訪ねるが、ニュース映画で見た美少女を見かけ、夫とそっくりの英国人と出会う。
 田園詩から抜け出したようなオーストリアの村、移動するサーカス団、サーカス団の個性的な面々、曲芸を披露する馬たち、夫にそっくりの男…謎に満ちた夢のように二人の冒険行は曲折していく。ヴァネッサは元獣医でもあり、サーカスの老いぼれ馬を手術し助けるなど印象的なエピソードが続く。
 タイトルからも判るとおり、本書は、華麗な跳躍とステップをみせる馬術の馬に敬意を表した極上の「馬」ミステリでもある。とりわけ、ある場面で老いぼれ馬が見せる振舞いは、それ自体が夢の中の光景のようでもあり、さらに作中の謎の一つが氷解する契機ともなるものであり、作中でも光輝くシーンだ。
 中盤以降、二人が訪れる古城ホテルは雰囲気たっぷり。このおとぎ噺から抜け出したような尖塔のある古城で、ヴァネッサは悪党の襲撃を受けることになるのだが、ゴシック小説かと見紛うような古風な追っかけを作者自身楽しんでやっているようだ。全体を覆う謎のヴェールは次第に明らかになり、そこからは、息つく暇もなく、二人のバディによる山中の怒濤の追跡劇。山中をよじ登る蒸気機関車まで活躍するのは、鉄道ファンならずとも心弾むだろう。
 夫の謎はあっさり解けるなど、さきの論創海外ミステリの2冊と比べると、謎解きの興味はやや薄味で、人妻だけあって男女のロマンスの綾もないが、冷戦下という現実からも、007的スパイスリラーからも離れ、ヨーロッパの田舎で繰り広げられる白日夢めいた冒険は、読者をひととき別な世界に遊ばせてくれる。

■フランク・グルーバー『怪力男デクノボーの秘密』


 早いもので、論創海外ミステリにおけるフランク・グルーバーのジョニー・フレッチャー&サム・クラッグ物も5冊目になった。軽快な筆運びに数々のお約束を取り混ぜつつ、軽ハードボイルドにして軽本格の読み口のいい愉しめるシリーズ。本書は、『ポンコツ競走馬の秘密』に続く1942の作品だが、1964年に再刊されたときに作中の年代は1962年に移し替えられている。
 ニューヨークの定宿〈四十五丁目ホテル〉に着いたばかりのジョニーとサムは、トランク入った男の死体に遭遇するというのが滑り出し。部屋を一階間違えていたことに気づいた二人は、死体を放置して酒を飲みに行く! 部屋に戻った二人は、先ほどの死体が自分たちの部屋のトランクに詰め込まれているのを発見。殺人犯にされてはたまらないと、二人は死体を運びリネン室に押し込む。ヒッチコック『ハリーの災難』のような死体移動コメディを彷彿させる出だし。
 すぐに死体は発見されて、二人が売っている肉体改造本のカバーの跡が、死体についていたことが判明、マディガン警部補の疑惑は二人に向く。
 毎度、一風変わった業界を舞台にするところも、シリーズの特徴だが、本書の舞台となるのはコミック業界。「怪力男デクノボー」というコミックが雑誌に連載され、連続映画やテレビ番組にもなり、全米の子どもたちを熱狂させている。
 サムはこの怪力男にそっくりと、編集者にスカウトされ、業界のパーティで、デクノボーの衣装で怪力無双ぶりを披露、お約束どおり、ちゃっかり肉体鍛錬本も売り捌く。
 頭脳担当ジョニーが好奇心で探偵行為に乗り出したり、デクノボーの書き手である美貌の女漫画家にジョニーが多大なる関心を寄せる進行は定石どおり。〈四十五丁目ホテル〉の支配人がいつもトラブルの素となる二人を嘆いたりするお馴染みの場面も。
 さらに、ジョニーは出版社の社長の死に遭遇してしまう。事件の鍵は、12年前のアイオワ州の高校新聞にあることが判り、二人は現地に飛ぶ。ここでも、クラップスというサイコロ賭博で大儲けしたり、ジョニーが誘拐されるというスリリングで派手な展開があり、仇役の古本屋もいい味を出している。「怪力男」という題材もあってか、いつも以上にサムが活躍。大立ち回りで無双の怪力を披露しつつ、そのジョニー想いにもホロッとさせられる。皆を集めて犯人が指摘されるという律儀な終幕もいつもどおり。
 冒頭の死体移動が事件の端緒にすぎないなどプロットの緊密性には欠ける面はあるが、第7作ということもあってか、おなじみの展開や、ギャグが全部入りで、シリーズのスタイルも完成形に近づいた一作といえるだろう。
 
 発売されているはずの『ソーンダイク博士短篇全集第1巻 歌う骨』が執筆時点でまだ手元に届かないので、次回ということで、ご容赦願います。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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