掘り尽くされたようにみえるクラシックミステリだが、眼を剥くような作品というものはまだ眠っているわけで、ウィリアム・リンゼイ・グレシャム『ナイトメア・アリー』(1946)は、そんな幸運な体験ができる一冊だった。
 
■ウィリアム・リンゼイ・グレシャム『ナイトメア・アリー』


 とにかくこの小説、一種のオーラをまとっている。
 作者ウィリアム・リンゼイ・グレシャム(1909-1962)は、ボルティモア生まれ。高校卒業後は職を転々とし、フォーク歌手などを務める。1937年、スペイン内戦に参加。そこでサーカス団員と出会い、本書の執筆につながる。精神を病んでいた彼は、キリスト教、マルクス主義、精神分析、スピリチュアリズムなどに救いを求める。晩年は失明と舌癌に苦しみ、1962年、ホテルの一室で自殺(経歴は、『悪魔の往く町』(山田貴裕訳/オンデマンド版)を参照)。
 経歴からして強く響くものがある。
 帯やあらすじから、カーニヴァル、奇術、読心術、タロット、降霊術等の世界を舞台にしていることが窺われ、こうした世界と一見反りの合わなそうなノワール小説だということ。
 各章の冒頭にタロットカードとその簡単な解説が置かれ、それらが内容と密接に絡み合っているらしいこと。
 本書の映画化『悪魔の往く町』もカルト・ノワールとされ、現在、ギレルモ・デル・トロ監督で再映画化も進んでいるらしいこと。
 これでは期待が高まる一方だが、本書は期待を超える作品だった。

 主人公スタン・カーライルは、カーニヴァルの巡回ショー〈10フリークショー〉で働く野心家のマジシャン。同じ一座の占星術師ジーナと関係をもち、読心術のための暗号が書かれたノートを手に入れたスタンは、美しいモリーと組んでヴォードビルの世界に進出を果たすが…。
 
 振り出しは、カーニヴァルの一座。獣人ギーク 、読心術師、マジシャン、刺青男、電気椅子ショーの感電しない女、半分人間など大衆の興味をかきたてるものを取りそろえた見世物ショーだ。冒頭で、新米のスタンは、どうやって鶏の頭を食いちぎる「獣人」を見つけ出すのかオーナーに尋ねるが、その答がふるっている。答えは本書で読んでいただくとして、本書のもつ暗がりのような世界へのみごとな導入になっている。

 スタンは野心的なだけの青年ではない。子どもの頃から、悪夢の裏通りナイトメア・アリーの夢につきまとわれている。灯りには辿りつけない。恐怖がすぐ背後に迫ってくる。これがスタンの両親との葛藤に基づくオブセッションだ。
 物語は、スタンが人妻ジーナとの関係を続けながら、映画『フリークス』的一座の巡業を続けていく展開かと思われるのだが、転機が訪れる。一座を検挙しようとする保安官助手を煙に巻くため、神の加護を説き、彼の秘密を言い当てるなどして、うまく検挙を逃れるのだ。これがスタンのマジシャン・読心術師としての全能感のきっかけとなる。スタンは、読心術の秘密と若く美しい「感電しない女」モリーを手に入れ、華々しくヴォードビル界で活躍する。その成功に飽き足らず、弁舌の才とトリックを駆使して、スタンは、さらなる成功と富を求め、詐欺まがいの心霊術に手を染めていく。運命の女はまだ現れていない。本書の「運命の女」はファム・ファタル史上に残るような知的でクールな女だ。
 この後、二転三転、予期しない方向に話は進んでいくのだが、筋を追うのはこのくらいにしておこう。本書のユニークさは読心術や降霊術を扱っている関係上、だましのテクニックに興味がある人にも強くアピールする点にもある。
 
 舞台が異形なら、ナラティヴも異形。第2章、一座の構成員の独白をつないで、彼らの秘めた感情や欲望を立体化する技法や、呼び込みや芸の口上が一座の旅を進行させていく語りの芸、スタンの心理が危険領域に近づく際の自動書記のような叙述。そして、スタンとファム・ファタルとの逢引の際、古代と現代、性的欲望と幻想が混濁し、ないまぜになったような描写は、本書の最高級の達成だろう。
 神秘性は周到に排除され、スタンの用いる読心術、降霊術はすべてトリックがある徹底的に現世的な小説であるにもかかわらず、読者にリアルな幻覚の尾に触れたような感覚をもたらすのは、ときに破格の文章と、スタンの詐術の中にだけ登場する死者が集う「霊光の街」のようなヴィジョンの生々しさにも求められる。
 不思議なことに、本書に最大級の道徳侵犯である殺人はメインの主題ではないが、練り込まれた計画で掴みかけた栄光の高さ、自らの能力を過信した男の陥る絶望の穴の深さがおそらくは作者のオブセッションとシンクロしているという点で、凡百のノワールを超えている。
 弁舌達者な主人公、文体の破格、傷口がじくじく痛むような強迫観念、ダークで出口なしの感覚は、どこかジム・トンプスンの小説を想起させるところもある。
 小説としてはあと一作があるようだが、この孤高の作家が遺した小説がミステリの範疇に入る作品であるのは、ミステリというジャンルにとっても幸運だったといえようか。
 本書の映画版『悪魔の往く町』(1947/エドマンド・グルーディング監督)も併せて観た。ファム・ファタルの登場以降、比較的大きな筋の改変もあるが、じっくりスタンの計画を追える小説版と異なることを意識した納得のいく改変になっており、これはこれで一級品。結末に蛇足があるが、さすがに原作どおりの苛烈な結末とすることを製作者は躊躇ったのだろう。
 
■R・オースティン・フリーマン『ソーンダイク博士短篇全集:第1巻 歌う骨』


 隅の老人思考機械も本邦で「全集」が出た今、ソーンダイク博士の(せめて短篇だけでも)全集が出ていいのではないか、という声が、ほうはいと沸き起こったかは知らないが、近年の長編新訳により、作者フリーマンとその紙上探偵が再注目されているさなか、「あらゆる時代を通じて最も偉大な法医学探偵」の短篇全集が全3巻でまとまるのは朗報だった。
 本書第1巻は、第1短篇集『ジョン・ソーンダイクの事件記録』(1909)の8編、第2短篇集『歌う骨』の5編の計13編にエッセイ「ソーンダイク博士をご紹介」が収録されている。聡明で温厚な紳士ソーンダイク博士、ワトソン役はジャーヴィス博士、助手のボルトンに連続して事件で出逢うと、レギュラー陣に愛着も沸くというもの。
 第1短篇集から、「鋲底靴の男」は、ソーンダイク博士の緻密な推理と徹底的に証拠を検討する捜査法がよく出ており、読み応えのある中篇。足跡をめぐる推理が見事で、犯人側のトリックも充実している。「青いスパンコール」は、意外な犯人の型としては珍しいものではないが、ソーンダイク博士が捜査の過程にこそ意外性があるのが面白い。「モアブ語の暗号」は暗号物でありながら一種のメタ暗号物。「清の高官の真珠」は、中国から盗み出された宝石物に関わった人間がみな清の高官の亡霊に取り憑かれ死ぬという恐怖小説風の味わいが異色。「アルミニウムの短剣」は密室物の古典で、その不可能性の強調にはやはりゾクゾク来るものがある。これらに比べると、「よそ者の鍵」「博識な人類学者」「深海からのメッセージ」といった作品は、推理の過程に見どころはあるにしても、専門的知識に寄りかかりすぎの気味がある。
 第1短篇集以上に重要かもしれないのは第2短篇集『歌う骨』。こちらは、5篇のうち、史上初の倒叙物4篇を収録したもの。「歌う骨」という短篇が収録されていないのは不思議だが、「船上犯罪の因果」の最後でその由来が明らかにされる。農民が殺された男の骨を拾い、笛をこしらえたら、その笛が犯人を歌い出したというドイツの民話によるものだ。ソーンダイク博士は「我々の周囲にある生命のない物には、それぞれ我々に語りかける歌が宿っている。我々が耳をすまして聴きさえすればね」と教訓を引き出している。「人より物から証言を引き出す」(ソーンダイク博士をご紹介)博士の面目躍如。
 「オスカー・ブロドスキー事件」が倒叙ミステリの嚆矢の作品。現在から過去に遡って謎を解くのがオーソドックスな本格物だが、最初は犯人、次は探偵、と視点を切り替えれば、犯人という謎は消えても、時系列どおりで謎解きが成立するというのは、フリーマンの発明だった。現実の事件にヒントを得たこの短篇は、犯人が家を訪れた宝石商を撲殺し、列車に轢殺させるという事件だが、一見手がかりらしきものがないのに、ソーンダイクが物証に「物をいわせ」、犯人に至る。早くも、この作品に、犯人視点の第一部の終りと探偵視点の第二部の手記の冒頭を重ねあわせことで、犯人対探偵の対決を際立たせるという工夫が見られるのには驚かされる。「練り上げた事前計画」は、元看守に脅迫されている前科者が他人に罪をかぶせる計画の下、殺害を実施する。倒叙物への周到な計画の導入。博士は捜査手法としての警察犬の使用に懐疑を呈する。「船上犯罪の因果」は、灯台勤務者の犯罪を描いた倒叙物。「ろくでなしのロマンス」はアメリカの有閑夫人への殺害未遂を描いた倒叙物だが、物語がいささかロマンティックにすぎるか。
 本書には、雑誌発表時のみに掲載されたという写真のほか、図版、挿絵を多く収録。ホームズの最大のライヴァルとされつつも、独自の探偵法や倒叙物への登場、黄金期を牽引した長編での活躍など、ホームズと異なる形でミステリの新生面を切り開いた名探偵の次なる事件簿が楽しみだ。

■ジム・トンプスン『雷鳴に気をつけろ』


 快調なペースで刊行されていたジム・トンプスン未訳シリーズだが、しばらく新刊がなく、途切れてしまったのかと思っていたが、この度『雷鳴に気をつけろ』が上梓され、一安心というところ。
 『雷鳴に気をつけろ』(1946)は、第三長編『取るに足りない殺人』(1949)以降、ノワール作品を続々と送り出す以前の第二長編。犯罪は出てくるものの、クライム・ストーリーの範疇には入らないストレート・ノベル。といってもなまなかの「主流小説」「普通小説」ではない。やはり、「らしさ」が刻印された破格のトンプスン小説といいたい作品。経済的事情で、ぺイパーバックの犯罪小説を書き続けたかもしれないが、トンプスンの作家として特性は、一貫していたのだと思わせる。
 舞台は、中西部ネブラスカ州の農村地帯である小さな村。誰もが血縁関係にあるような小さな村の主要な一家ファーゴ家の人々を中心に据えている。時は、1907年から7年に及ぶ物語だ。トンプスンはネブラスカ州と縁が深く(一時期居住したこともあり、ネブラスカ大学出身でもある)、この地・この時代にの事情にも十分通じていたものと思われる。
 この小説世界は、米中西部の土地に生きる人々を描いた群像劇であるとともに、トンプスン特有の諧謔にも満ち、運命の酷薄さも描いてノワールに似た面もある、幾層もの味わいから成り立っている。
 冒頭に掲げられているのは、いたずら小僧ロバートを連れて故郷に帰ってきた傷心の母親ミセス・ディロン。息子の無賃乗車を咎められた母親が乗務員に切った啖呵で、ファーゴ家が土地の主要な一家であることが示される。
 そこから、視点は次々に移り、村の人々が活写されていくわけだが、ノワール小説とは打って変わって、登場人物が多数に及び、説明的な文章も極力排しているから、人物相互の関係性も最初のうちなかなか呑み込めないかもしれない。筆者は、久しぶりに登場人物の家系図を書きながら読むという経験をした。
 彼らへの理解が深まると、ファーゴ家の人々の運命がいずれも近しくみえてくる。
 ファーゴ家の老家父長リンカーンと四人の息子・娘(ミセス・ディロンは実の娘)、その家族たちらが織り成す物語が、破格なのは最初の方で紹介されるリンカーンの来歴一つをとっても明らかだ。南北戦争従軍者で、生の半ばまでは放蕩で明け暮れ、今は、ネブラスカの農場主として隠居の身。ロバートのいたずらに大喜びする、さばけた爺さんだ。トンプスンの自伝的小説『バッド・ボーイ』で登場する祖父と共通する磊落さは、この小説がトンプスンの自伝的要素を併せ持っていることを示しているように思われる。ロバートと一緒に手製の飛行機に乗って二階から飛び出そうとする従兄たちの描写は、同じく『バッド・ボーイ』で自転車を自動車に改造し事件を引き起こす従兄たちを彷彿させる。
 こうした現実由来の根をもつと思われる多様な登場人物たちが繰り広げる物語は、7年間の歳月の中で多様多層の小さな物語を交錯させながら展開していくことになる。
 中でも、強烈なのは、次女マートルの英国人の夫アルフレッドが教師になったイーディを救うために、生徒に懲罰を振るうシーンだ。縁戚の銀行家の下で唯々諾々と勤めている礼儀正しいアルフレッドが周到な根回しの後に暴力を発現させる場面は背筋が寒くなる。さらに、アルフレッドは、銀行の金の持ち逃げを画策し、銀行家と対決する一連の流れは、本書がノワールに最も近接する瞬間だ。ノワールといえば、従妹の自動車事故死に責任をもつ末子グラントに待ちうける報復もまた、酷薄すぎるものだ。
 痛快でもあり、肌寒い思いをさせもする物語は、ファーゴ家の縁戚、弁護士ジェフ・パーカーの栄達にまつわる話。弁護士ながら素寒貧のジェフが「神様」を被告とする奇想天外な裁判で一躍名を挙げ、州議会議員になって、ある街で大歓待を受けるエピソードには心弾むが、その後は、鉄道企業の巧妙な罠により、操り人形に堕していく。頭の良さと口先でその場をしのぎながら、より追い詰められていくのもトンプスン世界では常道だ。
 トンプスンの世界では、天国のすぐ隣に地獄があり、その逆もしかりなのだ。
 時にスラプスティックめいた登場人物の行動と諧謔の裏では、運命の酷薄さが牙を向く世界。
 老家父長リンカーンは、「人というのは絶対に学ばないものだと思うよ、イーディ」と終幕近く娘に話しかける。利潤をもとめ穀物畑にした土地が荒地となり、血をひいた息子たちはかつての自分と同じように貧窮にあえでいる。
 地に生きる人々の愚行の繰り返しを見つめる老家父長のことばは重く、以降連綿と続くトンプスン・ノワールの背景をも開示してもいるように思える。


 論創海外ミステリの新刊、高木彬光訳『帽子蒐集狂事件』は、別冊宝石(1950)に訳載されたジョン・ディクスン・カー作品等の初単行本化で、近年の新訳とも比較してみたかったのだが、手が回らなかった。次回廻しということで、お許しを乞う次第。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita




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