■ジョン・ディクスン・カーほか『帽子蒐集狂事件 高木彬光翻訳セレクション』

 
 「通といえばカー」という言葉を聴いたのは、何十年も前、某大学のミステリクラブ員からだったろうか。
 そのプロットの優秀性、不可能趣味、怪奇趣味、一方でときにスラプスティックがかるまでの陽気好み、歴史好き、冒険とロマンス志向などその多面的な魅力に加え、往時の絶版タイトルの多さによる飢餓感もあって、マニアの熱い支持を受けている点では、ジョン・ディクスン・カーは随一といってもいい存在だ。
 今年は、カーが『夜歩く』でデビューして以来90周年。『死者はよみがえる』(創元推理文庫)の新訳や、日本作家によるパスティーシュ短編集『密室と奇蹟』の文庫化、同短編集から長編化された柄刀一『ジョン・ディクスン・カーの最終定理』の刊行、同人誌ながらカーの歴史ミステリ15編を縦横に論じ、美麗現場イラストで再現した、饒舌な中年たち『Murder, She Drew Vol.2』などカーにちなんだ刊行も続いた。
 ジョン・ディクスン・カー(カーター・ディクスン)の存在なかりせば、英米のミステリ史はその豊饒さをかなり減らし、痩せたものになっていたことだろうし、本邦におけるミステリシーンへの影響という点では、欧米以上かもしれない。戦時中、岡山県で逼塞し、文芸復興の日に備えていた横溝正史はカーの小説に魅了されていたし、乱歩は、戦後「カー(カア)」問答」というカー賛辞を連ねた。横溝の実作への影響と乱歩のカーへの熱賛ということがなければ、日本のミステリは今とは別物になっていたかもしれない。
 戦後推理小説の驍将といわれ、本格物をはじめ社会派、法廷物、歴史推理等多く作品を遺した高木彬光も、カーを称揚することでは、この二人に負けていない。探偵作家になってから、カーの原本を読むようになり、「こんな面白い探偵小説も世の中にはあるものかと、驚異の眼を見はらずにはおられなかった」(「カアへの情熱」本書収録)と書いているほどだ。高木作品のトリックへのこだわりや旺盛な創作ぶりには、カー作品の恩恵も寄与したに違いない。
 今回、初単行本化された『帽子蒐集狂事件』(1933)は、この高木彬光による訳で、『別冊宝石10号』『世界探偵小説傑作選・第1集・ディクソン・カア傑作特集』(1950(昭和25))に掲載されたもの。今年は、高木彬光生誕百周年であり、その記念出版という意味合いからのセレクトで、奇しくも高木百周年×カー90周年の書ということになる。ちなみに、『別冊宝石』同号には、ほかに『黒死荘殺人事件』(岩田賛訳)『赤後家怪死事件』(島田一男訳)の翻訳が掲載され、乱歩の「カア問答」もこの号が初出だった。
 『帽子蒐集狂事件』は、カーのフェル博士物の第一作『魔女の隠れ家』(1933)に続く第二作。その粗筋はというと――
 ロンドンでは、帽子(かつらも含む)が次々と盗まれるという珍事が続発していた。ポーの幻の原稿を盗まれた書物蒐集家ビットン卿も、帽子盗難の被害者だった。卿とフェル博士が、原稿盗難について相談しているさなか、ロンドン塔での殺人の報が入る。被害者は、帽子盗難事件を取材している新聞記者で、ビットン卿の甥。被害者の頭には、卿の帽子が載せられて、弩の矢で殺されていた。果たして、帽子蒐集狂の犯行なのか。ポオの原稿は一体いずこに。
 『帽子収集狂事件』(創元推理文庫・田中西二郎訳)は、筆者が大人の翻訳物を読み始めたごく初期に属するが、マッドハッターによる帽子盗難の続発、ポオの幻の原稿、ロンドン塔といったキーワードは覚えているものの、あらかたの筋は忘却の彼方だった。今回の何十年ぶりかの再読は、初読と同様なあるいはそれ以上の感銘をもたらした。
 『魔女の隠れ家』に登場したアメリカ青年ランポールがフェル博士のワトスン役だが、その存在感が薄かったり、フェル博士登場から事件解決まで24時間もない間に事態が進行していく忙しなさというマイナス部分もあるが、謎の珍事の発生、ポオの生原稿(「モルグ街の殺人」以前のデュパン物!)、観光名所でもあるロンドン塔の殺人といった趣向やファンタスティックな雰囲気に加え、結末で明かされる作者のたくらみは本書最大の華であり、やはり名作の感を深くする。
 本書に関して、『帽子収集狂事件』(創元推理文庫・三角和代訳)の戸川安宣氏の解説では、乱歩が「『密室』以上の不可能興味が創案されている」というくらいしか語っておらず、にもかかわらず、「カー問答」ではトップに、黄金期のミステリ7位に挙げていることが解せなかったこと、再読してその疑問が氷解した旨を書いているが、筆者も同様の感想をもった。本書は、その創意について触れてしまうと、即ネタバレにつながってしまう、あだやおろそかに語れない作品なのだ。叙述のトリックとは違った意味で、一種の綱渡り芸で、結末が判って読み返してみると、記述の端々に転落を回避しつつ綱渡りを続けるカーの息遣いのようなものまで感じられる。にもかかわらず、大胆でギリギリの手掛かりをぶち込むのにも余念がない。以前にもエリザベス・フェラーズ『魔女の不在証明』の項で触れたが、まさに「手掛かりをストーリーに書き込むが早いか、爆弾を投げ入れた犯人同様に、気が狂ったように逃げ出そうとする」(「地上最高のゲーム」)新人作家とは正反対の考え抜かれた大胆さなのである。

 本作の高木訳は完全訳というわけではなく、ざっと三角和代訳と比べてみても、やはり登場人物の描写や会話の一部などを端折っている箇所も散見される(例えば、フェル博士の風貌をサンタクロースかコール老王に例えるようなところなども)。謎解きを追うのに欠けるところはないようだが、それでも、原文の取り違えらしい部分や犯人にまつわる情報を落としてしまっているところなどは気になる。セイヤーズの書評は、本書におけるカーの文章を「形容詞一つで雰囲気をかもし出」す(ダグラス・G・グリーン『ジョン・ディクスン・カー〈奇蹟を解く男〉』)と称えたが、本作の味読のためには、最新の訳文である創元推理文庫版をお勧めする次第。
 浜田知明氏の解説によると、『宝石』の読者の投稿では、高木(や同じ号の岩田賛)の訳文の「筆のカタさ」等に言及した評が載り、後に乱歩も「カー問答」で、カーが読者に不評だった一因として「翻訳も悪かったのではないか」と付記しているという。個人的には、1950年の訳だし、訳文からは高木の文章らしい大仰な感じは受けなかったのだが、非常に誤植が多かったという「別冊宝石」版が今回の単行本化に当たり、校閲を経て面目を一新したせいもあるのかもしれない。
 本書には、ラジオ番組「百万人の英語」等の講師であり、ミステリも書いたジェイムズ・バーナード・ハリスの2短篇の高木訳も収録されている。「死の部屋のブルース」は、翌日には電気椅子による死刑執行が迫る囚人の一夜を皮肉なタッチで描いた小品、「蝋人形」は、日本の人形づくりの技術を疑う米国人に語られる、浅草の江戸蝋人形館を舞台にした通俗ながら凄絶な殺人譚だった。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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