先月発売された、アフマド・サアダーウィー『バグダードのフランケンシュタイン』(柳谷あゆみ訳 集英社)は、イラクでは2013年に刊行され、アラブ小説国際賞を受賞。その後2018年に英訳刊行されると、ブッカー国際賞、アーサー・C・クラーク賞の最終候補になり、国際的な評価を受けた。「中東×ディストピア×SF小説」という帯の惹句に目を留めて手に取った人もいると思うが、これはむしろ現代イラクにおける怪奇譚、幻想譚とでもいうべき作品である。

 舞台となっている2005年のイラクは、イラク戦争後の混沌が未だ続いているという状態で、アメリカを始めとするいわゆる占領軍と国内の反対勢力が衝突を繰り返し、首都バグダードでは、自動車爆弾を始めとする自爆テロによる無差別攻撃が横行していた。

 これを読むほとんどの人が自爆テロの現場に居合わせたことなどないと思う。いま記した「自爆テロによる無差別攻撃が横行していた」という一文にはとても込めることのできない現場の雰囲気というものを、少し長くなるが本作第一章冒頭の一段落分を引用することで味わっていただきたい。

 爆発は、その老婆、ウンム・ダーニヤール・イリーシュワーが乗り込んだKIA社製バスが発車して二分後に起きた。バスの中では皆がすばやくその方角を見つめ、渋滞の向こうに濛々と恐ろしい煙が立つのを怯えるまなざしで見届けた。煙はバグダードの中心部タイラーン広場近くの駐車場から空を暗黒色に染めながら湧き上がっていく。若者たちが爆発地点に向かって駆けだして行った。ドライバーは混乱のあまり恐慌状態に陥り、中央分離帯や他の車に衝突する車も出てきた。人々の声は互いに入り混じり、がやがやした音になって聞こえてくる。よく聞き取れない叫び声、騒音、何台もの車のクラクション。

 このような状況が日常と化したバクダードのバターウィイーン地区を中心に物語は進んでいく。主要人物は三人。引用部にも出てきた老婆イリーシュワージャーナリストのマフムード・サワーディー、そして古物屋ハーディーである。

 イリーシュワーは、第一次湾岸戦争に従軍した息子の帰りを20年も待ち続けている。すでに戦死しているとしか言いようのない状況なのに、彼女はそのことを頑として受け入れない。息子がいつか帰ってくる場所を守らなければという一心から、危険と隣り合わせであると承知で古い家にひとり住み続ける。

 サワーディーは、ある事件をきっかけにして田舎を追われ、逃げるようにしてバグダードに出てきた。ホテル住まいをしながら出版社に勤めるジャーナリストである。

 古物屋ハーディーは、サワーディーの住むホテルに出入りし、客に向かってあることないことさまざまな話をふっかけているいわばほら吹き屋。彼にかかれば、凄惨な自爆テロもまるで映画のような脚色によって臨場感たっぷりの壮大な物語になってしまう。彼の話を聞く者はみな、延々とほら話を聞かされているのだと思っていた。

 ある日、ハーディーはサワーディーに向かって自分がこしらえている遺体の話をしていた。爆破テロで全身がバラバラに引き裂かれてしまった遺体の、その一部を少しずつ持ち帰り、時間をかけてつなぎ合わせ、きっかり一人前の遺体を作り上げていたのだ。サワーディーは、ハーディーがこの遺体をどうするつもりだったのか、いまはどういう状態なのかを聞きたかったが、ハーディーには人と会う約束があり、その話は後回しになってしまった。

 約束の人物と会うことができなかったハーディーは、仕方なく空き缶を拾いながらとあるホテルの前を通り過ぎていた。そのとき彼は、ゴミ収集車がスピードを上げながらホテルのほうへ向かっていくのを見た。次の瞬間、彼の体は空高く吹き飛ばされ、アスファルトに叩きつけられた。しばらくして何が起こったのかを理解したハーディーは、痛む体を引きずりながら帰宅し、マットレスに身を投げだして死んだように眠った。翌朝、辺りを見回すと、そこにあるはずの「きっかり一人前の遺体」はなくなっていた。彼が遭遇した爆破テロで犠牲になったホテル警備員の魂が、跡形もなく散り散りになってしまった肉体の代わりを探してさまよい、きっかり一人前の遺体に入り込んだのだった。遺体に唯一欠落していた魂が、このことにより補完されたのである。

 それからしばらく後、とある小路で四人の物乞いが不思議な状態で殺されているのが発見される。四人は方陣を組むように座し、それぞれ目の前の相手の首を掴んだまま死んでいたのだ。四人の物乞いはなぜ殺されたのか。米軍、イラク軍双方が捜査を始めるなか、また新たな殺人が起こる。犯人の目撃情報を聞いたハーディーは、この一連の殺人に、いなくなった遺体=「名無しさん」が関わっていることを確信する。

 名無しさんの存在によって、三人の人生は大きく揺り動かされる。彼らから表出する希望と絶望、そして殺人を繰り返す名無しさん自身の苦悩をとおして、現代イラクが抱える問題をあぶり出していく。

 タイトルにある「フランケンシュタイン」の文字から、かの名作に登場する怪物を彷彿とさせる名無しさんの容貌に目が行きがちな本作だが、注目すべき点はそれだけではない。まず、プロローグ代わりに置かれた最終報告書。この報告書には「作家」が書いた17章におよぶ小説のテキストを押収したと記されており、実はこの押収された小説が、19章からなる本作の大部分を占めているということになる。このことは、17章まで「作家」という言葉がほとんど登場せず、18章のタイトルがそのものズバリの「作家」となっているところからも明らかだろう(18章の冒頭、それまでの三人称から一人称となり、作家自身が語っている)。いわば、17章までを本編とすれば、残りの2章は後日譚と考えてもよい。17章まで書いた時点で原稿が押収され、その後2章を書き足したような体を取るこの巧みな構成は、おそらく本家というか元祖というか、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を意識したのではなかろうか。

 本家『フランケンシュタイン』において多くの部分を占めているのはフランケンシュタインの回想と怪物の独白だが、全体としては北極点を目指す冒険家の手記(イングランドの姉に宛てた手紙、フランケンシュタインからの聞き取り、フランケンシュタインと出会ってから別れるまでの顛末)という形をとっている。本作もまた、大部分を占めるのは三人の登場人物を始めとするイラクに住む人々の群像劇なのだが、外枠には「作家」によって記された小説という形が存在している。

 本家が描く不条理や孤独、偏見、そして冤罪の問題などは、そのまま本作にも重なってくる。とりわけ、かの怪物が放つ自らの存在にまつわる問いは、復讐としての殺人を繰り返しながら名無しさんが到達する自らのアイデンティティに関する問いと通底しており、その問いはとりもなおさず、イラクという国の成り立ちに関する問題をも浮き彫りにする。作中、名無しさん自身がやがて「最初のイラク人」だと崇められるように、その存在がイラクという国そのもの(とその不安定さ)を表現しているとも読めるのである。

 現代イラクに横たわるさまざまな問題を、名無しさんという存在に仮託した奇譚として描くと同時に、テロによっていつ吹き飛ばされるかわからない不安を抱えつつもしたたかに生き抜こうとするバグダード市民のリアルを綿密に活写する本作、とにかくその発想と筆力には驚くしかない。ミステリーじゃないからといって敬遠しているのであれば考え直すべし。読み逃しのないよう。

 あと、これはたまたまなのだが、先月紹介したニコ・ウォーカー『チェリー』(黒原敏行訳 文藝春秋)で、主人公が従軍するのも2005年のイラクである。米軍から見たイラクと本作における市井に生きる人々のイラクを比べながら読むというのもおもしろいかもしれない。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。