みなさんこんばんは。第34回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「秘密」や「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。

 最近一段とタガが外れた感のあるニュースに疲れ果てて、現在の私はすっかり「人間つらい」モードになっております。そして、人間ではない何かの存在を求め、もともと好きなゴースト・ストーリーへの愛着が増してきています。私、もともとゴーストという概念が大好きで、ゴーストが出てくる作品はコメディでも恋愛ものでも歴史ものでもミステリでも、そしてもちろんホラーでも愛着のある作品がたくさんあるんですよね(ちなみに人生のベスト・ゴースト・ストーリーは『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』です)。

 というのも、人類の最も人類らしい部分、なぜ言い伝えや伝承される不思議な物語が生まれるのかという点から「ゴースト」という概念を考えるととてもワクワクするのですよ。私はゴーストとは「なかったことにできたら良いのに」という思念が出現させるものだと考えているので、そこにとても人間の面白さを感じるのです。

 優れたホラー作品におけるゴースト、心霊現象の原因は、亡くなった人への罪悪感や悲しみとは限らないんですよね。「よくわからないこと」に感じる不快さ、隠し事、悩み、あるいは社会的・精神的・身体的な檻(わかりやすくそれを示すものとしての「お屋敷」がジャンルの一つであることも重要なポイントです)があれば、いつでもどこでもゴーストは生まれる。表立って言えないこと、忘れたように振る舞っていても本当は在ったこと、自分の意識ではコントロールできない記憶の深部からゴーストが生まれる。
 そんな人間心理が書き込まれたゴースト・ストーリーを見ると、言いようもなく人類のかわいげを感じて、「人間つらい」の絶望から一瞬でも逃れられる気がするのです……

 というわけで、今回はそんな私が昨年見てとても気に入ったグアテマラのゴースト・ストーリー、ハイロ・ブスタマンテ監督『ラ・ヨローナ~彷徨う女~』をご紹介。つい先日ソフトリリースされたばかりです。

■『ラ・ヨローナ~彷徨う女~』(La Llorona)[2018.グアテマラ]

公式サイト: https://gaga.ne.jp/lallorona/
■【公式】『ラ・ヨローナ~彷徨う女~』世界を震え上がらせた極上ホラー!/7.10(金)公開/本予告

あらすじ:グアテマラの軍事政権によるマヤ系先住民族の虐殺から30年の月日が流れた現在。当時の将軍エンリケは今も裕福な権力者だ。しかし、直近に虐殺の責任を問う裁判を控え屋敷はピリピリしていた。しかもどうやらこの屋敷では、最近女性の泣き声が聞こえるらしい……多くの使用人は呪いを恐れて退職してしまう。結局、エンリケの政治力から裁判は中断され、病を理由に放免された彼とその家族は再び屋敷に戻る。家を取り囲む国民の糾弾が続く中、外に出られず屋敷に立て籠もった状態になった彼らのもとに、若いメイドのアルマがやってきた。彼女が働き始めると共に、屋敷では不思議なことが起き始め……

 ファーストシークエンスで唱えられる言葉、老女の顔のアップからゆっくりカメラが引いて全体が見えてくるところから一気に魅せられました。幻想と現実の境が曖昧になっていく屋敷を舞台に、血塗られたグアテマラ内戦の過去と中南米に広く伝わる泣き女(La Llorona)の恐怖伝説を交錯させて描いた社会派ゴシックホラーにして、立派な女性映画です。画面の中央に据えられた顔の物語性、折り重なる声の力、この世に「外」が在るということを、台詞には頼らず映るもので見せていく手際も実に鮮やか。そして何よりも「在ったことを忘れられない、だから人間はゴーストを見る」という私のゴースト解釈と完全一致!まさに求めていたホラーの形がここにありました。

 この映画において重要なのは、内側から「外」の喧騒を眺める人たち、特権階級である家の中の彼らからすると、家の外にいる民衆は彼らと同じ人間ではない、ということ。要は「屋敷の外≒この世の外」となっているんですよね。だから、ゴーストは外から現れる。そして、同じ屋敷の中にいる人たちそれぞれに「見たくない現実」「知りたくなかったこと」は異なっている。だから、見えているもの/聞こえているものは人によって変わってくる(ちなみに以前の記事で取り上げた『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』がまさにこの部分を掘り下げた名作です)。このあたりのロジックの詰め方にも嬉しくなってしまいます。ゴーストの!解釈!一致!(しつこい)

 パッと見たときはどういうことかわからない「クローズアップから始まり、スローなズームアウトで全体が見えてくる」場面が印象に残る作品でもあります。冒頭以外にも、例えばヴェール越しにトツトツと語っている女性のクローズアップの周辺のライトが点滅していて、なんだろうと思ったらゆっくりズームアウトしていくうち、それが虐殺を告発する老女の記者会見の場であるとわかる場面。こうしたシーンごとに画面を凝視させてしまう力には、なかなか凄いものがあります。近年のホラーではスローなズーム自体は決して珍しくないのですが、ただ何もない空間をいわくありげに撮って雰囲気を出すというような安易な使い方からは程遠い、ストーリーテリングのための手法としての活用がお見事。さらに、布と髪の質感と蠢かせ方&水と風の使い方が巧みなのもポイント高い。黒髪がうわーんと靡き、衣服が風を孕んで揺れるイメージが様々なバリエーションとして反復されるのが古典的なホラー映画マナーに則っていて大変楽しいのです。

 ちなみに同監督の前作『火の山のマリア』は貧しい農家の若いマヤの娘が有力者との結婚を強制されていて……というところから「これはどういう話なんだ…?」という捻れた展開をみせる話で、相当酷い状況が描かれているのに妙に可笑しみのある演出が印象的な佳品でした。どうやらこの監督は陰惨な話に浮遊感のあるユーモア感覚を取り込むのが得意なようで、今作でもどこまでも悲しいホラーにできる話がなぜか「おかしい」。淡々としたタッチはそのままに、しばしば「笑わせる気なのか…?」という妙なシチュエーション、怖いんだか面白いんだかよくわからない奇妙なショットが入ってくる。個人的には大好きな部分なのですが、これは好みが分かれるところかもしれません……。

 ともあれ『火の山のマリア』からの連投となったマリーア・メルセデス・コロイ演じる謎めいたメイドの超越感のある佇まいは今回も素晴らしいですし、この監督の「底をついた現実の悲惨さ」と「超現実的な感覚」を組み合わせる作風は一見の価値あり。言葉で説明するのが難しい不思議な魅力を持った作品ですので、ご興味をお持ちの方は是非一度ご自身の目でお確かめください!


■よろしければ、こちらも/『わたしたちが火の中で失くしたもの』マリアーナ・エンリケス

 ゴーストは出てきたり出てこなかったりするのですが、アルゼンチンの作家、マリアーナ・エンリケスのホラー短編集『わたしたちが火の中で失くしたもの』は「なかったことにできない」感情が恐怖の背景として機能する点で『ラ・ヨローナ』に重なる部分がある作品。そしてこの真っ暗闇というよりも薄闇の恐怖といった趣のあるホラーが生まれた背景の面でも、「この国では人は消えてきた、いとも簡単に」という事実――自国の負の歴史が大きな影響を及ぼしている点でも繋がるところがあるように思います。どの作品でも不気味な気配の横溢が素晴らしく、寝る前に読んでいた2晩連続で悪夢を見ました……。

「掴めない何か」は確かにそこに存在し、突然出現する日常の裂け目に落ち込んでしまえば、もう抜けられない。根深い貧困問題だったり、軍政の記憶だったり、家庭の不和だったり、そのすべてだったりする不気味な「気配」が屋敷や暗い道に満ちていく。治安の悪い場所で暮らす女性が「殺された子はうちの近くにいた子かも」という感情に突き動かされるうち、底知れない闇に触れてしまう『汚い子』。少年殺人鬼のゴーストを見るようになったガイドがどんどん異世界に引き寄せられていく『パブリートは小さな釘を打った』(タイトルからして怖い)。印象深い作品が色々ありますが、私が特に好きなのは『アデーラの家』。ある兄妹と仲良しの片腕のない少女アデーラの廃屋の冒険の話で、まさに「何かに触れてしまったらもう戻れない」&「人が簡単にいなくなる」様子が、なんともいえず恐ろしい。恐怖の方向が明確でなく、わからなさのなかに読者を取り残す仕掛けが巧みで、明確な答えがどこにもない感覚が背筋を冷やす感覚を、是非ご体験ください。

 古今東西、多種多様な人たちが「人ならざるもの」の存在に仮託して見てきた自分自身と自身を取り巻く環境の悪夢、恐怖の形に思いを馳せながら、それでは今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。

今野芙実(こんの ふみ)
 webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。
 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。




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