—— ダメ男 女に惚れて 迷宮へ

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

畠山:雪解けとともにやってくる「翻訳ミステリー大賞」のお知らせ。今年の候補作は『あの本は読まれているか』『壊れた世界の者たちよ』『ザリガニの鳴くところ』『ストーンサークルの殺人』『指差す標識の事例』の5作品。4/25(日)にオンラインで発表される予定です。嘆いても仕方ないとわかっちゃいますが、授賞式とコンベンションを、一堂に会して楽しんでいたあの日が懐かしい。来年は、来年こそは、リアルでお会いしたいですね!

 さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」、今日のお題はロバート・ゴダード『一瞬の光のなかで』。1998年の作品です。

  仕事でウィーンを訪れていたイギリス人カメラマンのイアン・ジャレットは、偶然出会ったマリアンと名乗る女性と激しい恋に堕ちる。数日間の濃密な愛の日々。二人は互いに家庭を捨てて共に生きることを誓い合う。だが、イギリスに戻り、妻と娘に別れを告げ、マリアンと再会すべく約束のホテルに向かったイアンを待っていたのは、「わたしを見つけようとしないで」という彼女からの電話だった。しかもウィーンで撮った写真はなぜかすべて感光されていて、彼女の姿をとどめるものは何もない。マリアンの行方を追うイアンは、彼女の夫の名前の入った墓を見つけるが、そこに刻まれた日付はなんと、1838年だった——

 ロバート・ゴダードはイギリスのハンプシャー出身。ゴダード作品は史実と虚構を織り交ぜたスタイルが特徴ですが、それもそのはず、ケンブリッジ大学で歴史学を学んだ方なんですね。1986年に処女作『千尋の闇』でデビュー。今のところ2015年発表の『宿命の地』まではすべて邦訳されています。それだけでもいかにファンの多い作家さんかがわかります。
 全方位に謝りたいくらいゴダード作品をサボってる私が、唯一既読だったのが『リオノーラの肖像』。主人公リオノーラの回想と彼女の父の戦友が語る物語に惹かれてグイグイ読んだ記憶がありますね。『惜別の賦』とか1919年三部作とか積みっぱなしにしていまして、北田絵里子さんの「初心者のためのロバート・ゴダード」を拝読しつつ、深く反省をしております。

 では早速『一瞬の光のなかで』。
 あらすじを読んで、おや、と訝しんだ方がいらっしゃるかもしれません。はい、そうです、ダメ男です、イアン・ジャレット。ぱっと出会った女性にのぼせあがって妻子を捨てる、ついでに仕事のキャリアまでダメにする、という愚かさ。しかも浮気は初めてではなく、かつて不倫相手との逢瀬の帰りに死亡交通事故を起こしたことのある、文字通りの「前科持ち」なのです。

 第一部はイアンと小悪魔系女子マリアンの「そんなのうまくいきっこない」恋愛が語られます。個人的には忍耐を必要とするパートでありました。だいたいねぇ、ほぼ初対面の相手の食事をいきなりつまんで食べるような女にデレデレと鼻の下をのばすなんて、頭悪すぎる。その鼻の穴に割り箸でも突っ込んでやろうかと。ま、そんな調子の第一部約90ページ。大人の皆様におかれましては、寛容なお気持ちでお付き合い願いたく存じます。

 第二部からは一転、そもそもマリアンとは何者なのかを、なんとカメラの創成期に関わるお話から追っていくことになります。才気にあふれながらもDV夫に束縛された生活を送る19世紀初頭の女性の人生が、彼女と現代をつなぐ役目を負ったエリス・モバリーの独白という形で語られていきます。この内容が非常にドラマチック!

 だ・け・ど! はい、そうです、エリスは信用できない語り手なのです。というか、イアンが関わる誰もに、嘘や隠しごと、裏のそのまた裏の顔があり、人間関係は複雑をきわめ、過去と現在はつながりそうでそうでいて簡単にはつながりません。巨大迷路に放り込まれた感覚です。あのウィーンでの出会いがこんなことになるなんて!

 加藤さんはゴダードを読んだことがあるのかな?

 

加藤:桜の便りとともに春の訪れを肌でも感じる今日この頃。皆様いかがお過ごしでしょうか。そして、この季節に忘れてならないのが翻訳ミステリー「読者賞」。すでに投票受付が始まりました。詳しくは☞ こちら貴方の「2020年の一冊」を是非教えてください。

 さて、噂には聞いていたロバート・ゴダードですが、読んだのは今回が初めてです。いやぁ面白かった。ちょっと馬鹿っぽいくらいと思えるくらいのスケールの大きさ。こういう法螺話はみんな(とくに男は)大好物なんじゃないかな。
 実は、畠山さんが「忍耐を必要とする」と書いた第一部を僕は楽しく読みましたよ。「なんだか村上春樹の小説みたい」って思いながら。舞台は芸術の都ウィーン。写真家イアン・ジャレットの前に現れる赤いコートの女。古都のカフェテラスで交わす知的でお洒落でちょっとスノッブな会話。やれやれ。スイングしなけりゃ見逃し三振、据え膳食わぬは何とやらなのであります。

 そして、話が進むと物語は思わぬ方向へ。あまーいラブロマンス編はどこへやら。やっぱりジャレットは騙されていたのねと読者は気付くのだけれど、この男は家族も仕事も全てを投げ捨ててマリアンを探しまくります。しかし、そこで浮かび上がってくるのは意外すぎる事実。マリアンは18世紀の終わりから19世紀に生きた女性。そして、彼女は我々の知る歴史を塗り替える発明をしていたという。
 ええぇぇ!? 一体なんの話をしてんの? どこに向かってんの? マストリードミステリーって聞いてたのにミステリーじゃないじゃん(嫌いじゃないけど)、という戸惑いをよそに風呂敷はさらにどんどん広がってゆくのですね。そして、気付けば鼻息荒くページをめくる手が止まらない。
 いやでも待て。広げた風呂敷を上手く畳めずガッカリする話を今までどれだけ読んできたことか。あまり期待し過ぎるのは危険かも。そんな疑心暗鬼なところもサスペンスの盛り上げに一役担う、楽しい読書でございました。
 おそるべし、ゴダード。さて、この話がどんな風に着地したかは是非その目でお確かめください。

 僕がブレーキとアクセルを忙しく踏みながら楽しんだこの本を、畠山さんはどう読んだのかな?

 

畠山:これってミステリー? という戸惑いは私にもあったなぁ。

「マリアンは何者か?」という謎にはすごく引きつけられるけど、いっこうに殺人事件が起きない。もしや『時の娘』みたいな歴史の謎解きなんだろうか、でも写真機の発明者って興味のない人には全然ピンと来ないし(私です)、現代の登場人物がやたらと胡散臭いし、そもそもこのダメ男になにをさせたいのか……と疑問符だらけになった上巻の終わりくらいに、ようやく出ましたよ、死体。いやー、人が死んであれほどホッとしたことはない。(<いろいろ不穏当)
『リオノーラの肖像』もそうでしたが、重きが置かれるのは殺人事件そのものより、人の生き方、交差する思惑の複雑さであり、長い年月絡まったままだった糸を解きほぐしていく過程に醍醐味があるんですね。

 この「解きほぐす過程」がめっちゃくちゃ目まぐるしい。イアンはウィーンで始まった恋と謎を追いかけ、ロンドン、イギリス南部の各地、ガーンジー島、そして過去と現在を行ったり来たりします。読んでるこちらも見当識を失ってふわ~っとなるのですが、ちょうどいいところで意外な事実が刺さりこんできてハッとさせられる。どこに連れていかれるのか全く予想のできない展開で、翻弄されっぱなしです。いいように作者の掌で転がされているのが悔しいやら楽しいやら。

 ところが! 下巻に入ってから「えーっ!」と声が出るほど意外な方向が示されます。ダメ男イアンにさらに「人としてどうよ!」とツッコミを入れまくりつつ、複雑な人間関係をなんとか脳内に留めながら、勢いのままに怒涛のスピードでゴールまで走りきる。読み終わってぜいぜい息が上がりました。しかも事件はちゃんと解決するけど、ちょこっと謎を残すのが憎らしい。

 真相が明らかになって冷静に振り返ると、「それのためにそこまでやる!?」という気がしなくもない。でも、イアンのダメ人間ぶりならこれくらい強烈に揺さぶられ、引きずられ、コテンコテンに苦しめられてもいいのかもしれません。なにがいけないって、この人は自分本位の度が過ぎて、まわりにものすごく迷惑をかけてるのに全然気がつかない、むしろ勝手な理由をつけてノープロブレムにしちゃう人なんですよ。同情の余地なしというか、この人に同情したら情けの無駄づかいだと思う。ああ、この本を読んだ人と集まって盛大に血祭りにあげてやりたい! これくらい思えるダメ男だから、徹底的に巻き込まれて全然OK!

 ああ、すみません、ちょっとコーフンしてしまいました。この話題でどんぶり3杯はいけそうなんだもの。同性から見てイアンはどうよ、加藤さん。

 

加藤:思えば、名古屋読書会でもこの「ミステリー塾」でも、僕はいつもダメ男の弁護役だった気がします。てか、いつの間にかダメ男の代表みたいな話の振られ方をされてない? どういうこと?
 でも、今回ハッキリわかりましたよ。僕のダメ男っぷりなんてアマアマです。この話の主人公ジャレットを見よ!  もう神々しいくらいのダメ男。一本筋が通っているというか。決して悪人ではなく、ただただ女にだらしなくて鈍くて周りが見えないだけというのも素晴らしい。
 僕なんかには近寄ることさえ許されないキングオブダメ男。弁護するなんて100万年早いよ。

 聞くところによるとゴダード作品の特徴には、話が壮大かつ複雑であることのほかに、主人公にダメ男が多いってのもあるみたいですね。
 読み終わって気付いたんだけど、主人公がダメ男であるお陰で、感情的に入れ込まずちょっと引きながらストーリーを追えた気もします。ゴダードの優れたリーダビリティーには主人公のダメ男っぷりが一枚噛んでる説。

 話は変わるけど、今月出たばかりの田口俊樹著『日々翻訳ざんげ』にボストン・テラン『神は銃弾』(1999年)の話が出てきます。原書を一読して惚れ込んだものの、いざ翻訳となると独特の文章の理解に苦労したそうです。田口さんと編集担当の永嶋さんが、どうしても分からないことを書き溜めてFAXでお伺いをたてると、恐ろしく悪筆な手書きの返事がきて、その解読にまた苦労したというアナログな話w
 本作『一瞬の光のなかで』では、銀塩カメラとカセットテープが重要な役割を担っています。でも、写真フィルムが感光してパーになったり、カセットテープを慌ててイジェクトしたらテープが絡まってウガー!ってなったりと、若い読者にはきっと「ナンのことやら」。この作品が発表された1998年はあらゆるメディアが恐ろしいスピードでデジタルに移行しようとしていた時代。この20年間の情報技術の進歩に改めて驚かずにはいられませんでした。

 そんなわけで、バカでかい風呂敷が気持ちいい『一瞬の光のなかで』を堪能しました。こういうスケールのデカい話をもっと読みたいと思っていたら、来月はついにダン・ブラウン先生じゃないですか!

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと 

 ジェフリー・ディーヴァーなど他の人気者がそうであったように、ロバート・ゴダードも翻訳ミステリー読者の間に周知されるまでには時間のかかった作家でした。最初に翻訳されたの『さよならは言わないで』『リオノーラの肖像』は大きな話題にならず、結局1996年に翻訳されたデビュー作『千尋の闇』で火がつき、翌年刊行の第4長篇『蒼穹のかなたへ』で確固たる地位を築くことになりました。そこから現在に至るまで、ほぼ途切れることなく翻訳が続いている状況はご存じのとおりです。

 ゴダード作品は基本的にロマン文学であり、伝奇小説です。錯綜した人間関係の間に存在する因果が転変の中で明かされていき、最終的に秘められていた絵図が判明する。信用できない語り手が採用される理由は、先行きがわからない状態で物語が進んでいくことを作者が好むからであり、主人公にいわゆるダメ男と呼ばれる部類の人物が多いのも、運命に翻弄される役割が彼らに振られているからでもあります。ミステリーには謎解きの小説として発展してきた経緯がありますが、源流の一つは19世紀のロマン文学です。物語の起伏を楽しむ大河小説であり、社会のさまざまな位相の人間が登場する群像小説でもある。そうした遺伝子の要素を最も色濃く受け継いだのがゴダードなのではないでしょうか。

 ゴダード作品の紹介が本格化した1990年代後半は本格・サスペンス・ハードボイルド・冒険小説といったサブジャンルに収まらない作品が話題になることも多くなりました。歴史ミステリーのチャールズ・パリサー『五輪の薔薇』、壮大な陰謀小説セオドア・ローザック『フリッカー、あるいは映画の魔』などが代表例です。ミステリーという表現形式は自由で、大きな可能性を秘めています。主流文学に含まれる作品の中にその要素を見出したり、ミステリーの技法が他のジャンルに転用されたりといった枠にとらわれない交流は歓迎すべきだと私は考えています。ミステリーの本家帰りであるゴダード作品も、再読するとさまざまな示唆を受けます。

 さて、次回はダン・ブラウン『天使と悪魔』ですね。これまた期待しております。

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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