みなさま、カリメーラ(こんにちは)!
 
 今回も女性作家を二人取り上げ、最近の話題作をご紹介します。前回のヤナキとツィリンゲリドゥと同じく、この二人もお互いまったく対極的な作風を持っています。

◆ コンスタンディナ・モスフ『ターコイズの女たち』――貴重なユーモア・ミステリ――

 まずは、すでにかなりの作品を発表しているコンスタンディナ・モスフ女史の『ターコイズの女たち』(2020年)からです。

 
コンスタンディナ・モスフ『ターコイズの女たち』

ベル社、2020。

 ちょっと不思議な題名ですね。トルコ石を持っているのか、衣服かスカーフの色なのか、もしかして本のカバーのことなのかよくわかりません。
 プロローグで三人の女たちが紹介されます。高齢のしっかり者ゲラキナ。ショートカットで好戦的なマーヒ。一番若くてちょっとずれてる美女エリー。偶然知り合っただけで、互いの共通点はほとんどないのですが、三人とも不幸な人生に追い詰められているようです。ゲラキナは亡き夫が残してくれた財産を国家に没収されてしまい、三十を過ぎた息子は犯罪に染まって監獄に出たり入ったり。マーヒは叔母が残した借金を背負わされ、エリーには別れた夫がちゃっかり請求書を回してきます。崖っぷちに立たされた三人は冗談半分に銀行強盗の計画を練り始めます。
 絶望した普通の主婦が犯罪に走るという、桐野夏生『OUT』みたいなお話かなと思っていると、ここまではプロローグ。続いて本編が始まります。

 意外なことに、この後はずっとパンデリアスなる私立探偵の一人称語りになります。女性作家による男性主人公というのはギリシャ・ミステリではめずらしい。全然いないわけではありません。これまでのエッセイで触れただけでもダネリのヴラホス中将(第4回)、パパディミトリウのハリス警部(第8回)、ヤナキのコキノス警部(第17回)がいますが、そう多くはない気がします。
 しかも、この男性探偵が一人称で語るスタイルというのは初めて見ました(男性作家の一人称作品ということなら、マルカリスのハリトス警部(第2, 14回)やシモスのカペタノス警部(第11回)がいるのですが)。どこまで異性の心理に入り込んでいくのか注目されます。
 
 本編では時間が飛んで、なんとゲラキナはすでに病気で亡くなっています。あらら、強盗の件はどうなったんだろうと、読者を惑わせますが、どうも数か月前に銀行強盗はすでに遂行済みのようです。ところが、なんだか妙な事件で、犯人は金を奪い二手に分かれて逃走中ひとりが何者かに射殺され、ちょうど通りかかったターコイズのドレスの女三人組が金を横取りして逃げる様子が、防犯カメラに記録されています。「ターコイズ」はこの三人のドレスの色なんですね。
 いくつのグループが犯罪に絡んでいるのかわかりにくい、なんだかゴタゴタした強盗事件です。
 さらに事件の直後、ゲラキナのアパートで謎のブルガリア人の射殺死体が見つかります。不良息子マリノスは自分の仕業だと自供しますが、これも何やら裏がありそうです。
 主役のパンデリアスは恋人ジェシーがゲラキナと同じアパートに住んでいることから、事件にかかわるようになります。元警官で私立探偵の看板を出したものの、客も少なく、クラブ歌手のジェシーも売れていません。そこで依頼されたわけでもないのに、強奪金のおこぼれにあずかろうとマーヒとエリーに接近し、獄中のマリノスからも情報を引き出そうとします。
 三人のターコイズの女たちは何者なのか? 警察は懸命に捜査し、どこで聞き知ったものかマフィアまで競争に加わってきますが、読者には疑問でもなんでもありません。どう考えてもゲラキナたちでしょう。謎なのは二件の射殺事件の真相、それに奪われた金のありかです。 
 パンデリアス探偵は事務所が倒産しないようにと奔走しますが、獄中のマリノスは何かを恐れている様子。殺されたブルガリア人イヴァンキンには娼婦の妻があると聞き訪ねるものの、こちらも口が堅い。イヴァンキンの家を張りこんでいると、出てきた金髪の男たちに脅され、さらには別手の黒づくめグループからも銃撃される始末。
 果ては、強奪金を隠していると信じ込んでいる何者かに、最愛の恋人ジェシーが誘拐されてしまいます。
 いったい誰と誰がつながり、金を隠しているのは誰なのか? 

 ハードなリアリズムが多いギリシャ・ミステリの中にあって、パンデリアス氏のユーモアは貴重です。これまで解決した事件を誇らしげに語る四十代のうぬぼれ屋探偵がなかなかトボケた味を醸し出します。

 周囲にもちょっとずれた人物たちが配されています。
 例えば、消えた強奪金を追っているマフィアのボスのカナヴァツォス。阿漕な商売に手を染め周囲には死のにおいを漂わせているのですが、パンデリアス氏の視線を通すと、なんだかコミカルなオヤジになってしまいます。

「カナヴァツォスか。これはまた変わったつらをしてやがる。雰囲気と体型はむかしの映画から抜け出したようだ。『ゴッドファーザー』、1972年だっけ。すでのおれの耳にはニーノ・ロータの曲が響いていた。ここじゃカナヴァツォスがマーロン・ブランドだ。ただし、独特のしゃべり方をしようと口に例の綿を詰めてるわけじゃないが。だけど、やつの娘コニーの結婚祝いの言葉をかけてやるつもりはない。」

 ここ、初めてマフィアのドンが姿を見せ、パンデリアスに凄みを利かす緊迫の場面なんですが。
 
 他にも、どこにでもいそうなタイプがぞろぞろ出てきて楽しませてくれます。
 探偵事務所の下の階に入っているコーヒー店のおやじソティリスは詩人デビューを夢見て、浮かんだ詩句を大学ノートにメモしていますが、パンデリアスがちょいと盗み見したところでは、有名詩人からのパクリに溢れているらしい。
 張り込み先では、パンデリアスが理髪店に聞き込みに入ったところ、手持無沙汰の店主アンドレアスにつかまって、あちこち刈り上げられた挙句、オヤジのお気に入りの演歌は聞かされるわ、チプロ(蒸留酒)はおごられるわで、なかなか仕事に戻れません。

 周囲のオモシロ人間ウォッチングだけではなく、パンデリアス自身も人からイジられています。
 「おれの名はパンデリアス、私立探偵だ」と決めゼリフで登場したものの、恋人ジェシーに珍妙な服をコーディネートされ、鏡に映しながら、「おれの好みがカジュアルなのは誰でも知ってるのに。知らないのはジェシーだけだ。ピカピカ光るこの得体のしれない布地。ステージに立って歌えってか? このバックルに三重の飾りのついたついたベルト! いまだにアテネでこんなもん売ってるのか!」
 尋問中容疑者に圧力をかけると、
「相手は色を失い、手を顔に埋めて泣き始めた。おいおい、またか! どうして女ってみんなこうなんだ? おれはヒオスのマスティックの箱を開け、ひとつ口に放り込んで自分を抑えようとした。それから女にも差し出した。
「ガムどう?」
「あんた頭がおかしいの!」

 酒もタバコもやらず、代わりにいつもマスティック(ヒオス島特産の樹脂から作った天然ガム)を噛んでいるので、定番のタバコが差し出せないのです。(いつもミルクを飲んでるネロ・ウルフの助手アーチー風ね)。


מסטיקא2 – Μαστίχα – Βικιπαίδεια (wikipedia.org)
マスティック。健康志向の探偵パンデリアスがいつもクチャクチャ。

 こうやって、自身の想像と周囲の印象とのギャップでじわじわと笑いを取っています。
 もっとも、謎を追う探偵としては有能で、強奪金のありかをはじめとするゴタゴタした事件を仮説を立てながら解きほぐし、恋人の危機には真っ先に駆け付けてビルの壁をヤモリのように登ったりしていますが。

 私立探偵の一人称語りというのはハードボイルドの定番ですが、これは下手をすると、《わたし》がすべてを取り仕切る神のようになってしまい、読者から敬遠されてしまう危険をはらんでいます。
 特に、《シニシズム》という看板を背負わされてあれこれ減らず口をたたくタイプの主人公は、そういうお前はどうなんだ、と反発する読者がいても不思議ではありません。語り手には作者という最強の後ろ盾がある以上、何でも言えて、自分を特別扱い・・・・・・・できるのですから。自分自身を茶化すこともありますが、他人より先に自分で指摘しているから批判は受けないよ、ということにもならないでしょう。
 ましてや、シリーズキャラであれば、毎回最後には手柄を立てる以上、弱さとか人間臭さを曝け出すバランスへの配慮が必要になってくるはずです。あるいは、ネロ・ウルフとアーチー・グッドウィンのように推理とアクションを分業するとか。でないと、全肯定の主役が一人ですべてをまとめてしまい読者は鼻白むだけです。

 この点をモスフ女史はユーモアで包むというやり方で処理しているようです。
 このユーモアというのをもう少し考えてみると、作者が登場人物たちに暖かい視線を注いでいるというようなことではなくて、笑いは笑いなのですが、表面と内実との間の《ずれ》を指摘することで生み出される笑いなのだと思います。古典的なのは、わしゃ貴族だぞと勿体ぶって登場したH・M卿が階段のバナナで足を滑らすような状況ですね。この《ずれ》にツッコミを入れるのは、周囲の登場人物の場合もあれば、一人称の語り手のこともあるでしょう。H・M卿の場合はかたわらの人物たちには心配されていますから、笑っているのは場面をセッティングした作者自身です。
 パンデリアス探偵の場合は、自身の語りの中で、客に無理やり演歌を聞かせる理髪店のオヤジや怪しげな詩でデビューを目指すコーヒー店主の《ずれ》具合にしっかりツッコミを入れます。しかし同時に、恋人からはイジられ、容疑者の女性からも呆れられています。しかもそれを自らしぶしぶ(あるいは、あっけらかんと)語るのです。
 主役も他人のツッコミからは逃れられないという、この全方位の《ずれ》の指摘が思わずふふふと笑ってしまいそうな《ユーモア》につながっているようです。

 こうしてモスフ女史の手によって、死体がゴロゴロ転がるハードボイルドが、ハードな私立探偵というよりも、母親の掌で転がされている駄々っ子の冒険のようなユーモア・ミステリに仕上がっています。

 印象的なことをもう一つ。
 作品中にターコイズ色のリボンをつけたネコが現れます。ゲラキナの飼い猫で、彼女の死後はパンデリアスが世話をすることになるのですが、事件に深くかかわってきます。別に霊感があるとか、突然猫目線になるということはありませんが、動物との交流といったほのぼのした筆の遊びはギリシャ・ミステリにはあまりないような気がします。むしろ、子供向きのファンタジー作品に出てきそうです。
 エッセイ第17回でご紹介したエフティヒア・ヤナキ『後ろの座席で』にもロシアンブルーのネコが現れますが、ここでも現実から逃避したいコキノス警部がじゃれあって慰めを見出すあたり、単なるパズラーミステリの道具立てではなく(謎解きのカギにはなるのですが)、それ以上の存在感を持っています。
 リアリズム主流のギリシャ・ミステリもこういった多様な方向へ分岐していくのでしょう。

 コンスタンディナ・モスフはアテネ生まれで、2008年ジュブナイル作品でデビューしました。女性作家ゲオルギア・パパリベリとの共著『わたしは殺人者を愛した』(2011年)がミステリ長編第一作です。その後同じコンビで『わたしの生活のすべて』(2013年)も出しています(ギリシャのエマ・レイサンかロジャー・スカーレットか)。2014年の単独作東方アナトリアがある限り』(2014年)は11世紀ビザンツ帝国が舞台の歴史小説。単独でのミステリはパンデリアス探偵初登場の長編『レモンパイ』(2018年)で、その後(不思議な題名の)灰汁あく(2019年)があります。

 
コンスタンディナ・モスフ『レモンパイ』

ミハリス・シデリス社、2018。
【マスティック大好きの探偵パンデリアス初登場。】

 私が読んだほかの作品は、アンソロジー『場所が犯人を曝く』(2014年)に収められた短編「いい子は早く寝る」です。
 ギリシャ西部プレヴェザ県を流れるアケロン川が舞台。古代には死者が冥府へ送られると信じられていた三途の川です。今は船の観光コースがあるようで、船頭がブズキ歌手の《わたし》にオデュセウスやヘラクレスの冥界下りを物語ります。《わたし》は余命二か月の衰弱した中年女性と知り合い、不思議な音響効果のある古代の死の神託所ネクロマンディオで殺してほしいと依頼されるのですが……夜の川岸でブズキ演奏に皆が熱狂する情景はじつに幻想的です。

 
ミミ・フィリピディ他『場所が犯人を曝く』

トポス社、2014。
【モスフ「いい子は早く寝る」所収。ギリシャ・ミステリ作家クラブの短編アンソロジー第三弾。エッセイ第16回で紹介済み。】

 このエッセイで何度か触れた、ネット上のミステリファンクラブ「ミステリ文学の友Φίλοι Αστυνομικής Λογοτεχνίας」のHPを管理運営しているのはこのモスフ女史です。

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◆イリニ・ヴァルダキ『風船ガム』

 上質のユーモア作の次にはとんでもない衝撃作に出会ってしまいました。イリニ・ヴァルダキ『風船ガム』(2020年)です。

 
イリニ・ヴァルダキ『風船ガム』

ベル社、2020。

 作品は三人の女性が順繰りに語っていく構成です。最初は断片の連続にしかすぎませんが、情報が積み重なっていくにつれ背筋がゾっとする状況が立ち現れてきます。
 まず、ジムの美人トレーナー、エーマは健康美あふれる写真をインスタグラムに載せ、フォロワーが六十万人を超える大人気のインフルエンサーです。が、実は家庭で夫のDVに苦しめられています。
 二人目の主婦ファニーはスーパーに勤めながら娘と双子の男の子たちを育てるのに苦労していますが、一方で《ファニーのママ・ストーリー》なる素人番組をYouTubeに公開し、子育てに悩める母親たちへの的確なアドバイスによってカリスマ主婦になっています。
三人目はファニーの娘で反抗期の高校生フリスティナ。あれこれ大忙しの母親に構ってもらえず、何かと喧嘩しています。仕事一筋の父は帰りが遅く、ほとんど顔を合わすことがありません。
 
 その後二つの事件がきっかけとなり、三人の日常がねじれ始めます。
 まず、エーマが職場へ通うのに使っているアテネのメトロのホームで墜落事故が起き、構内は大パニックに。ショックで動けなくったエーマを親切な男が介抱してくれます。
 このメトロのホームは再三登場します。ファニーも毎朝通勤で利用し、のちにフリスティナもある決心をして列車を待つことになります。三人のストーリーのいわば連結点の装置です。

 もう一つの事件は、家庭に居場所のない高校生フリスティナのある行動です。学校で仲良しグループはいるのですが、表面的な交遊に満足できず、大人びた謎の《ニック・シャドウ》とのメールにハマり、元のボーイフレンドをふってしまいます。そこで友情が憎しみに逆転し、グループから陰湿ないじめを受けるようになります。しかしそれ以上に、この《ニック・シャドウ》の正体が案の定というか、予想をはるかに超えたというか……
 
 こう書くとネタを割ってしまっているのではと思われるかもしれませんが、いえいえ、これは序の口です。
 第一章の終わりでやっと、「私の名はフリスティナ・ペトル。15歳。他人との貸し借りなんか要らない。《あの人》だけでいい。何千も見た夢の中で一つだけが実現した。それは……いちばん凄惨な悪夢だった」などと散々に煽って本筋に入っていきます。

 全部で九つある各章の最初には、監獄と警察署の断片シーンが挿入されていきます。監獄で面会を待つ囚人と警部の尋問を受ける容疑者の正体は謎で、二人が同一人物なのかも不明です。
 この場面が、現在というか、ストーリーの結末部分なのであれば(その保証もないのですが)、誰かが犯罪に走ったあげく、逮捕収監される悲劇に終わるということでしょう。それは誰なのか? 三人の女のうちの一人? いや、囚人も容疑者も性別さえ不明(ギリシャ語では主語は自由に省略できる)なので、それすら確言できません。(殺されそうなのはDV夫なり、謎のメール相手なり、すぐに想像できますが。)

 作品全体を占める三人の一人称語りが、神経症的で読者に緊張を強います。描かれる出来事自体もDV、いじめ、動物虐待といった目を覆いたくなる壮絶な内容なので、その当事者の声はいきおい緊迫感に満ちたものにならざる得ません。熱に浮かされたような饒舌の洪水が続きます。エーマとフリスティナの叫びはもちろんですが、娘の危機に気づかない母ファニーの能天気なYouTube番組が「親愛なるママたち、ありがとう! そう、おかげさまでこの番組のチャンネル登録が十万人を突破しました!」などと挿入されると、とち狂った不協和音となって、サスペンスはいや増しに高まっていきます。
 『ターコイズの女たち』のとぼけた余裕ある語りからはなんと遠いところにあることか。

 いつエーマとフリスティナ&ファニー親子の運命が交錯するのか。ファニーははたして娘の危機に気づくのか。気づいたところで娘をどう守るのか。しかしヒーローになれそうな人物は出てきません。ファニーの夫は仕事にかまけて帰宅は遅く、フリスティナの元カレは優しすぎる高校生。学校の教師たちも精神科医も今一歩彼女の心のうちに踏み込めません。エーマの方もフォロワーから絶賛されるのはネットの世界だけ。実際には頼れる家族も友人もいない孤立した状況です。

 しかも、作者の筆が絶妙なのは、三人がただかよわいヒロインというだけではなく、ある人物はしぶとく逞しい側面を、ある人物は巧妙なズル賢い面を独白の中へ滑り込ませていることです。それによって、登場人物への読者の感情も同情、共感、猜疑、失望、嫌悪等々と次々に揺さぶられていきます。
 一人称語りを存分に利用した技です。

 450頁近いぶっとい本(立てても倒れない)の最後10ページで突きつけられた真実は衝撃的です。残酷で陰惨で救いの声の届かない、そして切ない物語。
第一印象のストレートな犯罪小説ではなく、作者のたくらみのつまったミステリでした。ちょっちょっ、どうなってるの?と思わず最初の方を読み返してみたほどです。

 タイトルはフリスティナがクチャクチャ噛んではふくらませるピンクのガムから来ています。風船が空高く昇っていくのを想像しながら、少女は将来に夢を膨らませるのですが、戦慄の事件に巻き込まれるにつれ、妄想なのか現実なのかわからぬままに部屋中に数知れぬ巨大なピンクの風船が漂い始めます。それが割れたとき何が起きるのか……

 イリニ・ヴァルダキ女史はクレタ島の家系に生まれ、アテネで執筆活動しています。医学、生物学を学び、クラシック・バレエやスポーツが趣味という多芸多才な人のようです。
 デビュー作は2017年の『クリスタリア』。以降二作の長編を著わし、『風船ガム』は四作目にあたります。紹介文で見るところでは恋愛・心理スリラーが作者の持ち味のようです。(いずれの作品もベル社から出ています。べル社はモスフ『ターコイズの女たち』のほかにもツィリンゲリドゥ『沈んだ空』シモス『蛙』などを出しており、最近ミステリに力を入れています。)
 最新作として今年春刊行予定の心理スリラー『メンター』が控えています。

 
イリニ・ヴァルダキ『メンター』

ミノアス社、2021。
【なにやら意味深な表紙。赤字で「私のメンター」と書かれた上から、「私の」が二重線で取り消されています。】

◆ 欧米ミステリ中のギリシャ人(10)――ルパン・シリーズのギリシャ人――

 前回はホームズとギリシャの縁について書きましたが、ライバルのアルセーヌ・ルパンはどうでしょうか?
 残念ながらルパンの場合も、ギリシャとのつながりはごくごくわずかです。
 初登場の短編「アルセーヌ・ルパンの逮捕」(1905年、デビュー作にして大胆なトリック!)にはベルナール・ダンドレジーなる名が登場し、「そいつは三年前にマケドニアで死んでいる」とガニマール警部が指摘しています(ダンドレジーは母方の姓で、のちにルパンの変名のひとつとなります)。この人物がマケドニアで何をしていたのか、警部は全く説明してくれません。
 当時マケドニア地方はオスマン・トルコ領で、中心都市テサロニキがギリシャに復帰するのは1912年のバルカン戦争の際です。エッセイ第17回でもちょっとふれたように、二十世紀初めこの地方の情勢は混迷を極め、とりわけギリシャと隣国ブルガリアとが衝突して(1904-8年パヴロス・メラス戦死の舞台となったマケドニア紛争)、テロリスト組織が暗躍、外国人も巻き込まれています。フランスを含め西欧からは治安警察が要衝となる町に派遣されました。ベルナールはそんな衝突の中で命を落としたのかもしれません。
 第二短編集『ルパンの告白』「影の合図」(1911年)ではルパンが《赤いスルタン》との戦いに(オスマン治下の)アルメニアへ赴いた、という話が出てきます。反対派を残酷に弾圧したアブデュルハミト二世(1876-1909)のことでしょう。オスマン領内のアルメニア人の悲惨な運命はクリスティー『もの言えぬ証人』マルカリス『昔、遙かな昔』でも触れられています(エッセイ第1114回)。
マケドニアもアルメニアも、ことのついでに触れられているだけですが、ヨーロッパの東方問題はルブランの気にかかっていたのでしょう。ただし、ルパンは『金三角』でアフリカのモーリタニアに渡り皇帝「ルパン一世」として戴冠もしますが、彼の見る世界とは畢竟ヨーロッパ中央部のことです。『813』でドイツ皇帝を手玉に取りながら、「おれはヨーロッパの地図を変えてやる。全能の権力者として生きるぜ」と夢を語る通り、「世界をこの手に」というのは、つまり「ヨーロッパをこの手に」にほかなりません。その脳内地図ではギリシャやトルコはやはり辺境に位置しているようです。
ついでながら、《赤いスルタン》の依頼を受けてホームズもトルコに出張しています。
1903年初めのボーア戦争終結直後に起きた「白面の兵士」(1926年。依頼人が幽霊のような友人を目撃する気味悪い事件)の中で、同時に抱えていた緊急の案件として、トルコのスルタンから依頼がありすぐに出動した、とホームズ自身が書いています(君の書きっぷりはセンセーショナルすぎるよ、とケチをつけられたワトスンが執筆拒否をしたようです)。
 両雄はリング外でこんな(間接的)対決もしていたとは……
 実はアブデュルハミト二世は二千冊のミステリ小説を所蔵する本の虫で、ドイル「空き家冒険」の評判を聞きつけて、「ストランド・マガジン」のホームズ物すべてを在ロンドン領事館に命じて特別に翻訳させていたそうです。1907年新婚旅行でコンスタンチノープルを訪れたドイル夫妻(パリ、ベルリン、ヴェネチア、ローマと来てアテネにも立ち寄っています)にはメジディエ勲章を授与しています。後年ドイルがホームズを出張させたのはこの恩義を感じてでしょうね。
 スルタンとホームズの邂逅は二十世紀初めのトルコの作家が小説にしています。1911年アルメニア系作家イェルヴァント・オディアン Yervant Odianが『アブデュルハミトとシャーロック・ホームズ』を発表。王宮のスパイ三人が殺害された難事件で、スルタンに呼ばれた英国の高名な探偵が活躍する話だそうです。


 同じ頃(1913-14年)ギリシャでは作者不詳『シャーロック・ホームズ、ヴェニゼロス氏を救う』が雑誌連載されています(エッセイ第7回)。ホームズはひとりでギリシャとトルコ両国家の要人を救っていたことになります。もはやデューク東郷と並ぶ超人の域。

 
作者不詳『シャーロック・ホームズ、ヴェニゼロス氏を救う』

アグラ社、2013。初出『ヘラス』誌、1913-14。
【下段の紳士がヴェニゼロス首相。バカン『三十九階段』にはカロリデス首相として登場。】

 ルパンに戻りましょう。以上の話ではギリシャ人が登場するわけではありません。また、他の作品でも、若き日のルパンが教養を見せようと、僕はホメロスをギリシャ語原文で暗唱できるんですよマドモワゼル、と気取ってみたり、シーザーにあやかろうとプルタルコス「英雄伝」を読んだりもしていますが、こういうのはご愛敬。

 ギリシャ人が重要なキャラとして登場するのは、壮大なスケールで展開する『金三角』(1917年)です。作品の舞台は1915年。いまだ第一次大戦中(1814-18年)のことで、その影響が色濃く出ています。 
 戦場で片足を失った若きパトリス大尉は、憧れの看護師コラリーが誘拐されかけたところを、仲間の戦争傷痍者ヤボンたちと協力して救い出します。
 コラリーは実はフランス領事の孫娘であり、大富豪の銀行家エサレスの妻です。かつて家族で(オスマン領)テサロニキに滞在していた頃盗賊にさらわれそうになったのをエサレスに救われ、その後請われて結婚したようです。ただ、現在は夫を憎んでいることがわかってきます。このエサレスなる人物、トルコ系で外貌はエジプト、トルコ、ギリシャあたりで見かける東方人風と表現されています。後ろ暗い男で、財力と地位に物を言わせてとんでもない背信行為を企んでいるらしい。ところが仲間割れによってなんと途中で殺害されてしまいます。さらなる強力な敵の出現ということか。エサレスが遺した巨額の金を嗅ぎつけてさまざまな輩が暗躍します。もちろんルパンも。
 テサロニキ時代から令嬢コラリーに忠実に仕えてきたのがギリシャ人シメオン・ディオドキス老です。もともとエサレスの執事で、パトリス大尉の父親とも親しく、少年時代のパトリスの世話もしてくれた人物なのですが、顔半分をマフラーで包み、大きな黄色の眼鏡(大きめのレンズに黄色のフレームということ?)にいつもパイプ、という珍妙な外見をしています。ところが耄碌したせいなのか、この爺やのふるまいが次第におかしくなり、周囲を危険に巻き込んでいきます。後半は「シメオンの一戦」「シメオンの最後の犠牲者」などの章題が並び、手がつけられぬほど凶悪化。なんとも見せ場の多いキャラです。
 この作品の真犯人はじつに奸智に長けた冷酷な相手です。敵味方関係なく次々に殺めていきますが、正体がつかめません。廃屋に閉じ込められたパトリスとコラリーにも危機が迫ります。しかも部屋の壁にはすでに二人の墓碑銘が刻まれているという奇っ怪な状況。天窓から覗き込む顔のおぞましくも厭らしいこと。スリラーとして一級品、最後までハラハラしっぱなしでした。
 スケールが大きいと感じるのは、(横溝正史風の)二十年にわたるパトリス家と敵との宿命の闘争が描かれ、同時に戦時下の国際情勢にもしっかりリンクしている点です。
 シメオン老が「ギリシャは中立国――いや、いまではむしろ友好国ですので」というシーンがありますが、ドイツびいきの王党派と西欧に与するヴェニゼロス政府とが対立していたギリシャが結局連合国側に加わって参戦するのが、1917年6月29日。まさに「金三角」が『ル・ジュルナル』誌に連載中のことでした。
 隠された財宝を追うルパンの目的がまた壮大です。物語の中ではイタリアもいまだ中立で、両陣営がその動静を窺っています。イタリアを動かし連合国を勝利に導くのは実はルパンの手腕だった、という大風呂敷のお話が堪能できます。
 「連合国にルパンのような人物が三、四人いたら、戦争は半年たらずで片付いていた」……ルパンもまたゴルゴ13といい勝負です。

 もう一作、ルパンという名ではないのですが、いちおうルパン・シリーズと銘打たれ、そのままのキャラが主役の『ジェリコ公爵』(1929年)にも、海賊の一味ザフィロスというギリシャ人が登場します。
 ヒロイン、ナタリーたちの集う南仏の別荘に海賊ジェリコ一味が攻めてきます。うち寄せる波音が襲撃の太鼓の高鳴りを思わせますが、敵はなかなか姿を現しません。おとぎ話のような詩的な冒頭がけっこう魅力的です。
 ナタリーの父親の死の謎を追って、主役のエレン・ロック男爵はシチリア島へ渡り、セジェスタの古代劇場跡を舞台に、ジェリコの手下ザフィロスを問い詰めます。浅黒くて顔をツルツルに剃り、ポマードで髪を真ん中分けにしたこの小柄な若者は、地元では評判が悪く、代書人・治療師・歯医者など何でもこなしながら(これらが片手間にできるというのが実に怪しい)、観光客相手にガイドの押し売りをしています。エレン・ロックに凄まれて秘密をペラペラとしゃべってしまうという情けなさで、宝石を思わせるシャレた名前にも拘らず、『金三角』のシメオン老には遠く及ばないケチな三下の役(実際ジェリコの部下に雇われただけ)。別に何人であってもいいような感じですが、シチリアのギリシャ神殿が舞台ということで作られた役なんでしょうか。

 実を言うと、この作品は私には《鬼門》でした。途中で投げ出したくなったルパン・シリーズは(ルパンは出てきませんが)初めてです。このイライラ感は何なんだろうと、以前楽しませてもらった作品を思い返してみたのですが、『奇巌城』(1908-9年)と『813』(1910年)を双璧として、『水晶の栓』(1912年)、『虎の牙』(1914年アメリカで英訳刊行。仏語版は1920年)、『オルヌカン城の謎』(1915年)、『金三角』(1917年)、『三十棺桶島』(1919年)など傑作はやはり1910年代の初期作品ですね。
 壮大な冒険と先の読めないハラハラ感。鼻っ柱が強く、自己陶酔して饒舌に語り続けるヒーロー。美女に惚れやすく、しかし幸せな家庭は築けない悲恋の怪盗。残忍で策謀に富む強力な敵役……と考えてみて、そう言えばこの悪役の不在が大きいのかと自分勝手に結論してしまいました。
 初期作品に出てくる敵はとてつもなく手強くて残忍、最後の最後までルパンを苦しめます。上の『金三角』のほかに、『813』の姿の見えないナイフ使いの殺人鬼、『虎の牙』の複雑怪奇な事件の裏に潜む心のねじれた真犯人、『三十棺桶島』で狂気の殺戮に手を染める没落貴族(まさに『八墓村』です)。『水晶の栓』では敵が早い段階から素顔を現しますが、つねにルパンを出し抜いてプライドをことごとく踏みにじり、しかもあろうことか、この人物がさらなる黒幕に誘拐されるという混沌ぶり(どんでん返しの連続に最後まで酔わされます)。『オルヌカン城の秘密』は時空を隔ててあちこちに鬼没する同じ顔の人物(同一人物なのか?)には鳥肌が立ちます。
 大統領やドイツ皇帝を相手に堂々とわたりあいながらも、強敵を前にして時に悪夢にうなされて戦慄を覚え、あるいはメンツを潰されて激怒するルパンの姿は人間臭くもあり、最後の勝利に読者は喝采したくなるでしょう。
 ところが、後期の作品では強烈な個性の強敵たちが姿を消してしまいます。
 例えば、『緑の目の令嬢』(1927年)は失われたローマ遺跡が姿を現す壮大なシーンには目を見張りますが、それまでの展開がどうにも凡庸です。ルパンの好敵手かと思われた女盗賊はすぐに姿を消すし、腐敗警官から強盗まで敵対者はゾロゾロ出てくるのにルパンに鼻で笑われる間抜けばかり。これではサスペンスも何もありません。
『ジェリコ公爵』はこれに輪をかけて、ルパンが……じゃなくてエレン・ロック男爵が神のごとき存在になり、財力知力魅力あらゆる点で周囲を圧倒しています。男どもはまったく手も足も出ない敵か、犬のように従順な手先かのどちらかで、女たちは誰もが公爵の魅力の虜になります。
 主人公が読者から遠いところにいってしまい、作者自身も主人公を御しかねているようにすら感じます。記述人称の問題どころではありません。

 ただ、ある人物の内面の葛藤がクライマックスで爆発する時、もしかすると意外な傑作になるかもという予感がしたのですが、その後の状況へ対応が何ともショボくて、結局モヤモヤ感だけが残ったのでした。
 ギリシャとは関係ない話になってしまいましたが、最近ルパン物をまとめて読み返す機会があり(図書館の廃棄処分を逃れた古い文庫本)久々に夢中になれた中で、がっかりした作品だったので、ちょっと書かせていただきました。
 
 
 
 
 

【以下『ジェリコ公爵』ネタバレ】
 
 
 
 
 
 
 上の説明では何のことやらさっぱりなので、少々蛇足を。話の肝は、冒頭にさっそうと現れヒロインを助ける正義のエレン・ロック男爵が、実は部下に裏切られ死にかけたかつての海賊ジェリコ公爵だったという点です。ただ、読者はすぐに気がつくでしょう。しかし、逆にその分、男爵が徐々に記憶を取り戻していき、以前の犯罪者たる自分(略奪行為のみならず、ヒロインの父親殺しにもかかわっている)に直面したとき何が起こるのか、どう善悪の折り合いをつけるのか、これはなかなかのサスペンスで期待しました。ルブラン自身、「ルパン対ルパンの対決が面白くないはずがない!」とかつて「ルパンの逮捕」に書いています。ところが……過去の自分の正体を思い出した男爵は「殺したのは部下のやったこと」とばかりに詭弁を弄し言い訳をまくし立てるだけ、周囲もまた簡単に説得されてしまいます。読者はあきれるばかり……《怪盗紳士版ジキルとハイド》を期待したんですが、残念。

 
 

橘 孝司(たちばな たかし)
 台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっと紹介するのがライフワーク。現代ギリシャの幻想文学・一般小説も好きです。
 《大人読み》は続く。五十年以上前にあかね書房「少年少女世界推理文学全集」で読んだF・W・クロフツ『フレンチ警部とチェインの謎』。内容は完全に忘却、ただただ面白かった!という感覚のみ。フレンチ警部は後半から出てきますが、騎士道精神溢れるチェイン氏が自ら危険に飛び込んでいくワクワク冒険ものだったんですね。少年少女の胸をつかむはずです。今回発見だったのは、海軍軍人だったチェイン氏が第一次大戦で数回テサロニキに寄港していたこと。ガリポリの戦いも話に出てきます。のちトルコ建国の父となるムスタファ・ケマルが連合国軍の上陸を撃退した戦いでした。
 ほかのクロフツ作品にもギリシャつながりがあるのか探してみたいです(十年後のある作品でフレンチ警部は念願かなってギリシャを訪れています。いつかご紹介予定)。

あかね書房/少年少女世界推理文学全集 (dti.ne.jp)
【あかね書房〈少年少女世界推理文学全集〉。このカバー、このラインナップ。思わず眼がしらが、という人多いでしょう】
【あまりにもベタな(ユーモアというより)ギャグ場面で始まる「妖魔の森の家」ですが、ミステリとしては最高です。カー短編の中ではこれと「奇蹟を解く男」が双璧ですね。忘れられない異色作としては「めくら頭巾」。語り手が途中で見せるある仕草・・・・がゾッとしていまだにトラウマ気味。『短編全集1』に入っています。】

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