——翻訳ミステリー史の大事件、ダン・ブラウン登場!

 

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

加藤:やってきましたゴールデンウイーク。でもぜんぜん胸が躍りませんね。一昨年までのこの時期は、ハワイにしようかバリがいいかな、エーゲ海もどうだろうとか言っていたのが懐かしい。まあ、行ったことはないんですけどね。
 そんなこんなで我慢の日々がまだしばらく続きますが、僕らには面白い本があるじゃないか!
 第12回翻訳ミステリー大賞はデッドヒートの末『指さす標識の事例』に決定! 4人の名だたる翻訳家たちが20年以上の年月をかけて世に出した重厚な歴史ミステリーです。この連休はこの本を読むためにあるのでは!?

 さて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」の第85回。空前絶後のページターナー、ダン・ブラウン『天使と悪魔』(2000年)の登場です。ついにミステリー塾も2000年代に突入しました! こんなお話。

 スイスにある欧州原子核研究機構セルンで、研究者が胸に謎の紋章を焼き付けられて殺されているのが発見された。ハーヴァード大の図像学者ラングドンは、それがフリーメイソンの一派、秘密結社イルミナティの伝説の紋章であると看破する。そして殺人のあった研究室からは極秘に作られた反物質がなくなっていた! 核の数十倍の威力をもつ反物質とイルミナティの謎を追って、アメリカからスイス、ローマへと飛ぶラングドン。そこにはガリレオの昔から続く宗教と科学の最後の争いが待ち受けていた……。

 あらすじを書いているだけでアドレナリンが湧き出てくる壮大なスペクタクルスリラー。再読だけど文句なく面白かった~。

 著者のダン・ブラウンは1964年生まれのアメリカ人作家。大学卒業後、母校の英語教師として教壇に立ちながら創作を続け、1998年に『パズル・パレス』でデビューしました。父は数学者、母は宗教音楽家、奥さんは美術史研究者であり画家なのだそうです。
 ダン・ブラウンといえば、なんてったって2003年に発表された『ダ・ヴィンチ・コード』ですよね。ご存知、ロバート・ラングドン・シリーズの第2作。44の言語に翻訳されて世界で7,000万部の大ヒット!  日本でも2004年に翻訳が出たときの大騒ぎを記憶している人も多いのではないでしょうか。1万部売るのに苦労するといわれる翻訳ミステリーの世界で、文庫も含めると1,000万部以上を売ったというから驚きです。日本の翻訳ミステリー史に残る大事件でした。

 さて、今回の課題本『天使と悪魔』は『ダ・ヴィンチ・コード』の3年前に発表された、ロバート・ラングドン・シリーズの第一作。このシリーズはその後、『ロスト・シンボル』『インフェルノ』『オリジン』と、これまで計5作が発表されています。シリーズ累計発行部数は2億冊を超えるのだとか。
 このシリーズの魅力といえば、ノンストップスリラーとして秀逸なのはもちろんだけど、何といっても驚くべきはその圧倒的な情報量! それがスルスル頭に入ってくるのがまた凄い。思わず次の日に誰かに話したくなる蘊蓄とトリビアの宝石箱であることを挙げないわけにはいきません。
 それにしても、誰もが面白いと知っている本を改めて紹介するのって難しいですよね。そもそも人間って、無条件に面白いとか美味しいみたいな原初的な快感に触れると、思考が停止するのが今回よくわかったよ。

 

畠山:加藤さんと同様、私も何年振りかに再読した『天使と悪魔』。例によって内容をきれいに忘れていたけど、読みだしたらどんどん蘇ってきました。そしてあっという間に没頭。なんですかね、この麻薬的面白さは!?

 夜も明けないうちにいきなり電話で呼びつけられて、アメリカからスイスへ直行、セルンで死体を見せられ、「反物質」の説明をされ、これは盗まれました、あと数時間で大爆発します、ローマにあります、死体の焼き印を見たでしょう? あなたの専門分野ですよね? じゃ、あとヨロシク~と超ムチャ振りされるラングドン教授。この宗教象徴学専門家は基本的に断れない人らしい。しかもヴァチカンではちょうど次の教皇を選ぶコンクラーベが始まろうとしていて、爆発事件なんて起こすわけにはいかないのです、絶対、マジで。  しかも問題は反物質だけではありませんでした。システィーナ礼拝堂では次の教皇の有力候補である4名の枢機卿が姿を消し、密かな捜索が行われていたのです。ほどなくして犯人から枢機卿殺害とヴァチカン爆破を予告する電話があり、ラングドンとセルンの科学者ヴィットリアは、枢機卿と反物質を奪還するために行動を開始します。この時点で爆発までの時間は6時間を切っている! そう、『天使と悪魔』はめっちゃハードなタイムリミットサスペンスでもあるのです。階段上がるだけでバクバクする私の心臓は、もう破裂寸前。

 反物質と消えた枢機卿の行方を追ってローマの宗教施設を中心に駆けずり回るラングドン。スマホ時代になって大変ありがたいのは、すぐに地図を見られることです。登場人物たちの現在地を地図で追いながら、ついでにプチ旅気分も味わう。時にはストリートビューでイルミナティの隠れ家や、あちこちに配された「印」を探してみたり。小説に書かれているとおりに、数か所の重要なポイントが地図上で〇〇の形になってるのを確かめた時の満足感たるや! ありがとう、文明!

 さすがの私も犯人(というか黒幕)が誰なのかくらいは覚えていましたが、それでも興奮度はまったく変わりません。多分、今すぐに読み返しても同じくらい楽しんじゃうと思う。ダン・ブラウンが面白いなんてのは、ディズニーランドは楽しいよって言うに等しいくらい当たり前すぎるんだけど、他の言葉が思いつかないよね。

 

加藤:確かにそれはその通り。説明不要で問答無用、「面白い!」という言葉しか必要としない、まさに至高のエンターテイメント。トリビアの宝庫であり、ハラハラドキドキのタイムリミットサスペンスであり、ローマの史跡巡りまでセットでこの値段。この本が『ダ・ヴィンチ・コード』がヒットするまではあまり注目されなかったというのが、今となっては不思議で仕方ありません。

 そして、このシリーズを通して凄いと思うところは、中二ゴコロを刺激しまくる陰謀譚の作り込みですね。ウソかマコトか、どちらにしても、こんなこと書いて大丈夫?ってところまでグイグイ迫ってくる。『天使と悪魔』ではフリーメイソンから始まり、反物質を精製して思わずヴァチカン市国を吹き飛ばしそうになってしまったセルン、カトリックから抑圧されていた16世紀の科学者たちに端を発する秘密結社イルミナティ、さらには教皇選出選挙ほかカトリックの秘儀やサン・ピエトロ大聖堂の秘密の地下道まで。ここまで書いてもいいのかと、ダン・ブラウン先生の身の危険を心配してしまうレベルです。
 しかも『天使と悪魔』の扉にはこう書かれているのですね。
「ローマの美術品、墓所、地下道、建築物に関する記述は、その位置関係の詳細も含めて、すべて事実に基づくものである。これらは、今日でも目にすることができる。イルミナティに関する記述もまた、事実に基づいている」
 すごい。言い切っちゃったよ。ここは普通なら「本作はフィクションです」とか「実在する団体等とは無関係である」とか書くところなのに。そして、これが物語の導入としても機能しているという見事な構成。

 もう一つ本作のびっくりポイントは(<語彙!)、イルミナティの古(いにしえ)のアンビグラムの再現です。アンビグラムとは別の方向や違った見方をしても読むことのできる文字デザイン。その完成度と美しさときたら! そんなディティールへのこだわりが読んでいて何だかトクした気分にさせてくれます。ダン・ブラウンのサービス精神は底なしか。

 それにしても、こんな馬鹿みたいに壮大な物語に没入させてくれる文章って凄くない? ちょっとの違和感でも覚めちゃいそうなところを、最後までそんな気配も感じさせずに走り切る。ダン・ブラウンが凄いのはもちろん、越前敏弥さんの見事な仕事よ。心から堪能しました。でも、この素晴らしい訳文がラーメンとうまい棒からできていると思うと、どうにも不思議で仕方ありません。

畠山:映画《9人の翻訳家 囚われたベストセラー》で広く一般に知られることになりましたが、『インフェルノ』は、海賊版や情報流出を防ぐために、各国翻訳者を隔離して翻訳させたのでした。スケールが違いますなぁ。でも越前さんが監禁翻訳(笑)を断ってしまったのは返す返すも残念。素直に監禁されていれば映画にラーメンの蘊蓄を語る日本人翻訳家キャラがいたかもしれないのに。https://movie.jorudan.co.jp/news/jrd_200129_03/
 そういえば先日、越前さんから教えてもらった「翻訳脳内キャスティング」。ラングドン教授は40代のジョージ・クルーニーをイメージして訳したんですって。なんと! すっかりトム・ハンクスで出来上がってた脳内が大混乱だ~。塩ラーメンから濃厚豚骨味噌ラーメンに変わるようなもんですよ。(なにが?)

 加藤さんが作者の身の危険を心配すると言ってたけど、私も心からそう思います。『天使と悪魔』は科学と宗教の歴史的対立が大きな柱ですが、見事な虚実の大ちゃんぽんで、どっちサイドからも怒られそうなことが書かれていてヒヤヒヤもの。読者はフィクションと割り切っていても、描かれた団体、組織に属する人には名誉棄損、営業妨害(?)と捉えられても仕方ない。でもこれが魅力の第一要素なんですよね。

 予想通りセルンには読者からの質問が殺到したらしいですね。研究者視点では小説の内容は「ありえねー」であっても、「小説のウソホント」を説明することを通じて、さらに科学に興味を持ってもらえるかもと歓迎する雰囲気があったようです。寛大w
 驚いたのは、つい最近セルンで反物質のレーザー冷却に成功したとの記事がでたこと。まるでミステリー塾に呼応するようじゃありませんか、やるなセルン。ただ記事を読んでも意味はさっぱりわかんないんですが。“CP対称性の破れ”ってなに? 修理できるの?

 他方、ローマ・カトリック教会側はどう思ったでしょうね? 枢機卿たちが俗っぽいやり方で引き延ばし作戦にでる有力候補を欠いたままのコンクラーベ(まるで見てきたかのような投開票のお作法の描写!)や、危機に瀕して崇高さを失う聖職者たちの姿、歴史の中でめちゃくちゃ底意地の悪い集団みたいに描かれたりもして、関係各位がお読みになったら「ちょっと顔貸せ」くらい言いたくなりそう。私なら言う(<徳を積めない人)。まして『ダヴィンチ・コード』に至っては! オチがヤバすぎて、ダン・ブラウンさんって人はまだ生きてるのかな? と心配になったことを覚えています。
 こんなお話を読むと、科学と宗教は本当に仲が悪い? いや、ダン・ブラウンへの憎悪(笑)で結託してる? など、くだらない妄想が膨らみますが、昨年、ローマ教皇が先駆けてコロナのワクチン接種をされたと知り、低俗な自分を猛省。アーメン。

 おっと、身の危険といえば、越前さんも「潜入」をしたことがあるのでした!『ロスト・シンボル』の発売時に東京のフリーメイソンを訪れたこの記事は、シリーズのスピンオフ短編みたいに面白かったです。ぜひご一読を。http://honyakumystery.jp/1268094650  

 2年連続ステイホームとなったGW。憂さ晴らしにダン・ブラウン祭りもオススメです。長さはまったく気になりません。ダン・ブラウンというジェットコースターに乗り込んだら、あとはなすがままされるがまま。ラングドン教授は人好きのする素敵な旅の案内人です。教授とともに、これでもかというほど飾り立てたスリル満点の世界に身を委ねましょう。時々正気に返ってネタの真贋を調べてみるもよし、ノンストップでお話に浸りきるもよし。最高のエンターテイメントここにあり!です。
 あ、でもこの本で得た雑学をドヤ顔で披露しないように気を付けて。読者が多いからバレる可能性大(笑)

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 世界規模のベストセラーとなった『ダ・ヴィンチ・コード』は、北欧ミステリーの存在を知らしめたスティーグ・ラーソン〈ミレニアム〉三部作と共に、2000年代を代表する作品です。後続作家にも大きな影響を与えました。影響の第一は、言うまでもなく情報小説の側面です。主人公が行動することによって、事態が少しずつ見え方を変えていく。それを歩きながらではなく、身の危険を背負わせることで全力疾走させるのがダン・ブラウン流です。主人公とは対極にいる反-主人公や、敵か味方か旗色がわからない第三者の視点を織り交ぜることにより、見えてくる像は立体化していきます。ミステリーとしての肝は、読者に主人公の先を行かせることでした。走り続ける主人公と違って読者には余裕があり、また他の視点による語りも知ることができるために情報量で先行します。そうしておいて読者の頭に仮説を植え付けるのがブラウンの魔術でした。その仮説は必ず、しかも二度三度と覆されることになります。最終的には、主人公が駆けずりまわって集めた情報がパズルを埋める最後のピースになるのでした。こうした物語の進め方で、結論を壮大な規模の陰謀として描くことで、ダン・ブラウンの作品は成立しています。多くの模倣作品が出ましたが、みなダン・ブラウンほどの成功を収めるに至っていないのは、読者に情報提供を行うやり方に原因があるのではないかと私は思います。

 影響の第二はシークエンスの細切れです。ダン・ブラウンの作品では、一つの連続した場面でもいくつかに分割されて提供されます。それによって目まぐるしく情景が代わり、複数視点を織り交ぜることでカットバックの効果が生まれます。常にどんでん返しが生じているので、ページを繰ることを読者は要請されるでしょう。こうした叙述方式は、アメリカの先輩ベストセラー作家ジェフリー・ディーヴァーあたりからヒントを得たのではないかと思いますが、ダン・ブラウンの成功により、やはり模倣者が増えました。一つの小説中に百幾つもの章替えがあるような小説は、ダン・ブラウンの影響下をいくらか必ず受けているはずです。ダン・ブラウン型スリラーとでもいうようなフォーマットが成立したのです。

『マストリード』の収録作を『ダ・ヴィンチ・コード』ではなく『天使と悪魔』にしたのは、判明する真相も含めこちらのほうがおもしろいと感じたからです。本音を言うなら、とんでもなさでは『デセプション・ポイント』がいちばんだと思うのですが、ロバート・ラングドン・シリーズではないので。これもまあ、単なる法螺話をよくこんな長篇にすると感心してしまうような作品です。

 さて、次回はジョー・R・ランズデール『ボトムズ』ですか。これまた楽しみにしております。

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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