昨年4月にCOVID-19関連で最初の緊急事態宣言が発出されてから1年余り。感染状況に応じて解除と再発出を繰り返し、いまは3度めの宣言下である。私の住んでいる福岡県では、今回の宣言が解除になるまで大型商業施設の週末休業が要請されるという状況にあって、そのせいか先週末は街に出ている人が少なかった。たまたま利用した地下鉄の構内では、平時なら買い物客などが行き交うはずの時間帯にまったく人が見当たらないという場面に出くわしたのだが、そんな些細なことからでも、この状況の異様さというものが肌で感じられるのである。

 リン・マー『断絶』(藤井光訳 白水社エクス・リブリス)にはこんな一節がある。

窓の外を見た。初めて、タイムズ・スクエアが完全に無人だということに気づいた。(295ページ)

 地方都市の地下鉄構内でさえ、人がいないと異様だと感じるのだから、タイムズ・スクエアが無人という状態がどれほどの異常事態なのかは推して知るべしだろう。

『断絶』は、シェン熱という未知の感染症が猛威を奮い死の街と化したニューヨークで、感染から免れた一人の女性が崩壊していく都市をあとにし、8人の男女とともにシカゴにあるという〈施設〉を目指すロードノベルである。感染症によって人のいなくなったニューヨーク。感染症の拡大によって、タイムズ・スクエアは無人となったのである。

 パンデミックを題材とした小説の多くは、いかにして災厄と戦い、これに打ち勝つかがテーマとなる。しかし本作はまるで違う。シェン熱は有効な治療法もないため、発症してしまったらそのまま死んでいくしかない。だから戦う術がない。ならば人々はどうするのか。逃げるしかない。まだ感染症が蔓延していない地域へ。身寄りのある者はその伝手を頼って。なんとか生き延びることができるかもしれないというほんの僅かな望みを抱きつつ。しかし逃げる場所のない者、頼る当てのない者はどうすればいいのか。何もできることはない。ただ、感染するかもしれないという怯えと戦いながら、これまでと同じ日常を過ごしていくのみである。

 この作品の語り手であるキャンディスは、ニューヨークにある出版関連の会社で働く20代の女性。6歳のときに両親とともに中国からやってきた移民である。すでに両親とは死別し、大学を出て就職、ルームシェアする友人や恋人もいたりと、とりたてて問題のない生活を送っている。移民という自身の境遇や、必ずしもやりたいと思っていることをやれていないという思いが、彼女の日常に微妙な違和感を与えてはいるが、あえてそれに気づかないふりをしているようでもある。そんな彼女の生活にも、中国で発生したというシェン熱という感染症のニュースは入っていた。真菌による感染症だということ。人から人への感染はないが、ホコリや塵に混じる胞子を吸い込むと感染するということ。感染のリスクを下げるには、なるべくホコリや塵の多いところに行かないこと、室内の換気をすること、N95マスクを着用すること。感染初期においては風邪の症状と見分けがつかず、日常生活もこなせるが、気づかないうちに症状は深刻化し、やがては意識を消失してしまうこと。そんな基本的な知識も、彼女の日常を決定的に変えるまでには至らず、周囲でちらほらと感染者が出てきても普段どおり出勤し、与えられた仕事をこなしていく。会社のある高層ビルからは人の気配が少しずつなくなっていき、仕事のレスポンスは次第に遅くなっていく。通勤途中にあった店も閉まり始め、出勤に利用するシャトルバスも時間どおりに運行されなくなる。シェン熱の脅威は次第にキャンディスを包み込もうとするが、それでも彼女は働くことを止めなかった。バスが動かなくなると職場に住むようになり、長いこと更新していなかった写真ブログを再開する。死にゆくニューヨークの姿を、まだいるであろう生存者に向けて発信し続けることを新たな仕事と決めたのである。感染の恐怖をことさら強調しないまま、キャンディスの行動や内面によりフォーカスしてゆく描写は、人々が病に苦しむ様を直接的に描くよりも強く、読む者の心に怖ろしさを植え付ける。

 ここまでをAパートとすると、Bパートキャンディスが荒廃したニューヨークを後にし、同じように生き残った8人の男女と合流して以降の物語となる。リーダー格のボブを中心に、9人はボブが知っているという〈施設〉を目指して、「ぶらつき」と称する略奪を繰り返しながら進む。とりわけ「ぶらつき」について書かれている部分がとても興味深い。

 ぶらつきとは、ある特定の家、ガソリンスタンド、コーヒーショップ、小さいショッピングモールなど、どこでもいいから目的の場所をひとつだけ選び、そこにあるものを略奪する儀式のことである。時間がきたら彼らは輪になり、神に祈りを捧げ、それからいよいよぶらつき始める。まず男性たちが室内に入り、居住者の有無を確認する。居住者がいてもいなくてもぶらつきはおこなわれる。なぜなら、生きた居住者もすでにシェン熱を発症しているからである。発症してもまだ死に至らない者は、意識を失ってからしばらくの間、記憶に残っている特定の動作を繰り返す。夕食の配膳をする、本を読んでは笑い続ける、タクシーを運転し続ける、服をたたみ直しては陳列棚に置いていくなど、本当に死が訪れるまで、生きていたときに習慣づけられた一定の動作を何度も何度も繰り返すのである。

 これを彼らは「生きたぶらつき」と言った。まだ死に至っていない居住者がいた場合は、略奪を済ませたあと居住者にとどめを刺すのが決まりである。それは殺すのではなく、解放だと彼らは言う。人道的に正しいことをしているのだと。

 このくだりから、多くの人はゾンビを思い起こすのではなかろうか。シェン熱の症状をゾンビの亜種であるかのように描くという発想も、ロメロ作品やウォーキング・デッドシリーズをよく見ていたという著者であれば当然なのかもしれない。

 このような「ぶらつき」を繰り返しながら、一行が〈施設〉に到着するまでとそれ以降を、キャンディスの目線で描くのがBパートである。本作は、この2つのパートを並行して語っていくという形を取っている。どちらもキャンディスの一人称で語られるし、AパートとBパートはまったく別のものではなく、キャンディスにとっては地続きの物語なのだが、あえて2つに分け、ストーリーを並走させたことによって、タイトルとなっている「断絶」の意味がより際立ってくる。

 また著者は、シェン熱という未知の感染症に見舞われ崩壊していく世界を、一人の移民の目を通して描いていくそのなかに、移民にとっての故郷、神と人の関係性、親世代と子世代、人生をどう選択するかなど、現代社会が抱える数多くの問題を周到に組み込んでいく。これらを、新型コロナウイルスという災厄に見舞われた世界、あるいは緊急事態宣言下にある日本の現状と重ね合わせることは容易であり、さまざまな問題提起を含めて、この作品をいま読む意味は、その辺りにあるのではないかと考える。

 インドでは現在、新型コロナ感染者を中心に別の真菌感染症が急増しているという。そんな事実も、シェン熱が真菌感染症であるという設定と考え合わせると奇しくも現実を予見しているかのように見えてしまう。この小説が示しているさまざまな問いが、まさにこの現実をどう乗り越えていくのかという問いに繋がっているようにも見えるのだ。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。