全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

畠山:先日1回目のワクチンを接種いたしました。噂どおり接種部位の痛みはありましたが、それだけ。体調不良に備えていたのに拍子抜けするったらありゃしません。説によると若い人の方が反応が強くでるらしいですね。なんか悔しい。よ~し、2回目こそカモン副反応! 発熱と倦怠感で寝込んでみせようじゃないの。小娘なんかに負けるもんですか。アタシは、アタシこそは時代の覇者!——みたいな年増の妄執を描いたのが1950年の映画《サンセット大通り》(<雑すぎだろ)。この映画を下敷きにした小説が本日のお題です。

 杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を発表年代順に取り上げる「必読!ミステリー塾」、第88回はケン・ブルーエンの『ロンドン・ブールヴァード』。2001年の作品で、こんなお話です。

 3年の刑期を終えて出所したミッチ。更生しようと心では思っているが、ギャング仲間が何くれとなく面倒を見てくれるし、頭のイカれた妹も相変わらずで、このままではマトモな生き方はできそうにもない。ところがある日、偶然知り合った女性が「屋敷の修理」の仕事を世話してくれた。早速面接を受けに行ったミッチは、屋敷に住む往年の大女優リリアンに気に入られて待遇のいい仕事にありつく。しかしギャングの世界から足を洗うのは容易ではないうえ、女優復帰を果たしたいリリアンの妄執とそれを支える執事ジョーダンの狂気の世界にもはまりこんでいく。

 ケン・ブルーエンは1951年アイルランド生まれ。トリニティ・カレッジを卒業後、英語教師としてたくさんの国に移り住みました。日本にもいたことがあるんですって。「ブラジルの刑務所に入っていた時期もある」とウィキペディアに書かれてるんですが、一体何があったのでしょうか? 知っている方がいたら教えてください。
 90年代半ばから執筆活動を始め、『酔いどれに悪人なし』(2001年)でシェイマス賞を、続く『酔いどれ故郷に帰る』でマカヴィティ賞を受賞しました。本作『ロンドン・ブールヴァード』は2010年に《ロンドン・ブルバード-LAST BODYGARD-》として映画化されています。私は映画未見なのですが、ラストは改変されているようですね。主演のコリン・ファレルが文句なしにカッコイイらしいので、機会があれば見てみたい。

 まず先にデニス・ルヘインと同じく、ブルーンなのかブルーンなのかというところですが、ハヤカワ・ミステリ文庫の「酔いどれ~」シリーズと『アメリカン・スキン』はブルーウンですが、新潮文庫の本作はブルーエンなので、今日は〝ブルーエン〟に統一してお話させていただきます。

 さてさて、今回もまた元気に「初めて読みました」宣言です。裏表紙に〝ノワールの詩人〟とあったので、置いてけぼりをくわないかとちょっと構えて本を開いたのですが、めちゃくちゃいい感じに裏切られました。暴力的で残酷なシーンも多いし、精神の歪みもふんだんに詰まった内容なのに、リズムのよいミッチの一人称語りが気持ちよくて、なぜか軽やかな気分で読んでしまいましたよ。第一部が「開幕」で、第二部がいきなり「終幕」なのにはびっくりしましたけどね。終わるんかい!?と。途中はどこ行ったんじゃ?と。
 まぁそれにしてもですよ、主人公ミッチは魅力的ですわ。映画や小説、音楽を、呼吸するようにさらりと語る“知性あるろくでなし”。好きにならずにいられませんて。

 これは加藤さんの守備範囲ど真ん中よね? 読む本を選ぶ時に、「ペレケーノスの新作は特別なときのためにとっておいた」なんていうミッチと一晩中酒を酌み交わしたいんじゃないの?

 

加藤:いろいろありましたが、ついにオリンピックが開幕しましたね。てか、いろいろあり過ぎて、ここまでで記録映画が一本できちゃいそう。もっと素直に世界一のスポーツ興業じゃなかった平和の祭典を楽しみたかったよ。

 ペレケーノスの新作! と聞けば心臓が高鳴った昔が懐かしい。翻訳が途切れて幾星霜。僕は今も思っているのです、ペレケーノス好きに悪い奴はいないって。マトモな奴もいないけどな。
 ペレケーノスといえば、彼の探偵ニック・ステファノスが巻を追うごとに酒に溺れ、ボロボロになっていったのが痛々しかったなあ。昔からハードボイルド探偵と酒は相性の良い組み合わせだけど、ローレンス・ブロックのマット・スカダーやジェイムズ・クラムリーのミロみたいに相性が良すぎる探偵も結構いたりします。
 そして、21世紀に入ってから颯爽と登場したのがケン・ブルーエン『酔いどれに悪人なし』『酔いどれ故郷にかえる』の私立探偵ジャック・テイラー。数々のミステリー賞に輝いたアル中探偵界の超新星です。

 今回の課題本『ロンドン・ブールヴァード』はそのブルーエンのノンシリーズ。主人公のミッチは前科者で、ビリー・ワイルダー監督の《サンセット大通り》と同じく、ひょんなことから往年の大女優の豪邸に住み込みで働くことになる。
 そういえば、日本で翻訳された4作のブルーエン作品の主人公は皆、アル中かアル中寸前のアウトロー。前述の私立探偵ジャック・テイラーも含めて、法律に刺身のツマほどの価値も感じていないのは明らかです。空気を読まない倫理的にアウトな独白を一人称で吐きまくるところも皆同じ。
 でも、ブルーエンの小説の主人公たちが何より独特なのは、彼らがしっかりした教育を受けていないにもかかわらず、小説や詩が好きであるということでしょう。
「本好きのアウトロー」ってなかなかのパワーワードだよね。

 実は今回、畠山さんは戸惑っているんだろうなと思ってました。文学的な静かさと、酔っ払いの混沌と、容赦ない暴力と、さらに軽妙さがごった煮になったケン・ブルーエンの世界。あと、アイルランドのミステリーでありながら、イギリス的なものと、アメリカ的なものが入り混じったところも。
 思えば、僕らが大昔に好きになったディック・フランシスやチャンドラーはわかり易かったよねw

 

畠山:大昔言うな!(笑)
 確かに、読みながら大西洋を自由に往来してる感がありましたね。ときどき見当識を失いそうになりました。ミッチのエンタメ趣味はアメリカ寄りなのかな? ローレンス・ブロック、デニス・ルヘイン、ジェイムズ・エルロイ……翻訳ミステリー好きのハートを狙いうちする、綺羅星のごとき名前が飛び交うのです。特にエルロイ! ミッチが彼女とデートでエルロイ自身がパフォーマンスする朗読会に行くシーンがあるのです。ムショ帰りの男が気軽に足を運ぶエルロイの朗読会。堪りませんね。

 そんなミッチの日常は、エルロイ・ワールドに負けてない。精神を病んだ妹、ギャング仲間のビリー、ビッグイシューの売り子ジョーなど、みんな魅力的でみんな酷い目に遭います。たまに自業自得の人もいるけれど。そしてミッチはそのたびに怒りを解き放ち、容赦なく報復をします。ああこの人に堅気はムリだと思う瞬間でもあり、どこかスカッとした感じも伴う。それはミッチの詩的で絶妙な語り口のなせる業かもしれません。

 そしてお話の軸になる往年の大女優と執事。
 リリアンはいかにも“女優”な自己愛の強さで、ふてぶてしく君臨する女主人。その風貌は「ジョン・カサヴェテスのかみさん」(ミッチ評)ですからね。推して知るべしです。かつての栄光を取り戻そうと叶わぬ努力をしているのが実にイタい。そして有能で忠実で、主人以外には慇懃無礼という執事の見本みたいなジョーダン。彼はミッチの裏社会のゴタゴタを察知して、そっと救ってくれたりもします。荒事に慣れているミッチですらも一目置かざるをえない万能ぶり。しかしリリアンとの特異な関係がわかるにつれ、なんとなーく気味の悪い雰囲気になっていくのです。
 やがて隠されていた狂気が凄惨な殺人とともに露わになり、物語はどんどんエグい展開になっていきます。真相は……怖くて気味悪かったー!

 この3人の関係については、ベースになっている映画《サンセット大通り》とぜひ比べてみてください。私も細部をすっかり忘れていたのでこの機会に鑑賞しました。いやぁ、ノーマ(小説でのリリアン)役のグロリア・スワンソン、すごいですね。常にどひゃーっと見開いてる眼が怖い。まさしく怪演。
 結末は映画と小説は全然違うのですが、映画のラストシーンでふいに小説の最後の一行(=ミッチの台詞)が蘇り、ちょっと鳥肌が立ちました。
 ついでにエルモア・レナードの『ラブラバ』もオススメしちゃいましょ。かつての銀幕のスター女優&見守る男&巻き込まれる男の構図は同じですが、凡才で優柔不断な売れない脚本家(映画)、元武闘派公務員のカメラマン(ラブラバ)、ムショ帰りの三下(ミッチ)と巻き込まれ男のタイプが変わるとお話もまったく違ったものになるので、これまた面白いです。

 私は未だにノワールの何たるかをよくわかっていないのですが、エルロイとかジム・トンプスンとかのごっついところに行く前に、本作でかけ湯するのって悪くない気がしますね。加藤さんはどう思う?

 

加藤:ブルーエンがエルロイやジム・トンプスンと決定的に違うところは、やはり彼が生粋のアイルランド人というところかも知れないですね。
 アイルランド人といえば、酒に目がない乱暴者というのが、エスニックジョークのオチに使われるステレオタイプ。実際、アメリカのクライムノベルには、アイリッシュウイスキーやギネスビールを飲みまくるアイルランド系の大男がよく登場する気がします。

 スカダーやミロ、ニックといったアメリカの先輩アル中探偵たちは、それぞれ事情は違うものの、過酷な現実や過去の悪夢から逃れるために酒に走ったのに対し、ブルーエンの主人公たちは酒を飲むことに理由を求めていないのが新鮮でした。強いて言えば、彼らがアイルランド人だからかも。現実から逃避しているというより、最初からこの世界とマトモに向き合う気がないのでは疑惑。まあ、誰だって(もちろん僕も)酒を飲む理由を聞かれても困るんですけどね。

 ところで話はちょっと変わりますが、翻訳小説を読んでいて、外国の道路には何故こんなに沢山の種類があるのだろうと不思議に思ったことありません? ○○ロード、○○ストリート、アヴェニュー、レーン、ドライブなどなど。
 僕がよく覚えているのが、まだ翻訳小説を読み始めたばかりのころ、チャンドラーやロスマクの小説によく登場する「ウィルシャー・ブールヴァード」と「サンセット・ストリップ」が何なのか分からず困ったこと。とくに「ブールヴァード」は、当時の僕には日産の大衆車しかイメージできませんでした。そういえば、原尞の探偵沢崎の愛車は今もブルーバードでしたね。原さんは僕と同じくブールヴァードからブルーバードを思い浮かべてしまった人なのかも(たぶん違う)。
 日本人一般に馴染みの薄そうな「ブールヴァード」は、道の中央や両側に大きな木が植えられている、ゆったりした道路のことだそうです。訳者の鈴木さんは「並木道」と訳されていました。

 そんなこんなで、単独のクライムノベルとして面白いのはもちろん、映画《サンセット大通り(Sunset Boulevard)》(1950)へのオマージュとしても楽しめる、ケン・ブルーエンの『ロンドン・ブールヴァード』を堪能しました。
 何度も書きましたが、ブルーエン作品の特徴は主人公たちが「本好きのアウトロー」であること。先月の『風の影』とは随分タイプは違うけど、同じく本好きに刺さる「ビブリオ・ミステリー」でもありました。

 

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 イギリスと一口に言っても、実は複数の地域から成る連合国であることはご承知のとおりです。中央であるイングランドの他に、スコットランド、アイルランド、ウェールズなどの文化圏が成立しており、輩出する作家もそれぞれに特色があります。中でもアイルランドは、イングランドと長年に渡って闘争を繰り返してきた歴史があり、現在もなお叛旗を翻し続けている地域です。『ガリヴァー旅行記』で知られるジョナサン・スウィフト、『ドリアン・グレイの肖像』のオスカー・ワイルドなどが代表例ですが、この地域の出身者には距離を取って社会を批判的に眺める視点を持ち合わせた作家が多いように感じます。もともとミステリー、特に犯罪小説と呼ぶべき作品群には、社会に対する諷刺小説の要素が備わっています。これは犯罪という現象が貧困などの社会の歪みから生じるものだからでしょう。常にイングランドから虐げられてきたというアイルランドの歴史が、この諷刺性をさらに深化させていきます。

1980年代の北アイルランド紛争を背景としたエイドリアン・マッキンティのショーン・ダフィ・シリーズは近年最も話題を巻き起こした警察小説連作でした。『マストリード』刊行時に出ていたら、そっちを選んでいたかも。すでに絶版になっているのが惜しいですが、犯罪小説作家シェイマス・スミスの諸作もぜひお目通しいただきたい作品です。同時にアイルランドは、ジェイムズ・ジョイス、アイリス・マードックといった詩人作家を多く輩出した地でもあります。詩情は作品を単なるプロットを追うだけの読物に留まらせず、心に響く何者かを与える小説へと醸成させます。ブルーエンの味わい深い文体は、そうした伝統をも感じさせてくれるでしょう。この作品が気に入った方は、たとえばジョン・バンヴィルのミステリー的なプロットを用いた作品『いにしえの光』などを試されてみてはいかがでしょうか。バンヴィルはベンジャミン・ブラック名義で純粋なミステリーも手掛けており、レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』の正統な続篇として書かれた『黒い瞳のブロンド』などが翻訳されています。そして短編小説好きな方はぜひウィリアム・トレヴァーを。ミステリーではありませんが人生の瞬間を描く『アイルランド・ストーリーズ』は珠玉の作品集です。

 

さて、次回はエド・マクベイン『でぶのオリーの原稿』ですね。こちらもまた楽しみにしております。

 

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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