■『マーチン・ヒューイット[完全版]』

 作品社の『隅の老人』『思考機械』に続く一巻本全集『マーチン・ヒューイット[完全版]』がここに登場。隅の老人、思考機械に比べ知名度は劣るかもしれないが、数多いシャーロック・ホームズのライヴァルたちの中でも、マーチン・ヒューイット探偵譚は、特別な地位を占めている。
 ホームズ短編の連載が人気絶頂の中、「最後の事件」で「ストランド・マカジン」の連載を終了した後、同誌の後釜に据えられたのが、このマーチン・ヒューイット物なのだから。ホームズの後継者として、雑誌のお墨付きを得た存在なのだ。本書には、四つの短編集、全25作品を集成した完全版。最後の短編集はすべてが未訳作など、これまで紹介がなかった作も多い。
 作者アーサー・モリスンは、ロンドン生まれの作家で、スラム街の生活を硬派の筆致で描いた「新リアリズム」の旗手と目されたという。その文章は、平明で気取ったところがない。
 このヒューイット探偵のプロフィールを若干紹介すると…。
 マーチン・ヒューイットは、元は弁護士事務所の若い事務員だったが、ある事件で手柄を立て、私立探偵として独立。性格は、愛想が良くて親切。朗らかで上機嫌。「太り気味の髭のない男で、陽気な丸顔」「一般に思われているような探偵とはかれ離れた姿」をしている。その捜査方法は、「当たり前の知性を思慮深く用いる以外なんの方法もない」。警察との信頼関係も良好。事件の記述者・ワトソン役は、新聞記者のブレッドだが、ブレッドが登場しない作品も多い。暗黒街の隠語やロマ語にも堪能で、どんな階層の人間にでも変装できる。
 こうしてみると、マーチン・ヒューイットは、天才型でエキセントリック、人間嫌いといったホームズの対極にある探偵像を目指しているといってもいいだろう。その分、名探偵としてのインパクトには欠け、ライヴァルとしての知名度に関しては、見劣りがすることにもなったと思われる。彼の探偵像を表す適当な惹句が思い浮かばないのだ。「当たり前の知性で事件に切り込むほがらか探偵」といっても、知名度への貢献とならないだろう。
 しかし、作品のプロットや推理には、同時代の秀作・佳作に劣らない面白さがみられる。
 『クイーンの定員』にも採られた、最も質の高い第一短編集をざっと眺めてみる。
 「レントン農園盗難事件」は、子ども向けトリック集でもおなじみのネタ元だが、不可能興味に彩られた宝石盗難という題材に加えて、マッチの燃えさしといった些細な手がかりが効果的に配置されている上、ヒューイットの推理を丁寧に跡付けており、名作の名に恥じない一編。
 「サミー・スロケットの失踪」は、賭博の対象となっている徒競走 (当時はこんなものがあったのだ)のエース級選手の失踪事件を扱う。一種の不可能状況からの失踪でもあり、暗号めいた手がかりの意味が鮮やかに覆るなど、これも読み手の先をいく推理が冴える一編。
 「フォガット氏事件」 嫌われ者の独身者の殺人事件を扱うが、密室状況をあっさり解明し、直ちに犯人像を言い当てるヒューイットの明察が光る。冒頭で、ヒューイットが語る探偵法-どんな些細な手がかりでも同じ方向を指し示しているなら、強力な証拠となる-は、なるほど凡人探偵ならではの戦略だ。
 「ディクソン魚雷事件」 海軍の新型魚雷の設計図の盗難事件。これも外部の者の出入りが困難な不可能状況だが、解明は「困難は分割せよ」のお手本的作品で、クイーンが「レントン農園~」と併せて推している。同様のトリックは何度か形を変えて後続の作品に現われる。
 「クイントン宝石事件」 アイルランドからやってきた男が何者かにつけ狙われ、何度も命を狙われる。奇譚風の出だしだが、ヒューイットは、ビルマの名品ルビー盗難事件との関わりを見出していく。
 「スタンウェイ・カメオの謎」 古代ローマ時代の遺物のカメオ盗難事件。意外な犯人に意外な動機が説得力ある推理で明らかにされる。後の作品にも登場するプラマー警部補初登場作。
 「亀の事件」 飼っていた亀の復讐のために起きたかのような黒人殺害事件。死体消失を扱っているが、中米ハイチの反乱事件に関わって予想外の結末が待っている。
 全6編のうち、殺人を扱ったのは2作と少なく、それも犯人に同情の余地のあるもの。
 この傾向は、第3短編集まで続く。ヒューイットは凡人型のようだが、簡単な現場検証で真相に辿りつくことも多く、その推理は天才型の探偵に劣らぬ非凡なものがある。
 第二短編集以降も、同工異曲のものにならないように、試験や謎のヴァリエーションには作者は気を使っている。「蔦荘の謎」は、素人画家が元アパートに残した羽目板の絵が破壊し尽くされる謎、「ニコバー号の金塊事件」船舶衝突により大破して沈没船から運んでいた金塊の一部が盗まれていた事件(ヒューイット自身が潜水服に身を包み、海底に潜る異色作)、「失われた手の事件」は死体から手首が持ち去られた謎、「レーカー失踪事件」は外回りの銀行員の消失事件、「ゲルダード氏の駆け落ち事件」は消失した男の意外なビジネスといった具合。後ろの二つは、ホームズ譚「赤髪組合」「唇の捩れた男」といった奇譚風の趣もある。暗号物として、「記憶喪失の外国人事件」、楽譜の暗号を扱った「「コウモリ槍騎兵隊」事件」など。当時の社会風俗を扱ったものとしては、アイランドの天然痘禍の事件「故リューズ氏事件」、新興宗教を扱った「ワード・レーンの礼拝堂事件」なども興味深い。
 第四短編集『赤い三角形』は、各話は、短編としていちおう完結しているが謎は残され、全体としては長編として読める体裁になっている。この種の形式の連作短編がいつ頃誕生したのかは詳らかではいないが、その先駆的作品であることは間違いないだろう。
 全編を通じての主旋律は、額に赤い三角形を施され、止血帯で絞殺された死体の謎とその背後に潜む悪の勢力とヒューイット、ブレッド、プラマー警部補チームとの闘争だが、サックス・ローマーやエドガー・ウォーレス調のスリラーに接近している(本編は、彼らの代表作より前の作品で、その先陣を切っている感もある)。
 一方、各話からは推理の妙味は失われていき、ヒューイットの性格づけもいささか変貌を迫られている。
 マーチン・ヒューイットは、その連載の経緯から、アンチホームズ型の、凡人探偵として誕生した。ブラウン神父の逆説やフォーチュン氏の人間心理への洞察といった方向に新生面を打ち出したものではないが、そのプロットと推理の面白さと、天才型とは一味も二味も違う探偵の範型を示した点で、後世に残るものになった。

■『短編ミステリの二百年5』

 短編ミステリ二百年を実作と編者の評論でたどり直す好企画も早5巻目となった。 (どこまで続いてくれるのだろう) 編者による評論は、1960年代に突入。短編もその時代を中心に、イーリイ、トゥーイ、デイヴィッドスンらの曲者パートから、ケメルマンから始まるパズラー四連弾と多彩でバランスのとれた構成だ。
 スティーヴン・バー「ある囚人の回想」は、ミステリを読み慣れた読者なら途中でニヤリとせざるを得ない作品。詳細は秘密。編者が解説で目次までつくっているこの作家の短編集を是非。デイヴイッド・イーリイ「隣人たち」数多く書かれている隣人物でも上位に来る秀作。共同体の悪意を静かに積み重ねて痛ましいが、当の隣人よりも共同体の中の一員にスポットを当てているのがより味わいを深めている。ロバート・トゥーイ「さよなら、フランシー」カリフォルニアの現代風俗劇から一転、そうくるかという抜群の切れ味。アヴラム・デイヴィッドスン「臣民の自由」表面上は政治的亡命者溢れるロンドンが舞台の皮肉なクライムストーリーだが、斜陽の英国、それ以上にしぶとい英国を異国民から描いた 異色作。
 グレアム・グリーン「破壊者たち」空爆で残った家の中を破壊し尽くし、空洞の家にしてしまう少年たちの衝動に一種の清々しさも。少年たちのリーダー交代劇の機微を描くのも見事。シーリア・フレムリン「いつまでも美しく」チープな広告につられ、若返りの治療を試そうとする人妻。怪しげな医者が示す証拠から得た洞察とその破壊力溢れる結末。リース・デイヴィス「フクシアのキャサリン、絶体絶命」四十路のキャサリンの家で彼女と不倫中の年老いた男が突然死んで起こる騒動をコメディタッチで。英国の片田舎の共同体のモラル偏重を皮肉に描き出すが、その共同体の一員であるキャサリンのサバイバルもおかしい。ブライアン・W・オールディス「不可視配給株式会社」突然、新婚夫婦の家の客となった男が、「人生の目的」という無形物インタンザブルを置いていくが…。長い年月を経て男は数度家を訪ね、その都度歳を重ねる夫婦の現在が描かれる。寓意に満ち、人生を見つめた名編。ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」11語の文章から驚くべき推理を繰り広げる純粋パズラーの傑作。ジェームズ・ヤッフェ「ママは願いごとをする」安楽椅子探偵ブロンクスのママの推理はキレッキレッ。脈絡なく出てくる『風と共に去りぬ』に関するママの質問が極上。ジョイス・ポーター「ここ掘れドーヴァー」ドーヴァー主任警部とマクレガー部長刑事の漫才をベースに、「九マイル~」風の主題を乗せて。ランドル・ギャレット「青い死体」魔法が存在するパラレル英国を舞台にしたダーシー卿物の一編。特殊設定ミステリの先駆け。
 リース・デイヴィスとブライアン・W・オールディスの作品は、ミステリアンソロジーとしては、不意打ち的な作品で、ミステリかどうかはさておいて、個人的な殿堂入りの作品となった。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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