「今の翻訳ミステリー大賞シンジケートは、過去の名作についての言及が少ない!」ーーそんなことをお思いの方はいらっしゃいませんか?

そういう方向けの連載が今回から月イチで始まります。犯罪小説が大好きでしかたがないという小野家由佳氏が、偏愛する作家・作品について思いの丈をぶつけるコラムです。どうぞご期待ください。(事務局・杉江)

 パトリック・クェンティンの小説を読む時はいつも、臓腑を抉られるような苦しさを覚えます。
 ドキドキする、とか、胃がキリキリする、といった生易しい表現では物足りない。
 他のサスペンス作品ではこうはなりません。クェンティンではないと味わえない感覚です。
 何がそんなに違うのか。
 ポイントはうしろめたさではないか、と思っています。
 この作者が書く小説の主人公は、みんな、何らかの罪を抱えているのです。
 人を殺したことがあるだとか犯罪をしたことがあるといった類のものではありません。そうしたはっきりとしたものではない。だからこそ苦しんでしまうような、心理的な罪を犯している。
 浮気をしてしまっただとか、大切な家族のことを信頼していないだとか、心の奥のところに申し開きのできない気持ちを持っている。
 通常、巻き込まれ型サスペンスに分類されるような小説では読者は主人公をどこまでも素直に応援することができます。
 作中でどんなに酷い目に遭おうとも、彼ら彼女らが公正明大な人間であることを知っているからです。登場人物の誰かがそのことを見抜いてくれる。そうしたら大丈夫だという期待をどこかで持ちながら読み進めることができるのです。
 けれど、クェンティン作品の場合は違う。
 主人公は、そこを突かれたら釈明のしようがないものを確かに持っている。うしろめたいのです。それ故に、考えられる限り最悪のところで決着してしまうのではないかという不安が物語につきまとう。
 罪を抱えているだけで終わってしまったらただの駄目人間で、いくらでも酷い目に遭ってしまえとしか思えないところですが、クェンティンは人物造形が上手い。誠実ではないという部分も含めて、そうならざるを得なくなってしまった登場人物の心情を丁寧に描き込む。
 読者は自然に深いところまで感情移入をしてしまう。主人公の抱えているうしろめたさが、自分自身の持っているそれと重なって、どんどん苦しくなっていく。
 一つでも配合を間違ったら、ただ胸糞悪い話か、ドキドキも何もしない平淡な作品になってしまう。しかしクェンティンは間違えない。絶妙な塩梅で強烈なサスペンスを作り出す。
 天才的な腕前と呼んで差し支えないでしょう。
 今回紹介する『愚かものの失楽園』(1956)は、そんなうしろめたいサスペンスの極致のような一冊です。
 なにしろこの作品、タイトル通り愚かものしか出てこない。

   *

 もう少しだ、という気持ちをジョージ・ハドリーは抱えていた。
 もう少しでこの生活から抜け出して、もっと素敵な暮らしを始められる。
 ジョージは〈コ―リス石炭副産物コンバイン〉の創設者の婿養子として形見の狭い日々を送っている。意地で義父の会社には勤めず自分の城を築こうとしているが、住んでいる屋敷も財産も自らのものとは言いにくい。
 妻コニーはとにかく模範的な人間で、ジョージのことも養子のアラのことも彼女の従う規律の下に置かないと気が済まない。
 ここから抜け出そうとジョージは思っていた。アラはもうすぐ許嫁と結婚する。そうしたら、コニーと離婚して、浮気相手である秘書のイーブと愛の生活を始めるのだ……
 だが、ジョージの計画はすぐに破綻を迎えた。
 ドン・サクスビーという色男が結婚目前のアラを誘惑し始めたことによって、彼の身の周りにあった全てのことが狂い始めたのだ。
 粗筋を読んでいただければお分かりの通り、本書のジョージはうしろめたさをこれでもか、と抱えている人間です。
 浮気をしているということからしてそうですが、それを抜きにしても、妻や養子に対して誠実であるとは言えない。
 とはいえ、同情の余地がないわけではない。
 その誠実ではない生活をもうやめようと決意している姿は、浮気相手のイーブの純真な性格とあいまって応援したくなりますし、そもそもこうした状況に陥ってしまっている家庭環境の居心地の悪さもよく分かる。
 あと少し歯車がうまく回れば、ジョージの望む通り新しい生活を始められるはず。
 そう思った時点で、読者はクェンティンの術にはまってしまっています。
 作者は歯車を別の方向……何もかもが上手くいかない方向へと噛み合わせる。
 全てがジョージにとって不都合に転がっていき、殺人事件が発生した時には、既にデッドロックとしか言いようがない状況に陥ってしまっている。
 そこでジョージは自分がいかに不誠実な人間であるかをはっきりと突きつけられるのです。

   *

 ジョージの罪は、二人の〈正しい〉人間に照らし出される形で示されます。
 一人は、彼の妻コニーです。
 彼女は名家の子女らしく常に思慮深く、間違っていることは言わないし、行わない。
 もう一人は事件を捜査するタラント警部です。
 このタラントという男は『女郎蜘蛛』(1952)『わが子は殺人者』(1954)などにも登場するクェンティンのシリーズキャラクターなのですが、毎回、ちょっと妙な立ち位置を任されている人物です。
 語り手側に立たない名探偵といえば良いでしょうか。彼はいつも、主人公の敵役として配置されます。
 何らかの罪を抱えているクェンティン作品の主人公たちに対し、タラントはとにかく〈正しい〉のです。まるで植物学者が植物を観察するような目線で事件を捉え、常に堅実に、そして誠実に真相へ迫っていく。
 うしろめたいサスペンスを書くクェンティンだからこそ創出できた特異なキャラクターだと思います。
 本書ではそんなタラントの〈正しさ〉が暴力的なまでに発揮されます。
 先述の二作ではダルース夫妻というタラントとは別のシリーズキャラクターが出ている分、なんとかなるだろうという安心感がなくもないのですが、本書にはそうした甘さがない。
 ジョージはとにかく正しくない、過ちばかりの人間です。そして実は、ジョージの身の周りにいる家族も、友人も、正しくないのです。
 その正しくなさをタラントが暴いていく。
 一つ明らかになるごとにジョージは追い詰められていく。
 ここで生まれるサスペンスの強烈さは、クェンティン作品の中でも随一です。まるでオセロのように全てが裏返っていく。
 そして分かる。
 タラント以外、この小説には多かれ少なかれ、うしろめたさを抱えた愚かものしかいないのだ、と。

   *

 『愚かものの失楽園』というのは邦題で、原題はShadow of Guiltというのですが、どちらも大変によくできた、クェンティンという作家を象徴するようなタイトルだと感じます。
 この作者の書く登場人物はみんな、罪の影を背負った愚かもので、そこから生まれたうしろめたさによって何かを失いますから。
 とはいえど、失うだけでは終わらせないのがクェンティン作品でもあります。
 〈パズルシリーズ〉の第一作『迷走パズル』(1936)に代表されるように、失った先にリスタートがあるのです。
 読者を安心させないサスペンスを書く作家でありながら、信頼をおけるのはこうしたところからクェンティンの人間観が窺えるからだと思います。
 どうしようもない罪を抱えていてもリスタートはできる。
 罪を突きつけられるのは、あくまでそこに向き合うため。
 ジョージやダルース夫妻と同様にうしろめたさを抱える人間である僕は、彼らの作品を読んで、苦しみながらも、どこか勇気づけられてしまうのです。

 

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小野家由佳(おのいえ ゆか)
ミステリーを読む社会人五年生。本格ミステリとハードボイルドとクライムコメディが特に好きです。Twitterアカウントは@timebombbaby