「庭師マス・アライ事件簿」は、日系三世の作家、ナオミ・ヒラハラが2004年から書き継いでいるミステリーのシリーズで、日本では2008年にシリーズ2作目の『ガサガサ・ガール』と3作目『スネークスキン三味線』が続けて刊行されたものの(どちらも富永和子訳 小学館文庫)、それ以降紹介が止まっていた。そしてシリーズ開始から14年経った2018年、このシリーズは7作目を以て幕を閉じることになったが、その最終作である『ヒロシマ・ボーイ』がこのほど小学館文庫から刊行された(芹澤恵訳)。著者名はこれまでの「ナオミ・ヒラハラ」から漢字の「平原直美」名義に変わっている。ちなみに、3作目の『スネークスキン三味線』は2007年のエドガー賞ペーパーバック部門を受賞。今回紹介する『ヒロシマ・ボーイ』も2019年の同賞最終候補に挙げられている。

 マス・アライはカリフォルニア在住の日系二世。戦前にアメリカで生まれ、幼少の頃から十代のほとんどを日本で過ごす。広島に原爆が投下された日、実家のある呉からたまたま広島市内に出ていたため被爆者となったがなんとか生き延び、戦後すぐに単身でアメリカに発ち永住することとなる。アメリカに生まれその後日本へ。そして再びアメリカへという、二世のなかでもいわゆる「帰米」と呼ばれる立場となる。複雑な出自が影響したのか、寡黙でめんどくさがり、何に対しても文句ばかりぼやいているという周りからすればちょっと面倒な性格の持ち主である。2005年発表の『ガサガサ・ガール』の時点でマスはすでに70歳を超えており、妻のチズコとは死別、娘のマリとは疎遠になっていて、庭師の仕事をしながら一人暮らしをしている。

『ガサガサ・ガール』では、疎遠になっている娘から、日本庭園の再建を手伝うよう呼ばれて訪れたニューヨークで、その庭園の持ち主である富豪の死体に遭遇してしまい犯人探しに巻き込まれ、『スネークスキン三味線』では、ラスヴェガスで大金を手にした日系人男性が殺され、親友のG・I・ハスイケにかかった疑いを晴らすためしぶしぶながら事件の謎を追うことになる。どちらも思わぬところから事件に巻き込まれてしまうのだが、寡黙でとっつきにくい割になぜかいつの間にか人からいろんな話を引き出してくる。そうやって事実を積み重ねていくことで真相をいつの間にか手元に引き寄せている。大胆な推理もなければ行動力もない、マス・アライはおよそ探偵らしくない探偵なのである。

 と、ごくごくかんたんに「庭師マス・アライ事件簿」の概要を説明したところで、本題の『ヒロシマ・ボーイ』である。

 前2作では70代だったマス・アライも本作では86歳。カリフォルニアの日系人コミュニティで親しく付き合っていたハルオ・ムカイの遺灰を持って50年ぶりに広島へ。ハルオの姉を訪ねて、瀬戸内海に浮かぶイノ島へ向かうところから物語は始まる。

 ハルオの姉はイノ島の老人ホームに入所しているため、マスもホームにあるゲストルームに滞在することになるのだが、到着の翌朝、マスは海で少年の遺体を発見し、その着衣から遺体が前日フェリーで見かけた少年だと気づく。そしてゲストルームに戻ると、マスが持参したハルオの遺灰が消えてなくなっていた。遺灰を渡してすぐにアメリカに戻るつもりだったマスだったが、その遺灰が消えたとあってはそのまま帰るわけにもいかず、遺灰の行方を探しつつ、いつのまにか少年の死の謎を追いかけることになる。

 マスが訪れたイノ島は、宇品港からフェリーで20分ほどのところにある似島がモデルとなっている。似島には明治の半ばから第二次大戦終了まで陸軍の検疫所が置かれていたが、原爆投下直後、市内の医療機関が壊滅状態にあったなか、この検疫所は被害がほとんどなかったため、被爆者の救護施設として利用された。似島の検疫所に運ばれた被爆者は1万人とも言われる。検疫所はその後、戦災孤児を保護する施設へ転用されており(現在の似島学園)、作中では「千羽鶴こどもの家」という児童養護施設として描かれている。また一部は現在特別養護老人ホームとなっていて、これはハルオの姉が入所しているホームのモデルであろう。

 少年の死と消えた遺灰、ふたつの謎を追いかけるマスは、イノ島と広島市内を行き来しながら、自らの持つ広島の記憶や原爆体験と否応なく向き合うこととなる。そもそもこのシリーズは、マスの独特なキャラクターと、周囲を取り巻く日系人たちの軽妙なやり取りが楽しい、いわばユーモアミステリに属するものだが、そのなかには日系人社会に深く横たわっている深刻な問題を巧みに織り込んでいた。偏見や差別、アイデンティティの問題など、力強く生きようとする彼らがその内面に抱える複雑な感情の一端を私たちはこのシリーズから知ることができたのである。

 特に本作では、マス・アライを形成するうえで極めて重要なファクターでありながらこれまでの作品ではあまり大きく触れられなかった「被爆者」という自らの出自に正面から対峙する姿を描き出している。広島の街中で、イノ島で、かすかに残る原爆の爪痕に触れていくマス・アライの姿をとおして、著者の思いを感じ取ることができるのではないだろうか。

 そしてもうひとつ、ちょっと長いが第六章155ページより引用する。マスがふと、児童養護施設の子どもたちを見たくなり、通用門から中に入ったところ、ふたりの少年が野球をしているところに出くわす場面である。

「アメリカでは、何かまちごうたことをしよっても、そのことでいつまでも悪く言われたりせんのじゃろ」バッターの子は、どうやらアメリカの文化にだいぶ精通しているらしい。
「セカンド・チャンスって言うんじゃろ?」ともうひとりの子も言った。
 少年たちの顔は、つやつやしていて傷ひとつなかった。未来を悲観することとは無縁の朗らかさで輝いていた。その輝きに、マスは胸が張り裂けそうになった。そんなふたりのためにも、マスは答える言葉を慎重に探した。自分の経験を総ざらいして、セカンド・チャンスが与えられなかったときのことを、ただ放り出されて無視されるだけだったことを思い返した。新しい道を見つけるにはまったく新しい自分になるしかなかったことを、そしてそれは決して簡単ではなかったことも。そのうえで、できる限り正直に答えた。「そうだな、そんなことがないとも限らない国だな」
「ほじゃろ。それがアメリカじゃろ」ふたりの少年ははしゃいだ声をあげながら、それぞれのポジションに戻っていった。
 マスは通用口から出ると、しっかりと扉を閉めた。外部からの無断侵入を断じて許さないために。

 少年たちがアメリカという国に思い描く「セカンド・チャンス」への期待と、それが容易につかめるものではないことを知っているマスの思いが交錯する、とても印象的なシーンだ。なによりも少年たちが、自分たちはすでにチャンスを一度逃しているのだということを自覚していることに胸を打たれる。それでいてなお、《未来を悲観することとは無縁の朗らかさで輝いている》のである。その輝きを失いたくないと思ったからこそ、マスは《しっかりと扉を閉めた》のだ。

 タイトルとなっているヒロシマ・ボーイとは誰か。避け続けた自身の出自に向き合おうとするマス自身を指しているのは言うまでもない。だが、未来への期待に胸をふくらませるこの少年たちもまたヒロシマ・ボーイであり、もっと言うなら、さまざまな悩みや困難を抱えながらも前を向いて生きようとする人々すべてがヒロシマ・ボーイなのだとするのはいささか飛躍しているだろうか。そんな思いをこの引用箇所から読み取ろうとするのは強引にすぎるだろうか。

 前作の刊行から10年以上経っているため、本作で初めてこのシリーズに触れる方もいらっしゃると思うが、あまり気にしなくてかまわない。ここに書いた程度のことがわかっていれば十分。帰米二世という特殊な出自の老人をとおして映し出されるヒロシマを、全編に繰り広げられる広島弁の瑞々しさとともに味わっていただきたい。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。