■R・L・スティーヴンスン『さらわれて』


 本欄でも何度も取り上げている英国19世紀の文豪R・L・スティーヴンスンだが、自他ともに最高傑作と認める『さらわれて』(1886) の久しぶりの新訳が出た。
 さすがに代表作とされるだけあって、雄渾にして流麗、17歳の少年を主人公にした一大歴史冒険小説に、胸揺さぶられる。
 時代は、1751年、スコットランドはエジンバラ周辺に住むデイビット・バルフォアは、唯一の肉親である父を亡くし、父の遺言どおり、親戚の住む屋敷を訪ねることになる。
 最初の6章は、大冒険の序章にしかすぎないのだが、巻頭から読む者をとらえて離さない魅力をたたえている。
 ストーリーテリングの巧みさは、物語の進行に内蔵されたヒキの強さにあるように思える。
 未知の親戚の家に近づくと、村人は、かかわるなと警告を発する。デイビットは、疑心暗鬼にとらわれていくが、とどめのように、「あの家の没落が救いのないものになれ!」と叫ぶ女が出てくる。(親戚はいったいどんな人物なのか) 建物は広大だが、廃墟のようだ(なぜ) 。現れた人物は、ラッパ銃を構えた偏屈そうな老人だったが、父が死んだことを知ると突如態度を変えて、デイビッドを家に引き入れる(なぜ)。老人はデイビッドの叔父であることが判明、「わしのものはお前のもの」と態度を軟化させ、屋敷の塔から書類をとってくるように頼む。高い塔の暗闇を摺り足手探りで進んでいくと、階段が途中で切れていることを知る。つまり、叔父は、デイビッドを殺そうとしたのだ(なぜ、なぜ)。デイビッドは、老人に連れられ、海辺の街へ向かう(叔父は何を企んでいるのか) 。停泊中の船に短時間乗り込んだつもりのデイビッドは打ち据えられ、気がつくと〈カベナント〉号は出港したことを知る(なぜ、なぜ、どこへ向かうのか)。
ここまで、ストーリーは幾つもの謎を孕んで進行していくから、読者は物語の進行から眼を離すことはできない。この後、デイビッドは、幾多の試練にさらされるが、筋の運びは軽快で、渋滞を感じさせない。訳者あとがきで紹介されているが、西洋ではスティーヴンスンの文が一番好きだという漱石は、「力があって、簡潔で、クドクドしい処がない」と書いている。その特質は、この物語でも終始一貫している。
 この後、物語は、〈カベナント〉号での闘争、沈没の後、スコットランド高地の過酷な流浪の旅、暗殺事件…と続いていくことになるのだが、船上では、後の相棒となる高地人アラン・ブレックが登場する。そう、『さらわれて』は、相棒の物語でもあるのだ。二人の絆が強く結ばれるのは、船上での闘争からなのだが、たった二人が船上の円室にこもり、船長以下乗組員全員と闘う活劇の場面は、息をもつかせないくだりだ。
 アランが、名誉革命以降フランスに逃亡したジェームズ2世及びその子孫の復位を支持する「ジャコバイト」であることが物語に陰影を与えている。アランは資金をフランスに運ぶという重要な役割を果たしている。一方、デイビットは、現在の王制支持者だ。二人の立場の違い、ジャコバイトが世を忍ぶ身であることが、二人の行く手をより困難なものにする。
 スティーヴンスンは、本書で、スコットランド法制史上最悪の暗黒裁判と呼ばれた現実の事件に即して、ジャコバイトの反乱以降、二つの勢力がせめぎあい動揺するスコットランドの一時期を描きたかったものらしい。登場人物の多くが(アラン・ブレックも) 実在の人物だという。二人が庇護を求めていったジャコバイトの集落の長が、一族を守るため二人の手配書を出さなければならない苦悩は、時代を超えた普遍的なものだろう。
 危難に次ぐ危難を描きながら滑らかに進行する冒険小説は、少年の成長物語でもあり、作者が知悉した地を舞台にしているというリアリズムと史実を裏面から描いた伝奇的趣向に裏打ちされて、忘れ難い名作となった。

■メアリー・スチュアート『クレタ島の夜は更けて』


 本書『クレタ島の夜は更けて』(1962) は、ヨーロッパ各地を舞台にした元祖ロマンティックサスペンスの女王メアリー・スチュアートの長編。論創海外ミステリでは、
『霧の島のかがり火』(1956) 銀の墓碑銘エピタフ(1960) 『踊る白馬の秘密』(1965)
に続く第四弾目の紹介となる。
 舞台は、エーゲ海の浮かぶクレタ島。そう、アンソニー・ホロヴィッツの『ヨルガオ殺人事件』のヒロインが小さなホテルを営んでいるギリシャの島だ。ただし、ストーリーが進行するのは、観光地ではなく、急峻な山岳地帯の麓にある、最近開業したホテルが一軒あるだけの辺鄙なアギオス・ゲオルギオス村。それだけに、汚れなき自然や太古から続く山羊や羊が支える人々の暮らしが生彩をもって描かれている。スチュアートは、ギリシャ本島を舞台にした『銀の墓碑銘』、本書、コルフ島(シェイクスピアの『テンペスト(あらし)』に出てくる島といわれる) を舞台にした『この荒々しい魔術』(1964)と三度ギリシャを舞台にしているようだが、『銀の墓碑銘』がギリシャとの初恋だったとすれば、本書は、一層深化した恋の応用編というわけだ。
 本書のヒロイン、ニコラ(わたし) は、21歳、ギリシャのイギリス大使館に勤務する下級書記官。アテネで1年以上暮らす彼女は、ギリシャ語も流暢に話すことができる。イースターの休暇で、ギリシャを訪問予定の従姉とクレタ島で合流することとしていた彼女は、クレタ島の山中で、負傷した英国の若者マークと遭遇し、彼の看護を買って出る。マークと彼の雇った船乗りのギリシャ人のランビスは、この島で殺人事件に遭遇し、マークの弟が拉致されたものと推測される。ニコラの介護は、寝床で震えるマークを抱き寄せ、ぬくもりを共有するという献身的なものだ。彼らを見放すことができないニコラは、事件から手をひくように主張する彼らを助けることとするが…。
 いつものように典型的な巻き込まれサスペンスだが、他の長編よりニコラは年若いせいか、より行動力に富み、より積極的に事件に関わっていく。村のホテルにたどり着き、年長の従姉フランシスと合流してからも、曰くありげなホテルの主人の周辺を探っていく。事件の主犯者はあっさり見込みがつくため、紹介された作の中ではプロットの妙味という点では、やや物足りなく、『銀の墓碑銘』『踊る白馬の秘密』の中の幽玄的なまでの印象的なシーンもないが、独行する彼女の行く手には、数々のサスペンスが待ち受けている。クライマックスは、海中を泳ぐ彼女と船上で待ち構える銛との闘いという、すこぶるつきの緊迫感だ。
 クレタ島は、ギリシャ神話の主神ゼウスの生まれ故郷でもあるが、彼の地における彼女ら冒険の全体を、荒涼とした〈白い山〉、陸地の裂け目できらっと輝く海。数々のハーブの匂いといったクレタ島の自然や、作中で語られる「月紡ぎ」(原題The Moon Spinners) の伝説が包み込んでおり、重要な役割を果たす粉挽き風車のたたずまいも良いアクセントになっている。ニコラが鳥類の愛好者、フランシスが植物の専門家に設定されているのも、クレタ島の自然とよく共鳴する設定だ。
 本書は、1964年には、ウォルト・ディズニー社によって『クレタの風車』として映画化されている。監督は、ジェームズ・ニールソン、主演はヘイリー・ミルズ。輸入盤を字幕頼りに観たが、ヒロインとマークの淡い恋を隠し味に陰謀に臨んでいくという骨格だけは同じだが、筋は大幅に改変されている。冒頭で、いきなりMoon Spinnersの唄が歌われ、ホテルも同名になっていることに驚かされる。風車をもちいたスペクタクル・シーンやボートのアクションもあり。ヘイリー・ミルズは18歳頃と原作の設定より若いが、その溌剌とした演技が何より楽しい。
 
■イーニス・オエルリックス『〈アルハンブラ・ホテル〉殺人事件』
 
 作者の名には、聞き覚えがない。多くの読者にとっても同様だろう。米国の作家で、1930年代から49年代に長編ミステリ7冊を上梓し、うち6冊は、〈牛乳配達員マット・ウィンターズ〉シリーズという。残る1冊が1941年に書かれた単発作品の本書である。前評判の高い作家というわけでもなく、帯に「日本紹介となる著者唯一のノン・シリーズ長編!」とうたわれても、読者には今ひとつピンとこない。本作品の売りは何なのかをもっと読者に訴えかけるべきではないだろうか。
 筆者が思うところ、本書の大きな見所は、舞台となるホテルとそこに集う人々である。
 アルハンブラ・ホテルは、アメリカ合衆国の東海岸からほど近い大西洋の小島に建つ、巨大なリゾートホテル。モザイクや大理石をふんだんに使った美しい柱列やパティオを備えた豪奢なホテルは、開業当初、客が一人もいないことすらあった。大逆転をもたらしたのは、今の支配人の「エア・タクシー」(近距離用小型飛行機) で客を運ぶというアイデア。今では、全米の富裕層の来訪がひきもきらず、二百万ドルの利益をたたき出している。
 ホテル名は、もちろんスペイン、グラナダに建つ、イスラム建築のアルハンブラ宮殿にちなんでいるが、ホテルから下を見下ろすとうきうきしてくるという登場人物がいうところによると、「まさしく幻想の世界の〈アルハンブラ〉って感じがして。ねえ、知ってる? 本物のアルハンブラ宮殿って、全然こんなものじゃないのよ。わたしは何度も行ったことがあるからよく知っているの。ここにあるのは、どこかの建築家が夢の中で見たグラナダの宮殿をひと廻り小さくしたものなの」
 そんなアラビアンナイト風の小天地での殺人というのが、本書のチャーミングなところである。
 物語の主人公は、弁護士という職業に失望し、今は、ホテルのミュージャンとして一日三度のステージをこなしているデニー・キング。警察官の友人レイ、デニーとレイがともに思いを寄せるルーとの三人組で、夜明けまで過ごす気楽な生活を送っている。そんなところへ、ホテルの支配人妻の元夫で服役を終えた飛行機乗りの男が現れて、波風がたちはじめ、ホテルの支配人殺しが発生する。
 第1章から第2章にかけて、かなり多い本書の登場人物が手際よく紹介されていくが、これが多士済々。ルーにいわせれば、島は「天使のいない天国」だが、正真正銘のプリンセスまで登場してくるので、筆者は、古くて恐縮だが「ひょっこりひょうたん島」を思い出してしまった。
 ミステリとしての特徴は、登場人物は多くいるのに、元服役囚以外に動機のありそうな人物がいない点だろう。しかし、読者には、第二の殺人が発生して、真相は過去にあると察しがつく。デニーによる過去の探求により、真相は明らかになるのだが、過去の重要な事実が隠されているなど、謎解きにはあまり高い点はあげられない。不可能状況の解決も添え物的だ。物語の終りは、デニーの三角関係に決着がくなど一種の大団円に向かい、殺人を契機に揺れ動いた人々の秩序は再編成され、そこに読者は満足を見出せるだろう。登場人物には、皆、魅力があり、会話も気が利いている。全体には、マイルドなクレイグ・ライス的な趣がある。
 本書の原題は、Murder Makes Us Gay (殺人は我々を陽気にする)。大陸での戦争のかたわら、アラビアンナイト風のホテルで乱痴気騒ぎを繰り広げる金持ち連中を皮肉ったタイトルだが、この「天使のいない天国」のかりそめの陽気さとそこで翻弄される人々をよく表していると思う。

■クリフォード・アシュダウン『ロムニー・プリングルの冒険』


(http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca15/785/p1-r-s/)
(画像をクリックすると〈書肆盛林堂〉の該当ページに飛びます)

 ヒラヤマ探偵文庫15『ロムニー・プリングルの冒険』の作者クリフォード・アシュダウンは、ソーンダイク博士の生みの親、R・オースティン・フリーマンとジョン・ジェームズ・ピトケアンの合作ペンネーム。ピトケアンは、フリーマンの医師仲間らしいが、詳しい履歴は二人の死後も長い間不明だった。その判明の経緯は、同書の戸川安宣氏の解説に詳しい。
 最初の6編が雑誌に掲載されたのは、1902年というから、ソーンダイク博士が『赤い拇指紋』(1907) 登場以前のもの。雑誌掲載と同年に、6編をまとめて本になったが、後半の6話は雑誌掲載のままで、本になったのは実に66年後の1969年という。本書は、ロムニー・プリングル物全12話を収録した完全版。最初の6話を収録した単行本は、「クイーンの定員」30番に選定されている。
 編集者から義賊ラッフルズ譚のような話を、と求められて書かれた、ロム二―・プリングルを主人公とする連作は、怪盗というより、舌先三寸で世渡りをする詐欺師、コン・マンという設定が風変りだ。悪党のタイプとしては、ごく初期に属するのではないだろうか。プリングルは、著作権代理人という看板を事務所に麗々しく掲げているが、実際には、犯罪の匂いを嗅ぎつけては、そこへ介入し、犯人に代わって利益をせしめていく。「倫理上の問題はあったかもしれないが、何ら法律は犯してこなかった」(「潜水艦」) と自身は述懐するが、それはやはり事実に反する。背が高く、熱心な自転車愛好家。右頬にポートワイン色の染みが目立つが、変装の時はふきとってしまう。ワトソン役はいない。このプリングル、最後の二編では、驚きの運命が待っている。
 冒頭の「アッシリアの回春剤」 怪しげな回春剤販売の詐欺事件に感づいたプリングルは、変装して当の事務所に乗り込んでいく。詐欺事件をどう自らの儲け話に変えるのか。ふとした情報の入手、犯罪や悪だくみの探知、自らの稼ぎに転換させる機智というプリングル譚の基本パターン最初の短編から明確に打ち出されている。
 「外務省報告書」外務省の官吏の通信をすり替え、大儲けをたくらむプリングル。株式市場の大混乱の様子を活写しているのがユニーク。「シカゴの女相続人」大英図書館の閲覧室で、貴族年鑑等を漁っているドイツ人が、アメリカの成金娘と結婚しようとしている貴族を脅迫しようとしていることをプリングルの知るところに。
 「トカゲのうろこ」地方で釣りに興じていたプリングルは、発狂者の出た一族の噂を聞きつける。燃える怪物という謎が提示され、悪辣なたくらみが暴き出される。他にもロンドンを離れた地方を舞台にした短編も多く、一編ごとに魅力を添えようとする著者の抱負もうかがえる。「偽ダイヤモンド」前作の登場人物が再度登場する本編のテーマは、宝石盗難。前作で逃した犯人を追い、ブリングルはアムステルダムへ向かう。
 「マハラジャの宝石」これも宝石盗難事件。プリングルは、自転車も活用して、悪党「洒落者」を出し抜く。
 「潜水艦」レストランのフランス語の会話から最新鋭の潜水艦の図面がフランスに持ち出されそうになったことを知ったプリングルは。彼が絶望を感じるほどの相手を敵に回し、阻止の企みも失敗するが、なんとかなってしまうところに、とぼけた味わい。
 「キンバリーの逃亡者」自転車の泥の種類をプリングルが実験で明らかにするところが、ソーンダイク博士の先駆を思わせる。「フローレンスの蚕」古文書に記された場所を巡る宝探しの物語。コンパスの誤差に関する機智がフリーマンらしい。「黄金の箱」乗船時に、水夫の行動から、黄金を積めた箱がテムズ川に沈められたことを知ったプリングルは、後日サルベージに乗り出すが…。水死人の描写が後のソーンダイク博士譚「死者の手」をちょっと思わせる。
 「銀のインゴット」「拘置所」プリングルにも遂にヤキが廻ったのか。「マハラジャの宝石」で出し抜いた「洒落者」の策略で、プリングルは無実の罪で収監されてしまう。次々と警察法廷で裁かれる男女に、囚人たちから「がんばれよ!」の掛け声がかけられるのがおかしい。と楽しんでばかりもいられない。プリングルは拘置所で脱獄未遂の罪も加重され、出所は絶望的になる。彼は拘置所を脱出することができるのか。
 悪党とはいえ、結末に至って収監され、絶望を味わうヒーローは、古今東西、まず稀なのでは。合作者のいずれも、刑務所医師の経歴があり、牢屋や警察法廷、拘置所の描写は、リアリティに富んでいる。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita



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