L’homme qui regardait passer les trains, Gallimard, 1938/10/30(1936/12-1937春 執筆)[原題:汽車を見送っていた男]
・初出タイトルPopinga a tué, « Le Petit Parisien » 1938/6/10-7/19号[ポピンガは殺した]
『汽車を見送る男』菊池武一訳、新潮社 現代フランス文學選集、1954*
The Man Who Watched Trains Go By, translated by Marc Romano, introduction by Luc Sante*, New York Times Review Books Classics, 2005[米]
The Man Who Watched Trains Go By, translated by Sian Raynolds, Penguin Modern Classics, 2017[英]
・em>Tout Simenon T21, 2003 Les Romans durs 1938-1941 T4, 2012
・映画『汽車を見送る男The Man Who Watched Trains Go By)』ハロルド・フレンチHarold French監督・脚本、クロード・レインズClaude Rains、マルタ・トレンMärta Torén出演、1952[英]別題The Paris Express[米]

汽車は轟音を残してパリを去って行く! 彼にとって幻想の世界であったパリは、追い詰められた逃走の果に、今や空虚な罪の世界となって彼の前に渦巻いた。追われる者の心理をギリギリに追求して行ったシメノン特異の心理小説! (帯の惹句より)
 
シメノンの最高傑作・英映画化された特異の心理小説(帯背より)
 
(前略)戦争中から戦後にかけて、シメノン熱は急上昇し、この二三年来英米の書評に依ると、この人気は絶頂に達している様である。シメノンは、英のグリーン、アンブラーと共に、広い意味でのミステリー文学の批評界で、最も高く評価されている三高峰である。(帯裏の作者紹介文より)

 これは、ひょっとして、ものすごい傑作ではなかろうか。
 たぶんシムノン生涯のベスト10、あるいはベスト5に入るくらいの長篇ではなかろうか。映画化を機に英訳から重訳されたと思われる1954年新潮社版の翻訳は旧仮名遣いのままなので、いますぐにでもフランス語の原文から新訳して、日本の読者へ届け直すべきではないのか。それほど素晴らしいと思わせる作品だ。
 あのユーモラスな『ねずみ氏』第79回)の直後に、ここまで張り詰めた小説が書けるのだから、まったく侮れない。作家の技量という意味では第二期の頂点へ易々と上り詰めようとしていたわけだ。すなわち“緩急自在”、考えてみれば前作『ねずみ氏』でもユーモラスななかに緊迫したクライマックスがちゃんとあったし、今回の深く昏い物語にも読者にほっと息をつかせる温かなシーンが含まれており、当時シムノンは小説の神様に手が届いていたに違いない。

 主人公の男、オランダのフローニンゲンに住むケース・ポピンガ39歳は、商船会社で船舶の管理長を任されている実直な男だ。だがある夜、ケースは町のバーで偶然にも社長のジュリアス・デ・コスターと出会い、放漫経営が祟って明日にも会社が倒産すること、彼自身も詐欺罪で起訴されることになるであろうことを知らされる。ケースは給料や家の財産をすべて会社に預けてあるので、これでは巻き添えを食って破産だ。その夜、デ・コスターは手元に残っていた1000フローリンのうち半分の500フローリンをケースに渡し、自殺を仄めかせつつ、アムステルダムへの夜行列車に乗って旅立ってしまった。ケースはプラットホームで社長を見送った。アムステルダムでは社長の元愛人パメラがホテル暮らしをしているのだ。
 ケースは突然人生のすべてが崩れたことに衝撃を受け、まるで白昼夢に入り込んだようで、翌朝は寝床からも出られず、会社にも行けない状態だった。彼には妻とふたりの子どもがいる。デ・コスターは失踪し、彼の外套が川で発見されたことから入水自殺が囁かれた。ケースは不意に「家庭生活とは何と退屈なのか」と感じ、500フローリンをポケットに入れ、鞄を持って汽車に乗った。
 アムステルダムのホテルでパメラと会う。だがそのとき、からかわれたことでついケースは彼女の首を絞めてしまった。ぐったりとする彼女を置いて、ケースは国境を越える急行列車に乗った。うっかり鞄をパメラの部屋に忘れてしまったので手ぶらだ。初めてパリにやって来たケースは、その夜モンマルトルの小さなレストランで働く赤毛娘、ジャンヌ・ロジェに誘われて彼女の家に泊まる。そして彼は翌日の新聞で、アムステルダムのパメラが絞殺死体で見つかったこと、自分が殺人容疑で手配されていることを知った。司法警察局は彼がパリにやって来たことも突き止めたらしい。
 ケースは突発的に家を出てきたので身分証明書も所持しておらず、闇取引で偽装書類をつくらなければならない。彼はパリ郊外ジュヴィジー[パリ南東部に位置する。ジュヴィジー駅があり、パリ13区のオーステルリッツ駅と連絡している。南へ下ればリヨンやマルセイユに着く]の自動車修理工場で働くロジェの恋人ルイを紹介されたが、ルイはマルセイユへ出向いて不在だった。ケースはそのガレージ所有者ゴアンと妹ローズのもとでしばし身を潜めたが、ロジェのことが気になって再びパリへ戻ることにした。
 リュカという警視が事件を追っているようだ。新聞はケースのことを興味本位で書き立てていた。何とフローニンゲンに残った妻や知人たちからコメントを取って、それも掲載していたのである。
「犯人の妻は、彼女の良人はきっと急に記憶を喪失したに違いないと信じている……」「ポピンガ夫人が親切にわれわれに語ってくれたところでは、彼女の良人の倒錯を説明し得るものはただ突然の狂気の発作か、あるいは記憶の喪失か、だけである」
 会社の倉庫番の少年は「私はよくあの人の眼に異様な光のあるものを見つけました」といっているし、チェスクラブの長老も「会員の悪口をいうのはいやなことではあるが、公平な観察者ならポピンガは不平不満をもっていた人間であったのを見逃すことはできなかったろう、といわざるを得ない。(中略)もしこの劣等感が彼の固定観念になっていたと仮定すれば……」などともっともらしく語っている。
 日を追うごとに記事の内容は扇情的になり、ケースは狂人扱いされてゆく。彼は自分の手帳に憤懣を書きつけるとともに、リュカ警視や自分を悪くいい募る新聞社へ向けて手紙を書き始める。自分は決して狂人ではない、自分はまともで、事件が起こったのにはちゃんと理由があったのだと長文で訴える。だが今度は新聞がその手紙を紙面に晒し、「オランダの凶漢」扱いをして、学者に犯人の精神鑑定を願い出る事態へと発展した。ある教授は「このオランダ人は偏執狂で、偏執狂は自尊心を深く傷つけられると最も危険になる」とコメントする。さすがにケースはこの偏執狂呼ばわりには我慢がならない。メディアを介して警察、新聞社、ケースの三つ巴の混乱が始まっていたのだった。
(地名や人名表記の一部を、訳書の表記とは異なるかたちに変更した)

 本作が素晴らしいのは、全体にわたってプロットがとてもよく練られていることだ。つねに意外な方向へ物事が進んで読者を離さない。後半へ行けば行くほど面白くなる。シムノンというとつねにその場の思いつきだけで筆を進める作家のようなイメージがあるが、少なくとも本作では最初の1ページ目から、後に登場するパメラやロジェ、ルイの名前が出てきて、読者に今後の運命の邂逅を予感させ、ちゃんと全体のプロットが計算された上で書かれたのだと察することができる。
 プロットが練られているだけでなく、要所要所でシムノンならではの、はっとするような文章が起ち現れる。たとえば主人公ケース・ポピンガが家を出ようと思い始める以下のくだり。

(前略)彼の場合、全ては白昼夢の域を脱していなかったからである。
 たとえば、あの汽車を見たときの感じである。もちろん子供のときに蒸気機関に対して感じた魅力はもう感じなかった。しかしなお汽車、ことに夜汽車には何かしら彼に訴えるものがあった。いつも奇妙な、漠然とけしからん考えが頭に浮かんで来るのであった──かといってその考えをはっきりこんな考えだということは誰にも難しかったであろう。それからまた、夜汽車に乗ってゆく人は永遠に帰って来ないような印象があった──(中略)
 実際ケース・ポピンガは、自分が世間の皆の知っているケース・ポピンガとは全然違った人間になりそうなことを何度も何度も空想したことがあった。(後略)(菊池武一訳、現代仮名遣いに改めた)

『銀河鉄道999』の主題歌が耳に聞こえてきそうではないか。
 少年時代に手を翳して太陽を見上げたあの目映い感覚、すべてが白く消えてゆきそうだった日曜日の昼下がりの感覚、こうしたきらきらとした光沢の質感は脳の特定の部分を刺激することが科学研究で知られており、私もその知見を自作で利用したことがあるが、シムノンを読むとたぶん脳のこうした部位が発火するのではないか。近年のライトノベル系書籍ではジャケットに光沢のあるインクをあえて用い、マゼンダ色を多用して“空気感”を演出するイラストが流行しているが、ある種の“懐かしさ”を脳内に呼び覚ます作用があるのだと思う。シムノンの文章にも似たところがある。
 つねに意外な方向へ物事が進むと述べたが、本作はまるで今日のウェブ炎上を見るかのようでもある。まじめでおとなしい主人公は、いったん殺人犯となるとメディアから「凶漢」扱いされ、地元の家族や近隣から「そういえばあの人は以前から変なところがありました」などとコメントを取られて印象操作される。ケースがいったん反論すると、あたかもYahoo !ニュースのコメント欄に火がくべられた状態になる。新聞社は権威ある学者に手紙を見せて精神鑑定を依頼し、「この男は偏執狂だ」という言質を取ってきてしまう。興味深いのは本作のなかで、新聞社はふたりの学者に鑑定を依頼したのだが、もうひとりは「手紙だけでは軽々しく判定できない」といって辞退し、その事実が公表されると先の学者も「自分は断定したわけではなく、たんに印象を述べただけだ」などと保身のコメントを出すことだ。今日のウェブ状況とまったく変わらない。
 ケースは平凡な中年男だが唯一の趣味がある。それがチェスで、彼はパリを彷徨っているときたまたま外国人の若者たちが街角のカフェでチェスに興じているのを見かけ、彼らにアドバイスし、さらには彼ら相手に二面指しもやってみせる。このくだりはとても大らかな筆致で描かれており、いっときではあるがケースが追っ手を忘れて心からチェスを楽しんでいることが伝わってくる。つまり彼は平凡な一市民ではあるが、才能もあるのだ。決して馬鹿ではないし、衝動に走りやすいわけでもない。
 物語はクリスマスの夜(ノエル)から大晦日にかけて進展する。ケースにとって、もちろんパリの年末の光景を見るのは初めてのことだ。彼はロジェとともに街を行く。もっと装飾で煌びやかなのかと思っていたが意外とそうではなかったことが、ケースにとってはちょっとばかり残念なのだ。読んでいて私も彼と同じ気持ちになった。こういうところが本作のうまさだ。
 意外という点でさらに述べると、すべての物事の発端となったデ・コスターの消息は、なんと最後までわからないまま終わる。私は読んでいる途中、「失踪したデ・コスターが新聞を見てケース・ポピンガが自分の元愛人を殺したことを知り、ケースのもとに現れて脅迫し始めるのではないか」と展開を想像していた。実際、本作中でケース自身もその可能性について考える。だが最後までデ・コスターは現れない。代わりに物語はもっと意外な方向へと進む。
 この先は実際に読んでいただきたいが、ネタバレしない範囲で別の観点からいくつか述べると、あんなにケースのことを書き立てていた新聞各紙が、ある時点から急速に彼への関心を失い、別の事件を追うようになる。ケースはこのことにひどく戸惑うのだが、現代の読者ならばいっそう彼の気持ちがわかるであろう。メディアがあまりに移り気であることは、いまや誰もが実感しているはずだからだ。こうなるともう、ケースがどんなに気持ちを訴えようとしても、メディアは相手にしてくれない。彼は事件の真相を人々に知ってもらいたいと、ただそれだけを願うようになってくる。世間に誤解されたまま逮捕されるくらいなら、いっそ死んだ方がよいのではないか。そうして物語はクライマックスへと突入する。ケースはジュヴィジーの線路を歩き、行き来する汽車を見送り、そしてやって来る列車の前に立つ。轢かれて自殺することを咄嗟に思い立ったのだ。本作の原題は『L’homme qui regardait passer les trains』、ここで「見送るregarder」はシムノンが好んで用いたとされる半過去形regardaitであり、「汽車」も実は複数形les trainsだ。半過去は過去の状態や習慣を表すので、『(複数の)汽車を見送っていた男』のニュアンスが正しい。ケース・ポピンガの過去には、何度も汽車を見送っていたことがあり、今回の事件でもその過去が象徴的に繰り返されているのだと考えると、いっそう題名が奥深く感じられる。
 そしてこの動的なクライマックスの後、あまりにも静かな最終章が訪れる。このラストがすごい。ケースは平凡な一市民だがチェスには才能があったと先ほど書いた。だがこのラストで、なるほど確かにいくらかの才能はあったのかもしれないが、しょせんは才能を咲かせることもできない平凡な人間だったのだという生々しい現実を、読者は突きつけられることになる。そしてたいていの人間は、この本を読んでいるおそらくほぼ全員が、ケース・ポピンガと同じくただの平凡な人間なのだという残酷な事実を、はっきりと思い知らされることになる。あなたは作家にもなれないしインフルエンサーにもなれない。
 前回示した“無”の状態だ。すべてを呑み込む“無”の空白であり、まるでオラフ・ステープルドン『スターメイカー』を読み終えたときのような、圧倒的な感情の揺さぶりだけが心に強く残る。
 本作は英国で映画化されたが、表面的には原作に沿っているものの、80分とごくコンパクトにまとめられているためか上に示したような本作の持つ真の凄まじい部分は描かれておらず、傑作に至ることはできなかった。何より、ケースがデ・コスターを自分で殺めてしまったために逃亡した、と設定を変えてしまったのは改悪だった。画面の雰囲気は悪くないだけに惜しい1作だ。

 リュック・サンテというベルギー生まれのアメリカの作家・評論家(2021年に性転換してルーシー・サンテとなる)がnyrb英訳版の序文で、本作の主人公ポピンガはダシール・ハメット『マルタの鷹』(1930)に名前が出てくるフリットクラフトという男に似ている、と記している。脚注部分の記述に拠ると、シムノンは実際にハメットを楽しんで読んでいたらしい。さらに脚注では、失踪したデ・コスターとそれによって人生が変わるポピンガの関係は、ジャン・ルノワール監督の映画『ランジュ氏の犯罪』(1936)であるとも述べている。シムノンとハメットという取り合わせは意外で興味深い。
 そこでハードボイルドものは苦手だが、今回初めて『マルタの鷹』を読んでみた! 長年の積ん読を1冊解消だ。
 この挿話は第7章に登場する。私立探偵サム・スペードが事件の依頼人の女に語る、ちょっとした昔話という体裁だ。1922年のある日、タコマ[ワシントン州シアトルの近郊]でフリットクラフトという男が昼食を摂るといって会社を出たまま二度と戻らず、失踪した。彼には妻とふたりの子どもがおり、とくに家庭事情に問題があったわけでもなく、父の遺産を相続して生活も豊かだった。事件に巻き込まれた形跡もない。つまり失踪する理由は何もなかった。ところが5年後の1927年、当時スペードはシアトルの私立探偵事務所で働いていたが、フリットクラフト夫人がやって来て、夫とよく似た男を偶然スポケーン[ワシントン州東部の都市]で見かけたという。彼は名字を変えて新しい妻と赤ん坊がおり、まったくの別人として暮らしていた。彼の述懐に拠れば、彼は昼食に出かける途中、建設現場を通りかかったとき、突然目の前に鉄梁が落ちてきて、跳ね返った舗石の欠片で軽い怪我を負った。だがショックの方が大きかった。あと少し先を歩いていたら自分は死んでいたのだ。「だれかが、自分の人生の蓋を開け、そのからくりを覗かせられたような感じ」(小鷹信光訳)がした。
 彼はそれまでよき良人でありよき市民であったのに、天から降ってきた一本の鉄梁で人生が終わってしまうこともある。ならば秩序立った生活など無意味ではないか。そう悟って彼は行き当たりばったりに行動し、天から何も降りかかってこない人生にその身を適応させたのだった。
 スペードはこの理屈をフリットクラフト夫人に説明したが、夫人はどうしても理解できなかった。だが、「おれには、よくわかる話だった」とスペードは依頼者の女に語るのだ。このエピソードに本作『汽車を見送る男』は似ていると、サンテは指摘したのである。
 確かに似ている。が、どこかがちょっと違うとも私は感じる。具体的にどこがどう違うのか、うまくいえなくてもどかしい。違うとすれば、それはハメットとシムノンの世界観に起因するのかもしれない。「おれには、よくわかる話だった」と男のスペードは共感を示し、それを女性に語る。だがシムノンは一部のメグレものの場合を除いて、とくにロマン・デュール作品の場合には、そうした“共感”を表明しない。シムノンの主人公の前には「おれには、よくわかる話だった」といってくれるタフな探偵役は現れない。いや、たとえ現れたとしてもそれで主人公が救われることはない。
 本作『汽車を見送る男』でも、リュカ警視はおそらく主人公のケース・ポピンガに対して、一定の理解と共感を持っていただろう。シムノンの世界にはふたりのリュカがいる。ひとりはペンネーム時代や初期メグレもので描かれた、地味だが職務に忠実なリュカで、もうひとりは『霧の港のメグレ』第16回)や第三期以降のメグレで描かれる、上司のメグレを尊敬するあまり外見まで上司に似かよって、口髭を生やしパイプを吹かして、ビールジョッキを傾けながらテーブルに足を乗せるユーモラスなリュカだ。本作のリュカは前者だが、主人公の心は最後まで救えない。
 それよりも驚いたのはジャン・ルノワール監督の『ランジュ氏の犯罪』だ。なるほど、これは本作に似ているといえる。そもそもシムノンはジャン・ルノワール監督と交流があり、これは1936年公開の映画で、つまり本作執筆の直前だから、シムノンはこの映画を観て何らかのインスピレーションを得た可能性はある。それどころか本作は『ランジュ氏の犯罪』へのオマージュ、あるいはシムノンなりのアンサーとして書かれたのだといわれても否定できないほど似ている。
 先ほど、本作『汽車を見送る男』では、失踪した上司が結局最後まで見つからないと記した。ここが本作では唯一不完全燃焼な部分なのだが、『ランジュ氏の犯罪』を観た後だと、この展開もまたルノワール監督へのアンサーだと思えてくる。というのも『ランジュ氏の犯罪』は、詐欺で会社を経営難に追い込んだ上司バタラ氏がいったん失踪し、死んだと皆から思われた後、実際は生き延びていて再び主人公のもとへ姿を現し脅迫するという展開を見せるのだ。主人公は新興出版社の社員で、作家になることを夢見ており、こつこつと『アリゾナ・ジム』なる活劇小説を書き溜めている。行ったこともない米国を舞台としたヒーローものだ。その小説の権利は失踪した上司に騙し取られてしまったものの、小説自体は大成功を収め、彼は一躍人気作家となって映画化の話まで起ち上がる。訪れたこともないアメリカに憧れて、アメリカを舞台に通俗冒険小説を書き飛ばしていたかつての若造シムノンによく似ているのだ。
『ランジュ氏の犯罪』では、脅迫してきた上司を主人公が咄嗟に殺してしまい、彼は恋人とともに逃げる。国境を越える印象的なシーンで映画は終わる。しかし本作『汽車を見送る男』は、オランダの国境を抜けてパリへ出てきた主人公のその先が描かれる。自分なら『ランジュ氏の犯罪』をこう書く、というシムノンの作家宣言のようにも読める。何にせよ『ランジュ氏の犯罪』との類似性を解説文で的確に指摘し、読者へより一歩進んだ読解を促したサンテは、よい仕事をしたといえるだろう。
 もうひとつ評論文を紹介しよう。米国にシムノンを翻訳紹介し、今日に至る世界的シムノン評価への足がかりをつくった、作家・評論家アントニー・バウチャーの書評だ。『アントニー・バウチャー新聞書評集成The Anthony Boucher Chronicles』に本作が英訳された際のコメントも載っており、そこで彼はシムノンをアルベール・カミュと比較している(1946年5月5日付、p.408)。
 カミュがガリマール社から『異邦人』を刊行したのは1942年なので、『汽車を見送る男』の方が4年早いのだが、英訳されたタイミングは同時期だったようだ。「ふたりのキャリアは異なるが、先ごろ刊行された両者の本は、本質的に同じストーリーを扱っている。一般社会集団から疎外された主人公が、漂流の果てにほとんど偶発的に人を殺し、社会的規範からおのれを解き放とうとする」とバウチャーは評する。「両者の類似性は出版上の偶然ともいえるが、純文学作家がポピュラーフィクションからテーマを受け継ぎ、自分なりに実体化させたようにも思える」として、シムノンの方が実際は4年早かったことを正確に指摘している。その上でカミュとシムノン両者を高く評価し、称賛した。
 不条理と殺人、という点で確かにカミュの『異邦人』はシムノン作品と似ているのだが、それは『異邦人』に限った話であって、たとえば戦後の『ペスト』(1947)になるともうシムノンとはあまり似ていない。ただ、日本で定着した『異邦人L’Étranger』という訳題を、あえて『よそもの』といい換えて私たちに鮮烈な意識転換をもたらしたフランス文学者・野崎歓氏は、やはり見事だったと思う。そう、『異邦人』も、シムノン作品も、どちらも“よそもの”の物語なのだ。

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『魔法を召し上がれ』『ポロック生命体』等多数。
 文理の枠を超えた「パンデミックと総合知」をテーマに、母校・東北大学の研究者らとの対話連載を展開中。記事構成は翻訳家・サイエンスライターの渡辺政隆氏(https://web.tohoku.ac.jp/covid19-r/people/)。
 
 先日、SF作家・八杉将司氏の死が報道で伝えられた。日本SF新人賞を2003年に受賞してデビューされた八杉さんは、SFの想像力の未来を見据え、ウェブマガジンの発刊や電子書籍の発行など新領域を精力的に開拓してこられた方だった。とても寂しくてならない。
 文学に限らず多くの組織が内側に閉じてしまいがちななかで、八杉さんは日本ロボット学会の学会誌にも2度登場され、研究者らとも交流にも積極的な作家であった。元・日本ロボット学会会長・浅田稔先生が、ブログページ「みのつぶ通信」(https://robogaku.jp/news/2021/pblog025.html)で八杉さんのことに触れてくださっている。日本ロボット学会誌で八杉さんも参画した座談会は「ロボットが社会に与える影響:SF的な考察」(https://doi.org/10.7210/jrsj.30.1041)、また八杉さんが寄稿されたロボットSF短篇は「サクセッション」(https://doi.org/10.7210/jrsj.31.971)で、誰でも無料でダウンロードして読める。ぜひひとりでも多く、八杉さんの小説作品に接していただけたらと願う。




 
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