Le Relais d’Alsace, Fayard, 1931/10(1931/7執筆)[原題:アルザス亭]
『アルザスの宿』原千代海訳、創元推理文庫228、1960*
『山峡の夜』伊東鋭太郎訳、春秋社、1936/10/12(山峡の夜/北氷洋逃避行)
『山の十字路』伊東鋭太郎訳、春秋社シメノン傑作集、1937/5/20
『山峡の夜』伊東鍈太郎訳、京北書房、1946/10/18
「山峡の夜」伊東鍈太郎訳 《探偵倶楽部》1954/12(5巻12号)pp.255-298 上記の縮約版
Tout Simenon T16, 2003 Les Romans durs T1 1931-1934, 2012【註1】
The Man from Everywhere, translated by Stuart Gilbert, The Man from Everywhere and Newhaven-Dieppe所収, Penguin Books, 1952(The Man from Everywhere/Newhaven-Dieppe)[英]

 いやあ、いいじゃないか!
 これだよこれ。こういうのを読みたくてこの連載をやっていたんだよ。シムノンはこうでなくちゃ。
 今回からシムノンの硬質長編小説、ロマン・デュールへと読み進む。ロマン・デュール les romans durs とはシムノンが書いたメグレ警視シリーズではない単発の長編小説の総称で、後にシムノン自身がそのように呼び習わした造語だ。より一般的な心理小説だと考えればよい。
 今回取り上げる『アルザスの宿』は、そのロマン・デュールの第1作に位置づけられる。メグレシリーズの刊行が始まってからシムノンが初めて本名名義で書いたノンシリーズの長編である。執筆時期は『港の酒場で』と同じ1931年7月。メグレシリーズと同じファイヤール社からの1931年10月刊行で、『男の首』(1931/9刊行)と『ゲー・ムーランの踊子』(1931/11刊行)の間に出た。
 確かグレアム・グリーンも自作を「エンターテインメント」「ノヴェル」と分けていたはずで、作家自身がわざわざこういうことをいい出すのは何か理由があったのだとは思う。まだ評伝や解説書の類いを詳しく当たったわけではないので、いつからどのような理由でシムノンが自作をこのように呼ぶようになったのかはわからない。60年代ころからシムノンはメグレものを日頃の気分転換として、より軽やかに書くようになっていったと思われるので、それと対比する意味で自分の心持ちを表現する言葉となっていったのかもしれない。もう少し実際の小説を読み進めた時点で、評伝などを読んで確かめたいと思う。
 「ロマン・デュール」という呼称を日本語に置き換えるのは難しい。これまで文庫解説記事などをいろいろと見てきたなかでは、「硬質小説」という訳語が深い色合いの硬い鉱石を連想させる言葉で、個人的にはいちばん好きだ。
 この言葉がいまいちわかりにくい事情は英語圏でも同じであるらしい。イギリスのポケット・エッセンシャルズ社が出していたコンパクトな作家ガイドシリーズの一冊にデイヴィッド・カーター David Carter 著『Georges Simenon[ジョルジュ・シムノン](2003)があり、シムノンの英訳作品が紹介されているのだが、romans dursをまとめた章の冒頭に次の解説がある。

「roman dur」(複数形は「romans durs」)とは、シムノン自身がリアルな文芸作品であると考えていた自作の長編群を称した言葉であり、厳密に英語に置き換えることは難しい。もともとフランス語での語義が厳密ではないからである。ただこれらの作品群を単純に「本格serious」小説と呼ぶのは明らかに不適切だ。そうしてしまうとメグレものが「本格ではないnot serious」という意味になってしまいかねない。
「roman」は「小説」と訳して差し支えないが、「dur」からはさまざまな意味が読み取れるため(「硬いhard」「屈強tough」「重いheavy」「困難hard-going」「試練の苦しみharrowing」など)、どれかひとつの意味でシムノンの小説群を表すのは適当ではない。おそらくシムノンがこの言葉で示そうとしたのは、人生の不穏な側面を、はばかることなく断固としたかたちで映し出した小説だということだったのではないか。これは彼の造語なのだから、そのままフランス語として用いるのがいちばん賢い方策だと思われる。芸術鑑賞の現場ではそのような先例がいくつもある(「フィルム・ノワール」「アール・ヌーヴォー」「モンタージュ」など)。(瀬名の試訳)

―――と、著者のデイヴィッド・カーター氏はそのまま「ロマン・デュール」と呼ぶことを提唱していたわけだ。

 本作の舞台はアルザスの高原地帯、戦前にはフランス領とドイツ領の境であったという“シュルシュト”La Schluchtだ。大峡谷という意味である(創元訳では“シューリヒト”と表記)。コル・ド・ラ・シュルシュト(大峡谷峠)という場所が実在するので、このあたりかもしれない。
 この山峡の宿場はごく小さく、十字路に商店が1軒、そして《グラン・ホテル》《峠ホテル》《アルザス亭》と大小あわせて3軒の宿がある。ケラー夫妻が経営する《アルザス亭》はこのなかでいちばん庶民的で、長距離輸送のトラック運転手などが宿泊するような宿だ。
 セルジュ・モローと名乗る謎めいた人物が、この《アルザス亭》に5ヵ月も逗留している。ふだんは付近を散歩するばかりで、何のためにいるのかもわからず、しかも宿賃を滞納している。ケラー夫人がたまりかねて催促をしたところ、翌日にようやく大金を持ってきて支払った。だがちょうどその折り、《グラン・ホテル》の客室で盗難事件が起こり、モロー氏が疑われることになる。パリの総合情報局 Renseignements généraux からラベ警視 commissaire も到着して調査がおこなわれる。セルジュ氏は国際的な詐欺師ル・コモドールと同一人物なのではないか。しかし事件の全体像は曖昧模糊として、彼の正体も判然としない。
 本名時代初期のシムノンの特徴が出ていて興味深い。中盤までセルジュ氏と他の逗留客とのぼんやりとした会話劇が続く。銀行頭取一族の妻が、あなたは昔別の名前だったでしょうなどと話してきたり、療養している美少女やその母親とセルジュ氏が妙に捻れた愛情を含んだ会話を交わしたり、と、どこに物語の焦点があるのかさえよくわからない不穏なシーンが積み重なってゆく。セルジュ氏も自分のことをはっきり主張しないので、読んでいるこちらも彼を信用していいものかどうかわからない。
 宿代を払ったそのときに盗難事件があった、というほんのちょっとしたきっかけで、それまで何ということはなかったセルジュ氏の生活の歯車が、ゆっくりと軋んで壊れてゆくのである。この厭な閉塞感と圧迫感はまさにシムノンならではのものだが、私たちの実生活でもよくあることで、いったんこうなると嫌疑を晴らして事態から脱出するのが本当に難しいことは私たちもよく知っているから、身につまされる。
 作中にペンネーム時代の人物の名前が散見される。当時のシムノンは同じ名前を別の作品に流用することがあった。銀行頭取一族の妻「ヌウチ」は『13の被告』(連載第30回)第5話、詐欺師「ル・コモドール」の名は『悪魔との婚約者』(連載第31回)に出てきた。しかしペンネーム時代にはなかったシムノンの筆力が、物語の後半から読者を一気に惹き込んでゆく。
 夜半にセルジュ氏が宿を抜け出すのでラベ警視が追う。そこでセルジュ氏は宿場の関係者数名が集まっている現場をとらえて、盗難事件の真実をラベ警視に見せる。だがその翌朝、セルジュ氏は宿場の若いメイドとふたりで行方を眩ましてしまうのである。盗難事件の嫌疑は晴らしても、自分が詐欺師ル・コモドールだという疑惑を晴らすことができない彼は逃亡してしまうのだ。彼は現実の過酷さから逃げる。運命に抗えず逃走する。
 本連載では「シムノン進行」ともいうべきシムノン独特のストーリー構造について解説してきた。シムノンの主人公たちは守勢から攻勢に転じることができない。ここでも同じなのだ。しかしそう思いながら読み進めていって、その後の展開になるほどと膝を打った。
 主人公であるセルジュ氏の運命の底が抜ける。彼は物語の表舞台から去る。その後どうなるのか。舞台に残された人々の動きが描かれるのである。誰かの運命の底が抜けたとき、その影響は他の登場人物たちに及ぶ。それもまた彼らの人生、運命なのだ。
 宿の経営者夫妻は途方に暮れる。残された人々の胸中にそれぞれの想いが燻る。セルジュ氏と共に消えたメイドには妹がおり(創元訳では姉となっているが、雰囲気としてはたぶん妹?)、彼女は悲嘆に暮れる。ラベ警視は各国の警察と連絡を取り、セルジュ氏の行方を追うとともに、ル・コモドールの所在も探る。セルジュ氏とル・コモドールは本当に同一人物なのか、彼は確かめる必要があるのだ。そしてセルジュ氏がなぜこのアルザスに長期逗留していたのか、彼の過去を探ってその意味を突き止めないといけない。つまり主人公の運命の底が抜けても、残されたその舞台にはまだドラマがある。
 そしてここから終盤へ向けて、痛快ともいえるような、あっといわせる展開がある。最後まで読んで、これはメグレシリーズ第1作『怪盗レトン』の裏返しなのだと気づいた。物語の焦点となるひとりの男は、はたして国際的な犯罪者と同一人物なのか。『怪盗レトン』でもこのことが描かれていたが、本作では捜査するメグレの側ではなくレトンの側から物語が語られているわけだ。シムノンが本名名義で初めて世に打って出たのがメグレ第1作の『怪盗レトン』だったわけだが、ここでもシムノンは初めてメグレシリーズ以外の単発作品を世に問うにあたって、同じ野心で物語をつくり上げたのだ。
 最後の主人公と警視との対面シーンは、メグレシリーズでは書き得ない緊迫感と爽快感がある。主人公は運命に翻弄されたが、しかしラベ警視という相手に対してはカウンターパンチを放つのだ。そして物語の冒頭部分に登場したパッカードの自動車の描写と円環構造を成して、物語は終わる。一般受けするストーリー構造を取り入れながら、シムノンはちゃんと自分の節回しを効かせている。一般小説とジャンル小説の書きぶりがダイナミックに組み合わさっている。本作がロマン・デュールの第1作であるのには、かなりちゃんとした意味があるのだ。
 物語の後半には何気ないが印象的な描写がところどころに出てくる。

草原では、どこかの家族がみんないっしょに集まって、それがケーキを食べていた。そして、子どもたちのうちのひとりが、うれしそうに木の枝に乗っかっていた。(原千代海訳)

うっとうしい夜明けである。空がどんより曇っている。そして、むら(傍点)になった霧が谷から逆に上っていた。土地の連中がアルザスの煙と称するあの霧だ。(同)

 うまいなあと思う。ペンネーム時代に比べると、本当にシムノンの腕が上がっていることがわかる。わずか数年でここまで書いてくれるようになるのだから、今後読んでゆくロマン・デュール作品が楽しみだ。

 さあ、この原稿を書き終えたら、今夜はメグレも飲んでいたペルノーでひとり乾杯したい。『アルザスの宿』の回まで辿り着いたら飲もうと思って、ずっと前に買ってとっておいたのだ。
 これでオムニビュス社のシムノン全集の第16巻収録作品をすべて読み終えた。このシムノン全集は刊行順の収録構成だが、ファイヤール社時代の第1期作品は第1巻ではなく第16巻から始まっており、『死んだギャレ氏』から『アルザスの宿』まで最初の10作が収められている。
この連載が始まって2年半以上。全27冊の全集のうち、今日ようやく最初の1冊を読破したのだ。
 第16巻、攻略完了。
 ずっとこの一言を書いてみたかったよ。

【註1】
 オムニビュス社の『Les Romans durs[ロマン・デュール集]全12冊(2012-2013)は、シムノンの硬質長編小説(ロマン・デュール)だけを刊行順にまとめたもの。各作品の執筆場所と執筆時期、初刷の奥付年月、さらに映画だけでなくTVドラマまで含めた映像化情報など、有益な情報がしっかりと記載されている。

瀬名 秀明(せな ひであき)
1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。







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