往年の日曜洋画劇場のプロデューサーが書いていたエッセイに、映画『白い恋人たち』(1968/グルノーブル冬季オリンピック記録映画) を放映するベストシーズンは? という問いかけがあった。答えは冬、ではなく夏。暑い夏にこそ、冬の映画で涼しさを届けるのが正解というわけだ。
 しかし、今回、最初に取り上げるのは、灼熱の世界。全国的にはまだ厳しい残暑が続く中、ショック療法ということでお赦しを。 


 『天国の南』(1967) は、短編集『この世界、そして花火』以来、久しぶりのジム・トンプスンの翻訳だ。本書を第一弾として同じ版元からトンプスンの刊行予定があるらしく、未訳作の紹介が続いてほしいと切に思う。
 しかし、この小説、これまで紹介されたトンプスンのノワールとは、手触りが違う。狂気と黒いユーモアを噴出させていた3年前の『ポップ1280』後の作品とは思えない一種の成長小説であり、不可避的にボーイ・ミーツ・ガール小説でもあるのだ。
 舞台は、1920年代のテキサスの西端の荒野、石油のパイプライン敷設現場。冒頭で引用されるバラッドのように「太陽が内臓を焦がすところ」。現場に仕事を求めて集う600人の男たちは、前科者、浮浪者、放浪者、半分はアルコール中毒だ。
 主人公で語り手のトム(トミー)・バーウェルは、21歳。語り手が40年前を回想する形式だ。トミーは成績優秀な生徒だったが、16歳のとき、育ての親代わりの祖父母がダイナマイト事故で爆死。以来学校をやめ、最近では、兄貴分フォア・トレイと労働現場を回り、ギャンブラーとして糊口をしのいでいる。アルコール中毒で入院もしたが、詩を書いてもいる。フォア・トレイには、稼業をやめて大学に行けといわれている。
 作家自身も、高校卒業後、パイプラインの現場で働き、現場労働者の小品ポートレイト「油田の風景」を残しており、本書には作家の自伝的要素がたちこめている。(この小品で、トンプスンの力量を認めた編集者は若き作家に大学への進学を勧めたという)

 トミーが少女キャロルに出会うシーンは、鮮烈だ。
 トミーは、トラックの後輪のパンクを直そうとしている少年の尻を爪先でつつく。

 それは少年ではなかった。女の子だった。
 そして、彼女はかんかんに怒っていた! そして彼女はすごくきれいだった! そして、彼女はすごく魅力的な体つきをしていた!

 娼婦かもしれない彼女と離れがたい関係になり、現場で働くうちに、トミーは保安官助手の殺人犯人として検挙されてしまう。
 この後、ストーリーは、曲折していくが、並行して描かれる過酷な労働の現場は地獄絵さながら。ダイナと愛称で呼ばれるダイナマイトによる命がけの掘削作業、扱えば靴底から目玉までが震動する掘削機ジャックハンマー。太陽が磁石のように体中の汗を絞りとる。ときに、作業中の事故で死んだ労働者は、その場で埋められる。

 キャロルとは何者なのか、真の殺人犯は誰なのか、フォア・トレイの不審な行動の意味は、建設現場で進行しているらしい犯罪計画とは、という数々の謎をはらみながら、物語は進行する。後半で明らかになる犯罪計画については詳しいことは避けるが、トンプスンの経歴に照らせば、ある種の再話にも似て興味深いものだ。
 キャロルを救うために、計画の弱点を指摘したトミーに対し、犯人側が用意した答も意外極まるもので、その後の労働者たちの暴動的乱痴気騒ぎともども、ひりひりするような印象的なシーンが続き、物語はやがてトミーが命がけの勝負に出るクライマックスになだれ込む。
「おれたちは、天国のほんのちょっと南にいる」とフォア・トレイはいう。
 苛酷極まりない労働現場と安すぎる命、剥き出しの欲望と暴力の交差を描きながら、それでも本書には、清澄の気配すら漂っている。真上の天国からちょっとずれたところにいる男たちが胸焦がす希求の物語には、ひたひたと満ちてくるような静かな余韻がある。


「退屈派」などとありがたくない”称号”を頂戴しているジョン・ロードだが、2年前の『ラリーレースの惨劇』に続き、この度刊行された『代診医の死』(1951) は予想をはるかに上回るホームラン級のできばえ。
英国の田舎町、町医者が長期休暇のために、ロンドンから若い代診医を雇う。代診医は勤務二日目の夜、自転車で往診の途中に失踪し、まもなく近郊の森林で死体が発見される。死体は、殴殺の上、自動車火災で焼かれていた。
 なぜ、それまで縁もゆかりもなかった土地で代診医は殺されなければならなかったのか。捜査に当たるスコットランドヤード警視ワグホーン(ジミー)は例によってプリーストーリー博士の洞察に期待する。
 第四章までは、じっくりと腰を落とした、地味な立ち上がり。代診医を雇う町医者の暮らし、町医者の職務を継いだ代診医の精励ぶりや田舎町の雰囲気がよく出ている。
 警視の捜査により、事件当夜、問題の自動車の所有者らしい不審な男の行動が浮上する。男は、何らかの形で事件に関わっているようなのだが、代診医殺しと男の行動は調査を進めても、クロスしそうでしない。その隔靴掻痒の感は読者を多少ともイライラさせるのだが、それまで眠っていたようなプリーストーリー博士の推理が一閃するやいなや、そのイライラは快哉に変わる。これこれ。これぞ謎解きのセンスオブワンダー、推理のカリスマ。
 人物が平板すぎることや、プロット上の傷がないわけではない。
 しかし、本書が素晴しいのは、かなり複雑なタイムテーブルやこみいったアイデアを詰めたプロットにもかかわらず、博士のごく短い指摘(たった二行!) で、もつれあった糸がすっとほどけ、たちどころに、事件の全容が眼前に立ち上がってくることだ。
 読みなれた読者であれば、博士の指摘に虚を突かれ狼狽しつつ、真相は本格ミステリ特有のいくつものアイデアを絡めたものであることに、気づくだろう。それらのアイデアが実に緊密に結びつけられていることにも膝を打つことになる。このように、たった数行で、驚き→得心→感嘆というプロセスが一挙にもたらされる、というのは謎解きミステリにおいても、かなり稀有なことだ。
 それを可能にしているのは、事件の謎についての徹底したディスカッションだ。『ハーレー街の死』などにみられるがごとく、博士を取り巻くいつものメンバーの間で、様々な可能性が論じられ、検証され、廃棄される。事件は複雑だが、博士の推理の前には、真相にたどり着く地ならしは行き届いているわけで、一見、迂遠のようなディスカッションが推理における跳躍を可能とするジャンピングボードになっているのだ。
 だから、終幕、事件の全貌を説き起こす博士の推理は、白熱した試合の感想戦のような楽しい旅になる。パズルのピースが一つずつ事件の構図に収まっていく快感、それを可能にした作者のミスディレクションの巧妙さに、読者は二度目の舌鼓を打つことだろう。


『宝島』『ジキルとハイド』などで知られる文豪スティーヴンスンがその継子ロイド・オズボーンと書いた作品は『箱ちがい』『難破船』が紹介されているが、前者はファース味が濃く、後者は雄大で今様グローバリゼーション風味もある冒険小説で、いずれも多面的に愉しめる物語だった。『引き潮』(1894) は、親子合作の三作目で最後の作。全二作同様、愉しめることは請け合いだが、前二作とは、また、風合いの異なる小説だ。
 南太平洋タヒチの浜辺で身を寄せあっている三人の食いつめた白人男。英国出身の大学出のヘリック、元船長の米国人デイヴィス、ロンドン下町育ちのヒュイッシュ。どん底の状況にいる彼らだったが、天然痘の発生で欠員が出た船に乗り込むことで、転機が訪れる。三人は船を乗っ取り南米に逃げることを計画するが、嵐に遭遇して計画には暗雲が漂ってくる。
 舞台が南国の美しさに満ちているとはいえ、爽やか一辺倒の話ではない。むしろ、犯罪(悪徳)を媒介に、人間のもつ善性や悪意との間で右往左往する男たちの葛藤が身近に迫ってくる、南洋ノワールでもいいたいような作品だ。
 主人公格は、ヘリック。名門オックスフォード大出身で、ラテン語のウェルギリウスの詩集を手放さないインテリ。父親の会社の倒産によりニューヨークにわたり事務員として就職するが、どこでも使いものにならず、衝動的にタヒチにわたる。今では、ときに物乞いをするまでに落ちぶれている。
 船の乗っ取り計画を聴かされたヘリックは「悪事に手を染めるくらいなら死にたい」というが、元船長のデイヴィスの長広告についに落城する。三人を単純に善悪でグラデーションすれば、ヘリック-デイヴィス-ヒュイッシュの順となろうが、この道義心の違いが「三重奏」と題された第一部の不協和音となり、物語を駆動させる。
 謎の島に到着する第二部「四重奏」では、善悪両義的な人物アトウォーターの登場で、四人の善悪がさらに相対化される。船の強奪を上回る悪事を前にして、第一部のヘリック-デイヴィスの関係がデイヴィス-ヒュイッシュの間で繰り返される。人間としての渇望と道義心の問題。題名は、人の心の中に悪意が潮のように満ち、また、引いていくことを含意しているのだろうか。
 この小説のもつ重い部分に少々こだわりすぎたかもしれない。作品には、ストーリーを予期できない冒険小説の面白さ、生気に溢れた大自然や航海の描写、ウィットの効いたエピソードや細部にも満ちている。クライマックスでの南海の決闘には、そのヴィジュアル面も含め魅了される。暑い部屋の中で、空想の翼を広げるのにはうってつけだ。

 ファントマ!! 「それは何のことかしら?」「何も……しかしすべてを意味します!」
「結局、そやつはいったい何をするというのです?」「人々を恐怖に陥れるのですよ!!!」(本書冒頭より)

 20世紀初頭のパリに跳梁した犯罪の天才ファントマ。燕尾服にドミノマスク。誰にでも変装し、真の顔をもたない怪人。二人のジャーナリストによって創造され、フランス大衆のみならず、シュールレアリストたちをも熱狂させた、ファントマシリーズの第一作が刊行された。シリーズは、戦前から邦訳があり、70年代にはハヤカワ文庫からシリーズ3作が刊行されているが、それも原典の6割程度の抄訳という。1911年刊行本の全訳は初めてであり、さきに『ファントマ―悪党的想像力』という浩瀚な研究書を上梓している赤塚敬子氏の訳となれば、満を持しての完訳版の登場といえるだろう。『ファントマ』完全版は、二段組み400頁超えの大冊の相貌を今、現した。
 フランス中南部の田舎町の屋敷で、ファントマのことが話題になった深夜、屋敷の女主人ラングリュヌ侯爵夫人が惨殺される。犯人が外部から屋敷に出入りした形跡はなく、滞在していた青年が犯人として疑われるが、青年は父親とともに姿を消してしまう。
 これが第一の事件、続いて、パリから謎の失踪を遂げていたベンサム卿の死体発見、さらにロシア貴族夫人からの大胆な宝石強奪事件と三つの怪異な事件が続発する。これら事件の捜査に当たるのはジューヴ警部だが、ファントマ最大の好敵手ジューヴはすべての事件にファントマが関わっていると確信する。
 ファントマは、最後の方までファントマとして姿を見せることはない。(宝石強奪事件では「ファントマ」の署名を残すが、押し入った男がファントマかどうかの確証はない) 登場人物の誰かに扮装しているかもしれないが、それは誰にも分からない。ファントマは存在自体が見えないが、物語を支配する暗黒の力なのだ。
 いきおい物語は、ジューヴ警部の必死の捜査が中心になるが、場面の切り替えが多く、意外な展開を見せたところで、すぐ別なシーンに飛び、読者にじれったい思いをさせることも少なくない。これが大衆小説のテクニックというやつか。速筆ゆえの行き当たりばったりのようなところ、冗長と感じる部分もあるが、三つの事件の関わりはわりとよく考えられており、第一の事件の犯人は見当がついても、事件の全貌を言い当てるのは困難だろう。意外な人物が後の事件で顔を出す展開は、物語に一層の興味を添えており、第一の事件の点景的人物のような陽気な浮浪者ブジーユが最後まで物語に関わるのは嬉しくなってしまう。
 そして、終局。一見無関係なエピソードが物語られ、次第にファントマの意図が明らかになるにつれて、その悪魔的なたくらみには体温が下がる思いがする。その残酷さは、ギロチンによる死刑見物に押し寄せる群衆というパリの暗部によく照応している。
 貴族と労働者が、タクシーと馬車が、科学と神秘が、犯罪と社会政策が混交したベル・エポック最後の時代、本書を皮切りに、犯罪の天才の哄笑がパリに鳴り響き、その悪の形象は、後の時代に様々に影響を与えていくことになる。


『夜間病棟』は、最近では、昨年刊行の『嵐の館』ではサスペンスと謎解きの巧妙なブレンドでその実力をみせつけたミニオン・G・エバハートの処女長編。紹介時期から、1940年代の作家というイメージが強いが、本書は、クイーン『ローマ帽子の謎』の刊行と同年1929年の作。彼女は意外に古くから米国ミステリの主要プレイヤーだったのだ。
 同時に、本書は、作家の主要キャラクターである看護婦サラ・キートとランス・オリアリー警部が活躍する第一作であり、このシリーズは1954年までに七作が刊行されている。
 M.R.ラインハート流のミステリ(もし知っていたら派)の流れを汲む、といえば主人公で語り手は若くてキュートな看護婦が想像されるが、意外なことに、サラは古い言葉でいえば、オールド・ミスの婦長。「高過ぎる鼻をもち、肥満気味」で「美しくもなく、美しかったこともない」。このキャラクター設定がユニークなところであり、若い看護婦を束ね、仕事にも監督者としての責任をもつ立場であり、これまた古い言葉でいえば、職業婦人ミステリとなっているところが、先見の明だったといえる。
 舞台は、歴史と伝統のある病院。18号室の患者が雷雨の夜に殺される。病室からは患者の治療に使われていた極めて高価な物質ラジウムが奪われており、その主治医も行方不明になっていた。ラジウムがあることは病院の限られた関係者が知っているのみ、犯人は病院関係者なのか。サラは、責任感から事件解決に興味を寄せていく。
 澄み切ったグレーの瞳の持主、オリアリー警部は感じがいいが、この第一長編では有能さ以外の個性ははっきり伝わってこない。
 事件は、ほぼ病院とその周辺だけで進行していく。長く暗い廊下にドアがぽっかりと黒い口を開けた夜の病院。忌まわしいものが徘徊するようなゴシックサスペンス風の舞台として病院を設定したのは作者の手柄で、初期の病院ミステリという位置づけもできる。
 次々と殺人事件を発生させ読者の興味を途切れさせず、サスペンスを盛り、犯人を最後まで隠しおおせているのは後のMWAグランドマスターありと思わせるし、原題(直訳は『18号室の患者』)どおり、18号室に始まり18号室で終わるという一貫性にこだわったプロットは、作者の意気込みを感じさせもする。サラの実直で細やかな心遣いをする人柄には好感がもてる。
 ただ、一方で、容疑者たちの行動に偶然が多用され、いたずらに複雑にしてしまった感は否めない。二重底の解決も、謎解き興味の面からみると手がかりが薄く、力強さに欠ける。ユニークな設定と併せてみて、処女作としては及第点は超えているといったところだろうか。
 なお、作中である登場人物に対するサラ(作者)の人種的偏見は、さすがに今日読むとつらい部分があるということを付け加えておく。


 約50年ぶりの新訳。『魔女を焼き殺せ!』(原題Burn,Witch,Burn!) とは、強烈なタイトルだが、この時代(1932)によくぞと思わせる、魔術的なイメージとドライブ感に満ちた長編ホラーだ。作者A.メリット『蜃気楼の戦士』など主にファンタジーで知られる作家。不可解な連続殺人を振出しとする物語はミステリファンも惹きつけるだろう。
 幕開けはギャングの一員が病院に運ばれてくるところから。男の顔には恐怖の色が浮かんでいたが、悪魔の喜びめいた表情に変わっていく。外傷は一つも見当たらず健康そのものだが、彼の白血球には科学的に説明できない燐光が輝く。まもなく彼の心臓は停止するが、死者は悪魔のような耳障りな忍び笑いをもらす…。医師ローウェルは、この不可解な死と似た症例がないかNY中の医師に問い合わせると、ここ半年で、七人もの人間が同様に死んでいることが判明する。
 後のモダンホラーやパニックSFを思わせるゾクゾクするような導入である。相互に無関係な八人の死に共通の原因があるのではないかとローウェル医師は考えるが、ギャングの死に立ち会った看護婦がやはり不可解な死を遂げ、さらにギャングの首領も車中で襲撃される。同乗の男は、人形が首領を襲撃し、車から逃走したと医師に告げる……
 この後も、ローウェル医師周辺で怪事が矢継ぎばやに起こるのだが、本書の現代性には、このテンポの良さとともに、一種のゲーム性があると思う。
 まず、一連の事件の中心にいる、邪悪さが凝集したような「魔女」の存在感が際立っており、これとの争闘という軸がはっきりしている。医師とのチームプレイで臨むのが警察などではなく、ギャングの首領はじめ、裏社会の面々というのが、また面白い趣向。さらに、ローウェル医師が「超自然などありえない。なんであれ存在するのであれば、自然の法則に従っていなければならない」という合理主義者で、本書はホラーでありながら、物語の進行とともに、ゲームの規則を探っていく小説でもある。もっとも、この小説には、この科学者としての自尊心が事態の悪化を招く側面も描かれているが。
 ファンタジーに秀でていた作者らしく、医師の見るシュールな夢とそれに続く悪夢のような襲撃の場面を白眉に、各所に鏤められた幻想的で破壊力のある描写が本書の興趣を一段と増している。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita













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