早川書房の翻訳ミステリ編集部にとっての年明けの一大イベント。それが、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞(通称エドガー賞)の候補作の発表です。最優秀長篇賞、最優秀新人賞、最優秀短篇賞、などなど、いくつかの部門の候補作が一月下旬に発表されるのです。
 発表された候補作のリストをじっくり眺めながら、翻訳ミステリ編集部の編集者たちは話し合います――これはシリーズものの途中だって。この作家はこういうテイストだったなあ。これは新境地らしい。アメリカでは好評だけど日本の読者にはどうだろう?
 去年の一月も、我々はリストをためつすがめつしていました。お、この作家は名前がベトナム系だ。タイトルはシンプルでいいね。どうもベトナム戦争がテーマらしい、少し厳しいかな? でもスパイが出てくる、しかもベトナム戦争の後の話らしい。面白そう! これはいけるのでは? しかも冒頭がめちゃくちゃかっこいい、エリオットだ! よし、これは前向きに検討しよう。――そんなふうに会議の時点から盛り上がったのがこの、ヴィエト・タン・ウェン、上岡伸雄訳で八月二十四日に発売となりました『シンパサイザー』です。
(しかし、オファーしているあいだに四月が来てしまい、MWA賞最優秀新人賞を受賞し、なんとピュリッツァー賞も受賞し、もともと書評では絶賛だったのにさらにどんどん上がる評価と売上、どんどん増えるレビュー数に著者のメディア露出、もう版権を取れないかと一時は悲観していました。取得の連絡が来たときは本当に嬉しかった……)

 私はスパイです。将来の特命に備えた冬眠中の諜報員(スリーパー)であり、秘密工作員(スプーク)。二つの顔を持つ男。まあ、驚くことでもないと思いますが、二つの精神を持つ男でもあります――こんな語りかけで始まる本作の語り手は、フランス人神父とベトナム人メイドのあいだに生まれた、南ベトナムの将軍の片腕である青年です。
 アメリカ文化に精通し、CIA局員にかわいがられている彼は、実は共産主義を信奉する北ベトナムのスパイ。北ベトナムのサイゴン進攻にともない、将軍一家とアメリカ西海岸に逃れた彼は、異国の地で生活を立て直そうとするベトナム人難民たちのあいだで将軍の命を受けて暗躍し、かつ、北ベトナムのスパイハンドラーの指示のもと諜報活動を行います。
 しかし、スパイとして活動しながらも、彼はさまざまな信条や感情に翻弄され、さらには、高校で友情を誓い合い義兄弟の契りを結んだ親友であるスパイハンドラー、同じく義兄弟である共産主義を憎む南ベトナムの軍人、そのふたりのあいだでも煩悶する――さまざまな葛藤の末に彼を待っていたのは。

 饒舌に語られるスパイの人生、作中を常に支配する緊張感と黒いユーモア、生々しく描かれる悲哀。言い尽くせないほどの熱に満ちた作品です。単行本と文庫(上下巻)の同時発売、読みやすいほうをぜひお手に取っていただけますと幸いです。
(早川書房編集部K・N)

本作の訳者あとがきを早川書房公式noteにて特別公開しております。https://note.mu/hayakawashobo01/n/n7990cb3fa440
(9月19日追記)