みなさんこんばんは。第4回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。

 今年は『マグニフィセント・セブン』が一部で熱狂的なファンを獲得し、現代に西部劇ジャンルをどのように撮るべきか、という点のさまざまな意見も含めて注目が集まったのではないでしょうか。とはいえ、近年に西部劇が全く作られていなかったかというとそういうこともなく、アメリカ映画を好んで見ていると、広義の西部劇は「荒野劇」という変則的なアレンジが多いながらも、定期的に時代の気分を反映して作られているように感じます。

 というわけで、今回は大変魅力的な荒野のミステリアス・シネマを。陰惨な暴力沙汰や殺人事件、人間関係にまつわる謎めいた要素が物語を牽引していく「現代の西部劇」の一作『トマホーク ガンマンVS食人族』です。これ、劇場未公開のうえ邦題が邦題なので、ゴア描写や派手なアクションを求められると分が悪いのですが、静謐にミステリアスに「人間というもの」を荒野に描くドラマとしては超一級の出来栄えなのです。


■『トマホーク ガンマンVS食人族』BONE TOMAHAWK [2015.米]

あらすじ:1890年代アメリカ。無法者の殺人強盗たちが足を踏み入れた骨が祀られた奇妙な場所で謎の部族に襲われる。追われた男が流れ着いたのは田舎町ブライトホープだった。カウボーイたちの多くが放牧中で土地を離れており、閑散としたその町で、男がやってきてまもなく、複数の住人が消え、納屋では八つ裂きにされた遺体が見つかる。やがて保安官のハントたちは流れ者を追ってきた恐ろしい食人族の存在を知り、人々は彼らに連れ去られたのだと知ることになる。4人の男たちは人里離れた山道の足跡をたどり、彼らの救出に向かうが…… 132分。

 開拓に伴う陰惨な事件の色が濃い荒野で、それでもなおと生きる者たちが「町から攫われた〈人〉を〈人ならざるものたち〉から奪還する」戦いを描いた、静かに力強い作品です。脚本・監督・音楽(!)を手掛けているS・クレイグ・ザラーの名は昨年日本でも『ノース・ガンソン・ストリートの虐殺』が刊行されたので作家としてご存じの方もいらっしゃることでしょう。西部で生きることの厳しさや惨さと向き合いながら「人を人たらしめるもの(Civilization)」についての話を緊張感を切らさず抑えに抑えた演出できっちりやりきっている今作が初監督作。実に渋く、そして美しい映画を作り上げたものです。

 さて、今作で流れ者が招いた災厄、人ならざるものとの闘い……というのは実はクライマックスまで前景化しません。この映画の中心になるのは〈未踏の地への旅〉。そしてその旅の目的は救助にある、だから我々の中にある危険因子は最大限まで除く、個々の選択は尊重するが「救うこと」という目的を見失うべからず、それはリーダーの保安官の役割である、というロジックが徹底されるのです。恐ろしく地味な旅描写ながら、それゆえに見事に浮かび上がる厳しさ。

 酒場の暗闇、馬を走らせる4人の並び、崖の上からの「墓場」の眺め、破壊されてしまえばそれまでの人間解体(かなり恐ろしい身体破壊描写はいくつかあるのですが、その置き方には驚くほど無駄なところがなく、凄まじい残虐描写が短い時間で最大限の効果をあげています)、と忘れがたい「画」の力も素晴らしい。

 ストーリーやシーンを語ればシビアで殺伐としているのですが、それでいて映画内にはどこか優しい不思議なユーモアもあるのが面白いところです。カウボーイが妻に「声に出して読んで」とせがまれる詩のようなラブレター。「風呂で本を読むにはどうしたら?」「譜面台を買うがいいよ」という緊張感に欠ける会話。のっぴきならない状況下での「ノミのサーカス」の想い出話。痛みと血に描写に溢れた映画にもかかわらず「語ること/読むこと(物語)」にまつわるシーンに現れる優しさ、可笑しさにはある意味での「物語についての物語」といった趣もあります。そういえば重要な要素のひとつとして〈信仰〉も出てくるのですが(焚火のシーンと十字架の使い方には宗教画的な美意識も感じられます)共有されうる最大の「物語」として存在しうるものとしての信仰、という意味あいもあるのかもしれません。物語によって生かされる「人間」たち。

 倫理的論理的スペック的に異なる追跡者たち、4人の男の描写も味があります。一人も男稼業者の典型としての乱暴さを描かれてないのが印象的。カート・ラッセル演じる老獪な保安官は問題が起きれば迷わず人を撃ち、残酷なほど現実的に判断し続ける一方で、病身な妻が作る食事に「朝飯は俺が作るっていったのに」と優しく声をかけ、年老いてヨロヨロで何かとズレ気味のとぼけた副保安官(リチャード・ジェンキンス)を気遣う男。激情と満身創痍を一手に引き受けるカウボーイ(パトリック・ウィルソン)は骨折中で思うように動けずくすぶっているけれど、医者である妻への敬意と愛には一点の曇りもなく、心身共に限界まで追い詰められながらもただその想いの強さから歩みを止めない。かつて「インディアン殺し」が生業で女子供も虐殺してきた男(マシュー・フォックス)でさえ場末の町には不釣り合いな白いスーツのダンディで、タフさよりも弱さを感じさせる。また、唯一の「人間の女性」キャラクター、サマンサ(リリー・シモンズ)は知と理性を象徴し、この映画のテーマそのものといえるような台詞を担う魅力的な存在です。こういったバランス感覚も「現代の西部劇」性を感じられるものなのではないでしょうか。

「人を突き動かすのは感情だが、人が生きるために大切なのは現実を見据えて選択する理性であり文明であり、明日からも生き続けるため我々は常に論理的に思考するよりない」という意志に貫かれた地獄の旅路が銃弾と血と内臓と土埃の中に詩情として描き出されていく、その果てでどんなことが起きるのかは、是非御覧になって確かめていただきたいと思います。

■よろしければ、こちらも1/『最後の追跡』hell or high water


https://www.netflix.com/title/80108616

 荒野映画としてもう1作(劇場未公開、Netflix配信のみ)。こちらは現代を舞台にした銀行強盗兄弟と彼らを追うテキサスレンジャーの攻防戦を通じて強盗の背景にあるのは何かをじっくりと明かしていく、「テキサスという国」の物語です。彼らの世界においては土地とは奪うか奪われるかであり、奪われれば取り返さねばならぬものであり、銃を持つ手がルールを決める。ルールはただ一つ〈自分のものは自分で守る〉、そしてそれは息子たちへ受け継がれる「男という呪い」でもある。原題は hell or high water、「地獄だろうが洪水だろうが」=どんなことがあろうとも、そのルールを守ることしか生きる術はない。削岩機の音や車の処理の豪胆さ、さびれた街の風景、砂塵と食堂の婆さんとモーテル、ブラザーフッドに銃撃戦。これぞ荒野の犯罪劇。

■よろしければ、こちらも2/『サンセット・ヒート』ジョー・R・ランズデール


 荒れ果てた場所で事件を追う治安官ものとして、タフで一筋縄ではいかないランズデールのミステリを。1930年代、ハリケーンの夜に暴力夫を撃ち殺しほとんど裸で泥地のなかに飛び出し、なりゆきから地域の治安官に任命される燃えるような赤毛のヒロインがティーンの娘と夫の母(!)、協力してくれる男たちと共に悪に立ち向かう、血と土とセックスと暴力とイナゴにまみれた「女性小説」というだけでも痛快なものだけれど、単に痛快な展開にはいかないことがより痛快!ただ快哉を叫べるような余韻ではなく、しかしその「善悪」を飛び越えた先にヒューマニズムを感じさせる、大好きな小説です。

 保安官、農場、酒場、砂埃、銃、アウトロー……お約束のアイコンを使いながらも「現代に荒野の物語を描く意味」が意識され、根本にON YOUR OWNの心意気が力強く打ち出される作品群に出会うたび、やはりこの荒れ地を行く者たちというイメージにはアメリカの原風景として郷愁だけではない魂のありようを示す重要なものが存在しているように思えます。おそらくこれからも、表現の手法を変えながらもこの題材はずっと描かれ続けていくのでしょう。なんてことを考えながら、それでは、今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。

今野芙実(こんの ふみ)
 webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。
 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。


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