——虚無を抱えて歩く男の行き着く先は……?

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

 

畠山:ああああ安室ちゃん引退~~?? いやぁビックリしました。押しも押されもせぬトップスターが40歳でスパッと引退。まだまだこれからじゃん~~と思わないでもないけれど、そこはそれ、ひとつの道をきわめた人にしかわからない美学ってのがあるんしょうね。かっちょええわ~~。
そう、美学! 美学です! 杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取りあげる「必読!ミステリー塾」。今回のお題は、男の美学かくあれかし、かっちょええ男たちを描いたら天下一、ジャック・ヒギンズの『死にゆく者への祈り』。1973年の作品です。

マーティン・ファロンはIRAで活動していたが、誤って子供たちが乗ったスクールバスを爆破してしまったことがきっかけで、組織を抜ける。今や警察からも組織からも追われるお尋ね者だ。逃亡用のパスポートと旅券を手に入れるために請け負った殺人の現場を神父ダコスタに目撃されたことに端を発し、ファロンは裏社会のボス、ジャック・ミーアンに狙われることになってしまった。魔の手は神父とその姪で盲目の娘アンナにも伸びる。この抗争の決着やいかに。 

 ジャック・ヒギンズは1929年生まれですが生地は明らかになっていません。幼少時代をベルファストで過ごしたのは間違いなさそう。15歳でロンドンに移り、さまざまな職を経た後、30代半ばから専業作家となります。
 いくつものペンネームで活動していましたが、ヒット作『鷲は舞い降りた』以降はジャック・ヒギンズ名義が多くなり、日本では別名義の作品も「ジャック・ヒギンズ」として出版されています。
『死にゆく者への祈り』の主人公の名前「マーティン・ファロン」も彼が使っていたペンネームの一つです。

 私が既読のヒギンズ作品は『鷲は舞い降りた』『脱出航路』の2作。どちらも第二次世界大戦を背景にした最高のエンターテイメントで、シビれるほどかっこいい佇まいの男たちに萌えまくりの鼻血噴きまくりでしたわよ、奥様お嬢様。
 知名度からして代表作は『鷲は舞い降りた』だと思っていたのですが、ヒギンズ自身もお気に入りは? と問われて『死にゆく者への祈り』を挙げたとか。うわー! あの2作を上回るなんてどんだけ壮大なお話なのよ、とドキドキしながらページを開いたら、これがまぁ驚くほど地味!
『鷲~』や『脱出航路』は大空や大海原を舞台にしていたのに、この元IRAの闘士がいる場所は、古ぼけた教会と墓地およびその周辺(笑)
 こんなに地味な展開でいいんだろうか、と変な心配をしながら読み進めたらば、ちょっとアナタ、ええやられましたよ、最後にドッシーンと重たいものを一発くらいましたよ。
 参ったなぁ、あのラスト。運命に翻弄されて普通の幸せを求めること叶わず、自己矛盾を抱えてさまよう男のすべてを凝縮したファロンのあのセリフ! もうもう胸が締めつけられるようでした。

 それにバイプレーヤーもよかったですね。
 ダコスタ神父が実は元空挺部隊所属と知ったらもう、気分はアゲアゲ♪ なんかやってくれるに違いないと期待が高まるし、もちろんやってくれるわけです。トーゼンです。
 そして悪役ジャック・ミーアン! 冷酷非道な悪役だけど惹かれずにはいられない伊達男。なんせ表稼業(=葬儀屋)に誇りを持っていて、きっちりした仕事をするんですよ。夫を亡くした老婦人に対する姿は真摯で慈悲深くて、思わず「いいね!」を押したくなります。

 さて、加藤さんがヒギンズを嫌いなわけがない。disりは許さん! くらいの勢いだと思うけど、どう? 暑苦しく語ってほしいなぁ。

 

加藤:いやあ、凄かったですね、安室ちゃんの引退をめぐる報道。もちろん大スターだとは知っていたけど、ここまでだったとは。僕らの世代で言えば百恵ちゃん級の大事件だったのですね。そこで僕はこの機会にひとつ、今の日本に苦言を呈したい。最近は大袈裟な表現がやけに目につきません?
 堪えきれずに涙を流せば「大号泣」、ちょっとした親切を「神対応」、少し褒めただけで「スティーヴン・キングが絶賛」になっちゃう。ハードル下げすぎだろ。
「歌姫」って言葉だって、安室ちゃんクラスのためにとっておくべきだったと思うわけ。そうすれば「平成の歌姫・安室奈美恵、引退!」って見出しだけで、僕のような若干オンタイムでない、ロマンスグレーでちょっとニヒルだけど照れ屋のおじ様にも、そのニュースの価値が正しく伝わったのに。(クイズ:ここまでの僕の文章には間違いが3つ含まれています。さてどれでしょう)

 えーと、ジャック・ヒギンズですね。もちろん大好きですとも。でも僕も、一作家一作品のマストリード100に『鷲は舞い降りた』ではなく『死にゆく者への祈り』が選ばれたのには、ちょっと意外と感じたクチです。
 でも、改めて読んでみると、しみじみ、いい話ですな。

 ジャック・ヒギンズといえば、派手なドンパチと手に汗握るスリル&サスペンスというふうに思っている人にとっては、本作は驚くほど静かで、時間がゆっくり流れてゆくところに戸惑うかも。
 そこで描かれているのは、恰好いい男たちの熱い生きざまとか、どこまでも貫き通す信念みたいな話ではなく、もっと人間にとって普遍的かつ原初的な何かだと思うのです。どんな悲惨な現実のなかでも、人にはそれぞれ愛すべきものが備わっているし、この世界だって捨てたものではないという希望みたいな。

 ジャック・ヒギンズは、自身がアイルランド出身ということもあり、北アイルランド紛争には強い関心を持ち、心を痛めていたのは間違いないのでしょうが、作中でその是非を語ることはなく、それがかえって事の深刻さを感じさせるのです。
 祖国と芸術を愛する小柄で物静かな男(主人公ファロン)が、いかにしてIRAでその名を恐れられる狙撃手となり、また、その果てに祖国を捨てることになったのか、それがすべてを物語っているというか。

 そんなわけで、平日の朝からJアラートが鳴り響く世界に生きる僕らが言うのもナンだけど、『死にゆく者への祈り』を読み終わって、今も世界中で繰り返されている民族と宗教をめぐる悲劇に思いを致しながら、平和について考えてしまったのでした。
 どーでもいいけど、「Jアラート」って言葉を聞くたびに、声の限りに熱唱するSMAPや嵐の姿が頭に浮かんでしまうのは、僕に緊張感が足りないせいですね、すみません。

 

畠山:一発目のJアラートには驚いたなぁ。まるで空襲警報で防空壕に逃げ込んだ時代みたいじゃありませんか。頑丈な建物に避難? えーっと木造アパートはダメですか? って誰に聞けばいいですか? と、はてなマークだらけで立ち尽くすこと数分。まぁ何事もなかったからいいようなものの、万が一のことでもあったらと想像すると暗澹たる気持ちになります。
 戦時下、紛争下にある人たちは毎日こんな戸惑いと緊張の中で暮らしていた(いる)のだろうかとしばし思いを馳せておりました。

 思えばアイルランド紛争なんていうのは海外ミステリを読んで知ったようなものです(説明はできないけどね、テヘ♪)。小説のおかげで、ベルファストは銃弾の飛び交う瓦礫だらけの街だと思っていたのですが、何年か前にサミットが行われた際に整然とした街並みをテレビで見て驚きました。アイルランドの方に失礼な思い込み、というか勉強不足。でも紛争の歴史を小説に描かれた人間ドラマを通して知っているからこそ、ベルファストの街並みの美しさに心を打たれたと思います。

 祖国の紛争で人の命を奪うことを繰り返してきたファロンは日々どんな気持ちで過ごしていたのだろうか。紛争がなければ心豊かな人生を送れたであろうファロン。でも彼には手を血に染める以外の選択はなかったし、その結果はすべて自らが背負って生きていかなくてはならない。その苦しさ、虚しさ。作中で何度か彼がつぶやく「わたしは歩く死骸にすぎない」という言葉を読後も何度か思い出し、その重さを噛みしめました。
『死にゆく者への祈り』は誰しもが内側に善き顔と悪しき顔を持っていて、そのうえでどう生きるかを自ら選択していく。でもいかに自分がこうありたいと望んでも、抗いようのない運命というものがあって、どうしても折り合いをつけられない……そんなジレンマを存分に描ききったお話だったと思います。

 ああ、つい大真面目に語ってしまいました。私としたことがお恥ずかしい。でもヒギンズ作品を読んだら語りたくなるのが人情ってもんですよね!(と全国のヒギンズ・メイトに同意を求めてみる)
 とにかく登場する男性が「紳士」なんです。荒っぽい世界に生きていても、優しくて責任感があって、きちっとけじめをつけられる人。そしてウィットに富んでいるのがス・テ・キ♪
 一見すると粗野な肉体派のようだけれども、実は高い知性とナイーブさを持っているという、思わず合掌したくなるような仕上がりでございます。
 女性キャラも凛とした人が多いかも。本作の盲目の聖女アンナと売春婦のジェニーは、対極にいるようでいて芯の強さは共通しているし、『脱出航路』では、歴戦の男が顔負けするような土壇場力のある女性が何人も登場します。
 未読のご婦人方は、どうか一刻も早くお手に取って下さいませ。ご腐人がたにいたっては、マストリードものです。ソッコーで書店に駆け込まれますように(ですよね!? ♪akiraさん!)。
 ああそうそう、漏れ出る歓喜の悲鳴を堪えるためのハンケチもお忘れなく!

 

加藤:僕も畠山さんと同じく、当時の複雑な世界情勢は翻訳小説で学んだ気がします。東西ドイツの悲劇とか、パレスティナとイスラエルの問題なんかは、当時のスパイ小説や冒険小説で読んで、何となくは理解したつもりになったけど、アイルランドとイングランドの因縁、カトリックとプロテスタントの争いってのは、何度読んでもとても分かりづらかった。でも、こういう知らない世界のことを知ろうとするチャンスを得られるのって、翻訳小説を読む醍醐味でもあるよね。

 ところで、ラグビーのワールドカップ日本大会があと2年後に迫ってまいりましたね! おそらく、皆さんの家庭や職場でも、この話題が出ない日はないでしょう。そして(もちろん御存知でしょうけど)日本は予選プールでアイルランドと戦うことが決まりました。ちなみにアイルランドは世界ランク第3位の超強豪。エディ―・ジョーンズ監督の就任以来、無敗だったイングランドに唯一土をつけたチームです。
 なぜ最後にこんな話題を持ってきたかというと、実はラグビーのアイルランド代表は、その発足以来一貫してアイルランドと北アイルランドの混成チームであり続けているのです。ちょっとゴタゴタはしたけれど、それは100年以上、あの北アイルランド紛争の時代も変わらなかったのですね。
 ラグビーにできることが現実世界で出来ないはずがない。ひとつになる必要があるのかどうかは分からないけど、憎み合い続ける必要がどこにある? その願いは、『死にゆく者への祈り』の発表から約25年が経った1998年、ベルファスト合意によって一応の実現をみることができました。今では、北アイルランドを巡る紛争は「最終的に武力によらず解決できた国際問題」と評価されているのだとか。しかし、その血生臭い過去も含め、現代に生きる我々は忘れてはならない気がします。

 そうだ、今度バーに行ったら、ひさしぶりにジェイムスンを頼んでみよう。ファロンの好きなアイリッシュ・ウイスキー。同じく元IRAの闘士で『鷲は舞い降りた』などに登場するリーアム・デブリンのお気に入りでもありました。あの保健室の匂いが堪らないんだよなー。

 そんなわけで、いまこそ世界中の人にジャック・ヒギンズを読んで欲しいと心から思う僕なのでした。誰か、北の将軍様にも『死にゆく者への祈り』を読ませてやってくれ!

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 ジャック・ヒギンズは英国冒険小説の一典型として『マストリード』に入れなければ、と考えていました。昨今の冒険小説不遇状況の中でもさすがに『鷲は舞い降りた』と『死にゆく者への祈り』の在庫はありました。大作感のある前者ではなくて地味な作りの本書を選んだ理由は、よく覚えていません。もしかすると『鷲は舞い降りた』が1975年の元版ではなくて、大幅に加筆が行われた完全版だったからかもしれません。私は引き締まった元版の方が好きなのです。これは好みの問題なので、もちろん『鷲は舞い降りた』もお薦めできる作品です。

 ヒギンズは国際情勢を状況設定に取り入れ、困難に立ち向かう主人公の英雄像を際立たせて書くことが得意な作家でした。第二次世界大戦を背景に使ったもの、そしてIRA問題というイングランドとアイルランドにとっての宿痾を扱った作品に秀作が特に多いように思います。残念なことに現在ではほとんどが絶版なのですが、近年は電子書籍で復活しているものもあるので、この動きがもっと活発になればいいと考えています。お読みになるとすれば上記の2作以外でしたら、やはり1970年代に書かれた作品をまず手に取られるのがいいかと思います。

 さて、次回はコーマック・マッカーシー『チャイルド・オブ・ゴッド』ですね。この大作をどう読まれるか。期待しております。

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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