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・Le locataire, Gallimard, 1934(1932/夏-1933/秋 執筆)[原題:下宿人]
・« Marianne » 1933/12/27号-1934/2/28号(全10回)
『下宿人』伊東鋭太郎訳、春秋社シメノン傑作集、1937/8/15*
『下宿人』 『倫敦から来た男』所収、伊東鋭太郎(鍈太郎)訳、富文館、1942/5/20再版(1937/8/15発行)(倫敦から来た男/下宿人)表紙・扉は伊東鍈太郎表記、奥付は伊東鋭太郎表記 【写真】
「下宿人」山城健治訳、《探偵倶楽部》1956/6(7巻6号)pp.323-350、抄訳*
Tout Simenon T19, 2003 Les romans durs 1931-1934 T1, 2012
The Lodger, Escape in Vain所収, translated by Stuart Gilbert, Penguin Books, 1952(The Lodger/One Way Out)[英]
The Lodger, translated by Stuart Gilbert, Harcourt Brace Jovanovich, 1983[米]*
・映画『L’Étoile du nord』ピエール・グラニエ=ドフェールPierre Granier-Deferre監督、シモーヌ・シニョレSimone Signoret、フィリップ・ノワレ Philippe Noiret 出演、1982[仏][《北極星号》]

 
『仕立て屋の恋』から始まった新生第一期シムノンのスタイルが確立し、過去作品の構造の組み合わせが為されるようになってきた、という感じか。
 本作はシムノンがファイヤール社からガリマール社へ移籍したシムノンの最初の長編作品だ。しかし新しい出版社へ進出するぞという気負いはとくに感じられない。実際、執筆終了時期も前回の『倫敦から来た男』と近く、また書き始めの時期はさらに前で、『仕立て屋の恋』『赤道』よりむしろ先であったようである。
 ここから先、戦後になるまではガリマール社からの出版が続く。ただしこの時期の刊行事情はちょっと入り組んでいて、必ずしも執筆終了時期がそのまま刊行順になっているわけではない。どういう理由なのかわからないが、書誌を見ると執筆順と刊行順がばらばらなのである。2年近く寝かせていた作品もあれば、半年後など比較的早めに出版された作品もある。
 そこで本連載ではなるべく執筆終了順に取り上げてゆくことにする。まずは『倫敦から来た男』『メグレ再出馬』の間に執筆を終えた思われる本作『Le locataire[下宿人]である。
『倫敦から来た男』と同じように、本作もまた主人公の心の動きがわかりやすく読みやすい筆致になっている。『倫敦から来た男』は3回映画化されたが、本作は何と4度も映画化されたのだ。
 
 エリイ・ナジェアール35歳はイスタンブール生まれのユダヤ系ポルトガル人で、長年トルコで暮らしてきた。イスタンブールからベルギーのブリュッセルへ行く途上でシルヴィ・バロンという女性と知り合う。彼女はブリュッセルの《メリー・グリル》という店で踊り子をしている。
 エリイはその店でヴァン・デル・ショーズというオランダ紳士を見かけた。シルヴィと知り合いのようだ。その男がブリュッセルからパリへと列車で向かう際、エリイは同乗し、寝台車で男を殺して現金を奪い、往復列車で戻ってきた。
 シルヴィは事の次第を知ると、エリイにシャルルロアの自宅を教える。ブリュッセル近くの町だが、母親が下宿を経営しており、そこに隠れるよう諭したのだ。
 エリイは下宿人としてバロン家の一室に住み込む。家にはルーマニアやポーランド生まれの学生たちがいる。エリイはシルヴィの妹アントワネットにほのかな想いを抱きつつも下宿人のひとりとして犯罪者の顔を見せずに毎日振る舞う。
 だが警察はシルヴィを事情聴取し、その結果エリイが捜査線上に浮かび上がりつつあった。シルヴィから「逃げて」という密かな連絡も届く。もしエリイがベルギー国境内でヴァン・デル・ショーズを殺害したならベルギーの法律により裁かれて終身刑だが、少しでもフランスへと国境を越えていたならフランスの法に則って斬首刑となる。新聞にシルヴィが召還を受けたとの報が出て、母親を始めとするバロン家の人々や下宿人たちは、エリイと同じく動揺する。その記事には犯人エリイがシルヴィの情夫だと書かれていたのである。情夫などとはとんでもない見当違いであるのにそう書かれていた。
 やがて警察がこの下宿へやって来るだろう。じりじりと包囲が迫ると思われるなか、バロン家や下宿人たちの間でエリイに対する絆が生まれてゆく。
 
 ペンネーム時代のメグレ初登場作『マルセイユ特急』連載第27回)と雰囲気のよく似た作品である。今回の主人公は殺人と現金強奪をおこなったのだから罪は重いが、知り合いの娘に諭されて部屋に隠れて暮らすさまは同じだ。
 シムノンの母親はリエージュで外国人留学生相手に下宿を経営していた。リエージュはフランス語で医学や科学が学べる都市でもあり、シムノンたちはその時期学生街に住んでいて、下宿には本作の設定と同じようにルーマニアやポーランドなど東欧の学生たちが暮らしていたようだ。そうした学生たちからシムノンはドストエフスキーなどの文学を教わったのである。
 本作は主人公エリイの心情に沿って物語が進む。ただ、ひとつ弱いのは、なぜ彼がオランダ紳士ヴァン・デル・ショーズを殺害しようと思ったのか、その動機がいまひとつはっきりしないことだ。エリイは(所持金は少なかったようだが)極貧に悩んでいたわけでもない。シルヴィとの関係を強く嫉妬したというような描写も見られない。彼は衝動的でありながら同時にいくらか計画的で、事前に重いイギリス錠を購入してパリ行きの列車に乗り、そのイギリス錠でヴァン・デル・ショーズを18回も叩いて殺す。なぜそこまで執拗に叩いたかの説明も一切ない。
 本人もなぜかはわからないのであろう。そんなところがカミュ『異邦人』を想起させがちであるが、やはり『異邦人』と違うのはエリイが周りの人々を否定しないところである。
 むしろ殺人の直後、彼は寝台室から逃げたものの、窓を閉めるのを忘れてしまったことが頭から離れず、何度もそれを繰り返し考える。いままでも書いてきたが、このように何かひとつのことに絡め取られて頭から拭い去ることができなくなるのはシムノンの主人公の特徴だ。ここがカミュの主人公ムルソーの心理と決定的に違う。
 後半は主人公エリイと下宿の人々との交流が少しずつ形成されてゆくのが読みどころとなる。特にシルヴィの母親、すなわち下宿を経営している女将や、シルヴィの妹アントワネットとの関係は、信頼と疑念とが混じり合った複雑なものだ。実をいうと読み始める前は、『下宿人』というタイトルから、それこそ『向かいの人々』の回(連載第39回)で紹介したローラン・トポール『幻の下宿人』のような内容を勝手に想像していたのだが、不条理さではなくむしろ絆に似た関係性が生まれてゆくのが意外でもあり、またかつての自宅やおそらくは自分の母親をモデルにしたであろう展開の不思議な温かさは、シムノンらしいと感じた。
 ラスト一章の処理は『運河の家』連載第37回)や『てんかん』連載第40回)ですでに見たものの変奏である。それゆえに順番に読んできた私の場合、本作の評価は相対的にやや低くなってしまうが、本作は幸いにして『運河の家』『てんかん』と違って邦訳が一度出たことのある小説だ。もし本作を最初に読んだなら、ラストはそれなりに鮮やかに胸へと迫ることだろう。
 主人公エリイは物語の始めにイスタンブールからブリュッセルに行く。彼には妹がおり、家族はかつてイスタンブールから1時間のところにあるプリンフィズ諸島に別荘を持っていた。トルコ旅行とトロツキー取材を経たシムノンらしい設定であり、そしてラストシーンの背景はフランス西部ラ・ロシェル沖のレ島である。シムノンが自宅を購入した場所の近くだ。レ島についてのノンフィクション記事「Une « première » à l’île de Ré」もシムノンは1933年に書いており(未読)、そこに出てくる船の名は本作に登場するものと同じだ。レ島の晴れ渡った空の情景は心に沁みるものがある。
『倫敦から来た男』と同じく、本作の主人公エリイも自らの罪を否定せず受け入れる。その意味でシムノンの主人公たちは善良で道徳的な人々である。
 
 今回観た映画版は『L’Étoile du nord[《北極星号》]のみ。
《北極星(エトワール・デュ・ノール)号》とはパリ(フランス)‐ブリュッセル(ベルギー)‐アムステルダム(オランダ)を結んでいた国際特急列車のことで、メグレ第1作『怪盗レトン』にも登場した。映画のタイトルはこの列車名から来ている。主人公が殺人を犯してしまう列車のことだ。
 主役のフィリップ・ノワレ、下宿の女将役のシモーヌ・シニョレはシムノン映画に複数回出演しており、またピエール・グラニエ=ドフェールも『帰らざる夜明け』(1971)や『離愁』(1973)などの監督で、ブリュノ・クレメール版メグレTVドラマも何作か手掛けている、いわばシムノン映像化作品の常連。手慣れた感じのつくりである。
 ストーリーはほぼ原作と同じなのだが、大きく異なるのは2点。まず主人公を演じるのがフィリップ・ノワレで、1930年生まれというから1982年の本作公開年には52歳。原作のエリイとは年齢が異なり、中年の男性となっている。そのためシルヴィやその妹との恋愛感情というより、バロン家の母親であるシモーヌ・シニョレと心の絆が深く築かれてゆくという展開になっている。
 彼はトルコではなくエジプトで長い間暮らしてきたという設定で、ことあるごとにエジプト時代の佳き日々を思い出す。その話をシモーヌ・シニョレに話して聞かせる。彼はエジプト時代によくしてもらっていた夫人から指輪を譲り受けるが、その指輪を巡って問題が起こり、シルヴィの知人である金持ちの紳士を殺して現金を強奪してしまう、という設定である。主人公が罪を犯す必然性を、いくらか理屈づけしてあるわけだ。
 時代背景は原作の刊行年と同じ1934年。フィリップ・ノワレが《北極星号》で駅に着くと、ヒトラーについて報じる新聞が売店にいくつも並び、駅の外ではデモがおこなわれている、という原作に存在しない描写が目を惹く。なるほどそのような時代だったのだな、とわかるシーンだ。
 シニョレの営む下宿は決して広いわけではないが、二階に留学生が暮らし、朝食と夕食は皆で揃って食堂で食べる。シニョレが食事を準備するシーンが多く、何気なく人参の皮を剥いたり魚の頭を切ったりするシーンの手つきが、いかにも主婦という感じで印象深い。原作にもあるがバロン家の家長の誕生日を皆で祝うシーンはほんのりと心温まる。主人公はいますぐにも逮捕されるかもしれないというのに、このときだけ別の時間が流れている。
 殺人が起こるのに、サスペンス映画でもなければミステリー映画でもない。かといって人情映画というほどでもない。癖のない画面のなかで、とりわけシモーヌ・シニョレの演技が心に残る映画だった。

▼他の映像化作品(瀬名は未見)
・映画『Dernier refuge』Jacques Constant監督、ミレーユ・バランMireille Balin、Georges Rigaud出演、1939[仏][最後の避難所]
・映画『Último Refugio』John Reinhardt監督、メーチャ・オルティスMecha Ortiz、ホルヘ・リガウドJorge Rigaud出演、1941[アルゼンチン][最後の避難所]
・映画『Dernier Refuge』マルク・モーレットMarc Maurette監督、レイモン・ルーローRaymond Rouleau、ミラ・パレリMila Parély出演, 1947[仏][最後の避難所]
・TVドラマ「The Lodger」《Thirteen Against Fate宿命に抗う13人》シリーズ、James Ferman監督、Zia Mohyeddin、Gwendolyn Watts出演、1966[英][下宿人]

瀬名 秀明(せな ひであき)
 1968年静岡県生まれ。1995年に『パラサイト・イヴ』で日本ホラー小説大賞受賞。著書に『月と太陽』『新生』等多数。

 



















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