酔いどれピアノの吟遊詩人、トム・ウェイツのアルバム『ブルー・バレンタイン(Blue Valentine)』(1978年)の裏ジャケットをはじめて目にしたとき、おお、これぞアメリカの一風景、という強い印象を受けた。キャデラックだかなんだかのアメ車のボンネットにトムが金髪女子を押し倒し覆いかぶさろうとしている、映画の1シーンのような絵柄(のちに俳優にもなりましたからね)。そして、後ろ姿で顔の見えないその金髪女子が、何をかくそう、のちの人気シンガー・ソングライター、リッキー・リー・ジョーンズだった。
 ……と知ったのは、だいぶ後になってからのことなのだけど、当時の二人は実際に恋人同士で、そこに友人であるシンガー・ソングライター、チャック・E・ワイスがころがりこみ、3人での奇妙な同棲生活を送っていたという。そう、リッキーのデビュー・シングルにして大ヒット曲「恋するチャック(Chuck E’s in Love)」(1979年)は、もちろん彼のことを歌ったもので、これまた有名なエピソードである。
恋するチャック」が収録されたリッキー・リーのデビュー・アルバム『浪漫(Rickie Lee Jones)』(1979年)は、この曲の大ヒットとあいまって相当に売れたようだけど、リッキー・リー自身が映った秀麗なジャケット写真のおかげもあったのだろう。ベレー帽をかぶった彼女が煙草だかシガリロだかを伏し目がちに吸っている(小生の頭の中ではサックスを吹いているように長らく思い違いされていたのですが)。いや、絶世の美女というわけではない個性的な顔立ちが魅力のリッキー・リーだけど、なんとも雰囲気があっていいのです。
 とまあ、こんなアルバム・ジャケットにまつわる話題を枕とさせていただいた理由は、じつは、このリッキー・リーのかぶるベレー帽が登場する物語があるからだ。
 


 それが、ボストン・テランの『その犬の歩むところGIV)』(2009年)。
 そう、テランといえば海外ミステリー・ベスト10なんかでミステリー・ファンにはおなじみ、デビュー長篇『神は銃弾God Is A Bullet)』(1999年)でCWA(英国推理作家協会)最優秀新人賞を受賞して鮮烈なデビューを飾った、イタリア系アメリカ人の覆面作家だ。以後、『死者を侮るなかれNever Count Out The Dead)』(2001年)、『凶器の貴公子The Prince of Deadly Weapons)』(2003年)と次々と作品を発表し、第4作『音もなく少女は(Woman)』(2004年)がふたたび大好評を得て、その人気を不動のものにした。
 『その犬の歩むところ』は、その間にメキシコ革命前夜を舞台とした犯罪小説『暴力の教義The Creed of Violence)』(2009年)をはさんで紹介された、なんともいえず不思議な魅力を孕んだ小説だ。物語は3つの章から構成されていてちょいと説明しづらい内容だけど、まずは苦難に満ちた半生を過ごしてきた一人の女性のことから記さなければならない。
 
 ハンガリー動乱でソ連軍に両親を殺され孤児となった後、名前を変えてアメリカに移住したアンナは、看護師として復員軍人病院に勤めることになる。そこで知り合った負傷兵と熱愛のはてに結婚。だが、夫と犬を乗せ運転していた車が事故に遭い、自分だけが奇跡的に助かってしまったことから、事故の影響で聴覚の一部を失い、視覚も弱まって常にサングラス着用、さらに超人的な嗅覚をもつようになる。生き延びてしまった罪悪感と孤独から虚無感に苛まれる彼女を救ったのは、旅先でたどり着いた先のモーテルを営んでいた老婆。モーテルに住み着いてこの老婆と疑似母娘のような関係になった彼女は、ある日、傷ついた仔犬を引き取ってから、街中の犬たちを拾い、育て、人々に変人扱いされるようになっていた。
 そこへ、この物語の主人公となるギヴ(GIV)という犬が姿を現す。野性の感覚がギヴをモーテルへと導き、彼女は彼女で特異な嗅覚でそれを感じ取ったのだった。彼女のもとにいた盲目の犬エンジェルとの間に生まれた仔犬も、ギヴの死後、父犬と同じ名を与えられてモーテルで暮らし成長していく。
 と、ここまでが“父ギヴ”の章。息子である“若いギヴ”の章で物語は展開する。 アンナがようやくたどり着いた平穏な日常に波風を立てることになるのは、ときには犯罪に手も染めているミュージシャンの若い兄弟。警官あがりの父親の血を引くやさぐれ者の兄ジェムと、繊細で音楽の才能あふれた弟イアン。彼らもまた心に深い傷を持っていて、どうやら犬にも大いに関連しているらしい。ギヴに心を開いたイアンは、散歩の途中にギヴをきっかけに美しく快活な女性と運命の出会いをする。その娘ルーシーが、リッキー・リーの例のベレー帽を買ったことがある、件の女性である。
 実際、彼女はベレー帽にふさわしく才能のあるアーティストで、独創的な絵画をいくつもものしていた。急速に惹かれあっていく二人は、まるでスティーヴン・キングが『アトランティスのこころHearts in Atlantis)』(1999年)で描いたような、一生を通じてもっとも重要な相手とのものだと思える初めてのキスをかわす。が、彼女の登場によって、じつは物語が悲劇の方向に向かって加速していくことになる。言ってみれば物語を展開させるキーマンとなる存在なのである。しかも、勇敢でキュートで言うことなし(私観です)。
 
 3つ目の章で、この若いギヴと出会うことになる元海兵隊員のディーンが、この物語全体の書き手ということになる。奇しくもラスト近くで彼はギヴのことをこう呼ぶ。“どこまでも貴い犠牲の行為で終わる、みんなの物語の体現者”だと。
 犬を描いたエンタテインメント小説というとディーン・R・クーンツの『ウォッチャーズWatchers)』(1987年)という名作がすぐに頭に浮かぶが、それとは少々趣が違うかもしれない。ある犬の父子との関わりを描くことで、アメリカのほんの一部でそれぞれの暮らしを営む人々に焦点をあてた物語。つまりは、アメリカという国そのものをギヴという犬の父子をフックとして描こうとした小説であるとも言える。
 音楽、生活、書物、政治と、全篇アメリカを象徴するもので埋め尽くされるこの小説は、ある意味、アメリカにおいて連綿と積み重ねられていく個人個人の歴史の細部を切り取ってみせたものだと。たとえて言うならば、古川日出男の『ベルカ、吠えないのか?』が、複数の犬の目線から人類の長い歴史を紐解き描こうとしたのとはまた異なる手法で、テランは、一匹の犬との関わりからアメリカの歴史の普遍的な1シーン1シーンを切り取って見せようとした。
 それがゆえに、父ギヴに付けられていた首輪に隠されていた質札のように、彼の関わった歴史や抱え込んでいた過去、また、それに関わるかもしれない若いギヴの近い未来は、この物語に記されないまま。それは、テランが違った形でこのギヴの物語をいつかまた書くことがあるかもしれないと示唆しているのかいないのか。
 
 アメリカを象徴する諸々の中でも、とりわけ音楽が本作では重要な要素を占めているようだ。
 2つ目のミュージシャン兄弟にまつわる章では、これでもかと音楽が物語を覆い尽くす。兄弟そろっての仕事を求めるジェムだったが、イアンには単独でも勝負できる作曲やギターテクニックの才能があった。それもまた兄弟間の大きな確執を生むのだ
 けれど、それ以前に彼らの過去が大きく影を投げかけていた。それは兄弟の父親に殺されたモリソンという彼らの飼い犬にかかわる事件。
 父親は飼い犬たちにミュージシャンの名前を付けていたという。で、もちろんのこと、この犬はドアーズのジム・モリソンからの命名(アメリカなのでヴァン・モリソンではなく)。27歳の若さで早逝したモリソンがどういう人間だったかとルーシーはイアンに訊ねる。彼は犬のモリソンと重ね合わせ、ドアーズの代表曲のひとつ「ジ・エンド(The End)」(1967年)の歌詞から“これで終わりだ、ぼくのたったひとりの友よ……”のヴォーカルだと答えるのに対して、ルーシーは彼が“反逆の人”だったのだという。それは、後半部に言及されるように、神に背いて犬が人間の側に走ったという神話とリンクさせられているのだ。
 言及するだけなら、アンナが夫と結婚した頃に聴いていたロバータ・フラックの最初のヒット曲「愛は面影の中に(The First Time Ever I Saw Your Face)」(1969年)、ボブ・ディランの歌詞の引用をはじめ、ウディ・ガスリー、アイザック・ヘイズ、ビーチ・ボーイズなど、さりげなくさまざまな音楽が盛り込まれている。
 
 そもそも兄弟は音楽ヅケ。兄弟がギグでとくに大切にしている曲、コンクリート・ブロンドの「トゥモロー、ウェンディ(Tomorrow, Wendy)」(1990年)というのは、ジョン・F・ケネディの暗殺を題材にしたもので、歌詞まで引用している。それと関連して、兄弟の兄ジェムが、オズワルドがジョン・F・ケネディを狙撃した場所を訪ねる印象的なシーンがある。さらに、ジェイムズ・エルロイの『アメリカン・タブロイドAmerican Tabloid)』(1995年)へとつながり多くの作家が言及する、ドン・デリーロの『リブラ 時の秤Libra)』(1988年)に触れたり、9・11事件に言及したりと、アメリカの大きな歴史のうねりが国民に与えた影響をつぶさに描き切ろうと試みているように思えた。
 あらためて言い切ってしまおう。この物語は、人間の友である犬の存在を借りて訴えかけた、アメリカという国への賛歌であると。
(って、とば口はベレー帽美女からだったのが、大きくでてしまいました……)
 
◆YouTube音源
“ブルー・バレンタイン(Blue Valentine)” by Tom Waits

*バレンタイン・シーズンともなると、昔のラジオ番組ではヘビー・ローテーションでかけられたナンバー。ちなみに、10CCの「アイム・ノット・イン・ラブ」なども人気だった。
 
“恋するチャック(Chuck E’s in Love)” by Rickie Lee Jones

*2016年という最近のライブから「恋するチャック」。
 
“ジ・エンド(The End)” by The Doors

*トロントでの1967年のライヴから。ドアーズ「ジ・エンド」。
 
“トゥモロー、ウェンディ(Tomorrow, Wendy)” by Concrete Blonde

*シアトルでのライブから。コンクリート・ブロンド「トゥモロー、ウェンディ」。

◆関連CD
“Blue Valentine” by Tom Waits

*トム・ウェイツ、1978年発表の6枚目のアルバム。表題作を収録。

“Rickie Lee Jones” by Rickie Lee Jones

*「恋するチャック」が収録されてヒットしたリッキー・リー・ジョーンズのデビュー・アルバム(1979年)。

“The Other Side of Town” by Chuck E. Weiss

*チャック・E・ワイス、2008年発表のデビューアルバム。

“Bloodletting” by Concrete Blonde

*コンクリート・ブロンドの3rdアルバム(1990年)。「トゥモロー、ウェンディ」を収録。
 
◆関連DVD
『ダウン・バイ・ロウ(Down by Law)』
*トム・ウェイツ出演。ジム・ジャームッシュ監督、1986年の作品。
 

佐竹 裕(さたけ ゆう)
 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
  好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。



 





 






◆【連載エッセイ】ミステリー好きは夜明けに鍵盤を叩く バックナンバー◆