——鍛冶屋、仕立屋、武士、間者。さて、“もぐら”は誰でしょう?

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

畠山:角界大混乱なう。なにがなんだかさっぱりわからないけれど、やたらと強いミステリー臭。う~む、今こそ隻腕の元横綱探偵が登場すべきではないのか!?

 騒動が持ちあがるとつい、裏でなにか仕組まれているのではないかと想像してしまうのが人の常。「謀略」……ああ、なんと芳しい響き。
 さあ参りましょう、今月の「必読!ミステリー塾」はスパイ小説の重鎮、ジョン・ル・カレの『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』。1974年の作品です。

 香港から極秘裏に帰国した工作員リッキー・ターがもたらしたのは、英国情報部の中枢に長年にわたってソ連のスパイ(=もぐら)が潜り込んでいるという情報だった。政府筋から真相究明を託された元情報部員スマイリーは、情報部のピーター・ギラムとともに「もぐら狩り」に乗り出す。亡き上司コントロールが疑惑の人物たちにつけた名前「ティンカー」「テイラー」「ソルジャー」「プアマン」「ベガマン」……膨大な資料をひもとき、関係者の重い口を開かせて、かつて失敗に終わったテスティファイ作戦の真相に迫っていく。はたして「もぐら」は誰なのか?(そして出て行った妻との成り行きは? ←余計なお世話)

 作者ジョン・ル・カレは1931年イギリス生まれの、御年86歳。オックスフォードで学びイートン校で教師をしたのち、外務省にはいる。外交官として働きながら小説を書きはじめ、29歳のときに『死者にかかってきた電話』で作家デビューしました。
 2年後に発表した『寒い国から帰ってきたスパイ』で、エドガー賞長編賞を受賞。多くの作品が邦訳されていますが、なかでも人気が高いのは、初老のスパイ、ジョージ・スマイリーでしょう。彼を主人公とした長篇は5作あり、本作『TTSS』(タイトルが長いので、こう略させていただきます)は3作目、映画化もされています。脇役としては、スマイリーは4作品に登場、前述の『寒い国から帰ってきたスパイ』もその一つです。
 回想録『地下道の鳩』では、ル・カレ自身が諜報機関に所属していたこと、実際の諜報活動にもたずさわったことなどを明かしています。こちらはかなり愉しく読めるようですね。

 私は『死者にかかってきた電話』と『高貴なる殺人』、そしてこの『TTSS』(わざわざ加藤さんに旧訳を貸してもらいました)を読んだのみ。印象といえば「地味で読みづらい」。
 とはいえ再読ですから、まあ軽くチャチャッと……なんて不遜なことを考えた私がバカでした。じっくり腰を据えて読むこと10日あまり。唐突にでてくる人名、当たり前田のクラッカー的に使われる隠語、淡々とした文体、激しく入り乱れる現在と過去。結局どんな人だかよく掴めない多面的な人物描写(ゆえにリアルなのですが)。まさしく耐えて忍ぶ読書。途中で「体力の限界、気力もなくなり…」(>ググれ、若人)と咽び泣きそうになりました。
 再読なのに! モグラが誰なのかも、主要人物も、ちゃんと覚えているのに! 映画だって観たのに! 読み飛ばすどころか、丹念に読まないことには先に進むことを許してくれぬ、ル・カレ。恐ろしい子!(白目)

 そんなこんなで、読む前にはいっぺん水垢離でもしようかと思うほど読みづらい『TTSS』ですが、頑張ったなりの報いがあるんですよねえ。訳者の加賀山卓郎さんが、『初心者のためのジョン・ル・カレ入門』という当サイトの記事で、「つるつると喉ごしのよい作品を読むことばかりが読書の愉悦ではありません」と仰っていますが、まさにそのとおり。いよいよもぐらの正体がわかるところのスリリングさたるや、再読でもドキドキものです。しかも単純な勧善懲悪ではなく、愛憎入り混じった複雑な、実に人間的な感情が丁寧に描かれていて、登場人物たちとの距離が一気に縮まりました。

 イギリスのスパイといえばジェームズ・ボンド。知的でタフなセクシーガイ。そんなイメージしか持っていなかったので、初めてル・カレを読んだときには、「こちらが現実でございます」と重々しく見せられた気がしました。ジョージ・スマイリーは小太りで、見た目はまったくイケてない男です。なんであんな極上品のアン・サーカムが、やつと結婚したんだ!? という世間の疑問はよくわかります(笑)。でも、凡庸なのは見かけだけ。思慮深く、粘り強く、ひたすら地道に真実に迫っていく姿は、鬼気迫ります。しかも、彼はとっくに情報部をクビになっていて、この件を解決できたあとのご褒美が約束されているわけでもない。なにがスマイリーを突き動かすのか。そこは理屈じゃなくて、ハートで感じたいところです。

 おっと、加藤さんが早くおれにマイクを渡せと地団太踏んでるみたい。おまえにスマイリーを語る資格なぞないわ、スマイリーと言えばキクチとオハラしか思いつかないくせに、という悪口が聞こえてきそう。

 

加藤:スパイ小説といえばやはりイギリス。MI6の略称で知られる世界で最も長い歴史を持つ諜報機関・英国情報部には(当時その存在が非公式だったにもかかわらず)、名だたる作家たちも在籍していたことが知られています。そのなかでも特に有名なのが、スパイ小説の二大巨頭ともいうべき、イアン・フレミングとジョン・ル・カレではないでしょうか。
 しかし、その作風はびっくりするくらい対照的です。イアン・フレミングが生み出した007ことジェームズ・ボンドは、「世界一有名なスパイ」という二律背反、自己矛盾を宿命とする英国情報部の工作員というか殺し屋。かたや、ジョン・ル・カレのメインキャラクターは、しょぼくれた小太りの中年おじさんジョージ・スマイリー。家に寄りつかない美しく奔放な妻に心を痛める、英国情報部の幹部です。

 畠山さんも書いているとおり、スパイものといえば007をイメージする人にとって、ル・カレの世界はあまりに地味で静かで汚く殺伐としていて、戸惑うに違いありません。ピストルぶっ放さないし、ウォッカ・マティーニをシェイクでオーダーしないし、秘密道具も出てこない。ル・カレに代表されるリアルっぽいスパイ・スリラーで描かれるのは、公務員スパイたちが、非情な世界で神経をすり減らしながら繰り広げる諜報戦。虚々実々の騙し合いと駆け引きが展開し、ときに国益や組織の論理でボロ屑のように捨てられたりする。基本的にハッピーエンドなんてものは望めません。

 そして本作『TTSS』は、おそらく未読の方もそのタイトルは聞いたことがあるであろう、ジョン・ル・カレの代表作であり、スパイ・スリラーの金字塔。でも、この作品の魅力を伝えるのはホント難しいんですよね。はっきり言って読みやすいとは言い難く、読んでいる途中で(もしかしたら序盤に)迷子になって、一体これは何の話なのか、自分は一体どこにいるのか、って途方に暮れることになるかも知れません。でも、それはこの話が「難解なブンガク作品」だからではなく、それを意図して書かれているから。話を見失ったと思っても、そのまま読み続ければいいのです。ル・カレってそういう人なんです。
 そして、徐々に全体が明らかになってきて、ここまで読んできたものが何一つ無駄ではなかったのだと思い知らされ、驚き、そして感動する。ル・カレの作品、とくに『TTSS』にはそんな、エンタメとしてはありえないくらいの達成感と満足感が、読後に待っているのです。

 ちなみに、『TTSS』は5年ほど前に『裏切りのサーカス』の邦題で映画にもなりました。でも、「とりあえず映画から見てみよう」というのはお勧めできません。素晴らしい映画でしたが、原作以上に難しいんだ、これが。(ホントに)

 

畠山:最初に『裏切りのサーカス』ってタイトルを聞いたときは、てっきりスパイがサーカス芸人に身をやつして諜報活動をするお話なのかと思いましたよ。空中ブランコしながら機密情報を渡すんかいな、そらスリリングだわと。
 確かに映画もそんなにわかりやすくはないけれど、ネットでは「映画を観ていたから小説もわりあい理解しながら読めた」っていう声もあって、なるほどと感心しました。理解が容易か否かと、人を惹きつける魅力ってのは別ものなんでしょうね。

 ラストの虚しさ、切なさは小説も映画も同じでした。愛だよ! 愛だよねー! この小説は愛の物語にほかならない! と恥ずかしげもなく叫びたいです(同士がいてくれると嬉しい)。ネタバレになるので語れない「愛」もありますが、別居中の妻アンに対するスマイリーの思いも、なんだか泣けてくるのです。
 嗚呼、アン、帰ってあげなよ、スマイリーの元に。寒空の下で貴方に暖かい靴を持ってきてあげればよかったなんて考えてくれる人を、大事にしてあげて。スマイリーももっと素直になろうよ、「靴を持ってきてあげればよかったね、ごめんね」ってはっきり言おうよ! と、近所の世話焼きオバチャン全開で、ヤキモキしたのでありました。
 しかも、ほかの人たちがみんなもれなく「アンは元気か」「あの素晴らしいアン」「アンは」「アンは」とスマイリーに塩を擦り込むんだもの。気の毒だったらありゃしない。

 再読でもかなりの日数を要したと言いましたが、多分もう一度読んでもすんなりとはいかないと思います。それでも、時間をおいてまた読み返したい。頭からダダ漏れしてしまったものをもう一度拾いなおしたら、新たな発見や理解があるかもしれない。できればこの物語のモデルになったかの有名な二重スパイ、キム・フィルビーのことももっと知りたいし、もちろんほかの作品も読んで、自分の土壌を培いながら、さらにル・カレの世界を広げたい。サクサク読めたらル・カレじゃない! 最高に読み甲斐のある作家だと思うのです。

 あ、でも名古屋読書会はさすがだよね。『寒い国から帰ってきたスパイ』読書会のレポートは実に面白かったです。いい意味で、ル・カレのハードルが下がったと思う。(レポートは、☞ こちら と ☞ こちら
 でも加藤さんは、ほんとはちゃぶ台ひっくり返したかったんじゃないの?「そこじゃねぇーーっ!」って感じで。そこんとこどーよ?。

 

加藤: もう5年も前の話なのか、名古屋のル・カレ読書会。それにしても「ル・カレ気分でロックン・ロール」の破壊力は今でも凄いな。
 そうそう、『TTSS』は確かにマストリードの傑作だけど、これから初めてル・カレを読もうとする人は、まずは『寒い国から帰ってきたスパイ』から読むといいと思う。こちらも超絶大傑作です。『TTSS』と比べると時代はさらに古いものの、短いうえに、ずっと分かりやすい(あくまでル・カレ比)。逆にいえば、『寒い国から帰ってきたスパイ』を楽しめなかった人は『TTSS』に近づくべきではないのかもしれません。

 それでも、初ル・カレであえて『TTSS』に挑もうという勇者には、いくつかのアドバイスを贈りましょう。
 何度も言うけど、とにかく最初は読みにくいと思います。しかし、耐えるのです。そのうちに、あるリズムを感じ取れるようになり、独特の持ってまわった言いまわしが不快でなくなります。そしていつの間にか病みつきになり、スマイリー3部作を読み終える頃には、ル・カレ・ジャンキーのいっちょ上がりです。
 ちなみに『TTSS』はスマイリーの主役作としては3作目で、そもそも「ここから入っても大丈夫なのか?」と疑問に思うかもしれませんが、まったくノープロブレム。予備知識は必要ありません。

 ただし、いきなり登場する隠語や符丁には戸惑うかも。元はといえば、「ハニートラップ」や「もぐら」もル・カレが作った言葉なんですってね。そんなところもル・カレ御大の魅力のひとつ。多くは前後の文脈や語感で想像がつくんだけど、以下の3つはとても重要なので、ぜひ覚えておいてください。

サーカス……英国情報部いわゆるMI6のこと。
ホワイトホール……イギリス政府や中央省庁のこと。
コントロール……人です。スマイリーの元上司でサーカスの前チーフ。実際、MI6の歴代チーフはCと呼ばれたのだそうです(007の世界ではMでしたね)。

 さあて、準備は整いましたよ。あえて急峻『TTSS』に挑むもよし、まずは『寒い国から帰ってきたスパイ』で体を慣らすもよし。成功を祈るばかりです。
 なお、例によって、君もしくは君のメンバーが捕えられ、あるいは殺されても、当局は一切関知しないからそのつもりで。

 そして、最後に書かないわけにはいかないのがル・カレの新作!
『スパイたちの遺産』が加賀山卓郎さんの訳で、11/21についに出ました! こちらはなんと『寒い国から帰ってきたスパイ』と『TTSS』の後日譚なんですって。なんて素敵にタイムリー。
 僕もまだ読みはじめたところだけど、出だしからして、もうファンにはたまりません。ああ、早く先を知りたいと思いながらも、いつまでも読んでいたい気もして、でも実際問題として全然話が進まないw ル・カレ節は健在なのでした。

■勧進元・杉江松恋からひとこと

『スパイたちの遺産』が刊行になった直後にこのコーナーが更新されたというのも何かの縁かと思います。同書は『寒い国から帰ってきたスパイ』と『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』の正統な続篇にあたるため、この二冊を読んでから手に取るのとそうでないのとではまったく読み心地が違うはずです。作中には完全なネタばらしもありますしね。

 作者の経歴については本文中でも触れられていますが補足したいと思います。ジョン・ル・カレことデイヴィッド・ジョン・ムーア・コーンウェルの人格は二つの大きな要素によって決定づけられました。一つは、詐欺師のような性格の父親ロニーがことごとく息子の生活を監視し、干渉しようとしたこと。もう一つは軍役の過程で諜報活動に属したことです。家庭内において権威者として振る舞おうとする父親がまったく信用のならない人物であったために、ル・カレには根源的な不信感が宿りました。また、冷戦体制下で従事した諜報活動にはイアン・フレミングが描くスリリングな要素はまったくなく、退屈極まりない日常の中で誰もが目的を見失って生きているようにル・カレの目には映りました。ル・カレはそうした相互不信と視界不良の世界観を表現する手段として小説執筆を選びましたが、自分の知っている組織をそのまま書くことをせず、権謀術数に満ちた架空の英国諜報部を作り上げたのです。彼の創作物は現実の裏返しであり、それゆえに実在感があります。隠語のような細部のディエールがしっかりしているだけではなく、誰が何をしているのか本当にわからないという暗中模索の状況をフィクションにも移植したのでした。そのことが彼の小説にジャンルを超えた普遍性を与えたのだと私は考えます。

『マストリード』の刊行当時、現在よりももっとスパイ小説は手に取りにくい状況にありました。このジャンルを現実の鏡像と考えれば、刻々と移りゆく国際情勢の中で過去を描いた作品が価値を失い、読まれなくなっても仕方ないといえるでしょう。ただし、ル・カレ作品が獲得したような普遍的価値を無視することはもったいなさすぎます。どんな時代においても一読に値する、いつでも繰り返し読むことができる、そんなマスターピースとしての意味を今も彼の作品は持ち続けています。

 さて、次回はルシアン・ネイハム『シャドー81』ですね。こちらも楽しみにしております。

 

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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