15歳の少女アニーは実の母親を警察に告発した。小さな子供ばかり9人を殺害した罪で――
 
 アリ・ランドのデビュー小説『善いミリー、悪いアニー』をご紹介します。
 
 子供が虐げられるずしりと重い物語ですが、問題の上っ面だけをセンセーショナルに扱うのではなく、児童青年精神科で長年看護師をしていた著者が、正面から問題に取り組み、少女の心理に迫るスリラーです。アニーの生きる世界はあまりに理不尽できびしく、一見現実離れした話に感じられます。しかし、大人に虐げられながら自分の居場所を得ようともがくアニーのような子供はあちこちにいる、と訳出中、実際のニュース等に接するたびに何度も思いました。
 
 物語は、アニーの訴えを受けて母親が逮捕される場面からはじまります。その後アニーはミリーと名前を変え、ロンドンに住む里親家族に引き取られます。
 新しい家に移っても、ミリーを待っているのは過酷な現実でした。学校では転入生として手荒な洗礼を受け、家にももちろん居場所はない。そのうえ過去がミリーにつきまとい、夜になると、母親の幻影のみならず、守ってあげられなかった小さな者たちの亡霊にも苦しめられます。何より母親の“悪い”遺伝子が自分に受け継がれているのではないか、とミリーはつねに怯えて生きていかなくてはなりません。
 
 物語はミリーの視点で語られ、ミリー自身が母親から心と体に深い傷を与えられてきたことは、なかなか明らかにされません。体の傷は表から見えないように隠され、心の傷は胸の奥深くにしまわれています。それでも、ミリー自身の淡々とした語りのなかに、母親の加虐の片鱗が少しずつ見えてきます。それがなお痛々しいのは、むごい仕打ちを長年加えられても、ミリーが母親を慕い、求めつづける気持ちが徐々に読み手に伝わってくるためです。
 
 とはいえ、ただつらいだけの話ではありません。この作品の大きな特徴は、生き抜こうとする子供のしたたかさが描かれているところだと思います。邪悪さと純粋さをあわせ持つ矛盾した人間のさがが、ミリーをはじめとする登場人物たちの姿を通して浮き彫りにされます。
 作中にウィリアム・ゴールディング『蠅の王』がたびたび引用され、著者が着想を得た作品として『蠅の王』とともにイアン・バンクス『蜂工場』をあげていることからも、なんとなく雰囲気がおわかりいただけるでしょう。『蠅の王』はミリーの心情を映し、本作のテーマと強く響き合っています。
 
 終盤、ミリーは母親を裁く法廷に証人として出廷するかどうかの選択を迫られます。弁護側と検察側の思惑が入り乱れる臨場感たっぷりの裁判シーンも読みどころです。
 
 15年のあいだ、殺人鬼の母親とどんなふうに暮らしてきたのか。母は娘にどのような躾をし、娘をどう変えたのか。母娘の秘密とは? 果たして新しい暮らしのなかで、少女は自分の居場所を見つけられるのか――どうかミリーの物語を見届けていただけますよう。
 

国弘喜美代(くにひろ きみよ)
東京在住の翻訳者、南東京読書会の世話人のひとり。訳書はB・デンソン『スパイの血脈――父子はなぜアメリカを売ったのか?』など。

 

■担当編集者よりひとこと■

 殺人鬼とともに暮らした過去を秘め、新たな人生を歩み始めようとするミリー。しかし彼女の頭の中では獄中にいるはずの母親、ルースの声がつねに響きわたり、ことあるごとに警察に自分を告発したことを咎めます。そして凄絶な生活を強いられてきたはずのミリー自身もまた、母親のことを〝あなた〟と呼んで恋しく思ってしまう――。
 
 『善いミリー、悪いアニー』が並みのスリラー小説と一線を画しているのは、相反する感情が同居するミリーの心理を描ききったアリ・ランドの筆力にあります。ミリーは新しく生まれ変わって〝善い自分〟になるべく葛藤しますが、凄絶な過去を経てきた彼女は周囲の人間を内心で蔑み、自身に向けられる悪意にさえもどこか醒めています。かといって人間関係からまったく影響を受けないほどに超然と振舞えるわけではない……。善と悪との境界で揺れ動く少女の不安定な心理を追う文体は非常に個性的で、まさに新人離れです。
 
 心理の機微を掬い取ったドメスティック・スリラーとも、独特なヤングアダルト小説とも読める本作は、リーガル・サスペンスとしての一面も持っています。ルースの裁判が近づいたあるとき、ルースの弁護団が何らかの質問をするためにミリーを法廷に召喚しようと考えていることが判明。ミリーはその弁護団の方針は母親が意図したものと考えます。ミリーと(ミリーの心の中の)ルースとの駆け引き、明らかになる二人の過去、そしてミリーは……。最終章まで目が離せない本作、是非お読み逃しなく。

(早川書房N) 

 


 

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