今年2月24日に日本公開を控えた日中合作映画『空海-KU-KAI-』(中国語では『妖猫伝』)。中国では去年の年末から上映されており、1月の時点で興行収入は5億元(約86億円)を超えました。
 日本で注目されているのは主役の空海役・染谷将太と阿倍仲麻呂役の阿部寛なのでしょうが、中国人にとっての見どころはやはり空海の相棒的存在・白居易役の黄軒でしょう。微博(中国版Twitter)を検索してみるとなんと6回以上もこの映画を観ている人を見つけることができる他、Twitterにも5回以上観たと言っている中国在住の日本人が複数おり、映画がある一定の人々にとても注目されていることが理解できます。
 
 かくいう私もこれまで2回見に行くぐらいハマった口です。湖北省襄陽市に建設された唐の都長安を模した広大なセットをふんだんに使った映像もそうですが、中国語学習者にとって注目するポイントは染谷将太をはじめとした日本人役者の違和感のない中国語です。
 染谷将太や阿部寛らの中国語は、実際には中国人声優による吹き替えなのですが、彼らは撮影時に実際に中国語を喋っていたので口の動きに全く不自然なところがありません。また、空海の吹き替えを担当した楊天翔はこのためにわざわざ日本人訛りの中国語を覚えるという苦労をしており、中国人観客からは「染谷将太の中国語うますぎ」「日本人訛りの中国語可愛い」などの嬉しい誤解の声が寄せられています。
 
 ですので、中国人俳優や声優の演技が日本でも楽しめたら素晴らしいと思っていたのですが、1月13日に衝撃的な事実が飛び込んできました。中国映画翻訳者・水野衛子氏がブログで、日本公開版の『空海-KU-KAI-』は吹き替え版のみで字幕版は上映されないと発表したのです。事情は不明ですが、中国版を先に観た人間として考えると自分たちが楽しんだ要素が日本側に蔑ろにされたような気がして非常にショックでした。
 
 さて、この映画『空海-KU-KAI-』夢枕獏原作の作品ですが、中国でも近年は古代王朝を舞台にしたミステリ小説が人気を博しており、映像化という話も出ています。そこで今回は、今回は中国の王朝的雰囲気を味わえる大長編ミステリ『清明上河図密碼』(2015年)と『大唐懸疑録』(2016年)を紹介します。
 ちなみに中国には上記の作品の他にもタイトルに「密碼」(コード)と名が付く小説があります。様々な妖怪や神々を描いた地理書『山海経』を題材にした『山海経密碼』(2011年)、チベットの秘密を求めて冒険を繰り広げる『蔵地密碼』(2008年)などがそうです。私はこれまで「密碼」と名の付く小説はみな『ダ・ヴィンチ・コード』(中国語タイトル『達·芬奇密碼』)の二番煎じとしか思っていませんでしたが、今回紹介する2作品を読んで考えを改めました。
 

■『清明上河図密碼』(清明上河図・コード) 著:冶文彪■


 
 現在4巻まで出版されている本作は北宋時代(960年~1127年)末期を舞台にした非常に大掛かりなサスペンス小説です。「清明上河図」とは北宋末期に描かれた実在の絵巻で、その長さ5メートル以上の絵巻の中には清明節(旧暦の3月ぐらいに行われるお盆)の都市部の賑やかな様子や北宋時代の民俗が詳細に描かれています。この作品では絵巻に描かれている824人の人物全員に作者が名前を付け、個性を与え、彼らが北宋の滅亡に関わる重大な事件に巻き込まれていく様子を描きます。

 北宋の都・開封の河を渡る1隻の船が橋の下をくぐろうとした瞬間煙に包まれ、衆人環視の中船が消失したと同時に、煙の中から仙人のような人影が現れた。その後船員と乗客全員が死体となって発見されたが、積み荷の中にあった皇帝に献上する「天書」に落書きがされていたことにより、事件はタブーとして隠蔽されてしまう。名裁判官として知られる趙不尤が個人的に調査に乗り出すが、船消失の前後に別の場所で無関係な人間たちが誘拐事件や失踪事件や殺人事件などに遭遇しており、各事件の背後を調べてみると一人の正体不明の人物にたどり着く。

 
 首なし死体が出てきたり、入れ替わりトリックが使われていたり、ミステリ読者にとって馴染みのある事件が多く出てきますが、1冊500ページ以上もあり、読み切るのが大変しんどいです。全6巻での完結が予想されていますが、読者からはあと2冊でたたみ切れるのかという心配の声が出るほど謎が謎を呼び、しかも謎が解明されるのは次巻以降というパターンが多いので、残り2冊で雪崩式に謎が明らかになるかもしれません。
 

■『大唐懸疑録』(大唐サスペンスファイル) 著:唐隠■


 
 これも現在4巻まで出版されているシリーズものです。唐代の元和年間(806年~820年)を舞台に、長安を中心として実在した皇帝や貴族、文人らが登場し、きらびやかな王朝の裏に渦巻く血なまぐさい陰謀を女性探偵・裴玄静が暴くという物語です。
 各作品は国内外で名高い中国の有名創作物を題材にしており、王羲之の書いた書「蘭亭序」、錦に織り込まれた回文詩「璇璣図」、白居易の残した名詩「長恨歌」、預言書と称される「推背図」をめぐって唐朝の闇が浮かび上がり、元和年間の皇帝・憲宗の治世の終わりが見えていきます。
 特に3作目の『長恨歌密碼』は楊貴妃が生きていて日本に逃げていたという大胆かつ歴史的人物にはありがちな生存説を盛り込んでいます。

 江州に左遷された詩人の白居易は、昨晩出会った名妓が奏でる素晴らしい琵琶の音に心を打たれ一晩で『琵琶行』を書き上げる。船上で再び名妓と会った白居易は『琵琶行』を読む年齢不詳の美女に徐々に心を惹かれていくが、自身の名作『長恨歌』をしきりに引き合いに出すこの女性こそ60年前に死んだ楊貴妃その人ではないかと疑う。しかし、白居易がその疑問を口にしようとした瞬間、船が刺客に襲われ女は川に身を投げ行方不明になる。
その頃、すでに皇帝らから名探偵として覚えがめでたかった裴玄静は公主の命によりかつて楊貴妃が住んだ興慶宮へ向かう。女の幽霊を退治してほしいという依頼だったが、その事件の影に楊貴妃の姿を見た彼女は60年前の楊貴妃の死の真相を探る。

 史実を基にフィクションをつくる、という行為には作者の豊富な知識が求められます。今回紹介した両作品に共通する点は作者の綿密な時代考証による当時の風景や民俗の再現です。唐隠は楊貴妃の資料を集めるためにわざわざ日本を訪れ、冶文彪は構想に5年執筆に3年費やしており、どちらも創作に並々ならぬ熱意をかけています。両作ともとにかく長く、核心的な謎が次巻以降にもつれるために読むのが多少しんどいわけですが、このような伝奇小説の隆盛の背景には若者を中心とする中国人読者の自国文化に対する貪欲な興味と、映像化を進める業界の積極的な動きがあると思われます。

 両作品はどちらも映像化の権利が買われてます。版権ビジネスが激化する現代中国において版権の購入と映像化の決定はすでにイコールの関係ではなくなり、「映像化決定」と宣伝したまま塩漬け状態になっている中国ミステリ作品も珍しくありません。ただ、本両作に関してはその規模を見るに映像化の可能性がかなり高いです。また、その可能性を更に高める要素が冒頭に紹介した『空海-KU-KAI-』の撮影ロケ地であり、今後は唐代を中心に歴史作品がますます映像化されることでしょう。

阿井 幸作(あい こうさく)
 中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。
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現代華文推理系列 第三集●
(藍霄「自殺する死体」、陳嘉振「血染めの傀儡」、江成「飄血祝融」の合本版)

現代華文推理系列 第二集●
(冷言「風に吹かれた死体」、鶏丁「憎悪の鎚」、江離「愚者たちの盛宴」、陳浩基「見えないX」の合本版)

現代華文推理系列 第一集●
(御手洗熊猫「人体博物館殺人事件」、水天一色「おれみたいな奴が」、林斯諺「バドミントンコートの亡霊」、寵物先生「犯罪の赤い糸」の合本版)

 






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