人呼んで「角の向こうを見通せる男」、ラーシュ・マッティン・ヨハンソン。
 そんな伝説の捜査官を主人公にしたスウェーデンの超有名シリーズを、やっと日本語でお読みいただけるようになった。2月に刊行された『許されざる者』(創元推理文庫)のことだ。

 おまけに刊行以来、各所で書評を書いていただいたり、こちらの翻訳ミステリ大賞シンジケートでも七福神さまに取り上げていただいたり。すでにかなりたくさんの方にお読みいただいているようで、感極まっているところなのです。
 ネット上で皆さんの感想を読ませていただくうちに、日々強くなってきた「ああ、わたしも一緒に語り合いたい!」という気持ちが、この原稿に結実いたしました。もちろん、まだお読みでない方も、ネタバレはないので安心してお読みください。
 
 主人公のヨハンソンは、伝説の捜査官というだけではない。警察組織内で「オーダーレン(←ヨハンソンの故郷)から来た殺戮者」と恐れられたほどの鬼上司でもあった。
 このシリーズ自体は1978年に始まり、当時のヨハンソンはまだペーペーの捜査官で、同期の親友ヤーネブリングと共に夜な夜なストックホルムの街をパトロールしていた。ヨハンソンはそこから、最終的に国家犯罪捜査局の長官にまで上り詰めたのだ。どう考えても、スウェーデンミステリ史上もっとも出世した主人公である。
 本作『許されざる者』は、ヨハンソンが定年退職したあとに巻きこまれた事件の物語だ。
 物語は、美しい夏の夜にスウェーデンいちと謳われるホットドッグの屋台で始まる。ヨハンソンは焼き立てのソーセージの天国のような香りに恍惚としながら(ここでめくるめく各種ソーセージの描写をお楽しみいただきたい)、いそいそと自分の車に戻る。ところがいざ一口かじろうとした瞬間に、脳塞栓を起こして意識不明の重体に陥ってしまうのだ。ソーセージを一口も食べられないままに。ああ、なんたる悲劇。
 実はこの脳塞栓、著者ペーションの実体験であるという(ただし、著者の場合はソーセージの屋台ではなく、自宅で就寝中に起こしたのだが)。病院で意識を取り戻したときに、自分の顔に死斑が浮かんでいるのを見たのも、実際の体験だそうだ。作品の中で綴られるヨハンソンの闘病生活や苦悩が驚くほどリアルなのもうなずける。
 病院で意識を取り戻したヨハンソンは、美しすぎる主治医から、二十五年前の未解決事件の手がかりを受けとる。それは、レイプされて殺された九歳の少女ヤスミンの事件だった。このようなおぞましい事件がいまだに未解決だということに元長官のヨハンソンは責任を感じ、脳塞栓の後遺症に苦しむみながらも、事件の捜査を始めることになる。
 しかしヨハンソンの前には難題が立ちはだかっていた。この事件は最近時効を迎えてしまっていたのだ。見つけだした犯人を、いかにして罰するのか――。
  
■愛すべき脇役たち
 ヨハンソンの脇を固めるのは、個性豊かな仲間たちだ。身体の自由が利かないヨハンソンを、彼らが常にサポートしている。年齢も出身もバラエティーに富んでいて、訳すのがとても楽しかった。ヨハンソンについては「わし」という一人称で貫録を出したが、同期のヤーネブリングはいまだに若い子からもモテモテで(メタボですらない!)、「おれ」を使ってもっと若々しい話し方にしてみた。ヨハンソンの介護をするマティルダは、まだ若くて話し方もギャルっぽいが、実は機転の利く賢い女の子だ。用心棒的マックスも年齢は若いが、もともとはロシア出身でスウェーデン語は母国語ではないということで、話し方はやや硬くしてみた。
 そして忘れてはならないのが――いや、本作を読んでくださった方は忘れろと言っても忘れられないと思うが、脇役として異彩を放つ捜査官ベックストレームである。彼が、この事件が未解決となった諸悪の根源なのである。
 
 よりにもよってこのベックストレームを主人公としたシリーズが、スウェーデンでは『許されざる者』より前の2005年から始まっている。それがアメリカでドラマ化されたこともあり、国際的にはベックストレームのほうがヨハンソンよりも有名な存在かもしれない。こんなスウェーデン警察の恥みたいな男が……。なにしろベックストレームはチビ・デブ・ブスと三拍子揃った上に、男尊女卑で、人種差別的発言も頻発するという、とんでもないヤツなのだ。
 スウェーデンに #MeToo の波が押し寄せたとき、わたしの頭には真っ先に浮かんだのがこのベックストレームとセバスチャン・べリマン(『犯罪心理捜査官セバスチャン』など[創元推理文庫])だった。二人ともスウェーデンミステリを代表するセクハラ男である。しかし、一応仕事では活躍するセバスチャンにひきかえ、ベックストレームは仕事でも無能ときた。というか、さっさと帰って冷たいピルスナーを飲むことしか考えていないのだ。そのほかにもあきれるような所業の連続で、当然、当時長官だった鬼のヨハンソンの逆鱗に触れる。その一方で、あるペットに愛情をそそぐという、らしからぬ側面も見せてくれる。とにかく目が離せない存在なのである。
 
■著者レイフ・GW・ペーションについて
 著者はスウェーデンではGWギエヴィエの愛称で呼ばれ、その名を知らぬ人はいないほどの有名人だ。もともとは犯罪学の教授であり、国家警察委員会のアドバイザーも務めていたが、ある政治スキャンダル事件に巻きこまれてクビになってしまう。このあたりの詳細は杉江松恋氏が本作の解説に詳しく書いてくださっているので、ぜひ読んでいただきたい。
 クビになったあとにミステリ小説を書き始め、若き日のヨハンソンとヤーネブリングが活躍する三部作シリーズ(1978年、1979年、1982年)が誕生した。その中ではヨハンソンらが、著者自身が巻き込まれた政治スキャンダルの捜査にかかわり、売春宿の張り込みをする場面も出てくる。
『福祉国家の失墜』と名付けられた次の三部作(2002年、2003年、2007年)では、ヨハンソンは国家犯罪捜査局長官代理にまで出世を果たし、パルメ首相暗殺事件や西ドイツ大使館人質占拠事件など、スウェーデンで実際に起きた衝撃的な事件を捜査している。
 現在までにベックストレームのシリーズも四作目まで刊行されており、リサ・マッテイやアンネ・ホルトなどおなじみの仲間が登場するスタンドアローンの作品を含めると、ヨハンソンをめぐる物語は実に十二作に上る。スウェーデンの読者にとっては、78年以来、ヨハンソンの成長を見守ってきた感があるのだ。
 著者はマスコミへの露出が多く、長年テレビで犯罪番組をもっているし、何か事件が起きればタブロイド紙が彼のコメントを掲載する。スウェーデンで暮らしていると、彼の顔を見かけない日はないといっても過言ではない。マスコミに登場する彼は、いつもボサボサの髪と髭で、無気力な表情をしている。おそらく脳塞栓の影響が大きいのだろうが、それがGWのキャラとして確立されている。
 つまり、ペーションはスウェーデンでもっとも有名なミステリ作家のひとりなのである。なぜその作品がこれまで日本に紹介されなかったのかと、首をひねる方も多いかもしれない。その理由は単純だ。北欧ミステリブームが起きたのは『ミレニアム』(スウェーデンで2005年に刊行)がベストセラーになった前後であり、そのかなり前から続いてきたシリーズについては、エージェントも今さら売りづらいというのがある。しかしそんな作品こそ、わたしのようにスウェーデンミステリという宝の山をせっせと掘り返しては日本に紹介することで食いつないでいる者にとっては、貴重な天然資源だ。
 ペーションらと並んでスウェーデンミステリ界に長年君臨している巨匠といえば、ホーカン・ネッセルがいる。ネッセルは1997年から三十作品以上を発表しているが、邦訳は『終止符(ピリオド)』 (講談社文庫,2003年)のみで止まってしまっていた。こちらも、うれしいことに、来年には最新作が東京創元社から刊行されることになっている。

■本作がスウェーデンで愛されている理由(たぶん)
 この作品がスウェーデンでこよなく愛されている理由をわたしなりに考察してみたが、それはスウェーデン人が理想とする価値観が余すことなく描かれているからではないかと思う。正義とは、人生とは、理想の親とは、理想の生き方とは――。主人公であるヨハンソンは人生の末期にさしかかり、そのひとつひとつに自分なりの答えを出していく。
 捜査の原動力が、謎解きへの執念ではなくて、正義感であり被害者への同情であるという点にも読者は救われる。そこには、死刑制度のないスウェーデン人の価値観もよく表れていると思う。人がどれほど努力しても(それが国家犯罪捜査局の元長官であっても)どうにもならない部分については、牧師の父親が言うところの「神の采配」が下らんことを願うしかないのだ。
 人生の残り時間を悟ったとき、自分ならどう生きるだろうか。医学的なアドバイス、愛する者たちへの配慮、そして自分の理想――ヨハンソンはその間で葛藤しつつも、彼らしい生きざまを見せる。スウェーデンでは延命治療というのは基本的に行われないし、病院ではなく自宅で息を引き取ることを望む人が多い。ヨハンソンの選んだ生き方は、スウェーデン人の究極の理想であるのかもしれない。
 一方で、マチルダやマックスのような生い立ちの若者が存在することも、スウェーデン社会の現実である。それでも誠実に生き続ける若者たちに、ヨハンソンは父親のような愛情を抱き、世話を焼く。若者を外見だけで判断しないことも、スウェーデン人が目指す大事な価値観のひとつだと思う。
 また、ヨハンソンは発作を機に、故郷ノルランドへの思慕を募らせていく。警察組織のトップにまで上り詰め、ストックホルムの中心部の高級マンションで悠々自適の生活を送る彼の心が還りついたのは、質素ながらも愛情と自然の美しさにあふれた故郷での暮らしだった。それに、昔ながらの本物のスウェーデン料理。現代人の健康にはあまりよくないが、それがヨハンソンの大好物なのである。
 実際のところ、現在のスウェーデンでは農場での暮らしや田舎の生活に憧れている人が多い。仕事の都合で普段は都会に住んでいても、田舎に別荘をもっていたり、秋になると猟に出かけたりもする。このあたりも、ヨハンソンの選択にはスウェーデン人の理想が詰まっていると感じる。

■著者の自伝を読んで
 この作品を訳すにあたって、著者の自叙伝『Gustavs Grabb(グスタフんとこの坊主)』(2010年)を大変興味深く読んだ。というのも、『許されざる者』には著者自身の人生を重ね合わせた部分が多々あるということがわかったからだ。
 ネタとして面白いところとしては、犯人の履歴書が実は著者本人の経歴のオマージュであることだ。深い意味はないのだろうが、通った高校が同じだし、夏のアルバイト先もことごとく同じである。
 また、ヨハンソンにとって並々ならぬ思い入れのある故郷ノルランド地方には、著者もやはりゆかりがある。ペーション自身はストックホルムの生まれ育ちだが、両親がともにノルランドの出身である。彼らは、ペーションの父親がストックホルムの鉄道敷設工事の職を得たことで、首都へやってきた。肉体労働者の息子として都会の片隅で質素な暮らしを送ったペーションは、祖父母をはじめとする親戚が暮らすノルランドを故郷のように思っていたのだろう。特に母方の祖父は地元で財を成した人物で、時代は違えどまさに〝エーヴェルト兄さん〟のイメージだ。
 余談ではあるが、わたし自身もそのノルランドで、地味ではあるが心満たされた暮らしを送っている。この作品のあちこちに現れるノルランドの美しい風景や人々の実直さの描写は、地元愛の強いわたしとしては感涙ものだった。
 確かにこのあたりの人たちは、秋のヘラジカ猟に並々ならぬ情熱を燃やしている。著者自身も猟が趣味であり、それにまつわるテレビ番組が作られたり料理本が出たりもしている。
 自叙伝を読むと、五〇年代のスウェーデンには今では信じられないような社会階級差別が存在したのがわかる。著者は幼い頃からたぐいまれな知能をもつ神童だったが、肉体労働者の息子だという理由だけで小学校の先生からは劣等生扱いをされてきた。また、出世して上流階級に出入りするようになってからも、「労働階級出身のくせ」と悪口を言われて、相手を殴ったというエピソードもあった。
 スウェーデンは今でも労働者(オフィスワーカーも含めて)の国だ。自らの能力と専門性を磨き、上流階級と闘ってきた著者が、多くのスウェーデン人の共感を得ていることは不思議ではない。田舎の農場育ちから国家犯罪捜査局の長官にまで出世したヨハンソンがスウェーデンの読者に愛されている理由もそこにある。
 人生をどう生きたいか――著者はその答えを、ヨハンソンの生き方に投影させたのだろうと思う。
 
■おわりに
 スウェーデンミステリ史上もっとも出世した捜査官ともっとも無能な捜査官が活躍(?)するこのシリーズ。一冊読めばあなたもGWワールドの虜になることまちがいなし。今後一冊でも多く日本に紹介できるよう努力することを誓いつつ、このへんで終わりにしたい。普段地球の北の隅で孤独に翻訳をしているものだから、書きだしたら止まらなかった。長文、お許しください。
 

久山 葉子(くやま ようこ)
 マックスの母ちゃんが病院勤めをしていた街在住。書斎の窓から見える島に、エーヴェルト兄さんの別荘があるらしい。
 そんな景色を眺めながら、翻訳したり、高校で日本語を教えたり。今さらながら教職を取るために、ストックホルム大学の学生もやってます。
 主な訳書:モンス・カッレントフト『冬の生贄』、シッラ&ロルフ・ボリリンド 『満潮』、トーヴェ・アルステルダール『海岸の女たち』(創元推理文庫)など

 

■担当編集者よりひとこと■

 この『許されざる者』を刊行して、皆様から一番多く寄せられたのは「どうしてこの作家がいままで日本で紹介されなかったのか」との声でした。
 はい、まさしく私も「どうしていままでこの作家を見逃していたのだろう」と、大反省しました。
 主人公をはじめとした登場人物のキャラクターよし、ページターナーなストーリーよし、すでに時効をむかえている事件をどうするのかという問題提起よしと、こんな凄い作品を書ける作家を放っておいたなんて……。ほんとうにごめんなさい。
著者のレイフ・GW・ペーション氏についてなどは、もう翻訳者の久山葉子先生がこれ以上ないほどしっかり書いてくださっていますので、もう付け加えることはありません。
 でも、これだけは言いたい。
 北欧ミステリが誇るヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダーや、アーナルデュル・インドリダソンのエーレンデュールと並ぶ素晴らしい捜査官(なんといっても元国家犯罪捜査局の長官ですから)ラーシュ・ヨハンソンが活躍するこの『許されざる者』、読んで絶対損しない保証付きの面白本です!

(東京創元社・K)

 


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