——イワシの頭もシンジケートと申しまして

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

 

加藤:今年も行ってきました翻訳ミステリー大賞贈賞式&コンベンション。シンジケートの皆さま、参加者の皆さま、本当にお世話になりました。

 今年も「七福神でふりかえる」は面白かったなあ。2017年の北上さんの推しはなんと言ってもカリン・スローター。その面白さを熱く語りながら、他の本のことは綺麗に忘れているというお約束の展開。楽しませていただきました。でも、よくよく考えたら、一年前の本なんて皆んな覚えてる? 北上さんが忘れっぽいんじゃなくて(そもそも僕らの何十倍もの本を読んでるわけだし)、むしろ事細かく覚えている川出さんや杉江さんのほうが変態なんじゃないの、という結論に仲間内で落ち着いたのでした。

 さてさて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」。今回のお題は、ピーター・ディキンスン著『生ける屍』。1975年の作品です。

医薬品会社の研究員フォックスは、カリブ海の島にある小さな研究所へ派遣された。骨休みのつもりのフォックスだったが、そこは怪しげな呪術を信仰する住民たちを独裁者一族が力で支配する前時代的で物騒な島だったのだ。単調な仕事と日々起こる不気味な出来事に嫌気がさし、島を出ることを決意したまさにその日、フォックスは身に覚えのない殺人の容疑で逮捕された。そして彼は独裁者から囚人たちへの人体実験を強要される……。

 うーん、自分で書いておきながら、これは間違った先入観を与える粗筋だなあ。絶対にゾンビが出てきそうだもん。そもそも、タイトルからしてそれしかないって感じだし。まあ、それについては追々説明するとして……。

 さて、著者のピーター・ディキンスンは1927年生まれのイギリスの作家。アフリカで生まれ、幼少期を世界各地で過ごしたのだそうです。デビュー作『ガラス箱の蟻』で1968年のCWAゴールド・ダガー賞を受賞し、翌年の第2作『英雄の誇り』で2年連続のゴールド・ダガー賞を受賞したというから、大谷翔平もビックリの超大型新人だったようですね。

 さて、改めて書くけど、本作はゾンビものではありません。そんなミスリードは作者の望むところではないでしょうから、最初に書いときました。

 主人公フォックスが相棒の実験用ネズミとともに、様々な困難を切り抜けてゆく、脱出系冒険小説ぽいというかロードノベルチックなお話なんだけど、これが舞台となっている島の人々が信奉する土着の呪術とミックスしてとても不思議な味わいになるという。たぶん何を言ってるのか分からないと思うんだけど、僕も何を言ってるのか分からない。

 でも、そんなお話なのです。

 

畠山:コンベンションにご参加の皆様、おつかれさまでした。翻訳ミステリー大賞読者賞とで違う作品が選ばれて興味深かったですね。それだけ昨年は傑作が多かったということなのでしょうか。読者としては嬉しい限りです。

 今回は懇親会がなかったので仲間内(と呼ぶには豪華な面々!)で中華料理の円卓を囲み、三次会ではシンジケートの首領、田口俊樹先生を囲んでざっくばらんなお話ができました。楽しかったなぁ。

 特筆すべきは、加藤さんの傍若無人ぶりですね。田口先生を目の前にして、いつも訳書が候補に選ばれながらも大賞を逃していることをあげつらい「田口さんは翻訳ミステリー界のディカプリオだよね、ウヒャヒャヒャヒャ」と嗤い、果ては「いいじゃん、死んだら功労賞をあげれば」と言い放ちまして、酒場の気温は一瞬氷点下に。思わず私は、不自然に膨らんだジャケットの内側に手を伸ばしましたよ。ヤツの口を封じねばと。

 ところがそれを「わははは!こいつめ!O(≧▽≦)O」と笑い飛ばしてしまう田口先生の懐の深さっていうか、脱力ぶりっていうか、なんていうか、あれこそ神対応? いや神そのものですね。後光がさしてたもの。

 さて、今月のお題『生ける屍』。もちのろん、初めて読む作品です。で、思ったわけです。そうだ、コンベンションで上京する時の旅のお伴にしようと。

 ウキウキ気分で飛行機の座席に収まり、♪今~わたしはコバルトのかーぜーー♪ なんて脳内BGMに酔いながら本を開いたら、待っていたのはなんともヘンテコで不気味で奇妙にねじれた世界。

 ななな、なんだ?このワケワカンナイ世界は!? 主人公はなんだか覇気がないし、島の人々は明るい狂気の人ばっかりだし、シュールなやりとりの連続でストーリーはそんなに進むわけじゃないし。ハッキリイッテタビニアワナイ……。

 つながりありそうでなさそうな、意味ありそうでなさそうな一筋縄ではいかない雰囲気に、ドラマ「プリズナー№6」を思いだしつつ、まさしく第一章のタイトルどおり「迷路の中へ」踏み込むこととなりました。

 戸惑いっぱなしのまま主人公フォックスと共にあっちこっち連れ回され、ようやく読み終わって、さて無事に迷路から出られたかというと、率直に言って、「ここが出口でいいんしょうか?」と誰かに訊きたい気持ちでいっぱいです。私、今どこにいるんでしょう?

 

加藤:畠山さん、なに言っちゃってんの? 急に暖かくなったもんだから、頭のなかでビフィズス菌が美味しく発酵してるじゃないかって心配になるよ。

 あの日の僕がちょっとだけ飲み過ぎてたのは認めるけど、敬愛する田口さんにそんな失礼なこと言うわけないだろ。いや、言ったとしても、もうちょっとマイルドだっただろ。そもそも、あの田口さんを生きてるうちに評価しようなんて、おこがましいんだよ。ああ、言えば言うほど墓穴掘ってる気がしてきた。

 さて、『生ける屍』の話をしましょうか。

 この話では、土着信仰とか迷信が重要な舞台装置として描かれているのですが、読んでいて思い出したのが、少し前に問題になった大相撲の「土俵に女性があがれない問題」。こういう非科学的かつ前時代的な風習というか伝統というか固有の文化を、現代に生きる我々はどこまで尊重するべきなんでしょうね。

 実は僕のライフワークでもある手筒花火の世界でも、同じような問題が常につきまとうのです。最近では珍しくなくなった女性の揚げ手は是か非かって。手筒花火とはつまるところ、竹に詰めた黒色火薬に火をつけて、如何に爆発させずにゆっくり燃焼させるかというもの。万全の安全対策をした上でなお、事故や怪我はある程度覚悟して臨まなくてはなりません。伝統以前にそんな危険なものを女性にやらせていいのかというのもよくわかる。

 江戸時代の初期から続くある神社では、今でも女人禁制なのはもちろん、揚げ手は竹を取ったその日から本番までの約1か月間、「獣肉を食べない」「女性に触れない」が絶対のルールなのだそうです。

 時代錯誤も甚だしいとも思うけど、こういったしきたりや迷信、ジンクスの類には実はワケがあるのでしょうね。問題が起こったときにいろいろ試した結果、それをやったら(たまたま)うまくいったとか、逆にそれをやめたら(たまたま)悪い事が起こったとか。

 何が言いたいかと言うと、人の世ってのはどこまでいっても「イワシの頭も信心から」なのかもってこと。信じたモン勝ち。すべてのことが科学で説明できたらつまらない気もするしね。

『生ける屍』で描かれる不思議な力もそんな感じ。その力が存在すると信じる人にしか通じない力。結局、それが存在するのかしないのかは誰にも分からないんだけど。でも、ちょっとあったらいいなみたいな。

 この本を読んでいて、つくづく頭の柔軟性が試されていると感じたなあ。なかなか無い、ちょっと不思議な読後感。畠山さんの言うように、実はまだ迷路を彷徨っているんじゃないかと思えてしまいます。

 

畠山:イマイチ噛み合わない上司に、狂気の独裁者一族、ホッグ島独特の不思議な信仰、秘密警察による徹底監視、そして反対勢力の人を捉えて行う人体実験……どっちを向いても狂気一択! といった環境に据えられるフォックス。

 研究技術者の彼は、仕事へのこだわりは強いけれど、他の部分は拍子抜けするほど稀薄で、無関心無感動ともいえるタイプです。とはいえ、流れ流れて、気づけば人体実験のお先棒を担いでますって、フツーどっかで「これはヤバイ!」って思うでしょう!? 私ならヘビの頭を噛みちぎってる人を見た段階で(それが15頁目であろうとも)「帰ります!」って宣言すると思う。なぜフォックス君はその状況を淡々と受け入れてしまうのか?

 別れた彼女はそんな彼のことを「生ける屍(=Walking Dead)」と評したわけです。嗚呼、なんて辛口。

 でも、私たちも日常でそんな状態になってることってありません?

 感情のスイッチを切って、自分のキャパとか、善と悪とか、世の常識とか、そういうことを考えないようにして、そこのルールに自分を合わせ、とにかく課された仕事を淡々と(終わるまで)こなす日々。ああ、書いてるだけで虚しくなってきた……。

 そう考えるとフォックスは全然特殊な人じゃなくって、むしろ私たちはかなりフォックス的な要素を持っていて、つまるところ世の中は「生ける屍」で溢れている。見慣れた通勤の風景がふと、“彷徨う服と肉体の組み合わせ”だらけに見えたり、今歩いている自分自身も、ガラスに二重写しになったぼや~んとした方かもしれない、なんてつい思ってしまうのでした。はっ!……も、もしかしてこれって……社畜文学!? ヒーッ!

 いやいや絶望するには及ばんよ、皆の衆(フロスト警部に愛をこめて!)。

 ヘンテコではあるけれど、イヤミスとも言えないこの作品。社会風刺がきいていて、気味が悪いのになんだかクスッと笑えちゃうし、ラストにほんのり救いの光を見つけられたりして、不思議と読後は悪くないのです。

 特に「科学の人」であるフォックスが、わりあい抵抗なく呪術や迷信の世界を受け入れて、島から脱出するために自ら利用していく妙な柔軟性には瞠目しました。

 今役に立たない理屈は横に置いといて自分を現実にアジャストさせていく……おお、モノは言い様大泉洋、社畜生活もなんとなく誤魔化せ……(以下、矜持を取り戻して断固否定)

 一度読んだだけで理解しきれる作品ではないのですが(少なくとも加藤さんと私はそうだった)、トライする価値、再読する価値は十分にあるでしょう。一時期は超入手困難のため幻の小説と言われ、古本に大変な高値がついたというのもわかる気がします。

 復刊された意義は大きい! 未読の方も昔読んだなーという方も、ぜひこの迷路の中へ。

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 ピーター・ディキンスンの長篇デビュー作は1968年に発表された『ガラス箱の蟻』でした。現地ではすでに社会の一単位を構成することができなくなった部族がニューギニアからロンドンのアパートに引っ越し、生まれ故郷とはかけ離れた環境で無為の日々を送っている、という状況設定がまず目を惹きます。この部族が絶滅に追いやられたのは旧日本軍の侵略が原因なのですが、彼らを「ガラス箱の蟻」のように標本化している英国人も、もちろん賛美の対象にはなっていません。自国文化中心主義がさりげなくどころか、かなりわかりやすく駄目出しされているわけで、その中で起きる殺人事件は、読者を注目させるために状況を切り裂いて、断面図を作り出す働きをしています。

 第二長篇の『英雄の誇り』は、上流階級のスノビズムをこれでもかというように笑いのめした内容であり、カリカチュアライズの技法は第一作よりもわかりやすい。この二作でディキンスンはCWAゴールドダガーを同時受賞していますが、高評価を与えられた理由の一つはこの諷刺小説的な構造にあったとみて間違いないでしょう。

 以降のディキンスンは現実をたやすく飛び越えるような設定も駆使するようになり、現在で言うところのクロスオーバー作家になっていきます。土台にあるのは文明批判の姿勢で、奇跡的に復刊された本書、『生ける屍』にしても、第一作から共通して彼が提示し続けてきた自国文化中心主義への批判的な姿勢、資本主義が世の正義であるどころか、時には悪魔の側に手を貸すことが正当化してしまうことが物語の中で示されます。

 英国ミステリーにはディキンスンのように、自分たちの拠って立つものを皮肉な目で眺め、相対化することから何かを生み出そうとするものの系譜があります。諷刺小説とミステリーの相関を考える上でディキンスンは最重要作家といえるでしょう。ミステリー評論の用語を使って言えば、ディキンスンはもちろん奇想作家であります。奇想ミステリーの中には、特殊状況を作り出すことによってその作中でしか通用しない論理を成立させ、読者に驚きのある推理を提供するというものがあります。もちろんそうしたタイプの作家として読むことも可能です。デビュー作発表から50年、その間に世界は、真実を暴いたからといって正義が貫かれるとは限らない、おそろしくへんてこなものに変貌を遂げています。そうした時代の先取りをした作家として、今後さらにディキンスンの再評価は進んでいくはずです。

 さて、次回はスティーヴン・キング『シャイニング』ですね。また、楽しみにしております。

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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