みなさま、カリメーラ(こんにちは)!
 これから十回ほどの予定で、日本ではまだ馴染みのない「ギリシャ・ミステリ」を紹介させていただくことになりました。よろしくお付き合いください。

◆「ギリシャ」のミステリとは

 日本で「ギリシャ」というと、古代ギリシャのことであり、「ギリシャ・ミステリ」とは古代悲劇「オイディプス王」のことかと思われるかも知れません。確かにこの傑作は結末に向けて主人公の素性が次第に曝かれていく異様なミステリ的迫力に満ちています。
 しかしここでお話したいのは、現代のギリシャ人の手になるミステリ小説のことです。
 現代ギリシャの普通文学はオスマン・トルコから独立した十九世紀前半以来の歴史を持っています。最初の長編小説(書簡体の恋愛小説)が書かれたのが1834年。それ以降、ストーリーにミステリ的趣向を取り入れた作品は少なくありません。村の風俗を流麗な擬古体で活写したヨルゴス・ヴィジイノス『誰が我が兄を殺したのか』(1883年)でストーリーを巧みに構成し殺人者を結末でようやく明かす物語を作り上げました。膨大な数の短編小説を残したアレクサンドロス・パパディアマンディスは、社会的弱者として追い詰められた女が幼女殺しを繰り返す異常な心理を『女殺人者』(1903年)で描いています。しかし、いずれも純文学の作家がそれぞれの物語を紡ぎ上げるために犯罪を素材として使った例です。
 二十世紀の三十年代になって、通俗ミステリや冒険物を掲載する廉価な雑誌が現れます。アメリカの『ブラックマスク』誌に触発され刊行が始まった『マスカ(仮面)』『ミスティリオ(謎)』の二誌はスリルに富む物語を読者に提供し、ミステリ普及の地盤を固めていきました。ただ、掲載されたのは米英仏の翻訳物やギリシャ人作家がわざわざ英語名を使った、外国が舞台の話でした。ニューヨークやロンドンでの探偵の活躍こそミステリ! と発行者も読者も思っていたのです。
 
 では、ギリシャを舞台にしたギリシャ生まれのミステリはいつ頃現れるのでしょうか。創元推理文庫にはアンドニス・サマラキス『きず』(1965年)という作品が入っています。架空の警察国家を舞台にした巧みな構成の長編小説ですが、しかしこの人はもともと純文学の系列に属する作家です。

 もし、広い読者層を対象にした通俗娯楽作品の書き手を探し求めるなら、サマラキスと同世代で二十世紀の半ばに新聞連載を通じギリシャ人たちを熱狂させたひとりの人物に行き着きます。ヤニス・マリス(1916-1979)です。本名をヤニス・ツィリモコスと言い、第二次大戦中は左派のレジスタンスに参加、戦後はジャーナリストとして活躍しました。従兄弟には首相を務めた人物もいます。ギリシャは第二次大戦中の大半がドイツ・イタリアに占領され(アクロポリスに翻る鉤十字の写真は異様です)、戦後すぐに内戦に突入という苦難の歴史を辿っています。左派が破れて内戦もようやく収まり、アメリカの経済支援によって都市が繁栄し始める五十年代にマリスのミステリは登場しました。
 

◆記念碑的デビュー作『コロナキの犯罪』

 ヤニス・マリス『コロナキの犯罪』
 アトランティス社
 初出1953/再版2012

 1953年雨のそぼ降る深夜。アテネのコロナキ区に住む富裕な画家カルネジス邸の電話が鳴り響きます。知人フロラスが妻ジャネットのことで話をつけに行くと言うのです。翌朝ヘルメス像で撲殺された死体が見つかります。警察は三角関係のもつれの犯行と断定しフロラスを逮捕。ところがその息子ディミトリスが帰国、真犯人捜索に乗りだします。実は後ろ暗い過去を持つカルネジスは大勢の恨みを買っており、容疑者がぞろぞろ登場します。警察も事件の見直しを始めますが、担当するのはアテネ警察殺人課ヨルゴス・ベカス警部。小太りで太い口髭。黒縁眼鏡、暑くてもネクタイを外さない野暮な風体。上流階級の紳士淑女には胡散臭く見られ、修理工場のおやじや掃除のおばさんには気に入られる庶民派です。しかしその風貌に似合わず、鋭敏な直感と心理分析を武器に粘り強く事件を追います(ベカスの造型にはシムノンのメグレ警視の影響があります)。しかし奸智に長けた犯人は警察の裏をかいて第二、第三の犯行を続け、あと一歩で捕まりません。最後は港町ピレウスでの大アクションとなります。
 このデビュー作『コロナキの犯罪』はまず週刊誌『家族』に三ヶ月連載され好評を得た後、アトランティス社から書籍出版されました。それまで外国の翻訳ものを読んでいたギリシャの読者たちは泥臭い同国人の警官が得体の知れない殺人鬼を追って《わが街》アテネのオモニア広場や港町ピレウスの街角を走り回る姿に熱狂したことでしょう。1959年には映画化もされました。以降、「ベカス」はギリシャ・ミステリの探偵の代名詞となっていきます。まさに国産ミステリの記念碑となる作品でした。
 

◆マリス・ミステリの流行

 第二作『楽屋の犯罪』(1954年)でも同じくベカス警部が主人公となり、国立劇場の楽屋での密室殺人に挑みます。この密室トリックは日本の島久平氏の作品にも類似例があり、実に簡単で(実現可能な気にさせるほど)リアルなものですが、ベカスはおおいに苦しみ、「殺人光線で殺したんだろ!」などとボヤいています。

 ヤニス・マリス『楽屋の犯罪』
 アトランティス社
 初出1954/再版2012

『楽屋の犯罪』は新聞『アポイェヴマティニ(午後)』紙に連載されたのち、これもアトランティス社から書籍出版されます。以降マリスはこの方式で次々に作品を書き続け(多い場合には年に6作!)、1978年最後の長編『誘拐』まで、長編46作、中短編22作を残すことになりました。編集をこなし記事や歴史小説を書きながらこれだけの作品を残したのですから、たいへんな情熱です。編集者としては純文学の大家四人に依頼してリレー小説『四人の物語』(1958年)を書かせた功績もあります。この作品はアガサ・クリスティーたちのリレー・ミステリ『漂う提督』の趣向を借りたものですが、一人の作家の好みによって、恋愛メロドラマが途中からミステリ風になってしまったという怪作です。

 ストラティス・ミリヴィリス他『四人の物語』
 エスティア社
 第2版1980

◆マリス・ミステリの魅力

 マリスのミステリは基本的に三ヶ月ほどの新聞連載を前提とする通俗スリラーです。描写は簡潔で、会話を多用し、アクション、ラブロマンスをちりばめては読者の興味を引き続けます。連載なのでトリックは複雑なものではありません。読者はベカス警部に同行し、正体不明の犯人を追いながら複雑に絡み合う人間関係が次第に解きほぐされていく過程を楽しめばいいのです。
 作品ごとに様々な趣向も凝らされています。『楽屋の犯罪』では密室殺人、『十三番目の乗客』(1962年)は連続殺人をつなぐミッシング・リンク、『虹作戦』(1966年)は戦争冒険もの、『めまい』(1961年)はギリシャならではの古代発掘品密売、『9時45分の列車』(1960年)では舞台を19世紀に取った歴史ミステリという具合です。
 他にも、1948年内戦時のテサロニキで実際に起きたアメリカ人ジャーナリスト殺害の謎を小説化した『誰がポルクを殺したのか』(1977年)という作品もあります。

 ヤニス・マリス『十三番目の乗客』
 アグラ社
 初出1962/書籍刊行2012
 ヤニス・マリス『虹作戦』
 アトランティス社
 初出1966/書籍刊行年記載なし
 ヤニス・マリス『めまい』
 アグラ社
 初出1961/書籍刊行2013
 ヤニス・マリス『9時45分の列車』
 アグラ社
 初出1960/書籍刊行2015
 ヤニス・マリス『誰がポルクを殺したのか』
 アグラ社
 初出1977/書籍刊行2016

 マリスのミステリはとにかく読者サービスが旺盛。そのためには強引に観光名勝を舞台に取り入れます。巨岩群頂上の修道院で有名なメテオラでの銃撃戦、海を背景に立つスニオン岬のポセイドン神殿での張り込み(犯人はたいてい海辺に豪邸を持つような上流階級)、エピダヴロス劇場でソフォクレスの古代劇を楽しみながら(!)の容疑者追跡(一応仕事はしています)、古代の神託で知られるデルフィの博物館の奇抜な強盗計画(映画「黄金の七人」がやりたかったのでしょう)などトラベル・ミステリーとしても楽しませてくれます。
 占領軍への抵抗、左派の闘士という作家本人の経歴・政治的信条にも拘らず、作品ではエンターテインメントを押し出し、社会問題や政治へのコメントの類いは封印しています。犯行の動機は、黄金期の本格ものが扱ってきた金銭欲、愛憎関係といった個人的なもので、組織犯罪、政治・司法・警察の腐敗などは出てきません。この点は後の世代の作家たちと大きく異なるところです。注意深く読むと、記述の端々には戦時中同胞を裏切りドイツ軍の手先になった者への嫌悪や占領軍そのものへの反感などが込められてはいるのですが、前面に現れるわけではありません。
 1971年の『恐怖の夏』は軍事独裁政権(1967~74年)のまっただ中で書かれた作品だけあって、高圧的でイヤミな上司が登場しますが、事件そのものは個人的な愛憎関係にからむ犯罪です。ちなみにこの作品では、ベカスはすでに退職しており、友人の息子を救おうと何の後ろ盾もない立場で奔走しては何度も真犯人に愚弄されます。『コロナキの犯罪』以来その活躍を見守り続けてきた読者は戦いを諦めない老探偵を応援しないわけにはいかないでしょう。

  ヤニス・マリス『恐怖の夏』
 アトランティス社
 初出1971/書籍刊行年記載なし

 マリスを読んで育った世代の作家たちが1980年代から作品を発表し始めました。いわばギリシャ・ミステリ第二世代です。彼らはすでに普通文学での地位を確立していたり(例えばテオ・アンゲロプロス映画のシナリオを書いているペトロス・マルカリス)、ほかの専門を持つインテリだったり(テサロニキ大学建築学教授ペトロス・マルティニディスや映像作家・翻訳家アンドレアス・アポストリディス)と、広範な読者に向けた新聞連載のマリス・ミステリとは傾向が異なります。しかし皆《我々はヤニス・マリスの子供だ》、《マリスこそギリシャ・ミステリ文学の父だよ》と口をそろえて言うのです。生前多くの熱狂的な読者を獲得したとは言え、文学として評価されることのなかったマリス作品を研究価値ありと再評価したのもこの世代の作家たちです。上のアポストリディスは研究書『ヤニス・マリスの世界』(2012年)でマリスの全作品を解説しています(これは先輩作家への愛が高じて主要作品の結末まで割ってあるという危険な本ですが)。

 アンドレアス・アポストリディス『ヤニス・マリスの世界』
 アグラ社、2012
 (くわえタバコの人物がヤニス・マリス)

 
 2010年にはこれらの新しい世代、あるいはさらに第三世代の作家たちが「ギリシャ・ミステリ作家クラブ(略称Ε.Λ.Σ.Α.Λ.)」を創設し活発な活動を行なっています。(ホームページは以下で見られます。英語の解説もあります)
http://www.elsal.gr/index.php/el/
 2016年からはミステリ専門誌『The Crimes and Letters Magazine(略称CLM)』(半年刊)も刊行され始めました。類書としてはギリシャ初。創刊号はもちろんマリス特集です。

 『The Crimes and Letters Magazine(略称CLM)』創刊号
 2016
 発行者: Greek infographics

 ヤニス・マリスの切り開いた道は見事に後輩たちに受け継がれています。
 

橘 孝司(たちばな たかし)
 台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。日本で知られていないこの分野をもっと紹介するのが念願。現代ギリシャの幻想文学・一般小説も好きです。ミステリ入信は小学六年生の時、J.D.カー『曲がった蝶番』から。
 現代ギリシャ文学作品(ミステリも普通文学も)の表紙写真と読書メモは、以下のFacebookの「アルバム」に紹介してあります。アカウントがあれば閲覧自由ですので、覗いてみてください。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100014275505245&sk=photos&collection_token=100014275505245%3A2305272732%3A69&set=a.233938743758641.1073741833.100014275505245&type=3









 

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