みなさま、カリメーラ(こんにちは)!
 
 前回お話しした「ギリシャ・ミステリの父」ヤニス・マリスは1950年代から70年代まで流行作家として活躍しました。同時期に作品を発表し始めた作家たちは他にもいますが、全作品が再版され続けているマリスに比べ、今日手軽に読めるわけではありません。
 

◆マリス以降

 マリス・ミステリで育った作家たちがその後1980年代から現れ始めます。1980年以降の二十年間に出版されたミステリ書籍は百冊近くに上ります(少ないと思われるかもしれませんが、ギリシャの人口は日本の十分の一です)。この新しい世代を俯瞰するのに最適なアンソロジーが2007年に出版されました。『ギリシャの犯罪』です。
 実はこのアンソロジーにはモデルがあります。アンドレア・カミッレーリ、マルチェロ・フォイス、カルロ・ルカレッリなど名のあるイタリア人ミステリ作家十名が2005年に書き下ろした短編集『犯罪』です。作家たちは各自のスタイルで「犯罪」という共通のテーマに迫ります。そのギリシャ語訳が2006年にカスタニオティス社から出版されました。

 アンドレア・カミッレーリ他『犯罪』
 
 カスタニオティス社、2006。
 イタリア・ミステリ短編集のギリシャ語訳

 
さらに一年後、同じ出版社が代表的なギリシャ人作家十人を集めて同様の企画を実現させたのが、この『ギリシャの犯罪』なのです。

 アンドレアス・アポストリディス他『ギリシャの犯罪』
 
 カスタニオティス社、2007。

 最初からシリーズ化を考えていたわけではないようですが、好評だったため第四巻まで出ました。このアンソロジーでデビューした若手もいる一方で、四巻全てに作品を提供している重鎮が六人います(うち二人は女性)。いわゆる「ギリシャ・ミステリ六歌仙」です(私が勝手に呼んでいるだけですが)。今回はそのうちの二人をご紹介しましょう。
 

◆「ギリシャのアガサ・クリスティ」アシナ・カクリ

「六歌仙」のうち最年長のアシナ・カクリ女史(1928-)はギリシャ第三の都市パトラの出身で、1950年代末にデビューした、むしろマリス世代の人です。マリスが広範囲な読者に向けて書いたのに対し、カクリ女史はミステリ・マニアが対象でした。もともとアガサ・クリスティが好きで、短編を書き上げて大手新聞に投稿したものの採用されず、結局週刊誌『郵便夫』に掲載されることになりました。当時ミステリはまだ文学として評価されておらず、雑誌社としても大きな決断だったようです。それだけカクリの才能に期待していたということでしょう。
 長編ミステリは『幽霊狩人』(1974年)一作きりなので短編専門です。当時の短編集は絶版ですが、『流行の犯罪』(2000年)、『悪魔の園』『切られた首』(いずれも2001年)という再編集もの三冊(それぞれ十三、四編を収録)で当時の代表作を読むことができます。シリーズキャラとして、ゲラキス警部、トゥ-ラ夫人、国際警察官ダポンデスの三人が活躍しますが、扱う事件も分業されています。

 アシナ・カクリ『流行の犯罪』
 
 エスティア社、2000。
 アシナ・カクリ『悪魔の園』
 
 エスティア社、2001。

 
 殺人など凶悪事件はアテネ警察殺人課バビス・ゲラキス警部の担当です。マリスのベカス警部の伝統を継ぐ、やはり口髭とタバコの探偵。手掛かりとレッドヘリングが撒き散らされた端正な作りの本格派作品に登場します。「ブルブーリの犯罪」はドミノ仮面・黒い衣装をつけ乱痴気騒ぎを楽しむパトラ市のカーニバル「ブルブーリ」が舞台、参加者が仮面をつけていたために誰が狙われたのかはっきりしないところがミソ。最後に罠を張って次の犯罪を防ぐところなどなかなか決まっています。「エギナ島の復活祭」はアテネ沖合の島で祝いの夜に起きた傷害事件。容疑者五人の動機が検討され、第二次大戦ドイツ占領下でのレジスタンスの裏切りかと思わせますが、そっちへ話は進まず、結局個人的な欲望の犯罪とわかります。「一本足の幽霊」は殺害されたのがカード占い師ということもあって、容疑者の一人の動機はなんと迷信絡み。「奇妙な聖ヴァシリス」では最後に事件を再現して聖ヴァシリス(=サンタクロース)に扮した犯人を自白に追い込むという懐かしい本格物の香り。ゲラキス警部はマリスのベカス警部よりスマートで、カマをかけながら犯人を追い詰めるなかなかの策士です。なにしろ短編専門なのでスピード解決が必須です(苦労人ベカス警部も数少ない短編では瞬く間に事件を解決します。例えばミコノス島が舞台の『四重奏』所収「アポロンの首」)。

 ヤニス・マリス『四重奏』
 
 アトランティス社、初出1960/再版2009。

 
 日常の犯罪を扱うのは作者の故郷パトラ市に住む詮索好きな主婦トゥーラ・フォティアディ夫人です。ミス・マープルと違い弁護士の夫がいます。「オルガ家の茶会」の家庭内の宝石盗難や「個人の幽霊」の地下の密室から聞こえる怪しい物音といった巷の事件に鼻を突っ込んでは見事解決していきます。あるいは北部の都市テサロニキでの墜落事件(「家をめぐって」)、古代オリンピアでの古代彫像盗難(「ヘスペリデスの林檎」)のように、旅先で首尾良く犯罪に出くわしては警察に助力します。人間に対する冷徹な視線がカクリ女史の特徴ですが、特にトゥーラものでは同性に辛辣です。「オルガ家の茶会」では盗難がきっかけで、うわべは友好的だった女たちがいがみ合いとなり、「個人の幽霊」でも、どうにも共感しにくい奔放で高圧的な女性が登場し探偵以上の存在感を見せます。
 「ピスタチオの中の塩」では、読者サービスでしょうか、両探偵が出会います(ピスタチオはギリシャの重要な産物の一つ)。船の待合室でたまたま耳にしたトゥーラ夫人たちのおしゃべりからゲラキス警部は一見単純な事件の背後の麻薬密売を曝きます。解決後警部がトゥーラ夫人に感謝の手紙を送るのはあり得ない展開ですが、夫スピロスが男性警官(読者には馴染みの名探偵)からの手紙を怪しみ嫉妬するのが笑えます。
 ナソス・ダポンデスは国際警察の刑事で国境を越えて活躍します。シャイで凡庸な風貌ながら、「ウプサラからの娘」で船上の宝石密輸事件を颯爽と解決。短編集の表題作でもある「切られた首」は外国人による古代遺物窃盗というギリシャ特有の犯罪で、巡業の見世物を利用していかにお宝を奪還するのかが見物です。「驚くべき霊媒シンシア」では、事件のためかつての恋人に呼ばれてレバノンまで駆けつけながら、鼻息の荒いこの脇役に完全に喰われていますが。

 アシナ・カクリ『切られた首』
 
 エスティア社、2001。

 もう一人、「泥棒結び」一作きりですが、十二歳のパヴロス少年が《真実は一つ!》とばかりに謎を解きます。四人兄妹が互いを庇いあって次々と自白をしては事件が錯綜するというなかなか楽しい作品です。
 
 カクリの持ち味は、伏線を張りながらの巧みな語り口にあります。例えば「スコップ一杯の釘」はカイロのホテルに滞在中の大使館員の《私》が三夜続けてバーに腰を下ろす女性に目を引かれる場面から始まります。出会いを求めるような行動なのに、「髪を染めていない」野暮な風采なのはなぜ? 好奇心から《私》は密輸事件に巻き込まれていきますが、《私》の自意識過剰もさり気なく書き込まれ、最後の逆転劇につながります。
『ギリシャの犯罪』所収の「外人」ではゲラキス警部が四十年ぶりに復活。すでに神に召されているはずだがフィクションの人物ゆえ再登場を許してほしい、と作者の断り書きがあります(生真面目な人です)。冒頭、ブドウ農園の外人監督の墜落死体が発見されます。八十歳近い女主(作家と同年齢)は押し寄せる経済難民を雇う一方で、息子たちを海外移民、事故、病死などで失い、残されたのは精神不安定な娘だけ。母娘の仲も妙に冷え切り、農園は深刻な現状を抱えています。以前の謎解き短編風に物語は進みますが、外人流入によって変容していく村と伝統を守り続けようとする人物の強靱な姿が深い印象を与え、社会とのかかわりを正面から取り扱う現代ミステリに近づいています。
 
 カクリ女史は現在、ミステリ専門誌《CLM》創刊号でインタビューを受けるほどギリシャ・ミステリ界の重鎮の地位にありますが、実はすでに1970年代から数多くの普通小説、歴史小説を発表しています。ペロポネソス半島の特産品干しブドウの運搬船の物語や1912~13年のバルカン戦争に従軍した女性を主人公とする小説によってギリシャの(普通)文学賞を受賞すること二度。インタビューでは、民族の未来につながる過去の歴史を物語に書き記すのが作家の使命、と熱く語っています。「ギリシャのクリスティ」と紹介はしましたが、女史の才能の一部を指すレッテルにすぎません。
 

◆国境を越えるペトロス・マルカリス

「六歌仙」の二人目ペトロス・マルカリス(1937-)は1965年に劇作家としてデビューしました。日本でも公開されたテオ・アンゲロプロス映画「こうのとり、たちずさんで」「ユリシーズの瞳」「エレニの帰郷」などの脚本でも知られる人です。翻訳家として、ゲーテやブレヒトなども訳しています。作家生活三十年目に初めて手がけたミステリ長編『夜のニュース』(1995年)を手始めに、十冊を超すミステリ長編を発表。『期限切れの負債』(2010年)以下の三冊は記憶に新しいギリシャ経済危機下での犯罪を描く《危機三部作》と呼ばれます。最近長編『殺人執筆セミナー』(2018年)が出たばかり。「ヤニス・マリスこそギリシャ・ミステリの父だよ」は実はこの人のことばです。
 

 ペトロス・マルカリス『夜のニュース』
 
 ガヴリイリディス社、1995。

 ミステリ・デビュー作『夜のニュース』では、アテネのアルバニア人夫婦殺しをめぐってシリーズ探偵コスタス・ハリトス警部初登場。初めは不法移民による単純な痴情殺人だと思われたのですが、数件の殺人事件が続き、被害者の残した謎の旅程メモをめぐって、テレビ局、国際的運送旅客会社、1980年代末以降の共産圏国家の崩壊、と事件の背景は国境を越えどんどん広がります。
 ハリトス警部は「人情派」ベカス警部や「策士」ゲラキス警部の血を引いていますが、はるかにリアルで現代的です。実は読み始めてある不安を感じていました。移民には偏見を隠さず尋問で口汚く罵しりながら暴力を平然と行使し、調書が取れれば後は知らずといった態度。姑息にも報告書のミスをこっそり訂正もします。めずらしい《警官の一人称語り》が採用されているので、《私=ハリトス警部》の心の奥底までが読者に曝け出されており、わざと演技しているわけではありません。リアリズム徹底追求なのでしょうか? しかしこれでは読者の共感を得るのが難しそう……と、読み進めるうちにその印象が変化を見せ始めます。妻娘との情愛、元左翼の情報提供者とのやり取り、駆け出し時代の先輩警官の拷問が語られるにつれ、その非情さには理由があることが徐々に明らかになります。ただのこわもてポーズではなく、軍事政権下で叩き込まれた暴力的な捜査尋問法から抜けきれないのです。ただし、当時から体制への不信の芽があり、今回の事件での政界の圧力や元左翼との再会を通じて反抗心が膨らんでいきます。課主任で五十歳代(娘は大学院生)だと思われますが、小説内での成長を感じさせる作者の手際は見事です。
 
 第二長編は『ゾーン・ディフェンス』(1998年)。不思議な題名はある人物が犯罪の周りに張り巡らした防御の比喩です。

 ペトロス・マルカリス『ゾーン・ディフェンス』
 
 ガヴリイリディス社、1998。

 冒頭とある島で偶然見つかった身元不明の死体とアテネ郊外でのナイトクラブ経営者の殺害。二つの死のつながりを求めて再びハリトス警部登場、過労で入院しながらも(「瀕死の探偵」ではなくホントに病気)薬片手にオンボロ愛車ミラフィオーリで犯人を追い続けます。娘の恋愛問題も絡み、おやじ警官はたいへん。八百長試合、脱税、マネーロンダリング、政界の圧力など巨大な社会的犯罪(メモなしには混乱するほど複雑)にぶつかりますが、ハリトスは殺人課なので、その職務はあくまで殺害者を逮捕することです。能力の点でも倫理面でも傑出したヒーローではなく、等身大の人物に描かれています。「犯罪を行なう者も捜査する者も普通の人間」とは作者のことばです。
 ただマルカリスはハリトス警部に二つのユニークな特徴を持たせました。一つは《辞書マニア》。非番の時ベッドに寝転がっては『ディミトラコス国語辞典』(『広辞苑』みたいに分厚い)を広げ、そのときの状況を象徴する《袋小路》《自殺》《逃避》《全快》などの単語を引いています。エキセントリックな人物にしようというのではなく、翻訳家でもある作者の姿を投影させたようです(「辞書を愛さない翻訳家は転職を考えた方がいい」が作者の持論)。もう一つは家庭料理へのこだわり。一番のお気に入りは《ゲミスタ》。大ぶりのトマトやピーマンに挽肉、米を詰めて焼く伝統料理です。おふくろの味を再現してほしいという夫ハリトスの駄々にアドリアニ夫人は悪戦苦闘しています。


【写真上:ギリシャの伝統料理ゲミスタ

『ギリシャの犯罪』に収録された「三日間」は短編ながら実に読み応えがあります。1955年に作者の出身地コンスタンチノープル(ギリシャ人はトルコのイスタンブールを今もこう呼びます)で起きた「九月事件」が背景。キプロス独立を目指す過激派に反発する形で起きたトルコ人の大暴動で、ギリシャ人地区が壊滅的な打撃を受けました。その巨大な社会的暴力の波が進行する陰で見つかるひとつの死がミステリ的要素なのですが、両者はリンクしています。さらに犯罪の解明以上に、各自の信条と利害に従って行動する登場人物たちの姿が、危機に直面したときの選択を読者に突きつけます。事はギリシャ人対トルコ人という単純な図式に収まりません。トルコ在住のギリシャ人たちも一枚岩ではなく、ギリシャ人に同情的なトルコ人たちにもそれぞれの思惑があります。主人公の友人でありながら、心の底ではギリシャ人を憎むトルコ人警官の最後に放つ決別のことばが恐ろしい。
 
 マルカリスとともに、犯罪を社会との関わりから見据えるリアリズム調の現代ミステリが始まります。脚本家・翻訳家としての業績もあって、英独仏西伊蘭語など数多くの言語に翻訳され、ギリシャ・ミステリ作家の中ではもっとも国境を越えて評価されているのが、このペトロス・マルカリスです。

 ペトロス・マルカリス『夜のニュース』(英語訳)
 
 The Harvill Press社、2004。
 ペトロス・マルカリス『夜のニュース』(フランス語訳)
 
 LGF 社、2000。
 ペトロス・マルカリス『夜のニュース』(ドイツ語訳)
 
 Diogenes社、 2000。
 *翻訳タイトル『ヘラス・チャンネル』は事件が起きるテレビ局の名前
 ペトロス・マルカリス『夜のニュース』(スペイン語訳)
 
 TUSQUETS社、2014。

 

橘 孝司(たちばな たかし)
 台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっと紹介するのが念願。現代ギリシャの幻想文学・一般小説も好きです。最近どんでん返しに酔ったのはマーガレット・ミラー『まるで天使のような』
 現代ギリシャ文学作品(ミステリも普通文学も)の表紙写真と読書メモは、以下のFacebookの「アルバム」に紹介してあります。アカウントがあれば閲覧自由ですので、覗いてみてください。
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