我輩はメタである。名前はまだない。
 いや、『我輩はカモである』である方が、やはりしっくりくる。
 名前は、エド・トップリス。25歳。妻ベッツィーと赤ん坊あり。これまで友人の作家のゴーストライターとして28作のポルノ小説を書いてきた。しかし、今の問題は、セックスの場面が頭に浮かんでこないことだ。
「ぼくはそういうクソを書かなきゃならない。それもきょうじゅうにだ」

■ドナルド・E・ウェストレイク『さらば、シェヘラザード』■


 本書『さらば、シェヘラザード』(1970)は、このドーキー・アーカイヴ全10巻の責任編集者でもある若島正氏の『殺しの時間』の中で「ウェストレイクの全作品中でもかなりの上位に属する傑作」とされ、訳者によれば、ウェストレイクファンにとっては伝説の一作だったとか。ミステリではなく普通小説だったため、これまで翻訳の機会に恵まれなかったようだ。
 とにかく変てこな小説だ。ぼくエド・トップリスは、ゴーストライターとして家族三人の生計を維持しているが、徐々にスランプに陥り、今回は、まったくアイデアは湧いてこない。
 とにかく書きはじめようと、筆を進めるが、それは家族のことだったり、友人作家への不満やとめどもない過去の回想だったり。そのうちに予定の1章分の25頁が来てしまう。続けて、また1章のノンブルを打たれて、「タワゴト」が繰り返されていく。物語半ばでポルノ小説の1章をなんとか書き上げるが、2章が書けず、また、タワゴトで2章が繰り返される。
 この形式がこの小説独自のおかしみを生んでいる。ポルノ小説のはずがとめどないお喋りに脱線していくおかしみ。
 つまり、これは、ポルノ小説を書こうとして失敗し続ける男、しかし、語りを止めてしまえば殺される運命にあるシェヘラザードの話なのだ。主人公エドに託して、ウェストレイクが作家修行時代に別名でポルノ小説を書いていた自らの体験を戯画化しているのは明らかだろう。
 文章が進むにつれて、エドの生い立ちが次第に分かってくる。地元の州立大学の文学部を卒業し、教師にでもなろうと思っていたが、別れたつもりの恋人が妊娠し結婚。生計を立てるため、ビール販売会社に勤めていたという、どこかにいそうな青年。ヒッピー世代には乗り遅れた一人。いまも大学院の進学費用を貯めようとしている。自己認識は、「リアルな存在でない」、「泳ぐ場所のない哀れな腐った魚」だ。
 エドが懊悩し、1章が繰り返されているうちに、事態は思わぬ方向に動き出し、さらに窮地に追い込まれる。小説という嘘を書き続けてきた男がついた小さな嘘が彼を奈落に突き落とすのだ。
 窮地に陥ってあがくうちに、さらに窮地に陥っていくというMWA賞受賞作『我輩はカモである』などでおなじみのウェストレイク・コメディの範疇にあるともいえる。このタイプの小説としては、後年の『ニューヨーク編集者物語』『二役は大変!』などの方がさらに円熟味を増しているように思うが、本書には手法の冒険というオリジナリティがある。
 メタフィクション的手法については、作者は十分に自覚的だ。物語半ばの作家との会話で、小説であることを自己主張する小説があるとして、その架空の本の内容が紹介される。(架空の小説のタイトルが最後にも再登場するのはかなり意味深だ)。さらに、訳者解説によれば、この小説自体がウェストレイク自身の別名義のポルノ小説を元ネタにしているというのだからふるっている。書きつつあるエドと書かれつつあるエドの二重性のうちに、悲喜劇は起こるのだ。
 追い詰められたエドが最後の方で関係者へあてた手紙形式の語りは、悲痛なトーンが強くなり、笑ってばかりもいられなくなる。作家自身が二重写しになり、書き続けなければならない者の震えが伝わってくるようでもある。唐突にエドがある宣言をする最後の手紙をバッドエンドととるか、予期しなかったハッピーエンドととるかは読者に委ねられる。

■マージェリー・アリンガム『ホワイトコテージの殺人』■


 ケント州の絵のように愛らしい村をドライブしていたジェリーは、美しい娘ノーラと出逢う。彼女を白亜荘(ホワイトコテージ)まで送り届けるが、そこで銃殺事件に遭遇する。被害者は、隣の屋敷の主クラウザー。ジュリーは、スコットランドヤードの主任警部である父親のW・T・チャロナー(W・T)とともに捜査を進める…。
 
 絵のような村で、かかとにマメができてしまった美しい娘との遭遇という絵に描いたようなボーイ・ミーツ・ガールで幕を開ける本書(1928)は、アリンガム最初のミステリ長編。森英俊編著『世界ミステリ作家事典[本格派]編』では、「のちに彼女はその若書きを恥じ、生前は著作リストからも削ってしまった」と書かれている「幻」の長編がよくぞ訳されたもの。
 確かに、さきに訳された『葬儀屋の次の仕事』などにみられる人間描写の奥行きや文章の味わいといった面では円熟期の作品に及ぶべくもないが、ストーリーテリングの才は十分に発揮されていて一気に読ませる。
 捜査が進むに連れて殺されたクラウザーの悪辣ぶりが浮き彫りになってくる。陰湿なゆすり屋であり、誰もが彼を恐れ憎んでいた。誰もが何かを隠している。誰が犯人であってもおかしくない状況だが、決め手には欠けている。唯一、現場から逃走した男を追って、W・Tとジェリーはパリに向かう。
 典型的な屋敷物の本格ミステリと思われた物語は、ここで大きく転調し、パリ、地中海のマントンと舞台は移っていく。二人の捜査により関係者の秘密のヴェールが剥がされていくが、有罪を決定づける証拠は出ず、袋小路に再び陥っていく。それだけに、「話の結末」と題された最終章のサプライズは大きい。
 不満もないではない。犯人にたどりつける手がかりは乏しいし、パリでは国際的な犯罪組織の存在がほのめかされながら主筋には絡んでこない。物語半ばからフランスを舞台としなければならない理由がよく分からず、読み終わってみると大きな迂回にみえる。
 とはいえ、W・Tの人間味や登場人物に対する視線の温かさは、後年あるを思わせる。ジェリーとノーラのロマンスには、作者自身の結婚と同時期であったという気分も反映しているのだろうか。暗色の部分はあるけれど全体は明るいパステル画のような愛らしい作品。その顔料には、やはり地中海の光が必要だったのかもしれない。

■エラリー・クイーン『犯罪コーポレーションの冒険』■


 論創海外ミステリ、エラリー・クイーンラジオドラマ脚本集『ナポレオンの剃刀の冒険』『死せる案山子の冒険』に続く第三集。後者が出たのは2009年だから、9年ぶりになる。第三集が出るのかどうかも不明だったので、出版されたことを喜びたい。
 一集、二集とも、クイーンの「聖典」のエコーを響かせながら、本格ミステリとしての高い水準、オリジナリティを示しており、その質の高さに目をみはった人なら、間違いなく待望の一冊だろう。
 クイーンのラジオドラマについては、ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』にも詳しいが、1930年代末から40年代にかけて放送され、多くの聴取者に楽しまれた。番組の途中には、必ず聴取者への挑戦が差しはさまれており、ゲスト芸能人が謎解きの討論を繰り広げた。
 本書には、邦訳があるものが8本、初紹介となるものが3本収録されている。熱心なファンなら雑誌等で読んでいるものもあろうが、改めてクイーンのラジオドラマの魅力に触れることができる、
 ラジオドラマという性質上、大衆的な分かりやすさをまず第一に心がけたのはもちろんだが、謎解きミステリの覇者として必ず新たな創意を盛っているのはさすがだ。
 例えば、題材の多様性。正統的な犯人当てはもちろんだが、宝石盗難(「見えない時計の冒険」)、殺害予告(「見えない手がかりの冒険」)、奇妙な盗難事件(「奇妙な泥棒の冒険」)、連続放火事件(「放火魔の冒険」)、犯人ならぬ善人探し(「善きサマリア人の冒険」)というように聴取者を飽きさせない工夫。
 奇矯なシチュエーション。風変りな百万長者とその遺族(「カインの一族の冒険」)、靴の片方、手袋、義歯、眼鏡と次々と盗まれる(「奇妙な泥棒の冒険『悪の起源』に代表される「奇妙な贈り物」パターンの逆)。「殺されることを望んだ男の冒険」では、まるで殺されることを望んだような賭けが登場する。
 そして、謎解きの創意。例えば、「犯罪コーポレーションの冒険」では、容疑者4人に鉄壁なアリバイがある状況で、真に意外な解決が待っているし、「見えない手がかりの冒険」では疑わしい者がディスカッションにより徹底的に排除される。(謎解きにはチェスタトン「見えない人」と同様の不満はあるが)
 こうした多彩な謎を、フェアネスを維持しつつ意外な解決に導くクイーンの手並みには凄味すら感じさせる。
 親しみやすさという面では、エラリー、秘書のニッキイ、クイーン警視、ヴェリー部長というレギュラー陣が、小説以上に、いわゆるキャラの立ち方がはっきりしており、四者四様で楽しませてくれる。「カインの一族の冒険」では、エラリーが執事に、ニッキイがメイドに、クイーン警視が庭師に、ヴェリー部長が運転手に扮しての潜入捜査となるが、こんなくだけた設定は、ラジオドラマならではだろう。
 私的ベスト3は、犯罪のプロフェッショナルを集めた組織内の殺人で容疑者全員に強固なアリバイがある「犯罪コーポレーションの冒険」、ねじくれた一族の雰囲気が不気味で謎解きの興趣も盛った「カインの一族の冒険」、スラム街の移民の人たちに贈られたプレゼントの主を探して後味のいい「善きサマリア人の冒険」。
 巻末では、いまだ単行本化されていないものを中心に、編訳者・飯城勇三氏が読んだものをエピソード・ガイドとして紹介しているが、続巻の刊行を是非願いたいものだ。

■アガサ・クリスティ『十人の小さなインディアン』■


 まだ、クリスティの未紹介作品があるのかと驚くなかれ。
 本書は、もともとは長編小説として発表され、作家自身が戯曲に書き改めた作品『戯曲 十人の小さなインディアン』の新訳と、これまで未訳だった『戯曲 死との約束』『戯曲 ゼロ時間へ』を収録したもの(他に、ボーナストラックとして、短編「ポワロとレガッタの謎」も収録)。
 初演以来66年目のロングランを続けているという「ねずみとり」、名作として名高い「検察側の証人」でも明らかなように、クリスティは、ミステリ戯曲の名手でもあった。
 本書収録の三作からは、その観客を惹きつけずにはおかないテクニックとともに、長編を大きく改変して別ヴァージョンとして成立させる飽くなき創造性が窺える。
『戯曲 十人の小さなインディアン』は『そして誰もいなくなった』
の戯曲版。ルネ・クレール監督の『そして誰もいなくなった』(1945)を観たときに、結末が大きく変えられているのに驚いたが、映画版は、この戯曲版に依拠しているという。確かに、十人の男女が一人ずつ殺されていき、そして誰もいなくなるという設定は、謎を解き明かす主体がいなくなるだけに、舞台や映画では困難かもしれない。ただ、原作のプロットのもつ強烈で不条理なサスペンスは、あまりにも魅力的なだけに、演劇化が待たれた素材だったはずだ。
 劇化する上での弱点を十分考慮された戯曲の場面は、インディアン島にある屋敷の居間のみ。面前で登場人物が次々と死んでいく体験は観客にとって忘れ難いものになったことだろう。結末は大きく改変されているが、そこへ向けて数人の人物像がふくらまされているのもみどころだ。
『戯曲 死との約束』の原作は、中東のエルサレム等を舞台にしており、同作が原作の『死海殺人事件』(1988)が一種の観光映画にもなっていたように、エキゾチックでかなり動きのある小説だが、戯曲では、舞台はホテルとぺトラのキャンプ場の二つの場に集約されている。登場人物も整理され、これまた、真相は原作とは異なるものになっている。 
 被害者となるボイントン夫人の怪物性-家族と外部の接触を断たせ、意のままに支配する-をさらに際立たせているのが戯曲版の特徴で、これは書き換えられた結末にうまく整合している。ただ、ミステリ劇として観客に与えるインパクトはやや落ちてしまったのではないかと想像される。通訳ガイドをコミックリリーフ的に使っている辺りに緩急をわきまえた戯曲作家の腕が冴える。原作に登場したポアロは登場せず、その役割はパレスチナ警察のカーベリー大佐が担う。
『戯曲 ゼロ時間へ』は、クリスティとスリラー作家ジェラルド・バーナーの共作。これも屋敷に集った男女の間に起きる犯罪を描いたものだけに、舞台化向きの作品。原作の「殺人は結果なのだ。物語はそのはるか以前から始まっている」「すべてがゼロ時間に集約されるのだ」という台詞に表された「ゼロ時間」というコンセプトと最後に開示される異常心理を抱えた犯人像の強烈さが名作とされるゆえんだろう。
 夫と前妻と今の妻の三角関係を軸に、人間関係の綾が前半・中盤とじっくり描かれるだけに、舞台も俳優陣の見ごたえある演技の応酬になったことだろう。原作からは、副次的事件は省略され、バトル警視とトリーヴス弁護士に探偵役が割り振られている。ラストでは、舞台ならではの緊迫の場面が書き加えられている。
 なお、『ゼロ時間へ』の映画化であるパスカル・トマ監督『ゼロ時間の謎』(2007)は、舞台を現代の南仏に置いた上で、原作にかなり忠実なつくりをしており、手がかりの提示なども含めて上出来のミステリ映画になっていた。
 各戯曲には舞台配置図や小道具リストが付され、演出上の指示も細かい。クリスティにとって、舞台劇は小説と並ぶような活躍のフィールドだったのだろう。三作ともに映画版などがあり、それらの相違を味わうのも一興。

■アダム・シズマン『ジョン・ル・カレ伝』■

 
 アダム・シズマン『ジョン・ル・カレ伝』(2015)は、本人への長時間のインタビューや残された膨大な資料を基に、おびただしい関係者の協力を得て四年がかりで完成された伝記。上下800頁、索引を入れると950頁を超える大作だ。著者のアダム・シズマンは、ジェイムズ・ボズウェルの伝記を著すなどこの分野の第一人者。
 とにかく密度が濃い。編年体で書かれているため、同じ頁の中でも、別な話題に転じていくことが往々にしてあったり、説明なしに以前の関係者が出てきて、何度も索引のお世話になることにもなる。
 上巻は、ル・カレ(この本では、一貫して本名のデイヴィッドと呼ばれている)の幼少期からの足跡をたどり、『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963)の大ヒットを経て『鏡の国の戦争』(1965)を刊行する辺りまで。これが、悩める若者が特殊な体験を通して自己形成していく姿を描いた教養小説(ビルドゥングス・ロマン)のように面白い。
 ル・カレという作家、デイヴィッドの複雑な性格をもたらしたその一は、本人も語っているように父親ロニーとの関係性だ。デイヴィッドは「父は詐欺師だった」と広言しているが、その辣腕・強引な事業家ぶり(一時は会社の破産が全国紙を賑わすほどの事業家だった)、数回の収監など周囲の迷惑を省みない性格、一方で常に周囲の人の心をとらえる人気者であったというような実像があますところなく描かれている。デイヴィッドが作家として成功すると、ロニーは息子の名前を引き合いに出し、世界各地を転々として架空の事業話をもちかける厄介者になるが、飽くなき事業欲に取り憑かれたロニーの姿は、それ自体が別の人間ドラマのようだ。事業の失敗で両親は幼い頃に離婚。デイヴィッドは不幸な子どもだった。
 そんなデイヴィッドにとって、長年にわたり心の拠り所となるヴィヴィアン・グリーン牧師という恩師と巡り合えたことは、幸運だった(グリーンは、後に小説中のスマイリーのモデルになる)。
 もう一つは、いうまでもなく、スパイであった体験。既に十代のドイツ留学時代には左派学生の監視に従事し、オクスフォード大学では、MI5の依頼により左派学生グループへの潜入調査を密かに行っている(このことは後々まで作家を苦しめる)。その後、アンとの結婚、イートン校での教師生活を経て、MI5(保安局、活動は国内)に就職。後にMI6(秘密情報部)に転籍し、そこでの活動が各種証言等を基に生々しく書かれている。『第三の皮膚』等数冊のミステリの翻訳があるジョン・ビンガムがMI5で同じ部屋を共有した同僚であり、デイヴィッドが著作に挑戦するよう促したこと、スマイリーの特徴の一部はビンガムから借りたというのも驚きだ。
 デイヴィッドは、学業もスポーツも抜群、周囲を楽しませる人気者であって、どんな世界でも成功が約束されたような青年だったが、生い立ちから生じる大きな鬱屈も抱えていた。
 ドイツでの勤務の傍ら書き続けた『寒い国から帰ってきたスパイ』の世界的な成功が、必ずしも作家に幸福をもたらさなかったことも書かれている。自身が文学での成功を夢見ていた妻アンは、デイヴィッドの成功に嫉妬するようになり、デイヴィッドの孤独は深まる。デイヴィッドに「お前の母さんになる」といっていた長兄トニーですら成功した弟に嫉妬する。
 疾風怒濤期というような季節も作家に訪れる。若い作家ジェイムズ・ケナウェイと親しい交わりを続けるうちに、その作家の妻スーザンと関係をもつようになり、やがてケナウェイの知るところになって、破局を迎える(デイヴィッドは、その体験を基に長編〔1971.唯一の未訳長編〕を書くが、世評は冷たいものだった) 。デイヴィッドには、その後、合意したあらゆる女性と寝る「狂気の6か月」が訪れたというようなセンシティヴな事情も描かれる。
 下巻は、スパイ小説家として大成功をおさめ、ジェインという新たな伴侶も得、半世紀以上の間、ベストセラー作家であり続けるデイヴィッドの作家としての歩みが中心になる。『地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録』とエピソードの重複もあるが、次々とベストセラーを放つその裏話、映像化にまつわる様々なエピソードがいずれも興味深い。一方で、ジャンル小説家としてしか評価されない文壇の風潮にいら立ちを感じてもいる。そうした中で、自らの生涯を振り返り、父と折り合いのつけられなかった過去をスパイ小説として書き上げた『パーフェクト・スパイ』(1986)を完成させたときに、「途方もないカタルシス」を感じ、「終わったとき、何度も何度も泣き叫んだ」というエピソードは、心に響き、作家の業も感じさせる。
 下巻におけるデイヴィッドは、尽きることのない情熱で時代を先取りした作品を書くベストセラー作家であり、自らの作品の映像化に勤勉に取り組むクリエイターであり、紛争の現場を歩く旅行者であり、世界の要人と会える名士だ。   
 一方、作家としては当然かもしれないが、自らの作品を認めない書評には強い反応を示し、長いつきあいでもあっても作品の販売に努力しないと認める出版社には手厳しい。サルマン・ラシュディの著書をめぐる論争等でも激しい反応を示すなど、気難しい作家の面もみせている。21世紀に入ってからの『ナイロビの蜂』『サラマンダーは炎のなかに』といった作品では、作家は道徳的怒りに燃えており、「今やミスター・アングリーだ」と評される。そして、80歳を超えた今もペースダウンの気配はみられないとシズマンは書く。
 アダム・シズマンは、作家の歩みに関しできるだけ自己流の推測や劇化を避け、証拠に基づく事実をして語らしめる手法に徹している。それゆえに、本書は、才能豊かで葛藤を抱えた英国青年の青春記、スパイの時代の断面を鮮やかに切り取った記録、作家の創作の秘密のレポート、英米出版業界のポートレート、ル・カレ作品批評集などなど、読み手の関心に応じた様々な知見と興趣をもたらす埋蔵量豊かな著作だ。
 

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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