——唯一無二の味わい、ロマンス冒険小説を堪能する!

全国20カ所以上で開催されている翻訳ミステリー読書会。その主だったメンバーのなかでも特にミステリーの知識が浅い2人が、杉江松恋著『読み出したら止まらない! 海外ミステリー マストリード100』をテキストに、イチからミステリーを学びます。

「ああ、フーダニットね。もちろん知ってるよ、ブッダの弟子でしょ。手塚治虫のマンガで読んだもん」(名古屋読書会・加藤篁

「後期クイーン問題? やっぱフレディの死は大きいよね。マジ泣いちゃったなー。We will rock youuuu !!!」(札幌読書会・畠山志津佳

今さら聞けないあんなこと、知ってたつもりのこんなこと。ミステリーの奥深さと魅力を探求する旅にいざ出発!

 

加藤:異常な暑さと史上例を見ない数の台風をもたらした今年の8月ももう終わり。良い子のみんなはもう宿題は終わったかな?(お約束)
  8月の話題と言えばやはり高校野球。夏の甲子園は第100回大会に相応しい盛り上がりでしたねー。それにしても大阪桐蔭は強さも別格だけど、選手たちの体つきから立ち居振る舞いまで、あの異様な完成度というか別カテゴリー感は何なのでしょう。

 さてさて、杉江松恋著『海外ミステリー マストリード100』を順に取り上げる「必読!ミステリー塾」。今回のお題は、大御所ケン・フォレットの『針の眼』。1978年の作品です。

1944年、フランスをナチス・ドイツから奪還し、欧州戦線に橋頭保を築くため、イギリス南部には連合軍の兵士が集結しつつあった。あらゆる情報が指し示す上陸地点はカレー。しかし、ヒトラーはこの情報に欺瞞の匂いを嗅ぎ取る。かくして、イギリスで活動するナチスの切り札スパイ・フェイバーにくだされたミッションは、連合軍の上陸地点の確定だった。MI5の追手を掻い潜り、見事入手した重大機密を祖国へ持ち帰ろうとするフェイバーだったが……。

 著者のケン・フォレットは1949年生まれのイギリスの作家。新聞記者を経て出版社に勤務し、作家となりました。本作『針の眼』は1979年のMWA最優秀長編賞(エドガー賞)に輝き、1989年に発表した『大聖堂』は言わずと知れた世界的ベストセラー。スパイスリラー、歴史物など、これまでに発表した約30の作品は合計1億冊以上売れたそうです。

『針の眼』の主人公は、細身の短剣スティレットを武器として使うことから「針」と呼ばれるドイツの情報将校ヘンリー・フェイバー(もちろん英国での偽名)。冷酷無比なプロ中のプロ。当時、英国領内のほぼすべてのドイツ人スパイを摘発し、二重スパイとして転向させたと言われるMI5もその尻尾をつかめずにいた凄腕スパイなのです。大雑把にいうと、MI5は国内担当、MI6は国外担当の英国諜報機関。みんな大好きジェームズ・ボンドはMI6の殺し屋です。
 本作のテーマは、1944年の夏と噂されるDデイ=連合軍上陸作戦を巡る諜報戦。当時、ドイツはフランスを占領したものの、ソ連への侵攻に苦戦し、盟友ムッソリーニはすでになく、欧州全体を一人で何とかしないといけないという状況。戦線が広がり過ぎてもうシッチャカメッチャカ。少しでも戦力を効率的に運用しながら、連合軍の上陸を水際で阻止しなければならなかったのです。
 そこで問題となるのが連合軍の上陸地点。カレーかノルマンディーか、ここは絶対に間違えちゃいけないところ。当時、連合軍はあらゆる方法を使って偽のキャンペーンを張り、全世界に「上陸地点はカレーである」と信じさせることに成功していたようです。
 しかし、その偽装工作を見やぶったフェイバーは、証拠を携えてベルリンを目指します。そして、それを追うMI5。フランス上陸作戦の成功だけでなく、第二次世界大戦の勝敗にも影響するであろうこの情報はヒトラーに伝えられるのか!? というお話。

 しかし、もちろんこのプロットだけでもチョー面白そうなんだけど、本作を唯一無二の傑作にしているのは、後半の大ロマンスパートだったりするのではないかと思うのです。障がいを持つ夫と幼い息子と孤島で暮らすヒロイン・ルーシイと、正体を隠したフェイバーが初めて二人きりになって互いを意識し触れ合う場面は衝撃的すぎました。なななナニこの濃密な描写(慄き)。
このあたりを渡辺淳一チルドレンの畠山さんはどう読んだのだろう?

 

畠山:なんと私にナベジュン・ネタを振るとは命知らずめ。先日、読書会淑女が集まっての飲み会で石川啄木、島崎藤村、渡辺淳一が話題になりましてね。いやはや、盛り上がるわ酒はすすむわで大騒ぎ。あんなに素晴らしいおつまみはなかなかありません。どんな話をしたかはもったいなくて明かせないけど。えへ。

 というわけで『針の眼』。
 いやー! 面白かったわー! 冒頭からテンポがよくて、あっという間に引き込まれました。
 単独で世界情勢をひっくり返す(かもしれない)任務にあたる男、という繋がりで『ジャッカルの日』を思いだしつつ読んでいました。
 仏大統領暗殺をもくろむジャッカルは徹頭徹尾 Coooool!でしたが、本書の主人公フェイバーは、“ほぼCool”。迷いなく殺人を実行しながらも、そのあとは発作のように嘔吐する癖があります。この冷血仮面の細い割れ目からチラリと垣間見える人間臭さが、彼の行く末を暗示しているようで、ヤな予感しかしなくてワクワクしてしまうのです。

 まずは列車や車でイギリス中を大移動する、実にスリリングでスケールの大きな前半。フェイバーが愛用のスティレット(刃はついておらず、もっぱら刺すための短剣らしい)でぶっすぶっすと邪魔者を始末していく姿に、心なしか気持ちよさを感じ、やがては頭の中で必殺仕事人のテーマが鳴り響く始末(菅井きんさんのご冥福をお祈りします。婿どのに逢えたかしら?)。でもスティレット痕が足跡がわりになっちゃうから、たまに武器を変えたほうがよくない? とも思ったけど。
 追うMI5も有能です。民間登用された人々のせいか、地元警察とも上手に連携していくので、読んでいて気分がよかったですね。

 うってかわって後半は、住民4名(!)の絶海の孤島が舞台です。ゼッカイノコトウ、いい響きですね、胸が高鳴ります。そこで繰り広げられるのは凄絶な殺し合いと、嵐のような大人の恋。「スパイと人妻の恋」なんていうと、恥ずかしいほどの昼下がり感が漂うのですが、このロマンスパートはしっかりとした下地があり、決してとってつけたようなボーナスシーンではないのです。あまり恋愛要素を求めないタイプの私ですら、どどど、どーなるキミタチ?どーするコレカラ? と引きずられるように読みました。

 むしろ男性読者はどうとらえるのか興味があります。ヤワなことやってんじゃねーよ、フェイバー! とか思わないの?

 

加藤:小説を読んでいて「その恋愛要素、本当にいる?」って思うときは確かにあるけど、さすが巨匠はレベルが違うね。手に汗握る冒険小説と匂い立つような官能小説の間を神業のようなギアさばきで走り抜けるみたいな。「匂い立つような」って形容の意味が生まれて初めて分かった気がするよ。これは凄い。そして何より、ルーシイの心の葛藤のなんと生々しいこと!
 総じて男性作家が描く女性は(男性が読んでも)ステレオタイプが多い気がするけど、その意味で、ケン・フォレットはもはや別格、大阪桐蔭という感じ。女性を描くのが上手いというより、人間そのものに対する愛だったり洞察力だったりが豊富な方なのではないかと。

 畠山さんの振りにマジレスするなら、あのクールかつストイックでさえあった伝説のスパイ・フェイバーが、こうなってしまうのかという驚きは確かにあったけど。でもねー、わかる気もするのです。大切な任務、極度の緊張感の中にあっても、いや、だからこそ、男って本能的に女性に心の安らぎみたいなものを求めちゃうのかも知れない。勝手に、全面的に自分の味方であると思い込んじゃうというか。もちろん錯覚なんだけどw

 そして、この『針の眼』は、戦争という行為が人々にもたらすものについて読者に考えさせずにはいない作品でもありました。この本を読んだ8月は平成最後の終戦記念日を迎え、改めて戦争の意味、人命の尊さを考える機会となりました。
 Dデイを描いた小説や映画は沢山あるけど、僕はリアルタイムで見たスピルバーグの《プライベート・ライアン》が印象に残っています。あの戦争の最中にアメリカはこんな人道的な決定ができたのかという驚き。当時、冒頭のオハマ・ビーチの激闘シーンのリアルさが話題になっていたけど、今にして思えば「どんなに困難な状況であろうとも、そしてどんな場所からでも、アメリカは必ずマット・デイモンを救出する」という流れを作った記念すべき作品でもありましたね。
 
 それにしても、有名な歴史の一場面を切り取って冒険小説にするのって難しいと改めて思うのです。誰もが結果を知っている前提で、最後までハラハラドキドキ読ませるって、凄いことじゃない?

 

畠山:まさしく、読ませる男ケン・フォレット。主要人物だけでなく、チョイ役が強い印象を残すのも、観察力と文章力の賜物かもしれません。未亡人の家主、女丈夫の救急隊員、田舎で気丈に、かつ優しく生きる老姉妹に、気のいい治安判事などなど、彩り豊かです。

 私が注目した人物がもう一人。ストームアイランドで暮らすデイヴィッド・ローズ。ルーシイの夫です。スピットファイア戦闘機のパイロットとして前線に出る予定で意気揚々としていたのに、直前に事故で両足を失い車椅子生活を余儀なくされました。島では身の回りのことだけでなく、車椅子の人とは思えないほどの労働をこなしたりしているのですが、従軍できなかったことですっかり意固地な人間になってしまい、夫婦の間はビミョーな空気が流れています。ルーシイが子供を連れて出て行かなかったのは、ひとえに彼女の情の深さゆえかと。
 でも彼の挫折感は仕方ないと思うのですよ。映画《ダンケルク》、ご覧になりました? それから『コードネーム・ヴェリティ』、お読みになりました? スピットファイアの英雄ぶりがよくわかります。あの操縦席への扉が目の前で閉ざされたのだから、落ち込むなってほうがむり。むしろ人生を投げ出すことなく、歯を食いしばって農夫としての暮らしを確立したことを誉めてあげたい。たとえ不機嫌丸出しの感じ悪い夫であったとしても。
 だから彼がフェイバーと対峙するシーンはついつい肩入れしちゃいました。戦争でなにひとつ貢献できなかったといじけていた彼に、敵国のスパイを仕留められるかもしれない千載一遇のチャンスが舞い込んだのだもの。
 
 8月初旬、札幌ではヘレン・マクロイ『牧神の影』の読書会を行いまして、こちらにも身体的理由で従軍できず、忸怩たる思いを抱える男性が登場しました。
 戦地に行かずに済むならそんないいことないじゃないか! と思えるのは平和な証拠。図らずも終戦記念日の前後に、戦争を背景にした小説を続けて読むことになったのもなにかの思し召しかもしれません。

 

■勧進元・杉江松恋からひとこと

 かつて作家の典厩五郎は、「いわばフォレットは女と男の愛の物語、またはロマンス小説を書いているのであって、歴史的情景は単なる借景にすぎないのである」と書きました(「ハーレクイン系冒険小説の行方」、ハヤカワ文庫NV『冒険・スパイ小説ハンドブック』所収)。同文によれば、ケン・フォレットを「冒険小説作家ではなくハーレクイン作家」と定義づけたのは評論家の関口苑生であったとのことです。

 もう少し言葉を補って書けば、ケン・フォレットは一九六〇年代的な束縛から離れ、冒険小説の原点の一つであるロマンス小説への本家帰りをいち早く果たした作家ということになるでしょう。ここでいうロマンス小説とは狭義の恋愛小説に限らず、広義の空想物語を指します。「一九六〇年代的な束縛」とは北上次郎が『冒険小説論』で「一九六〇年代にすぐれた冒険小説を書いた作家ほど、七〇年代の壁にはげしくぶつかったとも言える気がする」としたことを受けたもので、一九六〇年代から七〇年代にかけて冒険小説というジャンルが情報小説に向けて大きく舵を切ったことに由来します。それによって冒険小説の主人公は闘うべき敵を見失ったのであり、人間性不在の諜報戦に活劇は取って代わられたのが一九七〇年代の特色でした。「いかに闘うべきか」という主題は「いかに生き残るべきか」に変わっていくのですが、その敵不在の状況は結局変わることがなく現在に至ります。

 さまざまな仮想敵を作ることで適応しようとした書き手が多かった中で、フォレットはそうした流れとは無縁に、変転する状況と対峙する個人がどう生きていくかを描くロマンス小説に我が道を見出しました。一九八八年に発表された『大聖堂』は十二世紀が舞台となる大作ですが、これが爆発的なヒットとなり、以降のフォレットの方向性を決定づけます。二〇一〇年代に発表した『巨人たちの落日』『凍てつく世界』『永遠の始まり』の〈百年三部作〉は、三作で二十世紀を描き切ることを目的とした歴史小説で、すでにミステリーの要素は希薄です。冒険小説もその一部に含むミステリーは、さまざまなジャンルの小説に隣接しています。逆に言えば謎やスリル、サスペンスといった要素を作品の中に見出した読者によってミステリーは発見されてきたのであり、その源流を辿ればロマンス、諷刺小説、怪奇小説などの大河へと行き着きます。フォレットはジャンルにこだわらず、むしろ源流へと遡行することで自身を確立させようとしました。実質的なデビュー作である『針の眼』は、ミステリーとそれ以外の要素が奇跡的な均衡を保つことに成功した稀有な作品です。ミステリーというジャンルについて考える上でも一読をお薦めします。

 さて、次回はグレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』ですね。こちらも期待しております。

 

 

加藤 篁(かとう たかむら)

愛知県豊橋市在住、ハードボイルドと歴史小説を愛する会社員。手筒花火がライフワークで、近頃ランニングにハマり読書時間は減る一方。津軽海峡を越えたことはまだない。twitterアカウントは @tkmr_kato

畠山志津佳(はたけやま しづか)

札幌読書会の世話人。生まれも育ちも北海道。経験した最低気温は-27℃(くらい)。D・フランシス愛はもはや信仰に近く、漢字2文字で萌えられるのが特技(!?)twitterアカウントは @shizuka_lat43N

 

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