薄明かりのなかに浮かぶ舞台中央で、知的な顔立ちの女性が一心にタイプライターのキーを叩いている。それこそ憑かれたように真剣に――。
 1942年、カリフォルニア州に実際にあった日系アメリカ人の強制収容所で、一人の日系人女性新聞記者が大統領への抗議文をしたためているところ。3年ぶりの紀伊國屋ホールでの再々演となった、井上ひさし作『マンザナ、わが町』の中の印象的な1シーンだ。わかっているのに、また涙ぐんでしまう。やはり傑作でした。
 真摯にタイプを打つその音は、土居裕子さん演ずる彼女の想いの強さを物語る。なにしろ、真珠湾攻撃直後、アメリカ国籍をもちながら、日本人の血を引いているというだけであらゆる財産、職業、そして権利を奪われ、この地に隔離された人々を題材に描いた舞台である。
 手動のタイプライターは、ピアノ(ピアノフォルテ)と同様、強弱がキータッチに表われる機械だ。インクリボンを紙との間に挟みこみ、文字盤を叩くとそれぞれの活字を浮き彫りにしたキーがリボンのインクを紙に打ち付けるという構造。おのずと、打鍵の強弱によって印字された紙の上の文字の濃さも一定にはならない。おそらく彼女が毎日のように書き上げては送りつける抗議文には、くっきりと鮮明に堅固な意思が刻みつけられていたことだろう。
 
 ただ旧弊だアナログだと言ってしまえばそれまでだが、手動のタイプライターには、その、時として憂いのあるたたずまいから、時としてリズミカルな打鍵の音から、良き時代の文化の香りが嗅ぎとれるという人も少なくはないはずだ。
 ミステリーやホラー好きの方々にしてみたら、古き良き時代のアメリカを描かせたら右に出る者なし、スティーヴン・キングの代表作『シャイニングThe Shining)』(1977年)をスタンリー・キューブリックが監督した映画化作品を想起してしまうかな。狂気へと駆られていく、ジャック・ニコルソン演じる作家ジャックのタイプライターに“All work and no play makes Jack a dull boy.(仕事ばかりで遊ばない、ジャックはいまに気が狂う)”という文言が連綿と打ち込まれていく、あまりに有名な場面だ。撮影で使われたのはドイツ製のアドラー・ユニヴァーサル39という機種で、はじめに出てくる場面では白っぽい色なんだけど、キューブリックの指示によって、後の場面では深いグレイのものに変わってしまっている、というトリヴィアルな話題でも知られているようだ。ちなみに、後日譚となる小説のほうの続篇『ドクター・スリープDoctor Sleep)』(2013年)も発表されている。
 さらにキング作品がらみで言うと、狂気と紙一重のファンが作家を監禁してしまう『ミザリーMisery)』(1987年)。これまた映画化され、ファン役のキャシー・ベイツの怪演が話題となったが、ここでもタイプライターが印象的だった。“n”の字の欠けたタイプライターでジェームズ・カーン扮する作家が強制的に書かせられた小説内小説が出てくるのである。
 

 ぐだぐだと遠回りしてしまったけれど、今回の話題は、そんな旧式の手動タイプライターへの愛に充ちた小説集『変わったタイプUncommon Type)』(2017年)についてである。
 なんと作者は、キングの代表作のひとつ『グリーン・マイルThe Green Mile)』(1996年)の映画化作品にも出演した、あの世界的人気俳優トム・ハンクス。自身監督も手掛けた『すべてをあなたに(That Thing You Do!)』(1996年)、『幸せの教室(Larry Crowne)』(2011年)など、これまでに映画の脚本を手がけたことはあったが、小説を刊行するのはこれがはじめてとなる。なんでも、雑誌『ニューヨーカー』からの依頼で書いた「アラン・ビーン、ほか四名(Alan Bean Plus Four)」(2014年)を発表した後、さらに編集者に乞われて、3年ほどの間に書き溜めた短篇を集めたものだという。
 最初に発表された「アラン・ビーン、ほか四名」と、その前日譚「へとへとの三週間(The Exhausting Weeks)」、そしてこの本のラストを飾る「スティーヴ・ウォンは、パーフェクト(Steve Wong Is Perfect)」とが、同じ登場人物たちの出てくる連作であり、それらを含めて全17篇。うち1篇は戯曲の体裁(「どうぞお泊まりを〔Stay With Us〕」)、あと4篇は地方紙のコラムニストが書いた記事風のもの(「ハンク・フィセイのわが町トゥデイ〔Our Town with Hank Fiset〕」)なので、実質、純粋に短篇小説と呼べるのは12篇ということになる。
 
 この作品集の全篇に漂っているのは、先ほどのキングじゃないけど、ずばり、古き良き時代のアメリカへの郷愁だ。その郷愁が込められた記号であり暗喩でありシンボルとなるのが、昔ながらの手動式タイプライターなのだろう。
 もともと、ハンクスは手動式タイプライターの熱心なコレクターだという。というか、オタクといってもいいほどで、一時期は250台ものタイプライターを所有していたらしい。おそらく、音楽マニアがアナログ・レコードにこだわるように、楽器好きがアコースティック楽器にこだわるように、失われないもの、正しいもののひとつとして、タイプライターの在りようを愛しているのだと思う。
 なんらかの形でタイプライターを登場させる、というしばりの作品集だということだけれど、じつは第1作「アラン・ビーン、ほか四名」では、言及すらない。作品集のために書き溜めようという企画が持ち上がった時点で、おそらくタイプライターという共通テーマを思いついたのではないかという気もしないではない。
 
 短篇集の幕開けは前述の連作の第1作から。イスラム系と中国系の友人を持つ“僕”が高校時代からの友人アンナと付き合うことになり、あらゆる時間に予定を入れて埋め尽くさなければ気が済まない、奔放かつ現代的なアンナに振り回されることになる。いわば進歩的で現代的な存在と保守的な存在との組み合わせが生じさせる齟齬を描いたもの。合理性を第一に進化していきたいとする意志と、昔ながらの文化に拘泥する意思とが相容れないさまをコミカルに表現し、何が大切なのかを読者に考えさせる。
「ハンク・フィセイのわが町トゥデイ」の記事も、活字文化がスマホ文化へと移行してしまうことへの恐れ、大都会ニューヨークでの困惑、追憶へといざなってくれる中古タイプライターの存在、旧式のタイプライターしか使わない代筆屋と、現代という時代への不満と過去への郷愁を描こうとしているようだし、リチャード・マシスンの『ある日どこかでBid Time Return)』(1975年)をなぞらえたかのような時間旅行もの「過去は大事なもの(The Past Is Importanto to Us)」も、最大手の開発業者が買収予定地である古いホテルを見聞して経営者夫婦がどれだけその土地を愛しているかを知ることになる、唯一の戯曲「どうぞお泊まりを」も同様。心のなかから消えない過去の大切なものたちを、ひとつひとつ丁寧に記すことによって、現代が失ってしまった何かを読者に思い出させてくれるのである。
 そして、極めつけはタイプライターへの愛に溢れた「心の中で思うこと(There Are the Meditations of My Heart)」だろう。男にふられた若い女性が、不用品を処分してすべてを整理してしまおうとしていたのに、メソジスト教会のガレージセールで安い古い手動タイプライターを5ドルで買ってしまう。粘着ラベルに記されていた“こころの なかで おもうこと”という文言が心に引っかかったために。ところが、スペースバーが故障していてまともに動かないことに気づき、修理してもらおうとビジネスマシンを専門に扱う店を訪ねるのだけれども、老店主に、そんなものはタイプライターじゃなくておもちゃにすぎない、と言われてしまう。そこで、ずっと生き続けるこの精密な製品への老人の愛を目の当たりにして、ふと自分はなぜタイプライターを買おうと思ったのかをあらためて自分に問いかけてみる。いつか自分に子供ができて、その子たちに自分が“心の中で思うこと”を読んでもらいたい。叫ぶように訴えた彼女に、長続きするものをお求めなんだねと言って、老店主はプロの接し方で、1959年の〈ヘルメス2000〉を薦める――。
 いやあ、心に突き刺さるほどに説得力のある素敵な物語です。正直、どの短篇もけっして目新しい題材ではない。だけれども、うまい。これほど巧みに小説を書きあげられるとは、誰も想像しなかったろう。トム・ハンクスは、正しくうまい小説家だった。また話をもどすようだけれど、やはりスティーヴン・キングの、たとえば『11/22/6311/22/63)』(2011年)なんかと同様の空気感を思わせもする。正直、キング作品にも少なからず影響を受けているのかな。そう思えるうまさなのだ。
 
 さて、タイプライターだけでなく、効果的な小道具がほかにも見られる。これまたキングと共通するように思うのだけれど。そう、音楽だ。
 例の連作では、プリテンダーズ、オージェイズ、タジ・マハール、イギー・ポップ、それと、アメリカが出てくる歌詞の歌ということで、アメリカの「名前のない馬(A Horse with No Name)」、ビーチ・ボーイズの「スピリット・オブ・アメリカ(Spirit of America)」なんかを引き合いに出してくる。ジョニー・アリディ、ジュディ・ガーランド、ジュリー・アンドリュース、ジョニ・ミッチェル、アデル、ローリングストーンズ、テイラー・スウィフトなどなど……。
「どうぞお泊まりを」では、ト書きに具体的な曲名だ。開発業者が乗り込んでくる場面には、LL・クール・Jのヒップホップ・ナンバー「ママ・セッド・ノック・ユー・アウト(Mama Said Knock You Out)」、郷に入っては郷に従ってと町に繰り出す開発業者と秘書のバックでは、ハンク・スノウの「どこへでも行ってやろう(I’ve Been Everywhere)」、経営者の老人がモテルへの愛を独白するシーンは、フロイド・クレイマーの「ラストデート(Last Date)」、開発業者秘書が恋に落ちて、カーペンターズの「愛のプレリュード(We’ve Only Just Begun)」、という具合。
 映画『明日に向って撃て!(Butch Cassidy and the Sundance Kid)』(1969年)のためにバート・バカラックが書き下ろしたB・J・トーマスの大ヒット曲「雨にぬれても(Raindrops Keep Fallin’ On My Head)」は、“雨粒が頭に降りかかる、とか何とか歌う男の声”ということで、主人公の男の子が選局している車載ラジオから流れてきて、父親と離婚して離ればなれになっている母親がそれを口ずさむ(「特別な週末」)。
 どれもが、みごと、効果的に場面を創り上げている。そう、まさに映画のワンシーンのように視覚的ですらあるのだ。
 
 世の中は便利に、古いものを打ち捨てて、さらに便利になっていく。でも、旧式のタイプライターを唯一の武器として、マンザナ強制収容所で抗議文を強く打鍵した女性もいたのだろう。自分の心の中に思うことを未来に残してみたいと思う女性も。その真摯な気持ちを、ピアノのようにその心の中に思う強弱を、つぶさに記すことができる機械。それは本物であって、かけがいのない何かをその時代には伝えていたのではないか。そんな一時代に生まれた本物の製品に込めた嘘のない慈しみが、この素敵な短篇集として結実したのではないか。と、まあ、そう思えてくる。
 
◆YouTube音源
“名前のない馬(A Horse with No Name)” by America

*いずれも米軍人の父を持つ、ジェリー・ベックリー、デューイ・バネル、ダン・ピークの3人がロンドンで結成したことからバンド名をアメリカにした。1972年に発表した最初のヒット曲で全米ナンバー1を記録した。

“スピリット・オブ・アメリカ(Spirit of America)” by The Beach Boys

*1963年発表のアルバム『リトル・デュース・クーペ(Little Deuce Coupe)』に収録。その後、古き良きアメリカを体現したかのようなベスト・アルバム『終わりなき夏(Endless Summer)』(1974年)の続編として編集されたベスト盤(1975年)のタイトル曲としてここにも収録された。ミッキーマウスもどきやラシュモア山の4大統領像など、まさにアメリカを象徴するイラストのコラージュをジャケットにしたアルバムだった。

“雨にぬれても(Raindrops Keep Fallin’ On My Head)” by B.J. Thomas

*映画『明日に向って撃て!(Butch Cassidy and the Sundance Kid)』(1969年)のサウンドトラックとしてバート・バカラックが作曲した、B・J・トーマス最大のヒット曲。

“ママ・セッド・ノック・ユー・アウト(Mama Said Knock You Out)” by LL Cool J

*人気ヒップホップMCにして俳優のLL・クール・J、1990年のヒット・ナンバー。

“どこへでも行ってやろう(I’ve Been Everywhere)” by Hank Snow

*ジェフ・マック作曲で、もともとはオーストラリアの様々な町を羅列する歌詞だったのが、アメリカでのハンク・スノウによるバージョンが1962にヒットした。

“ラストデート(Last Date)” by Floyd Cramer

*カントリー音楽のピアニスト、フロイド・クレイマーによる1960年のヒット。

“愛のプレリュード(We’ve Only Just Begun)” by Carpenters

*ポール・ウィリアムズ作詞、ロジャー・ニコルズ作曲で、カリフォルニア州にあるクロッカー・ナショナル銀行のCMソングとして一部つくられたものを、リチャード・カーペンターの要望でフルヴァージョンの楽曲に仕上げたという。アルバム『遥かなる影(Close to You)』(1970年)に収録された。
 
◆関連DVD
●『シャイニング(The Shining)』

*スタンリー・キューブリック監督、ジャック・ニコルソン主演による、モダンホラー映画の名作。
 
●『ミザリー(Misery)』
*スティーヴン・キング原作、1990年の映画化作品。熱狂的なファン読者役を演じたキャシー・ベイツがアカデミー主演女優賞を受賞した。

佐竹 裕(さたけ ゆう)
 1962年生まれ。海外文芸編集を経て、コラムニスト、書評子に。過去に、幻冬舎「ポンツーン」、集英社インターナショナル「PLAYBOY日本版」、集英社「小説すばる」等で、書評コラム連載。「エスクァイア日本版」にて翻訳・海外文化関係コラム執筆等。別名で音楽コラムなども。
 好きな色は断然、黒(ノワール)。洗濯物も、ほぼ黒色。



(↑『マンザナ、わが町』収録/新潮社)
 


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