みなさま、カリメーラ(こんにちは)! 今回も「ギリシャ・ミステリ六歌仙」めぐりを続けましょう。

◆「愛欲ひとすじ」フィリポス・フィリプ

 ギリシャ西方、イタリアとの間に広がるイオニア海の島々は、中世になってもオスマン・トルコ帝国に支配されることなく、西欧の影響を受けてきました。「六歌仙」の三人目フィリポス・フィリプ(1948-)はこのイオニア諸島最北のケルキラ島(別名コルフ島)の生まれです。風光明媚なこの島は、その昔国際的陰謀を追ってジェームズ・ボンドも訪れています。『007 ユア・アイズ・オンリー』(1981年)で、観光客に混じって三代目ボンド、ロジャー・ムーアが御上りさんよろしく街並みを闊歩する姿はなかなか愉快。ラストではボンドがギリシャ中部に渡り、メテオラの巨岩上でKGBと対決(東西冷戦末期のこと)。ヤニス・マリス『虹作戦』で銃撃戦が起きたあの巨岩群ですね。但しイアン・フレミングの原作短編「読後焼却すべし」「危険」『薔薇と拳銃』所収)にはギリシャはまったく出てきませんが。
 
 さて、フィリプです。かつて船の技師として十年以上働いていたという異色の経歴の持ち主。1987年の長編『死の輪』でデビューし、第二作は1988年『モナリザの微笑』なので、実は前回のマルカリスより早くからミステリを書いています。ただし、二作とも絶版……。
 しかたなく第三作『黒い鷹』(1996年)から読み始めます。船員の《私》ハリラオスが主人公。文学好きの作者の分身とおぼしく、船上で文学書を読みながらの登場です。オランダのハーグへ航海中の《私》にギリシャの母親から電報が届き、弟ソティリスが婚約者殺しで収監されたと知ります。急ぎ帰国した《私》は単身で事件の跡を辿りながらアテネ市内や隣接する港町ピレウスを奔走。証人たちはみな頑迷ですが、《私》の執念で彼らの確信が少しずつ揺らいでいきます。
 題名から想像できる通り、ダシール・ハメットはフィリプの敬愛する作家ですが、ヨハネ騎士団のお宝も、パリ在住のギリシャ人骨董商(《マルタの鷹》を手に入れたため殺されてしまった同名のハリラオス氏)も現れません。根はうぶな文学青年が殺人事件に巻き込まれていくサスペンス&ノワールものです。悪党には簡単に殴り倒され、タバコも吸わない!(他の登場人物たちもこれには驚いてます。ギリシャの探偵たちはみんなタバコを離しません。ベカス警部は犯行の現場検証で、ゲラキス警部も入院中の証人尋問でまず一服!)《私》は弟の無実の罪を晴らし、老母を安心させたい一心で動いているのですが、周りはナイトクラブの経営者から公道の賭けレースで小金を稼ぐ警官まで悪人だらけ。純情な善人たちは皆殺されてしまい、おまけに肝心の弟も秘密を抱えていて《私》を愕然とさせます。最後に事件は解決しますが、一皮剝けば周囲の誰もが愛欲綾なす関係にあるのに、自分だけはその編み目に引っかかりません。何も得ることができずに《私》はまた港に向かいます。

 フィリポス・フィリプ『黒い鷹』
 
 ポリス社、1996年

 フィリプは非常に純文学志向が強く、《私》が船上で読んでいるのもニコス・カザンザキス(1883-1957)の小説です。世界的に著名なこのギリシャ人作家は、アンソニー・クイン主演映画でも知られる『その男ゾルバ』(1946年)を始め、かなりの主要作品が和訳されています。

【↑アリステア・マクリーン原作の映画「ナバロンの要塞」でもA.クインは不屈のギリシャ軍人アンドレアを演じていました】
 
 第四長編『さらば、テサロニキ』にはシリーズ探偵ティレマホス・レオンダリス氏が登場し一人称で事件を語りますが、なかなかのクセ者です。アテネの新聞社《エポヒ》の中年記者で、夏期休暇を取ってテサロニキを訪れ、百年前の国王ヨルギオス一世暗殺事件の資料を集めています。と言っても浜辺のカフェでアイスをつつきながら水着美女たちを眼福よのぉと眺めるばかりでやる気が見えません。旧知の若手記者パヴロスに再会、こちらは町を沸かせている《消えた子供たち》事件のネタを追ってバリバリ活動中です。その夜パヴロスの知り合いの私立探偵が情報を求めて接触してきますが、会う直前に町の象徴《ホワイト・タワー》の傍らで撲殺されてしまいます。レオンダリスは巻き込まれてはたいへんとばかりに逃げ出そうとしますが、故人の愛人ソーニャ(青い瞳の美人)に頼まれて逃げ腰で調査をすることに……なんともテキトーな探偵。連続殺人に加えて、悪徳医療機関による幼児売買《消えた子供たち》事件と旧ユーゴスラビアのバスケ選手の国籍偽造が絡んできます(1990年代はボスニア紛争からコソボ紛争までユーゴの内戦が激しく、周辺国への難民流出問題が背景にあります。)

 フィリポス・フィリプ『さらば、テサロニキ』
 
 ポリス社、1999年


【写真上:テサロニキの象徴《ホワイト・タワー》(ギリシャ名《レフコス・ピルゴス》)。『さらば、テサロニキ』第一の殺人はこのそばで発生(福田耕佑氏撮影)】

 巻頭にレイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』からの引用(「名前は?」「フィル。そちらは?」「ヘレンよ。キスして」)。フィリップ・マーロウがグレイル夫人に誘惑されるシーンですが、なかなか暗示的です。マーロウは直後に闖入者により邪魔されるのですが、レオンダリス氏のほうはリビドー全開で真逆の道を突っ走ります。ソーニャと深い仲になった後も、他の女性が登場する度に惚れてしまい、その欲情を得々と語り続けます。本人は関係者の愛憎関係から事件を解決するつもりですが、「俺の中のマーロウが真相を囁いている」などと言いながら完全に空回り。軟弱な相手には嵩にかかって尋問の集中砲火、こわもての用心棒には簡単にのされます。しまいには戦略に事欠いて容疑者に出会うたびに「(被害者の女と)寝たのか?」と食ってかかる始末…… 但し結末では身体を張って犯人と格闘、三割くらいは解決に貢献しています。
 サム・スペードの腕力も度胸もなく、マーロウほどストイックでもない普通の中年男がヒーローになりそこねた悲哀の姿。読者はあきれる……というより身につまされます。
 
 前回ご紹介した短編集『ギリシャの犯罪』所収の「恋する女たち」は短編だけに作家の特質がはっきり現れています。女癖の悪いライカ(ポップス調のギリシャ伝統歌謡)歌手殺しをめぐり、レオンダリス氏が気乗りしないネタながら(歴史文芸記事がお好み)、三人の女性が絡む愛欲相関図を強引に解きほぐします。うち一人は氏自身の恋人というのがちょっと哀れ。背景にはアルバニア系住民への偏見も素描されます(ギリシャ在住の外国人で最も多いのがアルバニア人。前回お話ししたマルカリス作品にもよく登場します)。

 アンドレアス・アポストリディス他『ギリシャの犯罪』
 
 カスタニオティス社、2007。

 フィリプはミステリ以外にもギリシャの著名な文学者や歴史上の人物を主人公とする小説を多数書いています。例えば、鮮やかな表紙が目を惹く歴史小説『コンスタンディノス・パレオロゴスの生と死』(2013年)。

 フィリポス・フィリプ
『コンスタンディノス・パレオロゴスの生と死』

 
 プシホヨス社、2013年。

 パレオロゴス朝のコンスタンディノスはビザンツ帝国、つまり中世の東ローマ帝国最後の皇帝で、1453年コンスタンチノープルで壮絶な戦死を遂げました。雲霞のごとき敵トルコ軍に取り囲まれた最期のことば《我が首を受け取るキリスト教徒はおらぬのか?》で知られる人気の歴史人物(《是非に及ばず》、《見るべき程の事をば見つ》の類ですね)。多くの作家・詩人が主人公に選んでいます。愛欲ひとすじのフィリプが描くとどうなるのか、怖いもの見たさで読んでみたいと思います。
 
 フィリプの功績として忘れるわけにいかないのが『ギリシャ・ミステリ文学史――ヤニス・マリスと他の作家たち』(2018年)。

 フィリポス・フィリプ
『ギリシャ・ミステリ文学史――ヤニス・マリスと他の作家たち』

 
 パタキ社、2018年。

 400ページを超える力作。とにかく類書が少ないだけに実に貴重な本です。副題《ヤニス・マリスと他の作家たち》とある通り、1950年代以降の作家が中心ですが、その前史にもページが割かれています。文献学的に歴史を辿るのではなく、同時代の社会的事件や出版事情が豊富に引かれ、ミステリをギリシャ社会の文脈で理解しようとするのが大きな特徴。巻末50ページの書誌リストには、ヤニス・マリス全作品や、1981年から2018年までのギリシャ人作家の作品が網羅されており重宝します。ミステリ専門ではないサマラキス『きず』ミリヴィリス他『四人の物語』がリストに入っているのが目を惹きます(連載エッセイ第一回でご紹介した二作品)。

 ストラティス・ミリヴィリス他『四人の物語』
 エスティア社
 第2版1980

 

◆「テサロニキ派」ペトロス・マルティニディスのヒロイズム

 北の町テサロニキはアレクサンダー大王のマケドニアの中心地ですが、1834年に新生ギリシャ王国の首都になったアテネに比べ、二十世紀初めのバルカン戦争(1912年)でようやくトルコ支配を脱しギリシャに復帰しました(当時の住民の熱狂はギャビン・ライアルの歴史冒険もの『スパイの誇り』の冒頭に描かれています。主人公ランクリン大佐はすぐにイギリスに去ってしまいますが)。
 
 別にこういう一派があるわけではないのですが、ギリシャ第二のこの町を舞台にするミステリ作家が何人かいるので無理矢理こう呼びたいと思います。四人目のペトロス・マルティニディス(1946-)はこの町の出身で、本職はテサロニキ大学建築学科教授。文献リストには『建築学及び科学的思考の語彙』なんてのもあります。デビュー長編『連続して』(1998年)が絶版なので(ヤレヤレ)、仕方なく第二作『火災の際』(1999年)から読むことに(実はこれがちょっと失敗でした)。

 ペトロス・マルティニディス『火災の際』
 
 ネフェリ社、1999年。

 テサロニキ中心部ソフォクレス通りの警察署で《私》アンドニスはパスポート交付を待っています。三十代後半でロンドン留学の経験もある《私》ですが、仕事に恵まれず、吝嗇な従兄弟の両替屋でコキ使われて十年。不良仲間にそそのかされ、売上金を強奪し海外高飛びを計画しているところです。ところが警官と誤解されて色っぽい美女メルと風変わりな夫の建築学教授(作者の投影ですね)と知り合い、計画が微妙にズレていきます。それでも何とか火炎瓶で従兄弟の両替屋を襲撃しテサロニキの街角を自転車で逃亡(元々杜撰でショボい計画)。謎を解決する古典パズラーではなく、ごく普通の若者が失望と欲望から犯罪に傾いていく心理サスペンス……と思っていたら、途中で教授が何者かに殺されてしまい、強盗計画もなぜか漏れていたりと話がもつれ始めます。
 なんと第十章目にしてとんでもないところから探偵が登場してきます。ネタバレではないと思いますが、前作でこの若手研究者ディミトリス・スクロス君は大学で何かやらかしたようで、服役中です。ある意味安楽椅子探偵。しかし、やはり第一作から順に読んでいくというのは大事ですね。
 『砂男』E.T.ホフマンの姉の手記やら、第二次大戦中ナチスに逮捕されたユダヤ人が残したドイツ語文献の謎などもからみ(テサロニキは戦前まで住民の五分の一がユダヤ人)複雑な事件になりますが、残された三つの謎を最後の三頁で鮮やかに解く豪腕の結末でした。
 
 続く三作目『記憶のたわむれ』(2001年)はその続編。

 ペトロス・マルティニディス『記憶のたわむれ』
 
 ネフェリ社、2001年。

 のっけから探偵ディミトリス君が再登場。相変わらずの状況です。五つの章に五人の登場人物名が付され、題名と合わせると、アガサ・クリスティー『五匹の子豚』(好きです)の趣向でしょうか? あるいは芥川『藪の中』なのか?
 テサロニキ大学の西洋文化史ヴラホス教授が、執着心が異常な不倫相手の女子学生イサヴェラに脅迫されたあげく交通事故で死なせてしまい、獄中でディミトリスにその顚末を語ります。続いて、金銭詐取で入所してきた歴史学講師ラグディスは突然「霊魂を信じますか?」などと切り出します。知り合いの若い女アリキは現在と過去を自由に往来でき、五十年前のテサロニキの街並みや《古代ローマ期の広場》発掘の様子を克明に語るらしいのです。こうして、男女の愛憎が引き起こした交通事故と摩訶不思議なオカルト話が繋がってきます。登場人物は少ないのですが、同じ事件を巡って各人の間の愛憎・裏切り・騙し合いが表裏錯綜して複雑な事態を生み、最後に事件の全貌が姿を現わします。ラストシーンの面会室で事件渦中の或る女性にディミトリスが見せる淡い愛情が切ない。

【写真上:テサロニキ中心部で発見された《古代ローマ期の広場》遺跡。『記憶のたわむれ』でアリキは五十年前のこの発掘場所に迷い込みます(福田耕佑氏撮影)】

 
 デビュー作から第四長編『ふたたび死者に』(2002年)までが、ディミトリス君の活躍する四部作になっています。

 ペトロス・マルティニディス『ふたたび死者に』
 
 ネフェリ社、2002年。

 
『ギリシャの犯罪』に収められた短編「アリバイからアリバイへ」はサスペンス劇場のノリで殺人容疑をかけられた主人公が警察の手を逃れながら犯人捜しに悪戦苦闘。大学の権力闘争やロシア・マフィアの暗躍が編み込まれるのがこの作家らしいところです。
 マルティニディス作品の根底にはヒロイズム(あるいはストイシズム)があるように感じます。服役中のディミトリス君は悲惨な状況にも拘わらず、兵舎よりちょっと不便かな、程度の飄々とした様子。短編「王の礼儀」(アンソロジー『最後の旅』,2009年)では論文代作に絡む犯罪に加担するよう、権力ある教授(やはり建築学教授)に脅された若手研究者アレクシスが毅然として断り、大学を追われます。続編「死はつねに不当なもの」『ギリシャの犯罪3』,2009年)で無事新聞社に再就職、修道院内部で進行する性犯罪以上のとんでもないスキャンダルを曝きます。「個人テロ」『ギリシャの犯罪4』,2011年)では爆弾テロ犯人に間違われ散々な目にあいますが、世の中の水が濁ろうとも足は洗わないという潔さはヒーローものの王道。フィリプのレオンダリス氏とは正反対です。

 アンドレアス・アポストリディス他『最後の旅』
 
 メテフミオ社、2009年。
 アシナ・カクリ他『ギリシャの犯罪3』
 
 カスタニオティス社、2009年。
 ペトロス・マルティニディス他『ギリシャの犯罪4』
 
 カスタニオティス社、2011年。

 
 マルティニディスにもフィリプ同様、ミステリの研究書『大衆文学擁護』(1994年)があります。絶版で未見ですが、SF、スパイ・スリラー、ミステリ等の大衆文学からコミックまでの魅力を掘り起こしているようです。

 ペトロス・マルティニディス『大衆文学擁護』
 
 イポドミ社、1994年。

 西の愛欲派・フィリプ北のヒーロー派・マルティニディスも良質の実作を発表するだけではなく、こういった研究書によってギリシャ・ミステリの地位向上に貢献しています。
 

橘 孝司(たちばな たかし)
 台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっと日本に紹介するのが念願。現代ギリシャの幻想文学・普通小説も好きです。巧みな情景描写や悪の人物造型が読後いつまでも忘れられないのはイーデン・フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』(乱歩大人は正しい!)。
 現代ギリシャ文学作品(ミステリも普通文学も)の表紙写真と読書メモは、以下のFacebookの「アルバム」に紹介してあります。アカウントがあれば閲覧自由ですので、覗いてみてください。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100014275505245&sk=photos&collection_token=100014275505245%3A2305272732%3A69&set=a.233938743758641.1073741833.100014275505245&type=3



 
【↑冒頭でマーロウは失踪したギリシャ人理髪師ディミトリオス・アレイディスの捜索をしていますが、この件は途中で忘れ去られます。このギリシャ移民の消息が実はずっと気になっているのですが……】
 

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