【あらすじ】交通事故により、病院でめざめたオギを待っていたのは、混乱・絶望・諦め……。不安と恐怖の中で、オギはいやおうなく過去を一つひとつ検証していくことになる。それとともに事故へ至る軌跡が少しずつ読者に明かされていくのだが。わずかに残された希望の光が見えたとき、オギは――。
http://www.kankanbou.com/books/kaigai/kankokuzyoseibungakuseries/0343hole

 
 あ、『ミザリー』だと思った。このなんとも言えない切迫感、徐々に追い詰められていく感覚は、アメリカ映画におけるホラーの手法そのものだ。助かるかもしれないと、読者へ期待させるところも。
 いつのまにかストーリーの中に惹きつけられていき、読者はいつしか、主人公オギの気持ちに寄り添っている自身に気づく。だが、オギへの同情は次第に揺らぎはじめる。
 
 本書は、カン・バンファ訳の『七年の夜』(チョン・ユジョン作)に次ぐ2冊目の邦訳ミステリーであり、「韓国女性文学シリーズ」5冊目。人の意識の中で、恐怖という感覚は万国共通のようだ。読者は安全な場所にいて、追い詰められていく主人公を見つめている。まるで、猫に追われる鼠、蛇に睨まれた蛙を眺めるように。
 
 作者のピョン・ヘヨンはこの小説を書くことになった動機について「人間の自己矛盾からくるアイロニーに気づくと小説を書きたくなる」と言っている。彼女はまた主人公のオギのことを「欺瞞者」から「剰余」へと変えていき、救いのない自己矛盾に満ちた人物として描いている。韓国ではどうしようもない、つまり、もう救いようのない人間のことを「剰余」と呼ぶらしい。
 
 主人公のオギは外から見ると申し分のない幸運を秘めた人生を歩いているように見える。しかし、妻との関係が、いや、妻の抱える矛盾とある種の狂気がオギの日常に、徐々に滲み出してくる。気づかないということは許されないのだ。
 
 二人の人生に差す影はどんどん大きくなり、やがてそこに、義母が登場してくる。
 
 人は、他人の嘘にはすぐ気づき、また、鋭く追及するのに、自身の嘘には鈍感になり、相手もまた、鈍感だと錯覚してしまうもののようだ。それが夫婦の間で起こると、悲劇以外のなにものでもない。外で忙しく過ごす夫は、妻の寂しさに囚われた現実に気づかない。たとえ気づいても気にしない。それは彼女の問題であって、自分の問題ではないからだ。

 日常の中の陥穽の存在に目をつむり、その矛盾に満ちた人生を、忘れたままにして生きていくことは許されるのか。
 
 本書は、主人公が自身の愚かさに気づき、深く反省し、なんとか助かりたいと願う、その心理をうまく追及していく。人間の持つ、愚かさ、傲慢さ、その矛盾に満ちた存在をこれほど鮮やかに切り取ってみせる作品に久々に出会った気がする。
 
 人生はいつでもやり直せるという人もいるが、実はそれほど甘くはない。読者はずるずるとその罠にハマっていく。オギとともに「あのとき」を思い、もう一つの別の人生もあったのではないかと考えさせられる。
 
 じわじわと怖くなっていく作品。心理の闇をうまく突き、読むものを試すかのように物語は進んで行く。
 
 読者はきっと「オギ」の側、「妻」の側、そしてときに、「義母」の側というふうに、行ったりきたりしながら、読み進めていくことになるだろう。
 
 さあ、あなたはどちらの側に立つのだろうか。

【補足情報】(執筆:松川良宏
 ピョン・ヘヨン『ホール』は今年の7月に、米国のシャーリイ・ジャクスン賞を受賞した作品です(2017年度長編部門)。
 シャーリイ・ジャクスン賞は優れた心理サスペンスやホラー、ダークファンタジーに与えられる賞で、同じ長編部門の昨年度の受賞作はエマ・クライン『ザ・ガールズ』(邦訳:早川書房)でした。同部門の過去のノミネート作にはギリアン・フリン『ゴーン・ガール』や、湊かなえ先生の『告白』なども見られます。ジェフ・ヴァンダミア『全滅領域』が受賞したこともあり、ジャンルを限定せず、幅広く目配りのきいた賞であることが分かります。
 今年度の長編部門のノミネート作でほかに日本語で読める作品は今のところありませんが、今回ノミネートされた作家には、以前に柴田元幸氏の訳で『失踪者たちの画家』が出ているポール・ラファージらがいました。
 
 またピョン・ヘヨン『ホール』は、英訳版が刊行された2017年に米国の『タイム』誌で「この夏読むべきスリラー小説トップ10」(The Top 10 Thrillers to Read This Summer) の1冊にも選出されています。アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』、ドン・ウィンズロウ『ダ・フォース』、デニス・ルヘイン『あなたを愛してから』、シーナ・カマル『喪失のブルース』や、ベンジャミン・ブラック、ニッキ・フレンチ、ルース・ウェア、フィオナ・バートンらの作品と並んでの選出でした。

シャーリイ・ジャクスン賞の今年の受賞作一覧
https://www.shirleyjacksonawards.org/

『タイム』誌の「The Top 10 Thrillers to Read This Summer」の原文
http://time.com/4800794/top-10-summer-thrillers/
 
英訳版『ホール』

 
 

◆イベント情報◆
『七年の夜』刊行記念 チョン・ユジョンさん来日イベント
東京と福岡で開催!

【東京 11月14日(水)】
チョン・ユジョンさん×窪美澄さんトークイベント
 事実と真実のあいだ 韓国と日本の文学のいま
 ~『七年の夜』(書肆侃侃房)刊行記念~

日時:2018年11月14日(水)19:00~21:00(開場18:30)
場所:本屋B&B(東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F)
参加費:前売1500円+1ドリンク(当日店頭2000円+1ドリンク)
予約方法http://bookandbeer.com/event/20181114/
 
【福岡 11月16日(金)】
チョン・ユジョンさん×角田光代さんトークイベント
 文学における「悪」 韓国と日本の文学のいま
 ~『七年の夜』(書肆侃侃房)刊行記念~

日時:2018年11月16日(金)19:00~21:00(開場18:30)
場所:西鉄イン福岡ホールA(福岡市中央区天神1-16-1)
参加費:1000円
予約方法https://docs.google.com/forms/d/1Nyq8lNmeU7-TnUjI7zm_o8Pcg_llPL3LSQleQ-X9ao0/viewform?edit_requested=true


 
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