みなさんこんばんは。第18回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「秘密」や「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。

 私は自他共に認めるNetflix愛好家です。自由度の高い映画・ドラマ配信カルチャーが選択肢を広げ可能性を拡大するものであると同時に、作品が映画館で上映される機会を奪っているという指摘をはじめ問題点も色々とあり、毀誉褒貶あるのは理解してはいますが、それでもやっぱりこの「世界と時差なくみられる」感覚というのはありがたいもの(地方都市在住になってから特にそれを感じる機会も多く……)。特に嬉しいのは、まずここでしか見ることができないドキュメンタリー作品が次々と登場すること。なぜならまたドキュメンタリーの世界もまた、「ミステリアス・シネマ」にあふれているのですから。
 
 常々、好きなドキュメンタリーのスタイルとして「(私にとって)優れたドキュメンタリーは優れたミステリ(≒巧妙に隠されていた何かが明かされる)、あるいは優れた大河浪漫(≒事象のスタート地点を思い返したとき、なんて思いもよらない遠いところにきてしまったのだと感じさせる)、あるいはその両方」という言葉で説明しています。事実として数値のグラフやさまざまな人物へのインタビューによって人物の肖像や事象の歴史を説明し、何らかの問いかけや主張につなげていく作品にも好きなものもありますし、ナレーションの行間を膨大な資料映像やイメージで埋めていく「見る随想」のような作風(今年公開された『私はあなたのニグロではない』がこの形式の傑作でした)にも魅力を感じるのですが、私が最も惹かれるのは「作り手が探偵として丹念に何かを探り出していく」タイプ。当初予想もしていなかった「そういうことだったのか…」「こうだったのかもしれない…」が発見されるドキュメンタリーの数々には、それが事実であれ仮説であれそのミステリ性に驚かされることが多々あります。
 
 というわけで、本日は今年のサンダンス映画祭のワールド・シネマ/ドキュメンタリー・コンペティション部門で監督賞を受賞し、最近Netflixで配信開始となった「ミステリであり大河浪漫である」ドキュメンタリーを。サンディ・タン監督の『消えた16mmフィルム』です。

■『消えた16mmフィルム』(Shirkers)[2018.米]

(https://www.netflix.com/title/80241061)

Shirkers | Official Trailer [HD] | Netflix

あらすじ:ずっと昔、18歳だった頃。私は頭の中に独自の世界を作って自由を得ていた――そして私たちはその自由な世界を「映画にする」ことにすべてを費やしたことがある――1992年、まだインディペンデントな映画づくりが一般的ではなかった頃のシンガポール。本作の監督、当時大学生だったサンディ・タンは『Shirkers』と題された野心的な自主製作映画の脚本を書き、彼女自身が主演して友人たちと共にそれを撮りあげた。それは記念碑的な作品となるはずだった。しかし彼女たちが学んだ映像製作講座の指導者でもあった監督、ジョージ・カルドナという名の男がすべてのフィルムを持ち去って失踪。それ以来『Shirkers』は幻の映画となってしまい、サンディ及び映画に関わった多くのスタッフにとって、トラウマのようなかたちで記憶の中だけに残っていたのだが……

 文化的で体制に反逆する若い女の子たちが「今までこの国で誰も作ったことのないような映画を撮りたい!」「私たちからシンガポールの映画史は変わる!」くらいの意気込みで全力で映画づくりに没頭し、青春の貴重な日々と全財産を費やして手探りで必死に作ったひとつの作品が失われるというショック。サンディたちにとって思い出にするは苦すぎる、けれど忘れたくても忘れられなかった幻の映画。消えた映画の謎を探りつつ、関係者のインタビューを中心に「あの頃の私たち」を紐解いていく本作は「うおー!現実ー! 現実すごい!」というドキュメンタリーの醍醐味に溢れています。
 
 ジョージという男は一体何者で、どうして『Shirkers』を持ち去ったのか? そしてこの映画の冒頭から繰り返し出てくる『Shirkers』の一部らしき映像、その作品が幻の映画だとしたら、何故、この映画の中でその映像を使うことが出来ているのか?これは今改めて作られた「イメージ」? いや、それにしては写真と全く同じ顔の若い頃のサンディ・タンが登場しているし……どういうこと?
 
 自主映画製作に関わる魑魅魍魎伝説は多少聞き及んだことはありますが、ここまで極端な例はさすがに珍しいのでは……というミステリアスなジョージ・カルドナの(仮説ではあるのですがおそらく)真実と思われることについて、詳しいことはこれからご覧になる方のために伏せておきますが、なんてこった……という気持ちにならずにはいられないものです。
 監督自身がナレーションで当時を回想しているのですが、印象的なのは賢くて創造力にあふれた「若い女の子」だった彼女が、ずっと年上の大人の男性であるジョージと極端に親しくなっていることをおかしいと感じず、むしろ光栄に感じていて、彼が語る彼自身の物語に夢中だった、という話。年が離れた友達を信じるなとは言えないのですが、性別を問わず「常に若い人たちとつるんで自分を中心とした世界を作りたがる中年」という層は確かに存在していて、そこには往々にして危機が潜んでいるものなんですよね……(元若い人、今中年である私の個人的体感としても……)。ある登場人物が言う「目的は身体とは限らない」の言葉は重い。性的な意味での何かを求めなくても、そこには歪な関係が生まれやすい。そしてそれはこの「映画が消えた理由」とも大きく関係がある部分で……
 
 しかしこの映画、終盤で若い女性たちの才能が搾取された経験の話に終わらない「事実」が判明するのがとても痛快です。テロップの工夫によってそれまで想像していなかった「実は……」が明かされたときの驚き! 陽の目を見ることがなかった『Shirkers』とは、私たちにとってなんだったのか――という問いへのひとつの答えをこういう仕掛けで見せたサンディ・タン監督のミステリ心&大河浪漫精神が感じられるこのアイデア、私はとても素敵だと思いました!
 


■よろしければ、こちらも/『死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』ドニー・アイカー


 旧共産圏、特にロシアという場所ゆえに怪奇現象や陰謀がイメージされ、事実が曖昧なまま一部の情報が世界中に拡散した、謎の遭難事件「ディアトロフ峠事件」。その真相を探ろうと、著者が「いや結構資料あるし、何なら行くし」と調べ倒し、現地で実際の行程を辿り、そして「ある仮説」に至るまで。あまりにも面白くて一気読みしてしまったノンフィクション『死に山』も「優れたドキュメンタリーは優れたミステリもしくは優れた大河浪漫あるいはその両方である」の法則に当てはまる作品のひとつだと思います。著者のドニー・アイカーはもともとTV畑の人で、当初は映像でのドキュメンタリーを予定していたそうなのですが、もしこの企画が5年後(取材時は2012年)だったら、たぶんNetflixオリジナルのドキュメンタリーとして通っていたのでは? と思うのですが、どうでしょう……? 当時の様子と現地探訪&関係者インタビューが交互にくる構成はとても映像的で、そのあたりも圧倒的なリーダビリティの高さに関係がありそうです。
 真相はこうだったのでは? という「仮説」パートも面白いのですが、今作の最大の功績は事件直前までを追うかたちで1959年の大学生たちの青春の風景が生き生きと捉えられた部分ではないかと思います。その部分があればこそ、仮説に基づく「あの夜、こうだったのかもしれないこと」が語られる終章には「謎解きの対象」を越えた、悲劇に遭遇してしまった若者たちへの著者からの敬意と鎮魂の念が伝わってくるのではないでしょうか。
 
「事実は小説より奇なり」という言葉はドキュメンタリー映画/ノンフィクション本のミステリ性をよく表すものだと思うのですが、単純に「こんな奇妙なことがありました」という題材だけでは作品の質はわからないもの。作り手の視座はどこにあり、事実をどのように「ストーリー」化しているのか? 同じ「真実」を使っても、作り手によっておそらく全く違う「作品」になるのもまたこのジャンルの面白いところなのではないかと思います。実際に存在する秘密や謎を解きながら、ちょっと捻ったかたちで観客に「仕掛けてくる」作品に出会いたくて、今日もまた配信コンテンツの「ジャンル:ドキュメンタリー」をチェックしながら――それでは今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。 

今野芙実(こんの ふみ)
 webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。
 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。

私はあなたのニグロではない 本予告

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