みなさま、カリメーラ(こんにちは)! いよいよ今回で「ギリシャ・ミステリ六歌仙」集結となります。

◆「リアリズムの極北」アンドレアス・アポストリディス

 アンドレアス・アポストリディス(1953-)は映像監督と翻訳者の肩書も持っています。タンザニア・マサイ族の国立公園からの強制退去を扱ったドキュメンタリー映画「人のいない場所」(2009年)はソウル環境映画祭批評家賞など多くの賞を獲得。翻訳ではハメット、チャンドラー、ジェローム・チャーリン始め70冊を超える欧米作品を手がけています(一番多いのはジェイムズ・エルロイとパトリシア・ハイスミス)。ミステリ作家としては1995年の『負けゲーム』でデビューしました(六歌仙No.2マルカリス『夜のニュース』と同じ年)。

 アンドレアス・アポストリディス『負けゲーム』
 カスタニオティス社、1995

【表紙写真はカメラマニアだった父親の作品だそうです。五十年代のアテネの雰囲気が伝わってきます】

 1967年アテネの大通りに戦車の轟音が響き、七年間の軍事独裁政権の始まりを告げます。付近のマンションの一室で最近病死し埋葬されたはずの公証人ハゾプロスが縊死死体で発見されます。墓を掘り起こすと、埋められていたのは石のつまった袋でした。浪費家で借金まみれだった故人は死ぬ前に法律の抜け穴を利用した詐欺を企んでいたことが分かってきます。マンションには、遺産の分け前を期待する従兄弟たちや詐欺の協力者・被害者が住み、友人の映画監督(作家自身がモデルでしょう)も犯罪に加担している様子。登場人物の多くが後ろ暗い行為をやっており、共感できる人物を見つけるのがたいへんです。捜査する側も潔白ではありません。主役探偵のザフィリス警部はご当地ビール《FIX》を片手にスブラキ(ギリシャのケバブ)をつまむ、ベカス警部やハリトス警部を思わせる庶民派だし、弁護士イコノムもポワロ気取りで勝手に現場捜査を仕切ったりと笑わせてはくれます。けれど、警部はトルコ・コーヒーに薬を入れて容疑者から自白を引き出し、弁護士も裏では法律スレスレの事をやっており、ハゾプロスの詐欺と死が解明されても気楽に「大団円」とは喜べません。極めつけは(本物の歴史を下敷きにした)最高権力者たるクーデター首謀者の大佐の存在。映画監督と取引をし、体制称揚の映画を撮るように命じます。権力者たちの恣意が支配的な社会で、個々の事件の解決がどれほど意味を持つのかを考えさせられます。
 作り物めく甘ったるいカタルシスを徹底して排除する「超」リアリズムの作風はデビュー作から見られます。

1998年刊の第一短編集『警察物語五十年』はそっけない研究書のようなタイトルですが、れっきとしたミステリです。

 アンドレアス・アポストリディス『警察物語五十年』

 カスタニオティス社、1998

 1944年ドイツ軍から解放された後のアテネで政府軍と共産軍が衝突した「十二月事件」、1948年内戦期のテサロニキでのバーク殺害事件(山岳の共産ゲリラと接触を試みた米人ジャーナリストの殺害)から80年代のテロリストまで、現代ギリシャの五十年間を揺るがした社会的事件と絡めて虚実入り混じった六つの犯罪事件が展開します。50年代のヤニス・マリスの娯楽作のように予定調和でめでたく解決、とはいきません。邪魔な証人が権力者に始末されたり、探偵が拷問ばりのやり方で自白を引き出したりと後味の悪さはこの上なし。
 アポストリディスは事件の複雑な網の目を些細な点まで書き込もうとするところがあり、気を抜くと何が起きているのかわからなくなります。この作風は長編の方が活かされるのではと思いつつ、第四長編『ロボトミー』(2002年)を手に取ってみます。副題に(『アメリカン・タブロイド』ならぬ)「グリーク・タブロイド」とあり、巻頭でジェイムズ・エルロイの『ブラック・ダリア』(1987年)に始まる「暗黒のL.A.シリーズ」の影響を公言しています。それにしても不気味に響くこの題名。アメリカン・ニューシネマの傑作映画「カッコーの巣の上で」で反抗的なジャック・ニコルソンが受け記憶も精気も失ってしまったあの手術です。比喩でしょうか。それとも? 

 アンドレアス・アポストリディス『ロボトミー』

 カスタニオティス社、2002

 ミレニウムを直前にして新任のギリシャ警察長官ミハスは組織犯罪対策と警察内部改革を目指し《内務課》を創設、マフィアと深くつながった古参の警察上層部を抑え込もうとします。この課に配属された若きエース、カンバニス警部は初仕事として医療機器の強奪事件を捜査。この小道を進むうちにさまざまな枝葉や幹が次々と覆いかぶさってきて鬱蒼とした森となり、読者もその迷路をさまよい歩くことになります。まず、アテネのマフィア界では勢力交代が進行中。90年代の大物ボスがドイツへ逃亡した後、インテリ・マフィアのサレアス(古代歴史家トゥキュディデスを愛読)が獄中から裏社会を仕切っています。ところが、これを攪乱しようという不穏な動きがあり、ナイトクラブへの放火、報復殺人が頻発。さらに、最近は石油密輸がマフィアの資金源になっているらしく、既存の大手製油会社に取って代わろうと、マフィアとつるんだタブロイド紙発行者スヒナスは社長のスキャンダルを狙っています。その間を縫って、誰に雇われたか知れない不気味な《肉屋》(凶器はメス)が血を求めて徘徊。雇われ殺し屋か、サイコパスなのか、カンバニス警部も頭を悩ませます。とどめは大規模な保険会社の交通事故詐欺。なぜかタンクローリーとの衝突事故がやたらと起こり、共済機構の会長まで射殺されてしまいます。詐欺被害者から依頼を受けた退職警官リヴァスと免職警官スリスの私立探偵コンビはいちおうキャラ探偵ですが、調査ネタで保険会社から小金をせしめようと目論む油断できない手合い。この混乱の極みの森から、やがて警察内部の新旧勢力対立のテーマが立ち現れ、最後には警察のマフィア掃討作戦になだれ込みます。
 主要人物だけで六十人を超えメモを取らないと混乱必至ですが、短い章がテンポよく連なり、途中で止めらません。広大な森を抜け切った時、倫理的カタルシスにはほど遠くとも、満腹感は半端なし。ある警察幹部はギリシャ世界の頂点に座すのは「法」にあらず、「金」さ、と言い放ち、酔いどれ映画監督(これも作者の分身)は知り合いの娼婦相手に正義論をぶち上げようとしますが相手にもされません。現代ギリシャの暗部をえぐり出したリアリズムの力作です。壮麗なパルテノン神殿、紺碧のエーゲ海に惹かれる向きにはお薦めできませんが。
『ギリシャの犯罪』(2007年)には短編「ライブ、または《立ち去る者たち》」が収録されています。

 アンドレアス・アポストリディス他『ギリシャの犯罪』

 カスタニオティス社、2007

 落ち目のテレビ監督が巨額の慰謝料を請求する妻を暗殺してもらう代わりに、ブルガリア・マフィア告発に繋がる番組を企画した人気司会者殺しを手助けする交換殺人もの。私立探偵リヴァスもチラリ顔を見せます。題名の後半はパトリシア・ハイスミスへのオマージュ(邦題『ヴェネツィアで消えた男』)ですが、内容的には交換殺人の嚆矢とされる『見知らぬ乗客』の方が関連があります。とは言っても、ハイスミスの両作品が強迫観念にとらわれた男たちの愛憎絡まる凄まじい心理戦であるの対し、アポストリディスの関心は個人の心ではなく、『ロボトミー』同様、犯罪を生み出す複雑な社会的構造の解剖へと向かいます。

 アポストリディスはハイスミスがお気に入りのようで、短編「イロディオ劇場のトム・リプリー」(アンソロジー『最後の旅』2009年)では、悪辣なギリシャ人富豪に過去の罪で脅迫された才子リプリー君がエーゲ海の小島を訪れ新たな犯罪に着手。(自身が翻訳している)『リプリー(太陽がいっぱい)』『贋作』『死者と踊るリプリー』への言及に満ちたファン愛あふれるパスティーシュです。イロディオ劇場はアクロポリス麓の古代遺跡を利用した劇場で、犯罪前夜リプリーはここで優雅にクラシック・コンサートを楽しんでいます。

 アンドレアス・アポストリディス他『最後の旅』

 メテフミオ社、2009年

 アポストリディスの本領は現代ものですが、『ギリシャの犯罪4』(2011年)には珍しくホームズ譚のパロディを書いています。と言えば、はい、ご想像通り、コナン・ドイル「ギリシャ語通訳」『回想のシャーロック・ホームズ』)を元ネタにした「ギリシャ語翻訳」です。正典はロンドン在住のギリシャ人メラス氏が、いかにも怪しげな二人組に強要され、ギリシャ人捕囚ポールの通訳をする物語。最後にブダペストで悪党二人が刺殺された新聞記事で終わりますが、詳細は謎のままです。アテネから来た裕福なポールと妹ソフィとはいったい何者なのか、特にギリシャ人読者なら気になるところでしょう。このアイデアを短編にしたのが「ギリシャ語翻訳」です。

 アンドレアス・アポストリディス他『ギリシャの犯罪4』

 カスタニオティス社、2011

 十九世紀前半の対トルコ独立戦争を経てギリシャは王国の体裁を整えていきますが、その歴史をホームズ自身が語ってくれます。ただ、そこはこの作家のこと、《義勇軍》の美名のもとに革命へ馳せ参じた西欧の古代ギリシャ賛美者たちがギリシャの現状に幻滅し、戦いに敗れて物乞いや泥棒に転落したり、絶望から自殺に追い込まれる悲惨な暗黒面に容赦なくメスが入ります。兄妹の生い立ちにも、革命蜂起に失敗し盗賊に身をやつした一団やら自殺未遂のスウェーデン人将校の暗い秘密が絡んでいます。ホームズは公文書の翻訳も請負っていたメラス氏に助けられて、正典のラストで暗示された《復讐》の思いもよらぬ真相を明かします(ソフィは決して冷酷な女ではありません。ドイルも彼女が手を下したとははっきり言っていないし)。アイリーン・アドラーばりの女傑がオソン王の宮殿を闊歩し、中西部潟湖の町メソロンギでの攻囲戦に参加したバイロン卿も後の兄妹の運命を左右することになります。ジェイソン・グッドウィンの絢爛たる歴史ミステリ絵巻『イスタンブールの毒蛇』(2007年)は同じ時代をトルコの側から描いていますが、そこでもバイロン卿はオスマン帝国の首都イスタンブール(コンスタンチノープル)での連続殺人事件の遠因となります。有名浪漫派詩人は現代作家のミステリでも大忙し。

◆シャーロック・ホームズのギリシャ語能力

 正典「ギリシャ語通訳」にはギリシャ語は全く現れませんが、ジェレミー・ブレット主演のグラナダTV版ではメラス氏がちゃんとギリシャ語を話しています。演じているのはアルキス・クリティコスというキプロス出身(公用語は発音が少し違いますが同じギリシャ語)の俳優さん(なんとボンド氏がケルキラ島に出張したあの「007ユア・アイズ・オンリー」にも脇役で出ています。ロジャー・ムーアの後ろでチョロチョロするだけでセリフは全くありませんが)。囚われのポールもメラス氏の質問に対し、石板にギリシャ語で《ΠΟΤΕ(ポテ)》「決して!」などと書いており、細部へのこだわりがうれしい。

 しかし、TV版最大の見所は(原作と異なる)ラストシーンにやって来ます。大陸を目指し列車で逃亡する男女の片割れは果たしてソフィなのか? どうやって確認する? 《ジェレミー》ホームズはいきなりコンパートメントのドアを開けギリシャ語で、
– Είναι ελεύθερα τα καθίσματα; (イネ・エレフセラ・タ・カシズマタ?) 「この席空いてますか?」
 相手は思わず、
– Ναι, νομίζω. (ネ、ノミーゾ) 「ええ、たぶん」
 と答えてしまいます(吹き替え版では全て日本語になっています。名優・露口茂氏のギリシャ語が聞きたかった……)。
 ホームズはどこでギリシャ語を学んだのでしょうか? メラス氏とは冒頭で会ったきりなのに。でも、『007/ファクト・オブ・デス』でギリシャ語が堪能ではなく、話すのはさっぱりだと告白する諜報員ジェームズ・ボンドや、『ギリシャ棺の謎』で現代ギリシャ語は「ちんぷんかんぷん」で堕落した言語さ、と切り捨てる碩学エラリー・クイーン(悲しい……)に比べれば、《ジェレミー》ホームズは実に正確な発音・文法を習得しています!

◆アポストリディスの貢献

 アポストリディスにもどると、実作以外に研究書『ミステリ小説の人物たち』(2009年)で自身が翻訳しているミステリ作家たちを中心に紹介し、自作の社会的背景も論じています。『ロボトミー』で描かれる石油密輸などは実際の事件に基づいているそうです。また、『ヤニス・マリスの世界』(2012年)ではマリスの全作品を解説、さらに、従来新聞掲載だけだったマリス旧作をアグラ社から書籍刊行するシリーズ監修もしています(このシリーズは詳細な前書きや資料が付けられて貴重)。

 アンドレアス・アポストリディス
 『ミステリ小説の人物たち』

 アグラ社、2009
【欧米の有名作家と並んで下段右端から二人目がヤニス・マリス。その右隣のちょっと強面は(ギリシャでは珍しい)歴史ミステリのパナイヨティス・アガピトス】
 アンドレアス・アポストリディス
 『ヤニス・マリスの世界』

 アグラ社、2012

【ヤニス・マリスの全作品を解説】

 ヤニス・マリス『アフロディテの手』
 アグラ社、初出1963/再版2013

【アポストリディス監修によるマリス旧作の書籍刊行シリーズ。表紙左上から二段目の眼鏡・帽子・ヒゲ男がベカス警部】

 2010年4月に設立された「ギリシャ・ミステリ作家クラブ(略称Ε.Λ.Σ.Α.Λ.、「エルサールと発音するようです)」では初代会長を務めました(現会長は四代目Σ・ガカス)。人望がある人なのでしょう。

◆「心理の検死解剖」ティティナ・ダネリ女史

 さて、「六歌仙」のいよいよ最後、カクリ女史に続く二人目の小野小町登場です。ダネリ女史はもともとイタリア文学を学んでいた人で、1971年に長編の普通小説『成功せしもの』でデビューしました。その後、普通小説を三作発表し、1995年には戯曲作品でギリシャ文化省の国家戯曲賞を受賞。ミステリデビューは、他作家との男女合作という珍しい方式の『1プラス1はお好きなだけ』(1981年)、その後も二作品で男女合作、しかもパートナーが違います。単独での処女作は『クレオパトラの嘆き』(2000年)。すでに自身の視点や文体を持ったベテラン作家が三十年目にして発表したミステリということになります。
 私が初めて読んだのは第二長編『判事ゲーム』(2002年)。

 ティティナ・ダネリ『判事ゲーム』

 プシフィダ社、2002

 太古の昔半人半獣ケンタウロス族が住んだという中部地方のペリオン山、その南東にたたずむ閑雅なミリエス村。ここで先祖伝来の館に住むミハリスに招待され、雪のクリスマスを過ごそうと四人の男女が集まってきます。出発前に各々が何かを決心する様(殺意とは限りません)が最初の数章で丹念に描かれます。裕福な実業家ペトロスは、館に到着後、プレイボーイ俳優イリヤスと不倫関係にある軽薄な妻アーナに離婚を宣言し、《月の女》とあだ名される神秘的なエレニに求婚します。そこでイリヤス&アーナの不倫カップルとペトロス&エレニの間には複雑な対立感情が生まれます。さらに館の主ミハリスもかつてエレニと婚約関係にあり、館内の空気はどんどん緊迫していきます。作品の題名は館のパーティで行われる探偵ゲームから来ていますが、バークリー『第二の銃声』流に本当の殺人につながるわけではなく、もし被害者役の非情なペトロスが死ねば、と想像する各人の心理描写の手段に使われます。ところがその夜、ペトロスが本当に絞殺されてしまいます。裏口は錠がかけられず、また周囲の森で謎のロマ人だか南米人が目撃されており、被害者と館の主の容貌が似ている点も(レッド・ヘリングなのか)謎を深めます。
 主要な人物は五人ですが、捜査するアンゲロス・ヴラホス中将と記者エヴゲニアの恋愛問題も平行して語られます。独身ヴラホスは退職を前にして殺しだの犯罪捜査にウンザリしており、エヴゲニアに告白して静かな生活を、と望むのですが、彼女の方は以前の恋愛の傷を抱えて一歩踏み出せずにいます(この辺は前作で語られているようです)。
 ついでながらギリシャ警察の上層部の階級名は陸軍式になっており、最高位は《中将》です。警視総監クラスですが、このヴラホスは現場捜査の方を好む風変わりな警官。もともと美術専攻(お気に入りはジョアン・ミロ)だったのが、家庭の事情で警察に入ったようです。外貌はアル・パチーノとかハリソン・フォードに似た渋い男らしい。
 主要人物以外にも、都会の洗練された捜査官に憧れる地元の若い警部補や庭仕事の助手職しか見つからず自己卑下しがちの青年、子供扱いされてばかりでクサっている村の美少女など脇役の心理までが丁寧に描かれていきます。共感できる度合いは異なりますが、無視できる人物は一人もいません。《月の女》エレニは父親の自殺事件もあって深く暗い闇を抱えていますが、浮ついたナルシスト俳優イリヤスですら自己保全の言い訳をまるまる一章分語り続けます。作者が目指すのは、まさに或る章のタイトルにもなっている「心理の検死解剖」。犯人は主要人物の中にいるはずなのですが、(叙述トリックというのではなく)フーダニットに踏みとどまれるギリギリのところまで心理を解剖しようとする作者の執念があります。ダネリ女史の方がアポストリディスよりよほどハイスミスのテイストに近いようです。

【ミリエス村に向かう観光列車。この鉄橋は有名な画家ジョルジョ・デ・キリコ(ギリシャ生まれ)の父親が設計しました。ここで登場人物の一人が命を落とします】
©The European Railway Server(Nick Fotis 氏撮影)

 続く第三長編は『第四の女』(2004年)です。

 ティティナ・ダネリ『第四の女』

 アルモス社、2004

 雪のミリエス事件から十ヶ月後、ヴラホス中将とエヴゲニアの仲は進んでいません。ヴラホスは犯罪捜査にますます嫌気がさし、思い立ってリカヴィトスの丘を走ったもののすぐに息が上がり年齢を感じています。
折から、祖国を永久に去ろうと準備中の若者アヒレアスが銀行で射殺されます。婚約者ダフニは一年前交通事故で植物状態になっており、運転していたのは何と彼女の実父レオン。この男、五十代の半ばですが、軽薄なプレイボーイで(前作のイリヤスの再来)、臆病なくせに神秘的な緑の瞳で女たちを虜にし何人もの前妻がいます。以前はチリ(南米でギリシャ移民が最も多い)で何やら文書偽造で稼いでいたようです。描かれる犯罪は銀行でのアヒレアス殺しともう一件の殺人ですが、ここでも執拗な心理の検死解剖が見られます。一番印象に残るのは言い訳ばかり考えているこのレオン。事件の全貌を知るためにヴラホスはレオンの過去を遡りますが、その華麗奔放な女性関係への嫉妬とエヴゲニアへの自身のぎこちない思慕が絡み合って渦を巻き、主役探偵の心理もねじれていきます。
ダネリ女史は切れ味鋭い幕引きにこだわりがあるようで、事件の鍵となるレオンの最初の妻(「第四の女」)の正体は最後の一行で鮮やかに明かされます。『判事ゲーム』でもヴラホスの罠にハマった犯人が次の活動を開始するところで終わっていました。
『ギリシャの犯罪』所収の短編は「ダルタニアンを殺したのは誰?」。月光に洗われる夜祖国へ帰還したある人物が、十七年前の警官射殺事件の真相を暴きます(月のモチーフは作者のお気に入り)。三銃士の見立てはそれほど効果を上げていませんが、「過去の罪は長く影を引く」式のこだわりはダネリの特質のようです。短編「六人組」『ギリシャの犯罪4』)や「静かな湖」『危険への扉』2011年)でも類似の趣向で半世紀を遡ります。仲良し六人組の少年時の微かな記憶から犯罪を告発する「六人組」が私は好きです。

 アンドニス・ゴルツォス他『危険への扉』

 メテフミオ社、2011

 雑誌『CLM』のインタビューで、ダネリは執筆に際して「まず《人物》を設定し、そのあと《プロット》が浮かぶ」と言い、「ミステリと普通文学をそれほど峻別していない」と語ります(ミステリである以上、読者を魅する《謎》とその解明があるべき、とする六歌仙No.1カクリと対照的)。好きな作家として、ドストエフスキー、バルザック、スタンダールなどの純文学作家(ねちっこい心理描写の文豪たちですね)と並んで、ジョルジュ・シムノン、グレアム・グリーン、ジョン・ル・カレの名を挙げています。

 『The Crimes and Letters Magazine(略称CLM)』
 創刊号(2016)

 発行者Greek infographics

【ダネリとカクリ両小町のインタビューを掲載。カクリの方はグレアム・グリーン『第三の男』や、嬉しいことにディクスン・カー『盲目の理髪師』をお気に入りに挙げます(暗い時勢にギリシャ人読者はこれで大笑いしたとか)】

 ダネリ女史はアポストリディス氏の後を受け、「ギリシャ・ミステリ作家クラブ」の第二代会長を務めました。「社会に切り込む超リアリズム」と「個人の心理の解剖」という風に志向は対照的ですが、二人とも会長としてギリシャ・ミステリを牽引してきた作家です。
 次回はこのクラブについて書く予定です。

橘 孝司(たちばな たかし)
 台湾在住のギリシャ・ミステリ愛好家。この分野をもっと日本に紹介するのが念願。現代ギリシャの幻想文学・一般小説も好きです。ストーリーが鮮烈だったのに題名も作者名も全く失念していた短編に四十年ぶりに再会。まさかこの人だったとは! レイ・ブラッドベリ『万華鏡』の「鉢の底の果物」。
 現代ギリシャ文学作品(ミステリも普通文学も)の表紙写真と読書メモは、以下のFacebookの「アルバム」に紹介してあります。アカウントがあれば閲覧自由ですので、覗いてみてください。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100014275505245&sk=photos&collection_token=100014275505245%3A2305272732%3A69&set=a.233938743758641.1073741833.100014275505245&type=3







↑【新シリーズのボンドがギリシャとキプロスで大活躍。敵の秘密基地はエーゲ海のヒオス島にあり。ギリシャの豆知識が結構出てきます】

↑【作品自体は大好きです。二転三転する推理のうねりに圧倒されました】

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