アガサ・クリスティーをはじめとする黄金時代の探偵小説作家に愛されたイギリスのユーモア小説の巨匠P・G・ウッドハウス。戦後、日本ではその著作をまとまったかたちで読むのが難しくなっていましたが、2005年、国書刊行会の『比類なきジーヴス』と文藝春秋の『ジーヴズの事件簿 P・G・ウッドハウス選集Ⅰ』の刊行により、状況は一変しました。
 
 それから10余年。10月20日、84歳のお誕生日を迎えられた皇后美智子さまの「お言葉」が公表され、その中に「ジーヴスも2、3冊待機しています」との一節がありました。これを機にジーヴズとウッドハウスへの注目がにわかに高まり、文春版・国書版ともに版を重ね、日本の津々浦々でウッドハウスの作品が平積みされることになりました。
 
 日本の読書界の「ウッドハウス不在」の状況を変えるキッカケとなったひとり、文春版の編訳者のひとりである翻訳家の小山太一さんが、ウッドハウスがいなかった「あの頃」をふりかえります。

(文藝春秋・N)

 


 十数年前に共訳したP・G・ウッドハウスのコメディ短編集『ジーヴズの事件簿』文庫二巻が思いがけない事情から版を重ね、そのことがテレビのニュースにも流れた。文庫本の表紙に印刷された自分の名前が画面に急に映ったのにはたまげたが、それと同時に、この名前は極端に画数が少ないからどんなフォントを使っても今ひとつビシッと決まらないなあと、いつもながらに感じた。それで思い出したことがある。
 
「たいちゃん、君の名前はなあ、難しいでえ」独特の発声と抑揚でこう言ったのは、京都の中学に入ったばかりでまだ東健而や乾信一郎や古賀正義のウッドハウスの翻訳も知らず、それどころか翻訳のホの字も意識していなかった私にお習字を教えてくれた、小柄で片肺がなくて痩身の、木村の観ちゃんである。この人のちょっと鳥を思わせる風貌を憶えている卒業生は、最も若い連中でも大方は腹まわりに肉がつき、頭髪にそぞろ寂しさを覚え始める年頃ではなかろうか。
 お習字は観ちゃんの専門ではなく、なんでも高校部の授業でやっている万葉集の解釈が、柿本人麻呂のくだりなど「ひむがしの野にかぎろひの立つ」さまを目の当たりに彷彿させんばかりの神がかりだと聞いたことがある。もっとも、私は最後まで観ちゃんの古文には当たらず、中学の最初の年にお習字を教わっただけであって、上代日本文学の徒としての彼の実力は知らない。今に至るまで自分でもつくづく嫌になる悪筆の私は、お習字でもとうてい良い生徒だったとは言えないのだが、劣等生が口幅ったくも振り返れば、当の観ちゃんも特段の能書家ではなかったように思う。ただ、一画とて揺るがせにしない、うまがらない書きっぷりには、お人柄も手伝ってか、洒脱とは方向の違う粋があったような気がしないでもない。
 その日は、自分の名前の書き方を練習する授業で、観ちゃんが生徒ひとりひとりの机を回って名前のお手本を書いてくれたのだと記憶している。いつもながらのゆっくりした鉛筆運びで私の名前を書きながら、彼が独り言のようにつぶやいたのが先の言葉であった。それ以外の説明はなかったし、次の生徒に悪いような気がして私も意味を尋ねなかった。ただ、変なこと言うなあ、「小」「山」「太」「一」の四文字のどこに難しいところがあるのやろ、という気がしただけである。
 それから十五年ばかりのち、私は留学先のイギリスで、スポンサーだったロータリー・クラブのご婦人に正反対のことを言われることになる。留学生たちが呼ばれて行った親睦会の席上、向こうがお愛想にか「あなたの名前をチャイニーズ・キャラクターで書いてくれ」と言って紙を差し出したので、私はなるべく見られる署名をものにしようとつとめたのだが、その結果をしけじけと眺めながら、彼女はこう言い放ったのである。「あらあ、ずいぶん簡単な名前ね。なんだか速記みたい」
 言いにくいことを随分はっきり言ったものだが、我が名の「なんだか速記みたい」な字面に悩まされ続けてすでに久しかったこっちとしては、内心で観ちゃんの言葉を思い起こしつつ、苦笑とともに肯うしかなかった。お書きになってみると分かるが、私の名前は簡単すぎて、形よく書くのがひどく難しいのである。これほどスカスカな名前も珍しい。
 誤解のないように言っておけば、私を参らせてきたのは名を記す際の字画の取り扱いであって、自分の名前の響きはかなり気に入っている。調べてみると、小山太一氏は私のほかにも全国に相当数いらっしゃる。太一という名前の発生率は、苗字「小山」において有意に高いらしい。ひょっとすると、苗字と名前の渾然一体性が醸し出す安心感において、他で得がたいものがこの組み合わせにはあるのではないだろうか。私など、偶然顔を合わせた知り合いに「あ、コヤマタイチ」とフルネームでつぶやかれることが時々あるのだが、ほうぼうの小山太一氏におかれてはいかがであろう。そのうち機会があったら全日本小山太一の会を開催してみたいというのが私の長年の妄想だが、そこはこの名前の持ち主たちのこと、かなりいい出席が見込まれるのではあるまいか。
 もっとも、酒が回りだす宴半ばごろ「いやあこの名前はうまく書けないんですよねえ」という話題で同名どうみょう相憐れむことになるのは必定だろう。思うに、小山太一氏の多くは、おのが名を支えている抜群のまとまり感を紙に書き写す段になると、スカスカの字面にそのまとまり感を掘り崩されてしまうという落ち着かない経験を知っておられるのではなかろうか。特にいけないのは、結婚式などの芳名帳というやつである。尤もらしい様子をした他人さまの名前が並んでいる末尾にこの名前を書き入れるとなると、字画のありようから課せられたハンデに最初から自意識過剰になってしまい、焦れば焦るほどペン先はあるべき場所からずれてゆくばかり。十一本の線はわが人格のまとまりのなさを示すがごとくにほどけだし、風でも一吹きすれば四方に飛び散ってしまいそうだ。その昔、木村の観ちゃんがつぶやいたごとく、全く「難しい」名前なのである。
 
 私のことを「たいちゃん」と子供時代の通り名で呼んだ人物は、観ちゃんがほぼ最後になった。のちに翻訳など出すようになった私が、すでに学校を引退していた彼に何冊か畑違いの外国の小説を呈上したのは、ぱっとしない少年時代が終わるまでのごく淡い付き合いのなかで折に触れて優しくしてもらった印象のせいだろう。お送りするたびに丁寧な礼状を頂いたが、ある年の葉書に、目が悪くなってもう細かい字の本は読めない、とあった。『ジーヴズ』のハードカバー版は差し上げなかった。それから間もなく、世間並よりも少し早い訃報を聞いたのだと思う。「難しい」名前をちゃんと書けた手紙をお送りすることは結局できなかったな、と、私は勝手な感傷をしばらく弄んだ。
 文藝春秋のウッドハウス・シリーズ翻訳の片棒を私にかつがせた張本人であり、英国落語の書き手ウッドハウスの名前を「林家」と名訳した岩永正勝さんも、数年前にふらりと〈極楽特急〉に飛び乗って、遠い所へ行ってしまった。観ちゃんも岩永さんもいなくなった地上で一人のそのそしながら思い返してみるに、岩永さんが社長をしていた三井なんとか社の社長室というひどくオトナな空間に伺って訳稿を検討した時分の私は、まだ確かに青年時代の後期にあったようだ。それが今は、隠れもなき中年男である。だからといって大人らしい洞察力が身につくようなことはまるでなく、人格の取っ散らかりがあらわにならない署名のコツも分からないままだけれど。

小山太一(こやま たいち)
1974年生まれ。東大英文科卒業、ケント大学(英国)大学院修了。立教大学教授。専門は英文学、映画。著書に『The Novels of Anthony Powell: A
Critical Study』。訳書に、岩永正勝と共同で編訳にあたった「P・G・ウッドハウス選集」全5巻(文藝春秋)の他、イアン・マキューアン『愛の続き』『アムステルダム』『贖罪』『土曜日』、ジェイン・オースティン『自負と偏見』、トマス・ピンチョン『V.』(佐藤良明氏との共訳)などがある。