■ジョナサン・ラティマー『精神病院の殺人』


 ビル(ウィリアム)・クレイン物の第四作『サンダルウッドは死の香り』(1938) がつい最近出たばかりだが、ビル・クレイン物の第一作にしてジョナサン・ラティマーの処女作『精神病院の殺人』(1935) が訳出された。第三作『盗まれた美女』『モルグの女』)の翻訳から、実に70年近くの時を経てシリーズ全五作が紹介されたことになる。亀の歩みの後の脱兎のごときラストスパートに、驚きと喜びを禁じ得ない。
 酒と女に目がないビル・クレイン、個性的すぎる登場人物、ハメを外した展開に本格ミステリ志向がミックスされる、というのがラティマーらしさだが、その作風のオリジナリティは、このデビュー作から一貫していたことがよく判る。ラティマーは、デビュー作で自らの志向するミステリに最もふさわしい舞台を選んだといえそうだ。
 その作風は、20年代から30代に流行した、タガの外れた登場人物が狂騒を繰り広げつつ大団円に向かうスクリューボール・コメディ映画の影響のもとにあると捉えると収まりがいい。この場合の大団円は、男女の恋愛の成就ではなく、ビル・クレインの真相解明ではあるのだが。

 ビル・クレインがニューヨーク郊外の精神病院サナトリウムに車で運ばれていく、という本書の冒頭から人を喰っている。このサナトリウムは裕福な人間ばかりを対象にしたリゾートホテルのような施設で患者は十人。病院に着いて早々、クレインは庭園を四つん這いで走る「オオカミ男」に遭遇する。
「実は、おれは名探偵なんだ」とクレインは院長に(正しく)自己紹介するが、いかにも患者が言いそうなセリフでおかしさが倍加する。このあと、堂々たる推理で、院長と看護婦の情事を暴いて、「おれはC・オーギュスト・デュパンなんだぞ」と見えを切る。
 クレインの目的は一種の潜入捜査なのだが、患者たちの言動はどこかおかしく、院長以下の医療スタッフも一癖も二癖もある連中。そして美女が揃っている。
 色彩がつくりだす抽象的画像を見せるという映画療法のさなかに、最初の殺人が発生。さらに、クレインへの襲撃、脅迫状の送付……と物語は展開。
 同時期に精神病院を舞台にしたものとしては、クェンティン『迷走パズル』(1936)があるが、こちらも、病院の映画館で動物映画を上映中に殺人が起きるという設定があり、これは一年先行した本書への目配せなのだろうか。
 舞台は、このサナトリウムから動くことなく、クローズドサークル物特有の面白さも持ち合わせているが、登場人物が多すぎて、ややごたついているのはマイナス点。クレインはせっせと酒を手に入れ、推理にも励んで、サナトリウムの人間模様も浮かび上がらせる。
 おフザケばかりのようでいて、発作を起こして全裸になった女患者をなだめるために、「セントルイス・ブルース」をかけ、医者とダンスをするシーンは、歌詞と情景がオーバーラップし、ペーソスすら感じさせる。
 ラストに行きつくと、これが堂々たるフーダニット。酔っぱらいの歩みのような展開の中、実は随所に手がかりが仕込んであるのには唸らされる。クレインの推理で一見落着とみせて、さらに一ひねりあり、奥に秘められた真相が解明されるのも上々だ。ラティマーの本格魂がビリビリと伝わってくる。
 訳題は、今日では扱いが難しい題材とはいえ、則物的にすぎないか。原題は、Murder in the Madhouse。Madhouse には、「めちゃくちゃに混乱こんらんした場所」や「(古語で)精神病院」という意味があるようなので、もう一工夫欲しかったところ。

■F・W・クロフツ『四つの福音書の物語』


 弱った。「聖書」原典を読んだこともない身には、この『四つの福音書の物語』(1949) の感想は実に難しい。
『樽』(1920)以降、40年近くにわたり良質な探偵小説を生み出し、そのすべてが邦訳されて日本人に愛されてきたクロフツには、宗教書の存在があることは知られていたが、それが訳される日が来るなんて。
 イエスがたった五枚のパンを分け与えて群衆の空腹を満たした逸話を物理トリックとして解き明かしたり、キリストの復活劇を一人二役トリックで説明する、というような本ではもちろんない。(そうであってくれたら良かったのに)
 クロフツは、プロテスタント信者の家に生まれ、義父はアイルランド聖公会の大執事、自身も地区協会の熱心なオルガニストだった。小山正氏は、「フレンチ警視の生活と推理、あるいは後期クロフツ問題」(『フレンチ警視最初の事件』解説)で、豊富な例を挙げて、「罪と贖罪と倫理」が後期フレンチ物の柱になっていることを指摘している。
 クロフツは、本書の序文で、四つの福音書を単純な物語として提示することで、原典に心惹かれなかった人にも聖書との出会いをもたらすとともに、詳細な注をつけることで、学生、教師その他の人に容易に入手可能な初歩的知識をもたらすことを目的に執筆したと書いている。そのために、本書は、「四つの福音書の内容を一つのストーリーにまとめる」「抽象的または難解な文章を単純化する」「記述全体を現代の言葉および文体で提示する」という方針のもとに書かれた。
 新訳聖書は、イエス・キリストの生涯と言葉を綴った「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」が書いたとされる四つの福音書、初代教会の歴史(使徒言行録)、初代教会の指導者たちの書簡などからなっているが、本書は四つの福音書部分(新約聖書全体の4割強に当たる)が一つの物語として再構成されているわけだ。
 四つの福音書は、内容の重複はあるが、互いに不統一や矛盾もあり、表現も異なっている。
 序文によると、各福音書を一つにまとめる試みは数多くあったが、大衆向けに構成された例は著者の知る限りなかったという。敬虔なキリスト教徒であり、かつ探偵小説の第一人者であったクロフツしては、大いに食指をそそられたテーマと考えられる。かくして、純粋な趣味としてはじめられた行為は、「一素人の試み」と謙遜を添えて、イエスの誕生から、布教、処刑、そして復活までの17の章をもつ本書として成立した。もっとも、福音書の再編成を認めない立場もあって、自らもラテン語聖書の翻訳を手がけたノックスは本書の書評を引き受けなかったことをセイヤーズに明かしたという(マーティン・エドワーズ『探偵小説の黄金時代』) 。
 ものがものだけに、再構成された福音書の出来栄えを云々する言葉を持ち合わせてはいないが、作者の謹厳実直な作風そのまま、詳細な注からは、様々な解釈を綿密に研究した様子が窺える。
 原典を比較検討し、解釈し、ときには記述を移し替え、より合理的なものにしていく再構成作業は難事だったに違いない。注釈には、原典について「難解な文章」という言葉が頻出する。イエスの言葉にはたとえ話が多いのだが、最愛の弟子たちもそのたとえ話の意味が理解できず、イエスがたとえ話をさらに解説する場面が何度もある。著者としては、複数ある証言や証拠を吟味し、事件を再構成し、合理的な解決に結びつけるフレンチ警部(警視)さながら、トライアル&エラーを繰り返しつつ、著者なりの解釈でイエスの像を結んでいく作業を楽しんだに違いない。
 例えば、幼いイエスが行方不明となった際のマリアとヨセフの行動の時系列を推理するくだり。イエスが処刑前にペテロに「今夜、三度わたしのことを知らないと言う」という予言が成就する逸話(ペテロの否認)については、各福音書の記述ではペテロが否認した三人に関わる記述がそれぞれ異なっているが、クロフツはこれを今日でも証言でよくみられる現象とし、「聖書の記述が完全な創作であれば、現実特有のこれらの相違は起こり得ない」とするくだりなどには、探偵作家の視点が光っている。こうした例は、仔細に原典と読み比べれば、まだまだ挙げられるだろう。
 加えて、本書は、キリスト教やイエスの生涯に興味のある人にとっては、一冊で「福音書」の内容を押さえることのできる便利な書といえるかもしれない。20世紀半ば当時の英国の大衆向け福音書を原典と照らし合わせて日本語訳するという難業を成し遂げた訳者には敬意を表したい。筆者としては、再構成されたイエスの生涯そのものに、様々な感想が沸き起こったが、それはまた別の話だろう。

■レオ・ペルッツ『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』


 藤原編集室の精力的なプロデュースにより、ひと頃は忘れられた作家になっていたペルッツの未訳もいつのまにかわずかになってきた。
『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』(1928) は、ペルッツ最大のベストセラーで、若きイアン・フレミングがドイツ語で読み、「天才的」というファンレターを送ったという作品。
 本書には幻想味こそないけれど、一種の奇想をもとにした冒険小説という趣。物語を駆動させていくのは、「矜恃」。『アンチクリストの誕生』所収の「主よ、われを憐れみたまえ」で、軍人としての約束を果たすため、再び敵地に舞い戻る主人公がみせたような矜恃だ。
 
 元オーストリア陸軍少尉ヴィトーリンは一次大戦中に捕虜収容所の司令官セリュコフに受けた屈辱が忘れられず、復讐のためロシアに舞い戻る。革命後の混乱の中、行方知らずの仇敵を探して旅を続けるヴィトーリン。壮大な追跡行の果てに何が待ち受けるのか。
 復讐は収容所の捕虜五人で誓約したにもかかわらず、復員後の元戦友はこういう。

「(復讐は)確かに心の安らぐ夢だった。最悪の時をやりすごさせてくれた。でもしょせんは病の症状にすぎない」

 普通の人間にとっては、いっときの夢であっても、ヴィトーリンは夢から醒めない男なのだ。
 構成の面では、意外なことに、ヴィトーリンが復員後のウィーンでの話が全体の1/3が占めている。前半、家族や周囲の人の状況、敗戦の中で旧秩序が崩壊し混乱を極める街の様子を、じっくり腰を据えて描いていることが後の展開で効いてくる。   
 愛する家族も恋人もウィーンに置いて、ヴィトーリンは、転がり始める。最初の地は、ウクライナ。ロシア革命後の混乱で、赤軍(ソヴィエト軍)と白軍(反革命軍)、さらには民族派が激しい戦闘をしている混沌とした地だ。なんとか、危難をくぐりぬけ、モスクワの地にたどり着くが、1919年3月のモスクワは、ロシア各地で戦闘が続き、食料も燃料も欠乏、チェカ(政府の警察機構)が闊歩する「正気を失ったまち」。ヴィトーリンは、職を得つつ、セリュコフの所在を探索する。大混乱状態のモスクワの描写のリアリティは、20年代にロシア訪問をしたペルッツならではだろう。さらに過酷な前線へ、主人公は転っていく。「どこに転がっていくの、林檎ちゃん。二度とお家に帰らない」ロシア全土で歌われている歌のように。
 
 ペルッツの筆さばきに翻弄されるように、一気に読み進められずにはいられない。
 ヨーロッパ各地を転々とする数多くの冒険を描きながら300頁少しと短いのは、省略と抑制が効いているからだろう。過去の登場人物が意外なところで重要な役割を果たす構成も巧みだ。苛烈なヨーロッパの現実とイマジネーションが縒り合され、血腥い戦場を描いても、どこか寓話風である。
 登場人物は多数にのぼる。英雄的な白軍のスパイ、社会革命党の年老いたテロリスト、「林檎ちゃん」の歌を口ずさみながら戦場に散っていく兵士たち、酒場の踊り子……いくつもの忘れ難い肖像が胸に刻まれる。ヴィトーリンは、人との関わりの中で友情、愛、裏切り…様々な体験を重ねる。
 旅を続けるヴィトーリンにとってセリュコフはもはや高慢なロシアの一将校ではない。この「堕落した時代の悪霊」なのだ。

「奴らは無数にいる。奴らは無敵である。奴らは偏在する」

 彼は、堕落した時代の悪霊すべてを敵にまわしているのである。そして、意外な地で最後の審判の日は訪れる。
 ラストは、空漠として、静謐で、救いがある。「冒険」の数々の残像が揺曳する。味わい深い物語を読んだという思いが押し寄せてくる。

ストラングル・成田(すとらんぐる・なりた)
 ミステリ読者。北海道在住。
 ツイッターアカウントは @stranglenarita


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